海になりたい
高津すぐり
海になりたい
「海になりたいな」
二人で海を見に来た時、堤防に腰掛ける
「何それ」
私が聞くと、彼はちょっとだけ照れくさそうにはにかむ。
「
「……嫌なほど」
「だから、海になりたいんだ」
「それが分からないんだって」
私が言うと彼は破顔したので、私もそれに釣られて口元を緩めてしまう。
風が海を小突くようにして、微笑みみたいな弱い波が立つ。その波がコンクリートに当たり、ポチャポチャと高い音が鳴った。
曇った空の下で強かに濁る穏やかな海が、彼も私も好きだった。
◯◯◯
私と拓海が二十五歳になった春、彼はいなくなった。
彼は大学を出てから水産庁の出先機関に就き、私も近くの市役所で働いていた。
その船が冷たい水に沈んだ。
事故を聞かされたのは、拓海の姉の
十八時頃に同棲しているマンションに帰ると、携帯電話が鳴った。電話をとると、開口一番に「拓海が、拓海が」と言われた。私は何を言われたのか分からず、「えっ」と声を上げた。
「拓海が今日乗ってた船がね、事故に遭って沈んだらしいの」
千洋の声は少し震えていた。楽天的な彼女のいつもと違う声色だけで、事態の大きさが伝わった。
「拓海は、無事なんですか」
「まだ分からない。私もさっき水産庁の人から電話がかかってきたところで」
彼女の言葉を聞きながら、私の心臓は早鐘を打っていた。
「……どうして」
私が小さく呟くと、千洋は「大丈夫、大丈夫だから」と言った。彼女が自分自身に言い聞かせるような言葉だった。
それから数時間後、ニュース番組で拓海の職場が映っていた。事故は海上での突発的豪雨が原因だったらしい。荒波に揺れる船は舵が取れなくなり、ポンプの排水が追いつかないほど水が浸入した。最後はルートを大きく外れて暗礁にぶつかり、甲板に穴が開いて転覆に至った。
全く眠りにつけないまま液晶に張り付いて情報を集めていると、沈んだ船の周りから何人かがヘリコプターで運ばれていた。翌日、それらは全て遺体だと発表された。
拓海は体すら帰ってこなかった。
私は巨大な悲しみに飲み込まれた。何もできなくなった。
大きな喪失を経験した人が、「空っぽ」になると比喩されるのをよく聞いていたが、私はその反対だった。延々と続く弱い頭痛の中で、ロクでもないことをずっと考えさせられた。
今まで自分の体をなんとか動かしていた歯車や軸が、一振りの潮風で全て錆びついたみたいに、思考も食事も睡眠もうまく出来なくなった。事故の翌々週には、上司に促されて仕事も休職した。
2人用の仄暗い部屋で、携帯を片手にして、毛布に包まって吐き気をこらえる。たまに思い出すようにえずきながら泣いては、涙が枯れて泣けなくなった。人間の心と体は確かにつながっているのだと身をもって初めて理解した。
そこまではまだ良かった。次に湧いてきたのは怒りだった。
その対象はさまざまで、海洋調査を決行した拓海の職場や、まだ彼を見つけられていない海上保安庁、果ては彼をのみこんだ海や不条理そのものが腹立たしくなった。
それから、拓海にもムカついた。私のもつ過去と今と未来の全てから彼が消えた。鮮やかな思い出やふわふわとした将来に思いを馳せたところで、そこには私ひとりしかいない。拓海を憎く思えば思うほど、私の中の彼は輝いて見える。あまりにも無責任で、酷くて、理不尽な話だと思った。
そんなことを考えている自分自身への嫌悪ももちろん増長した。もし、私が悲劇のヒロインだったなら、純粋な黒い悲しみに身を任せて彼の後でも追っていただろう。しかし、私の心はヘドロみたいなマーブルを描いていて、人の不幸に、それも愛する恋人の死に対して、悲しみ以外のあらゆる感情を持っている。
自分はどこまで嫌な人間なのだろう。そうして、また気分が悪くなった。
そうして、ありとあらゆる負の感情を旅した。
そんな私にも、頻繁に連絡をくれる人がいた。千洋だった。
「もしもし」
私が電話に出ると、彼女は「風香ちゃん、今大丈夫?」と聞いた。
「大丈夫ですよ」
泣き疲れた後の寝起きだったので、とても大丈夫とは思えない自分の枯れた声に驚いた。
「ほんと? もしよければランチでも食べに行かない? 美味しいパスタのお店を見つけたの」
千洋は、拓海についての話以外にも、ランチやカフェに誘ってくれた。彼女は私とは対象的に、拓海の死について、ある程度整理がついているようだった。それどころか、かえって私を気遣って、明るく振る舞っていた。彼女は優しい人だ。それと同じぐらい酷い人だ。
「……ごめんなさい。ちょっと、まだ、そういう気分になれなくて」
今の私は何か進んで口に運べるような健康状態でも、外に出られる気分でもなかった。それぐらい分かってほしいとすら思ってしまった。
「……そうよね。ごめんなさい。でもちゃんと何か食べなさいよ。出来る範囲でいいから」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあね」
「はい」
電話を切ると、深いため息が出た。千洋は私のことを想って連絡をくれる。頭で分かっていても、それが煩わしく感じてしまう。私は最低の人間だ。拓海の死も千洋の優しさも何1つ素直に受容できていない。
人間としての歪みを認知すると、またすくすくと自己嫌悪が育つ。それでも、この嫌悪感が無くなったら人として終わりだと思った。自己否定だけが自分の形を保つための手段になっていた。
〇〇〇
拓海がいなくなって1か月も経ったころだった。私は初めて一人で海に向かった。
ここ一月で疲れ切った私の精神は、嫌な落ち着きを持ち始めた。それは、自分の中で哀傷が薄れて、拓海がいなくなった世界を受け入れ始めていることなのだと分かった。
この安らぎに身を委ねれば、きっと私は彼の喪失から立ち直ることができる。しかし、その先の道を歩く私は、幸福も人間味も失くしているのではないかと思った。
私はもっと悲しまなければならないし、もっと苦しまなければならない。こんなにも無感動に、平坦に生きていけるわけがない。誰に言われたわけでもないのに、勝手な十字架を背負った。
だから、最も私の傷を抉れそうな場所に行った。
平日昼前の空いたバスに30分揺られて、バス停から少し歩くと、歩き慣れた堤防に辿り着いた。
そこは、拓海との最後のデート場所であり、私の最も大切な記憶がある場所だ。
私は、緑色の海を見ながら堤防をゆっくりと歩き出す。すると、また1つと彼とのやりとりが蘇ってくる。歩いて砂浜に行き、シーグラスを集めたことや、「なんか釣れたから捌くぞ」と言って、見たこともない魚を持ってきたこと。どの記憶も鋭利なほど鮮明に、私の中に入り込んでくる。それにどこかまたホッとして、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
――海になりたいな。
拓海の声が聞こえる。
彼を失って1か月に及ぶ自閉的な探索をして、やっと彼の言葉を理解できた気がした。
きっと彼にとっての海は、果てしなく広大な無限の存在だった。個体の限定を超えた普遍性そのものだった。だから、多様な苦悩であったり、自分の矮小さを捨てて、海に同化してしまいたい。そういう意味だったのだろう。
彼は、海で死んだ。海に殺された。ともすれば、彼は望み通り海になれたのかもしれない。
私はその場で足を止めて、海面と向き合った。
海は、ただ、単調に反復する波の音を響かせて、永遠の在り方を静謐に示している。
この水に身を委ねれば、私も拓海みたいに海になれるのだろうか。
気が付くと血色の悪い右足が、一歩海に向かっていた。その時だった。
「おんし、何しとるだ!」
背後から、強い声が聞こえた。はっとして振り返ると、百メートルほど先に年老いた男性がいた。
長い竿とオレンジ色のライフジャケットは絵に描いた釣り人を表していた。
「海に入るんか?」
遠州弁訛りの老人はずっと先にいる人を呼ぶような大声で問いかける。
私は「いいえ」と声を出そうとする。しかし、突然のことに、喉元でつっかえた言葉が上手く出てこない。
結局、震えるように小さく首を横に振って、否定の意思だけを老人に伝えた。
「まだ冷たいで、やめときなぃ」
老人は真面目な声と顔で、冗談みたいな言葉を渡す。
「……はい」
私はそれだけ言って、逃げるように踵を返した。
「元気になってから、また来なさい」
老人は私の背中に言った。私はそれに振り返って、彼の顔も見ないまま一礼してまた歩き出した。
私のことを見透かしているようでも、ただの観光客として遊んでいるようにも見えた。それこそ、海みたいな人だった。
家に帰ると、とてつもない疲労に襲われた。心身の消耗が一緒くたになって、私をベットに押しつけた。まだ、シャツには潮の匂いが残っている。
横になって先までの記憶を思い出すと、自分のしようとしていたことが恐ろしくなった。もし、あの釣り人がいなかったら、私はどうしていたのだろうか。まだ、昼下がりだというのに、色んなものから逃れるように眠りについた。
私は、変な時間に眠ると決まって夢を見た。これは、拓海と出会う前からそうだった。
その時見た夢は、自分が海になる夢だった。
夢の中の私は、身一つで穏やかな海にぷかぷかと浮かび、太陽の光を反射する水面を見つめていた。
あの堤防の海とは違う、胎児を包む羊水のような温かな海だった。鼻腔に潮の匂いが満ちて、心地よい浮遊感に心が満たされていく。
これだけ広い海にたった1人なのに、そこには孤独も不安もない。
しばらくそうしていると、自分の体の輪郭が溶けてきて、入浴剤みたいに水と一つになっていく。
このまま消えてしまえば幸せだと思った。
海の終わりは突然だった。
枕元の携帯電話が鳴って夢から私を引き戻した。送り主は千洋だ。
私は気乗り薄でその着信を取ると、いつもとは違う彼女の昂った声が聞こえた。
「風香ちゃん! 拓海の体が見つかったかもしれないって!」
その言葉を聞いて、一瞬呼吸を忘れた。
「えっ……」
「さっき、防波堤で水産庁の服きた遺体が見つかったらしくて、それで今身元調べてるけど、もしかしたら拓海じゃないかって」
千洋は興奮した早口で言った。
私はその言葉を反芻して、頭の中で何度も噛み砕いた。
「拓海の、体」
心臓の鼓動が早くなって、頭がくらくらした。
「うちの親は県外だから、私だけ今から車で警察署に向かうけど、風香ちゃんは……」
千洋は焦った声で聞いてきた。
私は、また得体の知れない気持ち悪さが込み上げてきて、すぐに答えられない。
「もし、嫌だったら大丈夫だから」
黙っていると、千洋は私に選択肢を与えるように続けた。
私は枯れた声で捻り出すように言った。
「乗せて、ください」
電話から10分もすると、アイボリーのラパンが迎えにきた。
助手席に乗り込むと、千洋はいつもの様子で運転席にいた。ばっちりと決まったメイクに艶のあるストレートヘア。少しだけ焦った様子でハンドルを強く握り、それでも優しい顔をしていた。
「お待たせ。行こうか」
「……よろしくお願いします」
千洋はそう言って、車を発進させた。
警察署に向かうまでの間、彼女はほとんど口を開かなかった。
私に気を遣ってくれていたのか、あるいは彼女の中にもまだ気持ちの整理が付いていない部分があったからなのか。それは分からなかったが、心地の良い沈黙だった。
助手席から見る景色は見慣れたものだった。
私も拓海も自分の車を持っていなかったので、2人で遠出をするときに千洋のラパンを借りていた。海に行くときも、この車だった。
――あんまり汚さないでくれよ。俺が姉さんに殺されるから。
左側に東海道線の列車を見ながら国道1号を走ると、彼の声が聞こえてくるようだった。
――大丈夫。私と千洋さんはマブだから。
どこまでも下らなくて愛おしい記憶だけが、静かなエンジン音に混じって流れていく。
反対車線に帰宅ラッシュの列を見ながら、20分程走ったところで警察署に着いた。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
入り口の真ん前にラパンを停めると、私たちは急いで受付に向かった。
千洋が受付の警察官に事情を話すと、身元確認の後、彼は「少々お待ちください」と言って席を外した。
少しすると50代ぐらいの白髪交じりの男性を連れて戻ってきた。
「お待ちしておりました。こちらへお願いします」
険しい顔の男性は、私たちを先導するように歩き出した。千洋が私の背中を軽く摩って、2人でその後を着けて行く。
少し歩くと、他の部屋とは違う看板も案内もない扉の前で警官の足が止まった。
彼がその扉を開けると、待合室のような部屋があった。
お役所らしい、白いボロボロの壁。古い蛍光灯が点滅して、室内全体をぼんやりと照らしている。
その先にはまた重そうな扉があって、警官がそこで私たちを振り返った。
「この先に、拓海さんのご遺体があります。よろしいですか」
千洋は私の顔を見つめるから、私は小さく頷く。
「……では」
警官はゆっくりとドアノブを回して、その先にある白い壁の部屋に入っていく。
千洋が私の手を引いて、その部屋に踏み入れる。
そこにはビニールのシートでぐるぐるに巻かれた何かがあった。
警官の後を千洋とゆっくり、ゆっくりと歩く。
「こちらがお顔の方になります」
警官は、シートの端に手を掛け「よろしいですか」と再度確認を取る。
「お願いします」
千洋が言った。警官がシートを剥ぐ。
その中にあったものは、ぶよぶよとした肉塊だった。皮膚の下まで水が入ったみたいに膨れていて、鼻や口といったパーツがない。かろうじて目らしきものが窪みの中にあるだけだ。
私は、耐えられなくなって反射的に視線を外した。
「お顔は損傷が酷いのですが、服装や持っていた身分証、歯の治療痕などから拓海さんと特定されました」
警察官は淡々と説明をする。
目を開くと、千洋は強い眼でそのゾンビみたいな遺体をじっと見つめている。
私はその横顔を盗み見て、それからもう一度、その拓海だったものに目を向ける。
何度見たところで、それはただの遺体だった。
千洋は私の手をそっと握った。
「ごめんね。休もう」
千洋は私を椅子で休ませて、警察官と事務的な話を始めた。
冷たい椅子の上で、記憶の中の拓海と遺体の顔が交互に浮かぶ。
彼は結局、最後まで死に抗ったのだろう。その場面を想像するだけでゾワリと足元が冷たくなる。
あれだけ惨めな姿で引き上げられるなら、見つからなければ良かったとすら思ってしまう。
誰にも見つからずに、海の生き物に分解されて底に沈んでいくなら、まだ彼の希望に近かったはずだ。
「何が『海になりたい』だよ。バカヤロウ」
誰にも届かない声で、私は死体に悪態を付いた。
すると突然、しばらく流れていなかった涙が、蛇口の外れた水道みたいに溢れ出した。いつもみたいに感情の満ち引きがあって、その波がどこかで岸を超え、「ダメだ」と思って流れる涙とは違う。事故的に何かが壊れて、堪えようとしても絶えずダボダボと垂れてくる涙だった。
俯いてハンカチでなんとかそれを抑えようと試みると、急にどっと悲しみが押し寄せてきた。
私は、自分の中で何か重要な機構が壊れてしまったのだと思った。心も頭も体も全部バラバラになって、自分が自分でなくなる。目が回って耳鳴りがする。五官が一斉に狂いだした。
その時、横から声がした。何かを言っている。優しい声だ。その人の声と手に促されて、私は立ち上がり、歩いていた。
気が付くと、千洋の車の中だった。
日は完全に落ちていて、ぼやけた街灯の道を60キロで進んでいた。
「大丈夫?」
千洋が聞いてきた。
「……はい」
私は答えた。声はきっと出ていなかった。
ラパンは夜の国道1号を真っすぐと走る。このまま、スペースデブリみたいに永遠と闇を進んでいたいと思った。
「あのさ」
千洋が沈黙を破って言った。
「コメダ、寄っていい?」
私が小さく「はい」と言うと、彼女はウインカーを左に出した。
喫茶店の中に入ると、夜遅くだからか店は閑散としていた。
「好きなもの頼んでね」
千洋はそう言うと、店員にアイスコーヒーとカツパンのセットを注文した。私は、とても何か食べられる気分ではなくて、ホットオーレだけを頼むことにした。
暫くすると、コトンと音がしてテーブルの上に飲み物が置かれた。カップを両手で持ち上げて、一口飲んだ。
千洋はそれを確認してから、切り出した。
「拓海はね、明日うちの親が来て、明後日葬儀することになったよ」
私は千洋の真っすぐな目が見れなくて、すぐにカフェオーレの泡に目を移す。
「そう、なんですね」
「うん。だからね、もう少しだけ付き合ってね」
心の中で「付き合うだなんて」と気を遣える時の私が言った。でも、今は意味のない言葉だから、「はい」とだけ答えた。
また、沈黙が続く。多分、ジャズみたいな店内の曲が際立って耳に入ってくる。
千洋を見ると、彼女は遠くを見る目で、窓の外の幹線を眺めていた。
目線の先を彼女に合わせてみると、たくさんの車のヘッドライトが人魂みたいに駆けていた。それぞれの運転手も懸命に生きていて、個々の営みがある。
「あれからさ、色んな人がウチに連絡くれてさ」
千洋が切り出した。
「嫌な話だけど、やっぱり声とか顔でだいたい分かるもんだね。その人が本気で悲しんでくれてるのかとか」
なんだか唐突な話だったので、私はまだカップを見たまま、静かに下手な相槌をした。
「でも、拓海は結構愛されてたんだなと思った。知らないとこで上手いことやってたんだなってね」
私は頷く。漸進的に視線を上げて、やっとの思いで千洋と目が合った。すると、彼女は温かくて大きい目をゆっくりと細めた。
それから、彼女の左手が下から伸びてきて、そのまま私の右頬に触れた。温かな、大きい手だった。
「きっと貴女も、
一番、言ってもらいたい言葉だった。同時に一番言われたくない言葉だった。
私の最深部。柔らかいところに、直接触れられる。でも、そこは綺麗でも、美しくもない。
だから、千洋には来てほしくなかった。
しかし、夏の海みたいな手に包まれていると、何重にも隠すみたいに巻いた鎖が解けていく。もう、ダメだ。
「違うんです。私はきっと、私のために泣いてるんです。アイツが消えて悲しいはずなのに、可哀想な自分に酔ってるんです。ちゃんと、悲しめてすらいないんです」
底が抜けたみたいに、支離滅裂な言葉が容れ物から溢れた。こんなことを千洋に言って、どうなるかなんて考えることもできなかった。
千洋の腕に触れる。その腕はまだ私の頬に沿っていて、指先が耳元に触れて、優しく撫でた。
「いいんだよ。それで」
千洋は言った。
「風香ちゃんは、私なんかよりずっと
千洋の手は、猫をあやすみたいに私の目元を持ち上げた。
「でも……アイツと決別することも、ちゃんと死を悼んでやることすらできない」
「それの何が問題なの」
千洋は私を遮るように言う。
「アイツの死と、一つの事実と真面目に向き合った貴方の気持ちが、例えどんな感情だったとしても、それを否定することは誰にも許されないもの」
千洋は「だから」と続けた。
「今は、あいつに『サヨナラ』も『またね』も言わなくていいんだよ」
私は、この瞬間に自分の中で何かが切れたような気がした。ずっと、誰かにその言葉を言ってほしかったんだ。
「あの、すみません。こちらカツサンドになります」
黒いエプロンを着た店員が気まずそうに声を掛けた。
「あら、ごめんなさい」
千洋はパッと手を戻して、貴婦人のような振る舞いをした。
「はい。こっちは貴方の方ね」
そう言うと、顔ぐらいあるカツパンの一つを取って、もう片方が残った皿を私の方に押した。
「いや、私は……」
「ちゃんと食べなさい。というか、私こんなに食べられないから協力して」
彼女はそんな工夫を仕込んでイタズラっぽく笑った。
「いただきます」
そう言うと、彼女は大きく一口齧った。私も、それに倣うように一口食べた。
なんだか懐かしいカラシの匂いが鼻を抜けていく。口の中にソースが広がって、それが溶けると衣のサクッとした食感が舌に残った。
「美味しい、です」
私は思わず声にしていた。食べ物の味をちゃんと感じるのなんていつぶりだろう。
「そう? 良かった」
「……ありがとう。千洋さん」
私は、目の周りの筋肉がピクピク動くのを感じた。情緒が涙を出そうとしてるのに、枯れた水脈は震えるだけだった。
「ううん」
千洋はそう言ってから、「そういえば」と続けた。
「拓海のことは忘れても忘れなくてもいいけど、私とはたまにランチとか付き合ってね」
私と千洋は、鏡みたいに笑った。
◯◯◯
拓海の葬儀が終わり、四十九日も経った夏、私は仕事に復帰した。
班長の勧めもあって、短時間での勤務から戻ることになった。しかし、余計に気を遣われて仕事を減らされたくなかったので、人並み以上に働いた。私の体は心と違って器用だと感心したぐらいだ。
それから、休日はたまに海に出かけるようになった。
拓海には立派な墓も作られたが、彼はそんな狭い石の中ではなくて、少なくとも私の中の彼は、広大な海にいると思った。
拓海と歩いた堤防でなくても、海を見れば、波を見れば彼を感じた。
でもきっと、それはスピリチュアルなことではないと思う。未だに海を漂っている、彼との時間や記憶に包まれるためだった。
弱い私には、まだそれが必要だ。だから、甘えさせてくれ。
私は彼の好きそうな海岸沿いを歩く。
砂浜の方では、退屈そうな釣り人と黄昏れたカップルが等間隔で並んでいる。私は海から離れた護岸コンクリートに腰掛けた。
潮の香りが体に染み込む。海鳥の声も聞こえる。水平線はどこまでも続いて、彼の大きさを示している。
「ありがとう」
海を風を包むようにして、微笑みみたいな弱い波が立つ。その波が砂に当たり、ザザザと低い音が鳴った。
晴れた空の下で光を濾しように透き通る海も、私は大好きだ。
「私も海になりたいよ」
波よりもずっと小さい声で、私は呟いた。
海になりたい 高津すぐり @nara_duke
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