雌雄無色

冬場蚕〈とうば かいこ〉

雌雄無色

 私が誰を好きでも、誰にも関係がないはずなのに、誰もが私と鈴子の関係を嘲笑った。それを差別と知ったのは中学生のとき。

「なにそれ、気持ち悪い」

「頭おかしいんじゃないの?」

「人と違うの、別にかっこよくないよ」

「差別じゃないよ。これは区別だから。異常者と関わりたくないのは普通でしょ」

 女の子が好きだと流布されただけで針のむしろだった。特に、クラスの女子からは侮蔑され、疎まれ、迫害された。私は鈴子が好きなだけなのに、彼女たちにはそのことがどうにも理解できないようで、自分たちが性対象として見られているという妄想をいつも抱えていた。

 中には、私を庇ってくれる友人もいた。彼女は保健室まで私の手を引きながら、力強い声で言った。

「たしかに祥子ちゃんは普通じゃないよ。女の子を好きなんだから。でも、悪いことをしてるわけじゃないんだから、恥じる必要もないと思う」

 だが、続く言葉はこうだった。

「それに、そういうのって気の迷いみたいなものだし。高校に上がっていい人が見つかったら、祥子ちゃんも普通に、男の子と付き合えるようになるよ」

 善意の皮を被った自覚のない悪意に、いっそ笑えてしまった。

 私はその手を振り払い、残りの学校生活もいじめられて過ごす覚悟を決めた。どうせ分かってもらえない。他人にレッテルを貼って、区分したがるような人間に、私は屈したりしない。私は鈴子との関係を恥じたりしない。そう胸に掲げた。

 つらい学生生活だった。女の子が好きという理由で、どこにいても白い目を向けられ、何をしても指をさされて笑われた。幸いだったのは、鈴子が標的にされなかったことだ。それも当然といえば当然のことなのだが。

 鈴子は、隣の家に住む女の子だった。あまり身体が丈夫じゃなく、いつも部屋にこもっていた。病院の日と、特別天気のいい日だけは外に出てくるが、すぐに疲れて帰ってしまう、病弱な子だった。

 出会ったのは、そんな彼女がきれいなフリルの服を着て歩いていたときだった。珍しいなと思って私から声をかけた。好きになったのも私からだった。

 どこが好きかと言われると難しい。綺麗な瞳、つんとした誇らしげな鼻、愛らしい笑顔。好きなところはいくらでも出てくるが、どれだけ出しても不十分だし、不適切な気がした。無口なところも、歯並びがいいところも、名前が鈴子ということすら愛していたけれど。

 鈴子の家のお母さんはおしゃれ好きで、お話好きで、なにより鈴子のことを大好きで、同じくらい違うベクトルで鈴子のことを好きな私にも良くしてくれた。よく家にも招いてくれて、私と鈴子が遊んでいるのを微笑みながら見守ってくれた。

 私は鈴子が好きだったし、鈴子が暮らす家も大好きだった。

 だから、私は私の愛のため、どれだけつらくたって、中学校を一度も休むことなく卒業した。

 そんな自分がなによりも誇らしく、卒業式のあとには泣きながら鈴子の家に報告にいった。普段は無口な彼女も、その日だけは珍しく一緒に喜んでくれた。


 とはいえ、高校でも同じ目に遭いたいわけではなかったので、私はあえて中学の同級生が誰も選べないような、偏差値の高い高校に進学した。頭のいい人なら偏見もないだろうという偏見もあった。

 高校生活は穏やかに過ぎていった。授業を真面目に受け、家に帰って、すぐに鈴子の元へ遊びに行く。それだけを繰り返す日々。その頃になると、鈴子の家のお母さんは私のことも娘のように扱ってくれて、家の合鍵をもらうことができた。退屈で、平凡で、この上なく幸せだった。

 だがその裏側で、不安がいつもくすぶっていた。いつまで私たちはこうしていられるのだろう。学校にいるときも、鈴子といるときも、家に帰ってからも、寝る直前まで――ひょっとしたら夢の中でさえ、その思いは、背後霊のように顔を覗かせた。

 私はいずれ県外に出る。具体的には大学に進学するタイミングだ。当然、そこに鈴子を連れて行くことはできない。鈴子が年々弱っているからだ。今では満足に歩くことすらできなくなっていた。睡眠時間が増え、薬の量が増え、私が家に行っても出迎えてくれる回数が減った。そんな鈴子を、私の独りよがりで連れて行くことなど、できるはずもない。当然、お母さんだって許してくれないだろう。

 それでも頼み込んだこともあった。もし大学に進学することになったら、そのときは鈴子を連れて行ってもいいか、と。

 温厚な鈴子の母も、このときばかりは渋い顔をした。いや、誤魔化すのはやめよう。あのとき、あの人は、はっきりと嫌な顔をしていた。

「祥子ちゃん、鈴子と仲良くしてくれているのは嬉しいわ。でも、あなた自分が何を言っているか分かってる? 夫に先立たれた私には、鈴子しかいないの。それにもうあの子も長くないわ。そんな私から、たった一人の娘を取り上げようっていうの?」

 考えずとも、まったくの正論だった。だが、恋がそうであるように、不安も人を狂わせる。このときの私は本当におかしくなっていた。

 授業中でも夢の中でも、私はところ構わず泣き続け、やがて涙は怒りに変わった。私の提案を飲んでくれなかった鈴子の母や、中学時代に私をいじめていた彼ら彼女らや、体の弱い鈴子や、私と鈴子の関係を嘲笑い、蔑み、見下してきた世界に、持て余すほどの怒りが湧いた。

 こんな思いをするなら死んでしまいたいという思いと、こんな思いをさせる世界を殺したいという思いがない交ぜになり、心の中でどす黒く渦巻いた。

 だから、このタイミングで鈴子が死んだのは、ある意味幸運だったのかもしれない。もしもあのまま、鈴子との退屈で平凡で幸福な日々を続けていたら、私は確実に鈴子と一緒に死んでいただろうから。


 事故の話を聞いたのは、鈴子が死んで少し経ってからだった。

 その日まで私は期末テストにかかりきりで、なかなか鈴子の家に行けずにいた。

 もらった合鍵で家に入ったときから、なんとなく嫌な予感はしていた。部屋はどこも電気がついておらず、鼻につく臭いがそこかしこに染みついていた。それが線香の臭いだと気づいたのは、蒼白な顔をした鈴子のお母さんに会ったのと同時だった。

「ああ、祥子ちゃん。久しぶりね」

 憔悴しきった顔には涙の痕が目立った。

「鈴子ならリビングにいるわよ」

 連れられて部屋に入ると、仏壇が目に入った。線香が焚かれ、蝋燭に火が灯され、小さな骨壺が置かれ、その周りを白い花々が大袈裟なほど飾っている。

「事故に遭ったの。晴れていて、鈴子も調子が良さそうで、一緒に出かけたわ。家に帰る途中、鈴子は風に飛ばされた私の帽子を追おうとしてトラックに……」

 そこから先は、涙に攫われた。

「……どうして、伝えてくれなかったんですか。私は、鈴子が死んだこと、ずっと知らなかった。知らずにずっと、鈴子と会えるのを楽しみにしていた」

「祥子ちゃん、テスト週間だって知ってたから。大学の推薦もらうための、大事なテストなんでしょ?」

「テストが何だって言うんですか。そんな……そんなもの、鈴子に比べたら……」

「ごめんね、祥子ちゃん。ごめんね……」

 私は家を飛び出して、鈴子が事故に遭ったという交差点に向かった。鈴子を轢いたトラックを見つけ出して、同じ目に遭わせてやりたかった。当然見つかるはずもなかった。代わりに、ガードレールの脇に供えられた花束とお菓子を見つけて大声で泣いた。

 家に帰ってからも、何時間も涙はあふれ続けた。身を引き裂かれるような悲しみが、脳が溶けそうな怒りが、血の吹き出しそうな悔しさが、涙を作り続けた。いっそ、体中の水分を出し尽くして死んでしまいたいと思った。そしたら鈴子に会えるのに。会って、今度こそ一生一緒にいられるのに。

 その日は夜通し泣き続け、早朝、事切れるように眠った。夢を見た。夢の中で私は、クラスメイトの男の子と付き合っていた。彼も鈴子と同じように体が弱かった。学校に通うことはもちろん、家から出ることすらままならず、私は毎日彼の家を訪ねて一緒に遊んだ。テスト週間に入った三日目の朝、電話がかかってきた。その男の子がトラックに撥ねられたというものだった。すぐ病院に向かったが、彼はもう死の間際だった。集められた彼の家族や友人が泣き叫ぶ中、医師が死亡を宣告した――

 そこで目が覚めた。外はすっかり暗くなっていた。また涙があふれてきた。つらくて悔しくて堪らなかった。もし鈴子と私が、誰にでも理解される関係だったらきっと、事故に遭ったときすぐに電話をもらえていた。そもそも鈴子への愛情を誰かに共有できたはずだし、お母さんだってもっと私の気持ちを重く受け止めてくれたはずだ。少なくともこんな惨めな気持ちになることはなかった。

 まるで世界から爪弾きにされているようだった。

 涙が涸れるまで泣いても、悔しさだけはいつまでも根を張っていた。


 大学というのは、それまでの学校生活で培ってきた挫折や苦悩を、すべてリセットしてしまう場所なのかもしれない。

 他県からも多くの志望がある大学だ。当然、試験だって簡単じゃなかったのに、みな当時のことなど忘れたような顔つきでキャンパスライフを満喫していた。

 構内ですれ違う誰も彼もが刹那的な楽しみに身をやつし、過去の挫折も苦悩も、栄光でさえ擲っている。まさしく人生の夏休みにふさわしく、私だけが大学にふさわしくなかった。

 いつまでも鈴子の死を心にぶら下げて規則的な苦しみに悶え、周りと合わせて人生を謳歌することもできず、かと言って首をくくれるほどの情熱もなく、私はいつでも中途半端に死んでいた。

 西条詩織と出会ったのは、そんなときだった。

「祥子ちゃん……? やっぱり、祥子ちゃんだよね。私のこと、覚えてない?」

 出る意味も、出ない意義もないような講義で、たまたま隣に座った子が、私の顔をまじまじと見て言った。夏らしい、涼やかな格好をしていた。

「あの、どなたですか」

「だよね。覚えてないよね」

 その子は気をつかうように笑った。

「西条詩織だよ。ほら、中学のとき一緒のクラスだった……」

 言われて記憶を掘り返すと、いじめられたことばかりが浮かんできた。女子から受けた暴言や暴力の数々、男子からはAVを見させられ、逐一感想を聞かれた。

 だんだんと気分が悪くなってきて、それが顔にも出たのだろう、詩織は心配そうな顔になって、

「大丈夫? 具合悪いなら一回でよっか」

 そう言って私の手を引いた。

 それで思い出した。彼女は、あのとき保健室まで手を引いてくれて、そして善意の悪意を突き刺したきた、あの子だ。

 そうと分かると、手を掴まれているのに怖気が走った。私はあの時と同じように手を振り解いた。

「どういうつもり?」

「……なにが?」

 引き攣った笑顔だった。その顔が余計に癇に障った。

「あなたたちが中学のころ、私に何をしたか忘れたの?」

 詩織はバツが悪そうにそっぽを向いた。

「私は、あなたをいじめたりしなかった」

「そうだね。助けてもくれなかったけど」

「それは……!」

 詩織は言いかけて、やめた。

「ごめん……」

「別に謝らなくていいよ。謝られたってあのときの私は救われないし」

「……ごめん」

「……もう二度と話しかけてこないで。金輪際。一生」

 私は講義室を出ようとした。詩織はまた私の手を掴んだ。周囲の視線を集めていることに気づいて、さっきよりも強く振り払った。

「なんなの?」

 詩織は声を震えさせながらこう言った。

「私は、あなたの秘密を知ってる。だからそんな邪険にしないで」

 脅しのつもりだったのだろう。実際これには少し困った。かつての苦しみや絶望はいつでも自分を臆病にする。

 そして、残虐にする。

「分かったから。場所を変えよう。ここでそんな話はしたくない」

 詩織はほっとした顔になって、熱を帯びた目で私を見つめた。


「それで、なんなの?」

 大学内のカフェの角の席で、改めて詩織と向かい合った。詩織はそれまでずっと黙っていたが、私から切り出すと堰を切ったよう話しだした。

「改めて、あのときは本当にごめんね。私ずっと後悔してたんだ。あのとき私が、ちゃんと分かっていればいじめなんて起こらなかったかもしれないのに……。祥子ちゃん、まだ女の子が好きなんだよね。まだって言い方も失礼か。ごめん。鈴子ちゃんだっけ? 付き合ってたんだよね。まだ続いてるの?」

 色々と訂正したい点はあったが、それは言わなかった。

「もし、まだ付き合ってるっていったらどうするの?」

 試すように聞くと、詩織は明らかに傷ついた顔をした。

「別に。お幸せにってだけだよ」

 強がった声は震えながら続けた。

「でも、もしってことは、もう別れたんでしょ?」

「そうだね。死別だけど」

「え……」

 詩織は表情を凍りつかせた。

「そんな……ごめん……」

 沈黙が落ちる。詩織は気まずそうに手を握ったり開いたりした。

 私はその手を取った。

「ねえ、詩織ちゃん」

「な、なに?」

 声が上擦り、頬が紅潮している。

「なんで私に話しかけてきたの? 女の子を好きな異常者だって思ってるくせに」

 ゆっくりと語りかけるように、手をさする。

「こういうことされるかもとか、思わなかったの? 性の対象として見られるって。そんな、足とか胸とか出しちゃってさ」

 詩織は耳まで真っ赤にして俯いた。

「なんで目逸らしちゃうの? 詩織ちゃんかわいいのに」

 だんだんと詩織の手が汗ばんで、震えてきた。

「それとも、期待してた? さっきから全然拒否しないよね。もしかして詩織ちゃん、女の子が好きなの?」

 詩織はハッと顔を上げ、なぜバレたのか、という顔をした。

「やっとこっち見てくれたね。やっぱり可愛いよ」

 また顔が下がりそうだったのを、顎に手を添えて戻す。

「そっか。それで、その相手は私だったのかな」 

 詩織は泣きそうな目で頷いた。

「詩織ちゃんみたいな可愛い子に好きになってもらえるなんて光栄だよ」

「私……」

 詩織は私の手を握り返して言った。

「私、ずっと後悔してた。あの時なんてひどいこと言ったんだろうって。私も女の子が好きだって気づいてから、祥子ちゃんのつらさがようやく分かった。ごめんね。ずっと、ごめんなさい。あのときあなたを差別的に見て、本当にごめんなさい」

 詩織はもうボロボロと泣いていた。

「……別に謝らなくてもいいよ。私はそういう人間だって、ずっと分かってたことだから」

「そんな悲しいこと、もうこれからは私が言わせないから。私だけはあなたを分かってあげられるから」

 詩織はキスを求めるみたいに、熱い眼差しで私を見つめた。

 私はあとでしてあげようと思って、こう言った。

「……ねえ、鈴子のこと話してもいい?」

 詩織は一瞬だけ眉を曇らせたが、死別の話を思い出したのか、頷いてくれた。

「ありがとう。……鈴子はね、すごい綺麗な子だったの。おしゃれが好きでよくフリルのついた服をきてた。すごく引っ込み思案で、無口で、体の弱い子だったんだ。私から好きになったの。どこが好きかって言われると難しいんだよね」

 詩織は一言一言に傷つき、それでも強いて笑顔を崩さなかった。

「綺麗な目とか、誇らしげな鼻とか、可愛い笑顔とか、色々あるんだけど。でも一番好きだったのは……」

 そこで身を乗り出した。詩織は体を硬直させ、手をぎゅっと握った。

 唇を離し、私はささやくように続けた。

「こうやってよくキスしてくれたところ。愛されてるなって幸せだったし、してるときもよく舌を出してきて、本当に可愛かったんだよ。写真見る? さすがにそのときのじゃないけど……」

 真っ赤な顔の詩織と手を繋いだまま、スマートフォンを取り出して、鈴子の写真を表示させた。

 途端に詩織は蒼ざめて、何度も写真を見返した。

「祥子ちゃん、これ……」

「どうしたの? なにかおかしい?」

「鈴子ちゃんって……」

「そっか、言ってなかったっけ。鈴子はゴールデンレトリバーの名前だよ」

 その瞬間、詩織は私の手を振り解いた。しまった、という顔したが、それ以上に彼女の中で嫌悪感が勝ったようだ。口を洗い流すように、ジュースを一気に飲み干した。

「……ねえ、詩織ちゃん。普通って難しいよね。異性と付き合うことだけが普通だと思う人もいれば、女同士の恋愛が普通だと思う人がいるし、犬との恋愛が普通だと思う人もいるの。私の普通は鈴子との関係だよ。でも詩織ちゃんはそれを多分、穢らわしいと思ったんだよね」

「ちが……」

 言いかけたのを、キスして遮った。詩織は私を突き飛ばすようにして離れた。

「ひどい顔。さっきはもっと可愛い顔してたよ」

 詩織は口を拭いたくて仕方ないみたいだった。

 私はおしぼりを差し出して言った。

「ねえ、詩織ちゃんだけは私のこと分かってくれるんだよね?」

 詩織は震える手でおしぼりを受け取ると、グロスが取れるほど執拗に唇を拭った。

 私は席を立った。言うことは一つだった。

「……もう二度と話しかけてこないで。金輪際。一生」

 詩織はもう、私の手を掴むことはなかった。

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