第20話 死闘を越えて

 知らない天井だ。瞼を開けたシェリルは思う。

 どうやら一眠りしてしまったらしい。シェリルはベッドの上で上体を起こし、一面が白に満たされた無機質な部屋を見渡した。素っ気ない消毒の匂いがする。


 ここは搬送先の病院の一室だ。寝入る前の記憶の通りで間違いない。今着ている病院着も、しっかり自分で着た覚えがある。

 鳴釜の討滅が完了した後、妖によって乱れた現場の氣は、調律師と呼ばれる専門の神職によって調律され、調和を取り戻した。破壊された建物や怪我人は、警察や救急隊が対処に当たっている。そうした事後処理の一環として、シェリルたちも病院に運び込まれたのだ。


 ふと隣に気配を感じ、そちらを見やる。制服姿のあどけない少女が、妖艶な笑みを浮かべていた。

「わかってくれたんだ、ナイトのおねえさん。あなたにはあたしが必要だって。とっても気持ちよかったでしょ。妖の力を使うの。ねえ、おねえさんもこっちに来なよ」

 漆原岬が顔を寄せ、耳元でくすぐるように甘く囁く。甘くとろけるバニラの匂いが、それまで無味乾燥だった真っ白な世界を、官能的な紫に染め上げた。その甘い匂いと囁きに、思わずシェリルの心は屈しそうになる。

 が、シェリルは頑として首を横に振った。


「その手には乗りませんヨ、ミサキサン。ワタシは騎士デス。そしてサムライになる女デス。悪魔の誘惑に屈することはありまセン」

「ふーん。どの口が言ってるんだか」

 岬は嘲笑を浮かべ、問答を遮るように、人差し指をシェリルの唇に押し当てた。

「わかってるんだよ? おねえさんが妖の力を使ったの。だってアレ、あたしの力だもん。おねえさんとあたしは氣を通して繋がってるの。離れていても存在を感じるの。隠し事なんてできないんだよ?」


 ぷにぷに、と岬は人差し指でシェリルの唇の感触を楽しむ。シェリルは金縛りにあったかのように体が動かせず、されるがままになる。


「ね。実際どうだった? 妖の力を解放してみて。ちょっとだけ鬼になってみて。ザコ妖をボコボコにできて気持ちよかったでしょ? あの力、すっごくぞくぞくしたでしょ?」

「イエ。体中ガすんげー痛かったし熱かったデス。もうこりごりデス」

「最初はそうかもね。まだちゃんと馴染んでないから。でもそのうち気にならなくなるし、もっとするとそれが気持ちよくなるよ」

「気持ちイイとかワルイとか、そういう話じゃないデス。ワタシはあのとき、イチカサンを助けたかっタ。その為の力が必要だっただけデス」

「そっかぁ。じゃあよかったね、そのイチカサンって人を助けられて。あたしのあげた力のお陰で」


 漆原岬がくすくすと笑う。まるで獲物をいたぶる猫のような手付きで、シェリルの唇を弄びながら。

「でも実際、おねえさんとあたしってすっごく相性がいいと思うんだ。おねえさんだって絶対それは感じてるはずだよ。だからピンチの時あたしを頼ってくれた。本当はとっくに気付いてるんでしょ? おねえさんにはサムライなんかより鬼の方が似合ってるよ」

 そう言って岬はベッドに身を乗り出した。こてん、といつかの夜のように、彼女はシェリルの肩に頭を預ける。


「アー、日焼けした白人が鬼のモデルみたいな説ありましたネ。本当か知りませんガ」

 シェリルはそっぽを向いてとぼけてみせる。正直なところ、この至近距離で見つめ合ったら、それこそどうかしてしまいそうだった。

「わーあ。おねえさん、物知りなんだ。ふふ。ますます欲しくなっちゃうなぁ」

「言っておきますケド、ワタシは未成年には絶対に手を出しませんからネ。大人のレディになってから出直して来てくだサイ」

「でもあたし、体は十六で止まってるけど、実際はおねえさんよりずっと年上だよ?」

「ヱ!? ソ、ソレハ……」

 ごくり、と思わず喉が鳴る。心のツボを刺された感覚が脳を駆け巡った。それを見た岬にからかうような笑みをされ、シェリルは慌てて首を横に振った。


「ハ、ははははハニートラップなんてダメデスそんナ!」

「うんうん。ちゃんとステップ踏んで仲良くならないとだよね。じゃあ今回はこれくらいにしておくね」

 岬はひとしきり笑うと、シェリルの首に軽くキスをして、ベッドから飛び降りた。彼女は後ろで手を組んだ、その幼い外見に似合う少女らしい仕草で、軽快にくるりと反転してはにかんだ。

「じゃあね、ナイトのおねえさん。困ったことがあったら、またいつでも呼んで。力になるから。それといつか、おねえさんのこと、鬼のおねえさんって呼びたいな」


 そう言って、漆原岬の体は霞となって消えた。

 消毒の匂いが静寂を満たす、殺風景な白の空間に、甘いバニラの香りを幽かに残して。


 シェリルは唇に手を当て、彼女の残り香に向かって言い返す。

「ワタシは嫌デス。シェリルと呼んでくだサイ」

 ベッドに仰向けに倒れ、シェリルはもう一度布団を被った。



 知らない天井だ。瞼を開けたシェリルは思う。

 どうやら一眠りしてしまったらしい。シェリルはベッドの上で上体を起こし、一面が白に満たされた無機質な部屋を見渡した。素っ気ない消毒の匂いがする。


「……ンー?」


 妙なデジャヴを感じ、首を傾げる。

 ふと隣を見やる。そこには誰もいなかった。鼻に感じる匂いも、病院らしい消毒のそれだけだ。

 今のは夢だったのだろうか。それとも本当に、氣の繋がりを通して、彼女の存在がシェリルの下に顕れていたのだろうか。あるいはシェリルの心の内に。確証はないが、ありえないことではない。事実、今も、自身の内なる氣から彼女の存在を感じる。

 ふと唇に触れてみる。一瞬、バニラの残り香を感じた気がした。が、気のせいかもしれない。


 少ない情報で断定するのも罠だろう。シェリルは無理に詮索するのをやめ、ひとまず妖の力を頼った自分を戒めるだけにした。


 改めて周囲を見渡す。病室は四人部屋で、他のベッドは三つとも空だった。うち二つは綺麗に整えられており、人が寝ていた形跡はない。残り一つは布団が剝がされ、散らかっていた。ベッドの周りには幾つか私物も置かれてある。ここで寝ていた者は、今は起きて外出中なのだと推察された。

 などとぼんやり考えていると、病室のドアが勢いよく開け放たれた。病院では静かに、と注意しようとして、部屋に入って来た見知った顔に驚く。


「ヒヨリサン? どうかしたんデス?」


 日和はシェリルと同じ病院着で、頭や腕、脚に包帯を巻いていた。服の上から見た限りだと、特にひどいのは左手で、同化の症状を脱する為に自傷したらしい。ちなみに服の下もシェリルと同様に包帯姿だ。妖の攻撃を受け、あちこちの骨が折れているのだ。

 日和はシェリルの問いに答える代わりに、息を切らせて病室を見渡した。探しものがなかったのか、彼女は険しい顔で舌打ちする。


「ナニヲオサガシデショウカ」

 訊ねてみても、日和はぎらついた目で病室を見渡すばかりだ。シェリルと目が合っても、その余裕のない表情は変わらなかった。明らかに焦っている様子だ。

「……一椛は? 見てないか」


 問われ、シェリルは記憶を遡る。鳴釜の音圧攻撃に車を吹き飛ばされ、シェリルと一椛は大怪我を負った。特に一椛は重傷で、一命は取り留めたものの、救急車が到着した段階では、未だ予断を許さない状況だった。

 その後、彼女はシェリルたちと同様に、妖災被災者として病院に搬送された。日和と二人、ぼろぼろの体を引きずるようにして、救急救命室へ運ばれる一椛を見送ったのが、覚えている限り最後だ。それからシェリルは手当を受け、日和と一緒にこの病室へ送り届けられた。

 そこから先の記憶にあるのは、瞼を開けた視界を埋め尽くす天井の白と、消毒の匂いだ。それと前後して、夢か現か、シェリルは互いの内なる氣を通して漆原岬とコンタクトを取っていた。


 ふと時計を見やる。時刻は午後五時を回ったところだ。窓の外の空には橙色が差している。三人がこの病院に搬送されたのは、確か午後の三時から三時半頃だったはずだ。もう手術は終わった頃だろうか。ようやく現実感が追いつき、シェリルは彼女の安否が気になった。


「ワタシは見てませんガ……手術は無事に終わったんデスカ?」

「まだだ」

「ヱ?」

 絶句するシェリル。それはまさか、病院が重傷の彼女を見捨てたということだろうか。しかし日和の次の言葉に、シェリルは更なる驚愕を覚えることとなる。

「気付いたらいなくなっていた。一体どこに行ったんだ、あいつ……」

「ヱエ!?」


 これにはシェリルも開いた口が塞がらなかった。

 現場で応急処置を済ませ、ひとまず一命は取り留めたとはいえ、未だ予断を許さない容態だったはずだ。それなのに、手術の前に消えるなどということがあろうか。

 あの怪我だ。自分から出て行ったとは考えられない。ならば可能性として真っ先に挙がるは誘拐か。


 シェリルの脳裏に、一人の少女の影がちらつく。まさか、あの挑発めいた笑みは、彼女からの挑戦状だったのだろうか。


「──ミサキサンの仕業カ!」

 思わずベッドの上に立ち上がって叫ぶシェリル。それを聞いた日和は、噛み付く勢いでシェリルの方を振り向き、睨み付けた。

「何、七鬼衆だと!? 奴が……いや、奴らが!?」

「ハイ。さっき、ミサキサンがワタシに会いに来まシタ。恐ラク氣の繋がりを通しテ、テレパシーか夢に出て来たか、とにかく精神をクロッシングさせて来たんデス。アレは夢だけど夢じゃなかッタ。夢だけど夢じゃなかッタんデス」

 今更のように戦慄を覚えるシェリル。日和は唇を噛んで頷き、拳を固く握り締めた。

「確かにあの女ならやりかねない……そうか。これも漆原岬……あの女の仕業なのか」


 日和は自分のベッドのところまで来ると、シェリルの目も構わず病院着を脱ぎ散らかし、鳴釜戦で着用していた血まみれのブラウスに袖を通した。

「行くぞ、シェリル」

「武器トカなくていいデス? 丸腰じゃミサキサンたち相手に勝ち目はないですヨ」

「そうだった……クソッ、よりにもよって刀の折れたこんな時に」

 悪態を吐きながら、日和はスラックスのベルトを締める。シェリルも彼女に倣って、元着ていた私服に戻った。ぼろぼろだが、病院着のまま出歩くよりはいいだろう。


「他のサムライの方々に応援とかハお願いできないデス?」

「難しいな。まだ七鬼衆の仕業と断定できる要素はない……ひとまず知り合いに声を掛けてみる。公式な応援は無理でも、個人的な宛てはあるからな」

 そう言って日和は端末を操作した。しかしディスプレイを開くや否や指が止まる。

「……どうかしまシタ?」

「……一椛からだ。先に戻っている、と」

「ヱ」


 シェリルはおずおずと日和の画面を覗こうとしたが、日和は端末をさっと隠した。

「だが妙だ。着信時刻は十六時──私が一椛が消えたことに気付いたのは十五時過ぎだ。順番がおかしい」

「じゃあやっぱリ誘拐された、ってコト……? なラ、そのメッセージは犯人ガ……ヒヨリサンをおびき出す為の罠としテ」

 日和は鬼の剣幕で端末を握り締める。無意識に『纏血』を行使して握り潰してしまいそうな凄みだ。

「とにかく家に戻るぞ。罠だろうと行く以外にない」

「ハ、ハイ!」


 歩きながら知り合いのサムライに電話を掛ける日和の後に続いて、シェリルは病院を後にした。

 向かう先は東本邸。あるいはそこに、漆原岬がいるのかもしれない。五体の眷属を従えて。

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サムライガールズ・オブ・ネオニホン そあ @soakage404

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