第7話 和の心、合わす“氣”の道②

「日本で生まれ育った者はみな、この“氣”をその身に宿しています。それを扱うすべは知らずとも。しかし、生まれも育ちも日本ではないあなたには、それがない。ですから最初にお会いした際は、あなたにサムライの剣を教えるのを断ったのです。サムライの剣“斬術”は……いえ、すべての妖対日本武術は、“合氣道”をその礎にしていますから」


「アイキドウ……どういう字を書くのデス?」

 シェリルはすかさず訊ねた。日本ではひらがなとカタカナの他に、中国から伝わった漢字を使用すると聞く。そして漢字は表意文字だ。ゆえに言葉を形作る文字は、単なる音の連なりではない。文字の意味を知ることが、言葉への理解に繋がる。

「合わす“氣”の道。即ち“和の心”です。自然と調和し一体となること。それが合氣道の基本にして神髄です」


 非常に興味深い話で、シェリルはもっとこの話を聞きたくなった。やはりガラパゴス的進化を遂げた日本の“氣”ならではの特性なのだろうか。

 西洋の魔術、即ち“マナ”を用いた対魔武術は、自身の内なる力を引き出すことが基本となる。自然の力を借りる場合もあるが、それは木から果実を毟り取って食べ、栄養として体内に取り込むようなものだ。決して、己と自然がひとつになるという感覚はない。

 しかし気掛かりなのは、日本で生まれ育った者はみなその身に“氣”を宿している、ということだ。日和が言った通り、シェリルはその条件に当てはまらない。


「その力を学ぶことができるのデスカ?」

「日本人でなければ不可能です──が、それを可能にするすべはあります。とても推奨できるものではありませんが」

 日和はそこで一旦言葉を切り、真剣な面持ちでシェリルを見つめる。

「例えるならあなたは、日本人が生来持つ抗体を持っていないようなもの。これを後天的に獲得するには、ワクチン接種に相当する薬物投与が必要です。しかしこれは極めて危険です」


 シェリルはすぐに合点がいった。

 七鬼衆こと漆原岬に襲われて妖にされかけた際、彼女からマナと似て非なる何かを注ぎ込まれた感覚があった。そしてそれは今もシェリルの内に巣食い、未だシェリルを妖の道へと誘い続けている。


「では今のワタシは、ワクチンを打つ前に天然モノに罹ってしまったのデ、結果的に抗体を獲得していル……みたいな感じですカ」

「その認識で結構です。むしろ、慣れない氣を多量に宿してしまっただけに、それを制御するすべを早急に身に付けなければ、あなたは人として死ぬことになります」


 日和は休み休みざるそばを啜る。腹部を激しく殴打されたせいで、胃腸の具合が悪いらしく、食事のペースが遅い。シェリルが大盛のざるそばとギョーザを既に七割方食べたのに対し、日和の並盛そばはまだ半分以上残っていた。


「合氣道において重要なことはふたつ。ひとつは、自然と調和しひとつになること。もうひとつは、調和した上で己を失わずに個として存在を保つことです」

「なんだカ矛盾しているように聞こえますネ」

「ええ。自然との調和と、自己の保持。この相反するふたつのバランスこそ重要なのです」


 相反するふたつのバランス。それは奇しくも、シェリルがカツカレーやざるそばに見出した、和食の神髄に通じるような気がした。

 日和は時折ざるそばを啜りながら、食休みも兼ねて話を続ける。


「合氣道は極めて危険な技術です。“氣”とひとつになるという不可能な状態に近付くほど、合氣道は力を発揮します。しかし完全にひとつになることは個の喪失を意味する。個を保てなくなれば、存在が薄れ切って自然の中に溶け込み──有り体に言えば、消えていなくなります。これを“同化”といいます」

「その為、自然と調和しながらモ自分を失わないようにしないといけないワケですカ」

「かといって、存在を保とうとするあまり、自己に意識を向け過ぎてもいけない。調和に失敗するのは勿論、最悪の場合は自身が妖になります」

「妖ニ……?」


「妖とは云わば巨大な“氣”の集合体。台風や地震といった天災に近い現象です。風や雨は天の恵みですが、それが嵐と呼べるほど強くなれば災害となる」

「つまリ、自然との調和を図りながラ、それ以上に自己を強く保とうとすれバ、“氣”を己の内に取り込んで妖になってしまウ……そうして生まれる、かつて人だった妖が、鬼」

 日和は頷く。


「ワタシはミサキサンに氣を入れられてバランスが崩れ、妖になりかけタ。しかし妙デス。自分が薄まってミサキサンとひとつになるような感覚がしまシタ。今のお話を聞いた限りだト、あれは同化だったように思えるのデスガ」

「あなたの側からすると同化とも言えるでしょう。とはいえ、同化する先は自然ではなく一体の妖ですが。七鬼衆はその辺りが少し複雑です。あれは対象の人間を鬼化させながら、同時に自身と同化させることで、相手を己の傀儡にするようですから」

「その傀儡が六体。ミサキサン本人と合わせて七人いるかラ“七鬼衆”ですカ」


 啜ったざるそばを咀嚼しながら、シェリルは日和の話を頭の中で何度か反芻した。シェリルが納得したタイミングを見計らい、日和は続きを話す。


「簡単に言えば、氣に喰われることが同化、氣を喰らうことが鬼化です。合氣道はそのふたつの間のバランスを保つことが重要なのです」

「なるほド。だから合氣道によってそのバランスを適切に保つことができれバ、鬼化を防げるというコトですカ」

「ですので、さっきは勢いで『鬼化を防ぐにはサムライになるしかない』と言いましたが、厳密には、必要なのは合氣道の技術です。サムライの斬術までは必要ありません」

「エェッ!? じゃあ弟子にしてくださるのデハないのデスカ!?」


 露骨に落胆するシェリル。日和はばつの悪い顔をしてみせる。

「いや、まあ、そこは……私がなんとかします。保証はできませんが」

「本当デスカ」

「ええ。国は違えど、あなたの剣士としての心と腕は確かなものです。そんなあなたがサムライを志して、はるばる日本まで来られた。無下にしてはそれこそ恥でしょう」

 シェリルとて、そう簡単に剣を学べるとは思っていなかった。しかし日和はシェリルを迎え入れる心積もりのようだ。祖国から遠く離れたこの地で、一人でも味方がいてくれたことに、シェリルは心から感謝する。


「だが、まずはあなたを鬼として斬らずに済むよう、あなたには合氣道を会得してもらう必要があります。斬術はその後です」

「ハイ! お願いしマス」


 シェリルは喜んで了承した。日和は黙って頷き、ざるそばを啜る。

 話がひと段落し、シェリルはギョーザをつまみながら、勢いよくざるそばに食いついた。


 ざるそばとサイドメニューのギョーザを平らげ、シェリルは満足して食事を終えた。単体でまるごと食べると悲惨なわさびも、スパイスとしてダシスープに入れると、ほどよい刺激と香りを引き立たせてくれた。初めて見るスパイスなので試しにそのまま味わってはみたが、やはりコショウやマスタードと同じで、少量添えるくらいが丁度いい。そばもわさびも、カレーに続いて大好きな和食のひとつになった。

 そうして満腹の多幸感に浸っていると、ほどなくして新たに店の暖簾をくぐる者があった。


「失礼します。お嬢様のお迎えに上がりました」


 ぎょっとしてシェリルは声の方を振り返る。扉を開く音も気配もなく、ガンオイルを思わせる冷たい黒の瞳をしたメイドがそこに立っていた。


「ありがとう、一椛。急にすまなかったな」

 彼女の抜き足には慣れているのか、日和は特段驚いた様子もなく応じる。店主夫妻に目を向けてみると、シェリルほどではないにせよ、彼らも突然のメイドの出現に驚いている様子だった。

「びっくりした……もう、一椛ちゃん。入って来るなら驚かせないでよ」

「申し訳ございません、おばさま」

 一椛は胸中の読めない平坦な声音で謝り、頭を下げる。美鈴も昭も、驚きこそすれ、気を悪くした様子はなかった。恐らくいつものことなのだろう。日和も「絶対直す気ないだろ」と呆れた顔で呟いている。


「あの人、いっつもこんな感じなんデスカ?」

「ええ。主人や客に粗相のないよう、黒子に徹するのがメイドの作法だと、昔から言っていて。音を殺して動くのが癖になってるようです」

 ひどい職業病もあったものだ、とシェリルは脱力して深く溜め息を吐いた。まだ心臓が唸っている。家にメイドのいる暮らしは夢のようだが、こうも神出鬼没だと落ち着かない。


 一椛は頭を上げ、改めて日和の方へと向き直る。

「準備はできています。後はそちらがよろしければ」

「ありがとう。こっちも大丈夫だ──それじゃ、おじさん、おばさん。行って来る」

 日和は厨房に声を掛け、お盆に二人の食器を乗せてカウンターまで運ぶ。昭はおう、とだけ返し、美鈴は冷蔵庫からプラスチックの小瓶を取り出して一椛へ駆け寄った。

「行ってらっしゃい。ああ、一椛ちゃん、今度また食べに来てね。はい、これ差し入れ」

「ありがとうございます、おばさま」

 一椛は軽く会釈してドリンクを受け取ると、早々に踵を返して出口へ向かった。日和とシェリルもそれに続く。

「はい。日和と、シェリルさんも。がんばってね」


 シェリルは日和に倣い、美鈴からドリンクを受け取った。白っぽく濁った半透明のボトルには『ヤクキメルト』と書かれており、中には日本人の肌に似た薄橙色の液体が入っている。初めて見るドリンクだ。

「ありがとうございマス。ところでコレは何ですカ?」

「市販の乳酸飲料です。ありがとう、おばさん、おじさん。いってきます」

 日和が代わりに答える。シェリルは物珍しげにヤクキメルトなるドリンクの包装を眺めながら、日和の後ろについて店を後にした。


 外に出ると、店の駐車場に一台の乗用車が停めてあった。一椛がドアを開けた後部座席へ、日和はシェリルへ手招きしながら入っていく。二人が乗ると、一椛は運転席に乗ってエンジンを掛けた。


「それデ、ヒヨリサン。これから我々が行くのハ……」

 シェリルは隣に座る日和に訊ねた。日和はヤクキメルトのプラスチック蓋を剥がしながら答える。

「テニスコートです。あなたのラケットやウェアも一椛に用意してもらったので、ご安心を」

「……どうしてテニスなんですカ?」

「どうして、って……それが一番効率よく合氣道を学べる、伝統的な修行方法だからですけど」


 日和はきょとんと首を傾げてみせた。今のやり取りの一体どこに疑問を抱くところがあったのだ、と本気で不思議がっている顔だ。

 こっちは日本初心者なのだから、もっと初歩的なところから教えて欲しい、とシェリルは思った。

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