第14話 三人の朝
ふと、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。少しして、真っ暗な視界が淀んだ緑に塗り潰され、橙色に灯る。日和は重い瞼を擦り、寝返りを打って横になった。
「──おい。いい加減起きろ」
さっきも聞いていたような声。日和はもう一度寝返りを打って仰向けになり、ゆっくりと瞼を押し上げる。
「んむ……?」
仰向けのまま見上げると、スウェット姿の一椛が、いつもの冷たい鉄面皮で見下ろしていた。
起き上がりながら、無意識に枕元に手を伸ばす。が、そこにウニボーの抱き枕はなかった。空を切った掌でシーツをぷにぷにと押しながら、おもむろに部屋の中を見渡す。すると、部屋の隅に押しやられたごみ袋の山が目に入った。
ここは自室ではなく一椛の部屋のようだ。どうやら昨夜は、あのまま一椛のベッドで眠ってしまったらしい。
ベッドの上であぐらをかき、傍らの一椛を見上げる。少し肌寒く感じ、もう一度布団にくるまろうとすると、既に布団の端を掴んでいた一椛に引き留められた。どうやら先程、瞼裏の視界が朱くなったのは、頭まで被っていた掛け布団を剥がされたせいらしい。
「起きろ。いつまで寝ているつもりだ」
一椛が言う。日和は目を擦りながら訊いた。
「ん……今何時?」
「六時だ」
「じゃああと三十分」
「駄目だ。カリバーはもう起きている。さっさと自分の部屋に戻れ」
「うえ……?」
半覚醒で小首を傾げる日和。次の瞬間、恐ろしい素早さ、それでいて優しいほどに丁寧な正確さで、鼻孔に何かを突っ込まれた。
ぶしゅっという音と共に、鼻孔の奥に爽やかな水と空気が送り込まれる。というよりねじ込まれた。鼻詰まり解消用の点鼻薬だ。
思わぬ刺激に日和は飛び上がり、壁に後頭部を打ち付けた。痛みに悶え、膝を畳んで布団の上を転がる。余談だが、日和が飛び上がる寸前に一椛は点鼻薬を引き抜いていた為、鼻孔内にノズルをぶつけることはなかった。
「ぬばばばば」
「目が覚めたか」
ウェットティッシュで点鼻薬のノズルを拭きながら、一椛は冷たい瞳で見下ろす。日和は思わず涙目になって抗議の声を上げた。
「何するんだ!」
「黙れ。カリバーはもう起きたと言っただろう。屋敷の主人がそんなのでいいのか」
その言葉にはっとして反射的に辺りを見渡す。先程も確認した通り、ここは一椛の私室、これは一椛のベッドだ。いつも寝起きしている日和の自室ではない。とはいえこれはたまにあることだ。
まだ少し寝惚けている頭を覚ますべく、座ったまま伸びをしてゆっくりと深呼吸する。先程無理矢理突っ込まれた点鼻薬の爽やかな匂いが鼻孔を突いた。爽やかではあるが、爽やかな朝には程遠い匂いだ。が、嫌でも目が覚める。
「よくないな……で、シェリルは今どうしてるんだ?」
「オレが朝風呂に叩き込んでおいた。今のうちに早く自分の部屋に戻れ。階段はオレが見張っておく」
一椛の声はいつも以上に冷たく鋭く、どこか苛立っているようだった。日和は面倒そうに頭を掻く。
「そこまでする必要あるか? 何をそんなムキになってるんだ」
「お前、奴にメイドの部屋で寝る女だと思われたいのか?」
「それは……なんか嫌だな」
「なら行くぞ」
一椛に腕を引っ張られ、ドアの前まで連れられる。一椛は、ドアを開けても日和の姿が廊下から見えないよう、日和をドアの陰に隠しながら部屋を出た。外を確認した一椛は、ハンドサインで日和を呼ぶ。一椛がここまで念を入れているのを見ると、日和はなんだか、まるで自分たちがやましいことをしているような気になって来た。
廊下を渡り、日和は自室に戻る。目はすっかり冴えたが、既に目的が起床から帰室へと変わってしまい、それを果たしたことで、もうひと眠りしてもいいような気持ちになっていた。とはいえ本当に二度寝する訳にもいかない。妥協案として、うつ伏せに四肢を投げ出してウニボーの抱き枕に顔をうずめるだけにする。
すると、ベッドから、自分の使っているシャンプーのシトラスの香りに混じって、優しく爽やかなサボンの香りが仄かに感じられた。昨夜自分のベッドを占領された一椛は、やむなくこちらで寝たらしい。
日和はウニボーに顔をうずめたまま寝巻を脱ぎ捨てると、タンスの前までカーペットを転がった。片手にウニボーを抱えながら、もう片方の手でタンスを漁り、適当な部屋着を引っ張り出す。今日は一日シェリルの修行に付き合うつもりで、店も休むと言ってある。どうせ後でジャージに着替えるのだから、適当でいいだろう。
カーペットの上をごろごろ転がりながらゆっくり服を着ると、日和は伸びをしながら立ち上がり、部屋を出た。
本当は顔を洗いたかったが、シェリルが入浴中の為、洗面所を素通りしてリビングへ向かう。階段を降り、一階の廊下をリビングへ向かって歩いていると、いつの間にかメイド衣装に着替えた一椛が背後にぴたりとついて来ていた。
「おぉぅ……っ! だからそれやめろって」
朝から寿命が縮む思いがした。日和は眉をしかめて睨むも、一椛はやはり微動だにしない。もしやこれは何かの当て付けだろうか。
「もしかして怒ってるのか? 昨夜、一椛のベッドで寝落ちしたこと」
「別に」
一椛は相変わらずの感情の読めない顔だった。が、若干不機嫌そうではある。彼女は寝起きは悪くない方なのだが、その割に朝は決まって不機嫌だ。
二人並んで、キッチンの流し台で軽くうがいをする。コップを水洗いしながら、日和は隣の一椛に訊いた。
「いつもと違うベッドだとあまり眠れない、とか、そういうのは」
「いいや」
「……なら、いいんだが。眠りが浅いんじゃないかと思ってさ」
洗い終えたコップを水切り台に置き、一椛に手を差し出す。一椛は自分のコップを手渡し、代わりに日和の分までコップを空拭きした。
「問題ない。もう大分眠れるようになった」
「そうか」
一椛の言葉を信じていない訳ではないが、日和は内心まだ心配だった。とはいえ、これ以上深追いしても拒絶されるだけだろう。日和は詮索をやめ、朝食の準備に取り掛かった。
ちょうどそのとき、朝風呂を済ませたシェリルがリビングに入って来た。
「おはようございマス、ヒヨリサン! イチカサンのお言葉に甘えて、アサ=ブロを頂いておりまシタ!」
部屋のドアを開けるなり、シェリルは家主とその従者へと高い声で朝の挨拶と礼を述べた。
ぱたぱたとスリッパが軽快な足音を立てる度、まだ温かい金髪からシトラスの香りが舞う。シェリルはさりげなく深呼吸してから、改めて二人に頭を下げた。
家主こと東本日和は、その武士然とした凛々しい童顔に柔らかい微笑みを浮かべて応える。元の顔立ちが整っている為かまだ凛冽な印象はあるが、昨日の彼女と比べて幾らか力の抜けた表情をしているように見えなくもない。寝起きでまだ本調子でないのだろうか。
反対に、従者こと久野一椛は鉄面皮のまま微動だにしない。が、そのガンオイルを思わせる黒の瞳が、一瞬冷たい光を湛えたような気がした。瞬間、初対面でライフルを撃ち込まれた記憶が蘇り、シェリルは反射的に背筋を正す。今朝は優しい態度で接され、親切に朝風呂まで勧めてくれただけに、彼女の胸中がわからない。
「おはよう、シェリル。昨夜はよく眠れたか?」
「ハイ。グッスリ」
「それはよかった。昨日は君の明るい様子に油断して、こちらも些か気を緩め過ぎていたかもしれないと思ってな。何かと不安もあったとは思うが、よく眠れたなら何よりだ」
と、そこでシェリルは初めて、大和撫子との入浴に続いて、大和撫子と同じ部屋で寝る機会まで逃していたことに気付いた。
あるいは鬼化のことで不安そうにしてみせていたら、心配して一緒に寝てくれたのだろうか。とはいえ今更弱々しく振る舞ってみるのも嘘らしい。
それに日和とは師弟の関係になったのだ。下心を持って接するのは、剣士として、師に対しても剣の道に対しても失礼に当たる。シトラスの香りに少なからず未練を感じながらも、シェリルはふしだらな己を戒めた。
「朝食の準備を致します。洗面所も空いたことですし、お嬢様はどうぞご洗顔にいってらっしゃいませ」
メイドの一椛が、三切れの食パンを電子レンジに送り込みながら言う。日和は二個のグラスを食器棚に仕舞いながら応えた。
「すまない。そうさせてもらう──ああ、そうだ、シェリル。朝食はトーストで構わないか? もし米がいいなら、早炊きで四十分ほど掛かるが」
訊きながら、日和は入れ違いにマグカップを三個取り出し、一椛の前に並べる。どうやら東本家の朝食はトーストとコーヒーのようだ。
「お気遣いありがとうございマス。ワタシもお二人と同じものを頂けれバ」
「わかった。何か要望があれば、遠慮なく言ってくれ」
そう言って、日和はリビングを後にする。キッチンの一椛に目を向けると、彼女はお湯を沸かしながら、その隣で目玉焼きを焼いていた。空いた三枚の中皿の隣には、レタスの盛られたサラダボウルが三つ並んでいた。
「何カお手伝いするコトはありますカ?」
「いいえ」
必要最低限の回答。その平坦で硬く冷たい声音と相まって、実務以上のコミュニケーションを拒まれているようにも感じる。やはり彼女は何を考えているのかわからない。
「ア……じゃあ、テーブルを拭いて、お皿を並べておきますネ」
「ありがとうございます」
丁寧だが淡泊な回答。シェリルは内心、日和に早く戻って来て欲しいと思った。
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