第8話 合氣道テニス大修行!①
日和に案内された先は、郊外にある屋内テニスコートだった。
一椛の用意してくれたテニスウェアに着替え、コートの上で屈伸や素振りをして体をほぐしながらも、シェリルは未だ胡乱な気持ちでいた。合氣道なる技を教えると言っておきながら、これから始まるのはどう考えてもテニスの指導だ。疑問に思わない方がおかしい。
「それで、どうしてテニスなんデスカ?」
この質問も、もう三度目くらいになるだろうか。
鬼化に対抗するにはサムライになるしかない、と日和は言った。厳密には、合氣道なる日本武術の基礎を身に付ける必要があると。
最初にそれを聞いたとき、シェリルは、日本式の剣の修行をつけてくれるのだと思った。ところが、連れて来られたのは道場の類ではなくテニスコートであり、渡されたのは刀どころか木刀ですらなく、立派なテニスラケットだ。
一昔前の日本のアニメだったら、現代よりもずっと古臭い精神論やインチキ科学が実際にまかり通っていたこともあり、スポーツの特訓と言って道場の雑巾がけが始まるようなことはあった。まさか現代日本の科学認識は昭和のアニメと同レベルだとでも言うのだろうか。
とはいえ、そもそもシェリルはこの日本という国をよく知らないのも確かだ。郷に入っては郷に従え、とも言う。ここがサイコホラー映画に出て来るような、おぞましい因習に支配された閉鎖的なディストピアでもない限り、まずは現地の通念に従うのが賢明だろう。
「店でも言いましたが、合氣道の基礎を学ぶ上で、テニスが最も効率がいいのです。サムライや神職といった妖災対策に従事する者の間では、合氣道テニスは修行としてもスポーツとしても馴染み深いものです」
日和が説明する。疑問を抱えながらも、シェリルは理解を試みた。
「一体いつの時代カラ……」
「サムライがネオニホンソードを導入した変革期が、ちょうど高度経済成長期……今から約六、七十年ほど前ですから、合氣道テニスもその頃に定着したはずですね」
「なるほド。日本の経済と一緒ニ、サムライもまた新たに生まれ変わったワケですカ」
「ちょうどその頃から妖の被害が深刻化し、従来の日本刀では対処し切れなくなったとされています。妖の変化、時代の変化に合わせ、サムライの刀もまた変化したのだと」
説明しながら、日和はラケットを持ってサービスラインの後ろまで下がる。そこで二、三素振りをし、剣を構えるようにラケットを両手で体の正面に構えた。
「さて。今は安静のようですが、いつまた発症するか分からない。時間の猶予はないものと思ってください、カリバー。早速始めましょう」
さも準備万端と言わんばかりの日和。ネット横にはレフェリー兼スコアキーパーとして一椛が控えている。彼女はスポーツウェアの類ではなくメイド服のままだが、その佇まいから感じられる極めて事務的な雰囲気の為か、不思議と浮いた印象がない。シェリルだけが心中置きざりだった。
「アノ……テニスの説明はこれで終わりデスカ?」
「口で説明するより、実際にやってみた方が理解が早い。通常は、テニスの前にまず凧揚げ等で感覚を掴んでもらうものですが。あなたにはより実践的な修行方法が合っているでしょう。西洋式とはいえ魔術に精通しており、かつ妖の氣を取り込まされて鬼化の最中にありますから」
「あ、ハイ」
未だ疑問が晴れないが、百聞は一見に如かずとも言う。シェリルはひとまず質問を止め、実際に合氣道テニスなる修行に臨むことにした。
「あなたは今、その身に強大な妖の氣を抱えている。テニスを通じて、そちらに意識を向けてみてください」
シェリルは仕方なく頷く。この身に強大な“氣”とやらを抱えていることは、なんとなく感覚で分かる。それでも未だ疑問がぬぐえないところはあったが、日和はそれに構うことなくサーブの用意をする。
「いいですか、ミス・カリバー。和の心です。さあ、ラケットの剣を抜くがいい」
日和の言わんとすることを察し、シェリルはその青い瞳に闘志を灯した。
いずれにせよ時間はない。疑問の答えは、問答ではなくこのテニスの中で掴み取る他はないようだ。剣士が己の剣で語るように。シェリルは手にしたラケットを静かに見つめ、その拳に力を込める。
「ラケットが剣なラ、ボールは斬撃。握る
「来い、カリバー!」
ネットを挟み対峙する二人の剣士。その戦意がテニスコートの空気をひりつかせる中、レフェリーが笛を吹いて試合の開始を告げる。
「サーブ東本。
その言葉を合図に、二人は
「「いざッ!」」
先攻は日和。優雅な動きでサーブを打ち込む。流石は剣士、得物がラケットに変わろうと、見事な振り抜きだ。しかしテニスなら本場イギリスで育ったシェリルの庭だ。シェリルは難なくサーブの弾道を読み、打ち返す。
と、そこでシェリルはある違和感を覚えた。日和の反応が恐ろしく早い。シェリルが打ち返すより先に動いている。
はたしてシェリルの返したボールは、まるでキャッチボールでもしているかのように、日和の手元へと真っ直ぐ飛んで行く。正確には、シェリルが打ち返すよりも早く、日和はその弾道を先読みして着弾地点まで移動していた。
「動きを読まれていル……?」
シェリルの呟きに、日和は不敵な笑みを返す。
「流石、理解が早い。そうです。合氣道『
日和が打球を打ち返す。シェリルはその軌道を見切り、ボールの着地する地点まで走って打ち返す。その頃には、日和は既にシェリルが狙いを定めた場所まで悠々と歩いていた。これでは勝ち目はない。
「“氣”を感じ取る『風見』は合氣道の最も基礎の部分に当たります。氣とひとつになり、呼吸を意識するのです。それが合氣道の、はじめの一歩です」
筋肉の微妙な動きから、あるいは心から──そこにある氣の流れから、日和はシェリルの手の打ちを読む。そうして動きを先読みし、常に相手の先を行く。シェリルの打球は打つ前から日和に読まれ、また日和はシェリルの思考を読んだ上で巧みなフェイントを仕掛けて来る。
「私や打球の動きを目だけで追っていては、合氣道の前では常に後手に回る。私を感じろ、シェリル・X・カリバー!」
「ふんヌッ!」
シェリルは遮二無二走り、打ち返す。日和の動きも、彼女の打球も、この目でしかと追えている。しかしそれでは間に合わない。向こうはこちらが動き出す前から、こちらの動きを捉えて、常に先手を取り続けているのだ。
幾打も続くラリーの末、シェリル側のコートにバウンドしたボールが、場外へと飛び去る。詰め将棋のような攻防の末、シェリルは四度、点を奪われた。
「ゲーム東本。東本リーズ
レフェリー役の一椛が無情にスコアを告げる。何も出来ないまま一ゲーム取られた。それも当然だ。これはただのテニスではない。まさに合氣道テニス。シェリルは未だそのコートに立ててさえいないのだから。
不意に胸の内が熱く滾る。シェリルの碧眼が一瞬赤く光った。鬼化の兆候だ。
しかしシェリルはむしろ好機だと思った。鬼化が進むということは、自我が妖の氣に侵されているということ。“氣”のなんたるかを知らないシェリルにとって、向こうから歩み寄って来てくれるのはかえって都合がいい。危険なら最初から承知の上だ。
「和の心……自然と調和し、ひとつに……ヒヨリサンを、感じる……!」
シェリルは深く息を吸い、吐いた。テニスコートの空気が気道を通って肺へと送られ、血流に乗って全身に酸素を運ぶ。そうして巡り巡った空気は、再び肺へと戻り、気道を通って体外へと排出され、テニスコートへ還っていく。
呼吸と共に“氣”もまた循環している。シェリルは和の心の一端を確かに感じた。
「そうカ、つまリ……全は一、一は全……というコトなのデスネ」
「カリバー……!」
「ヒヨリサン……行きマス……!」
第一セット第二ゲーム開始。シェリルがサーブを打ち込む。日和は『風見』でその動きを先読みし、シェリルのラケットがボールを打つより早く、着弾地点へと走った。
サーブは日和に難なく返される。シェリルは打球を追って走るが、日和もまた既にシェリルの対応を先読みして走っている。想定通り、シェリルの打球はまたしても日和に打ち返される。
──視られている。目だけではなく、別の何かによっても。あるいはそれは第六感とでも呼ばれるものだろうか。ラリーを続ける内、シェリルは何かを感じ初めていた。
シェリルはあえて目を瞑った。何かが動く気配を感じる。こちらの動きを読み、それに合わせて動く何かが。それは相手コートに立つ日和に他ならない。目を閉じたまま、感じるままに走る。
瞼を閉じた闇の中で、迫るボールのイメージが模られる。来る。来ている。“それ”が“そこ”にあることを、この目で見ずとも、シェリルは既に知っていた。
確信と共にラケットを振りかぶる。再び動く何か。シェリルは日和の存在を感じた。
「──そこデス!」
深紅の目を見開き、渾身のスマッシュを打ち込む。ネットの向こうで、日和が一瞬眉根を上げる。日和はボールを追ってコートを駆けるが、彼女のラケットは打球の数ミリ手前で空を切った。
スイングの風圧を突き破り、シェリルのスマッシュが日和の傍らを駆け抜ける。打球は日和のコートに着弾して跳ね返り、場外へと飛び去った。
「
無表情のまま得点を告げるメイドだったが、その声が心なしか先程より高かったように思える。瞳の色が青に戻ったシェリルは、左拳に手応えを握り締めた。
合氣道の使い手に対して得点を入れるなど不可能だ。それこそ、先んじて動いても追いつけないほどの速さか、相手のラケットを圧し返すほどの力を叩き込まない限りは。しかし、こちらも『風見』によって相手の動きや読みを読み返すことによって、相手の予測から外れた動ができる。
シェリルは、己の内にある漆原岬から注ぎ込まれた妖の氣だけでなく、日和の内なる氣やこの場に在る氣を感じ取り始めていた。
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