第13話 日和と一椛

 シェリルを部屋まで送った日和は、すぐに自室には戻らず、シェリルの部屋から扉二つ挟んだ部屋に寄った。

「入るぞ、一椛」

 返事はなかった。が、それはいつものことだ。日和もまたいつものように『風見』で室内の空気を感じ取る。了承の意志が窺えた。


 ドアを開けると、サボン系のシャンプーの香りと、仄かにミント風味のかかった電子煙草の匂いがふわりと漂う。


 壁際に本棚が機械的に置かれた他は、簡素な机と椅子、ベッドが置いてあるだけの殺風景な部屋。物置きとまでは言わないにせよ、あまりに飾り気がない。一人暮らしの学生のアパートでも、これよりは見た目に華があるだろう。あるいは、部屋の隅に面倒そうに押し付けられたごみ袋の山が、この部屋から辛うじて感じられる生活感や愛嬌だろうか。そのともすれば無味乾燥な雰囲気は、部屋の主の気質が窺える。

 仕事だから、と屋敷は隅々まで清掃が行き届いているというのに、私室となるとこの有様だ。他人の私室に口出しする気はないが、ごみ袋くらいは片付けた方がいいのにとは思う。


 日和は小さく嘆息し、メイド兼同居人の部屋に入る。部屋の主は、これまた入浴後はよくあることで、下着姿のままベッドの上でぷかぷかと煙草をふかしていた。

「またそんな恰好で。今日は客人もいるんだぞ」

 日和が呆れ顔で話し掛けると、一椛は目線だけを日和に寄越し、ぶっきらぼうに言った。

「もう上がってよかったんだろ」

 私室での一椛の態度は、メイドらしく振る舞っていたときとは打って変わって、およそ従者の主人に対するものではないぞんざいな対応だったが、だからこそ親しみがあった。素の一椛に触れ、日和はようやく我が家に帰って来た気持ちになる。

「そうじゃなくて。今日はシェリルもいるんだぞ。女性とはいえ、見られたらどうするんだ」


 日和は脱ぎ散らかされたスウェットとパンツを拾い、無言で一椛に投げつける。一椛は五秒で着替えを済ませ、ベッドの上に脚を伸ばした。日和もその隣に腰を下ろす。

「お前たちが土蔵にいるのはわかっていた。鉢合わせすることはない」

「だから……はぁ」

 屋敷で唯一の喫煙所を兼ねたベッドの上では、くるくると回る換気扇が、彼女の吐いた紫煙を吸い込んでいく。


「……煙草、嫌いじゃなかったのか」

 煙草を咥えた一椛が訊く。日和は顔を半分だけ彼女に向けた。

「いい匂いとは思わないが。父上が生前吸っていたからな。たまに懐かしい気分にもなる」

「オレのと清一せいいちさんのは違う銘柄だが」

「そうなのか」

 日和の馬鹿正直な反応に、一椛は目を白けさせる。表情の乏しい彼女にしては、露骨に呆れた顔だ。日和は苦笑いを浮かべて誤魔化す。


「カリバーの前で、ネオニホンソードのメンテナンスをしてみせたんだろ。ちゃんとやれたのか?」

「馬鹿にするな。掃除とバッテリーの交換くらいは私だってできる」

「研ぎは?」

「今回は必要なかった。というかもうちゃんと研げるから」

「そうか。よかったな。電子部分がイカれてなくて」

「それは……うん。まあ、そこは問題ないと思ったから、やった訳だし」


 軽口を交わしながら、日和は隣の一椛をちらりと見やる。機械の不得手な主人をからかうメイドは、口の端が微かに上がっていた。日和は安心して、本題に入るべく深く息を吸って気持ちを整える。


「怒ってるか? シェリルを弟子にするって言ったこと」

 訊きながら、日和は一椛の横顔を横目に見る。一椛は既にいつもの鉄面皮に戻っていた。彼女の鉄面皮は筋金入りで、長年一緒に暮らしている日和でも、内心が分からないときがある。

「完全な素人、それも外国から来た奴に合氣道を教えて鬼化から救おうなんて、どう考えても無謀だ。正気の沙汰じゃない」

 歯に衣着せぬ正論に、日和は少し困った風に苦笑する。ひとまず怒ってはいないようだ。


「私は信じていたぞ。シェリルなら鬼の力に打ち勝てると。実際上手くいったじゃないか」

「終わった後ならどうとでも言える。それは生存バイアスだ」

 一椛はばっさりと切り捨てる。が、彼女にしては妙にばつの悪そうな雰囲気があると日和は感じた。その理由もすぐに察しがついた。


 ベッドの上に脚を乗せ、抱きかかえた膝を頬に寄せる。日和が上目に見つめると、それまで素知らぬ顔で煙草をふかしていた一椛は、壁の方へと顔を傾けた。相手の視界から自分が外されると、日和は穏やかな声で訊ねる。

「どうかしたか」

 一拍置いて、一椛は答える。


「本当は気付いてはいたんだ。カリバーは僅かでも七鬼衆に抵抗できていた。お前ならその希望に賭けて彼女を助けようとすると」

「いきなり撃ったのはそういうことか。私が無謀な賭けに出る前に決着をつけようと思ったんだな」

 あえて軽い調子で日和は言った。一椛がシェリルを即座に抹殺しようとしたことはショックだったが、シェリルなら生き残ると信頼し、命の心配はあまりしていなかったからだ。

 それでも尚、日和の心には怒りが渦巻いていた。一椛が凶行に訴えたことにではない。これは彼女を凶行に至らせた自分の無力に対する怒りだ。彼女の行いの正しさをわかっているからこその。


「あんなことはもうやめてくれ。助けられるかどうかじゃない。もし本当にそれが必要なときは、私がやるから」

 一息に言い切ると、日和は抱えた膝に額を押し付けた。一椛はため息のようにゆっくりと紫煙を吐き、言った。

「サムライの仕事は妖から人を守ることだろう。あの時点でカリバーはまだ人だった。斬らない判断はサムライとしてきっと正しい。鬼になる前に始末するのはオレの仕事だ。お前がやる必要はない」

「なんでお前が」

「ご主人様を余計な汚れ仕事に煩わせないのは、メイドの仕事だろ」

「よせ」


 日和は強い口調で一椛の言葉を遮った。一椛の声に迷いはなかった。結果的に未遂で終わったとはいえ、既に一度実行に移しているのだから当然だ。だがそんな一椛の覚悟など、日和にとってはむしろ願い下げだった。

「もしシェリルが鬼になればこの手で斬る。それは今も変わってない」

 日和は抱えていた膝を下ろし、隣に座る一椛をまっすぐ見つめた。

「それに……お前に人を撃って欲しくない」


 日和は半身を乗り出し、自らに誓うように言う。

「妖から人を守るのがサムライの使命だ。だがそれは命だけじゃない。心だってそうだ。鬼になられるのが怖いからと、人が人を殺すなんて、私は嫌だ。妖のせいで人が──お前が誰かを手に掛けるなんてことは、私が命に代えても止める」

「……サムライの誇り、ってやつか」

「ああ。そこで退いたらもう私ではなくなる。無謀だろうと、私はやるしかないんだ」

 一椛は顔を半分だけ傾け、横目に日和を見返した。いつもの彼女らしい、表情の読めない鉄面皮だ。しかし長年連れ添って来た日和には、彼女の目はどこか哀しそうに映った。

 あるいはそう感じてしまうのは、哀しいと感じているのは自分の方だからなのか。


 その日の夕飯をどうするかという話から、倫理観、死生観まで、日和は一椛と多くのことを語り合って来た。その度に彼女との断絶を感じて来た。まるで真剣での果たし合いのように、ひとたび間合いに踏み込めば、そこから先は斬るか斬られるか。互いに違うものだと割り切り、互いに距離を取ることでやり過ごすのが常だ。

 それを寂しいと思う気持ちがないと言えば嘘になる。だとしても、自分の気持ちを相手に押し付けることはできなかった。


「なら……オレごときが口を挿むことではないな」


 一椛は短い言葉を返し、吸い終えた煙草をソケットから引き抜いた。その表情は固い。納得しないまま引き下がったのだろうか。そうさせられる立場に日和はいる。それがむしろ居心地悪く感じた。


「だが、主人を守るのもメイドの仕事のうちだ」


 日和が俯き掛けたその時、不意に一椛がもう一度口を開いた。隣に座る一椛を見上げると、彼女は冷めていく吸い殻に目を落とし、独り言のように呟く。

「本音を言えば、オレはその面ではお前を信用していない。もしカリバーが本当に鬼化するとなれば、そうなる前にオレが撃つ。お前が何と言おうと……いや、お前が何か言う前にな」

 素の一椛らしい歯に衣着せぬ物言いに、思わず口元を僅かに緩んだ。我が家に帰って来た、という気持ちがじんわりと胸を満たす。


「信用していない、か。私もまだまだだな」

「いや……お前は今のままでいい。その為にオレはいる」


 一椛の言葉も表情も、多くを語ろうとはしなかった。むしろ何かを隠そうとさえしているかのようだ。そう感じながら、日和はそれ以上の詮索をやめた。

 これ以上深く踏み込めば、きっと互いにもう引けなくなる。そんな予感がしていた。


「そうか。なら、お前の為にも、私がシェリルの力になってやらないとな」


 日和は晴れた気持ちで一椛に微笑み掛ける。一椛は彼女らしい鉄面皮でそっぽを向いた。

「余計なことを考えるな。お前はお前のするべきことをしろ」

 一椛はそう言うと、煙草の吸い殻をベッドの脇で口を開けているごみ袋に投げ入れた。

 ごみ箱くらい用意すればいいのに、と日和はこの部屋を訪れる度に思う。以前そう言ったときは、どうせ袋にまとめるなら最初から袋を置けばいいと返された。効率的と言えばそうかもしれないが、私室とはいえあまりに見栄えがよろしくない。その上、後でまとめて捨てるからと、幾つものごみ袋を口だけ縛って部屋の隅に放置している。これらは見かねた日和が捨てに行くこともあるので、この部屋に限ってはどちらがメイドかわからない。


 一椛は日和を横目に見返すと、何か文句でもあるのかとでも言いたげな顔で眉をしかめた。日和は口の端に微笑を浮かべて混ぜ返す。

「とはいえ、外国人のカリバーを武士道協会が快く受け入れるはずもないだろう。カリバーに合氣道を教えるのも、即戦力にして、上を納得させる交渉材料にする為でもあるんだろう?」

「やっぱり気付いてたか。今の幹部マスターたちは、最初からネオニホンソードを使っていた世代だ。協会も昔ほど頭の固い組織ではなくなっている。既に合氣道を会得し、剣術の腕も確かとなれば、シェリルを迎え入れようという意見もきっと出て来る。サムライの人手不足は深刻だからな」


 一椛は鼻で笑い、背中を倒して壁に寄り掛かった。

「だといいが。上の連中はまだ親や師匠が刀を使っていた世代だろう。刀を捨てざるを得なかった屈辱だの何だのを言い聞かされて、古臭い誇りに毒されてるなんてことは」

 毒の過ぎる一椛の物言いに、日和は苦笑し、何人かの協会幹部の顔を思い浮かべた。

「あの辺の保守派は言いそうだな。自分はサムライになったときからネオニホンソードを使っているくせに、新しいものは拒みたがるのが。だがもっと柔軟なマスターもいる。希望はゼロじゃないさ」


 日和は勝手知ったる態度でベッドに横になる。一椛も寝返りを打つように横向きに倒れ、ベッドに体を投げ出した。

「もしくは、オレみたいに私的な助手として雇うか」

「相変わらず頼もしいな。上手くいかなかった時の備えもバッチリだ……もうちょっとくらいサムライを信頼してくれよ」

「オレはサムライじゃないからな」

「サムライの家に仕えるメイドだろ」

「オレが仕えているのはお前だ」

 そう言われると、日和としては何も言い返せなくなる。従者がこうなのは、日頃から家で協会の愚痴を言っている主人のせいだと言われたら否定できない。


「いや駄目だ。ネオニホンソードを所持するだけでも協会の発行する資格が要るって知ってるだろ。あれは有資格者が現場監督すればOKなやつじゃないから、シェリル自身が資格を取らないと。もぐりがバレたら責任取らされるのは私なんだ」

「何をするにも資格か。素性の知れない奴は何もさせてもらえない。素晴らしい管理社会だ」


 日和は深くため息を吐き、長い黒髪を手でくしゃくしゃに掻いた。そのままごろりと寝返りを打って一度仰向けになると、もうひとつ短いため息を吐いて上体を起こす。

「だからまあ、協会を説得できるように、打てる手は打っておかないとなんだよ。あーあ。また上から嫌な顔されそうだ」

 愚痴を零しながら、隣で寝転ぶ一椛を横目に一瞥する。彼女は視線に応じるような素振りが一切なく、興味なさげな鉄面皮のまま起き上がる。

「お前が武士道協会から干されようとオレの知ったことじゃないが……雇っているメイドを路頭に迷わせないで欲しいですわね、お嬢様」

 そこで初めて一椛から視線を返される。日和は少しだけばつの悪い顔になった。

「そこは、まあ……努力するよ。生活が懸かってるのは私もだし」


 日和はやや前屈みになって額を押さえる。組織の現状に不満はあるものの、決して反抗心の強い性格でもなく、むしろどちらかと言えばルールには厳格な方なのだが、どういう訳か組織との軋轢が強くなることばかりしてしまう。日和としては親とも師ともあまり似ていないと思っているが、一体誰に似たのだろう。

 日和はふっと小さく嘆息する。いずれにせよ、わかっているのは、自分は決して器用な人間ではないということだ。それでも不器用なりに世を渡っていかなければならない。自分自身の生活もそうだが、加えて一椛の主人であり、更にシェリルの師にもなった。三人分の責任がこの肩に乗っているのだ。それは重く、気安いものではないが、意外と居心地の悪い重みではなかった。


「……所帯を持つって、こういう感じなのかな」

「は?」

 ふと零れた呟きを聞き咎め、一椛が零下の視線で射貫く。日和はすぐさま言い逃れようとしたが、言葉を噛んだせいで言い返すのが数秒遅れた。

「も、物の喩えだよ」

 情けない声を上げて目を泳がせる日和。それを見て、一椛は呆れたように嘆息した。

「まったく。後先考えずにどこの馬の骨とも知れない奴を拾って来るんだからよ……」

 そう言い捨てる一椛の声は、棘を持たせた言葉の割に優しく、また故人を偲ぶような響きが込められていた。安堵がこみ上げ、日和はほっと胸を撫で下ろす。


 一椛は電子煙草のソケットをベッド脇の引き出しに仕舞うと、面倒そうに腕を伸ばしながら立ち上がった。

「歯を磨いて来る。お前もさっさと自分の部屋に戻れよ」

 それだけ言って、一椛は音もなくドアを閉めた。

 彼女の私室に一人残された日和は、自分の部屋に戻ろうと思いながら、思い出すように押し寄せて来た疲労に流されて再びベッドに寝転がった。


 換気扇の掻き消した煙草の残り香と、ベッドに沁みついたサボンの香りに包まれ、次第に日和の意識はまどろみの中へと落ちていった。

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