第6話 和の心、合わす“氣”の道①
午後八時過ぎ。シェリルがこの店の暖簾をくぐるのは本日二度目だ。
看板に筆字で書かれた『東本食堂』の文字。最初はそのままヒガシホンショクドウと読んでしまったが、聞けばハルモトショクドウと読むらしい。東本の分家が代々営む大衆食堂とのことだ。
どこか懐かしさを感じるカレーとラーメンスープの温かな匂いが、空腹感に締め付けられた胃を刺激する。
営業時間は過ぎ、店内に客は残っていなかった。厨房に中年男性のシェフが一人いる他、その妻と思しき中年女性が店内の片付けをしている限りだ。
日和は勝手知ったる様子で堂々と店に入り、二人へ声を掛けた。
「こんばんは。おじさん、おばさん。お願いしてたまかない、できてる?」
親戚に対する砕けた調子で挨拶すると、日和は靴を脱いで座席に座る。
「おう。ざるそばの並と大盛、それに餃子だったな。丁度できるところだ」
「ありがと」
日和は二人分のお冷とおしぼりを座席に持ち込む。彼女に手招きされ、シェリルも倣って靴を脱ぎ、座布団の上に腰を下ろした。すると、片付けをしていた女性が救急箱を手にこちらへ来た。
「随分酷くやられたね、日和。大丈夫かい?」
「私は平気。ただちょっとお腹強くぶたれたから、あまり食欲ないけど」
怪我の応急処置は、携帯している救急キットと初歩的な東洋式回復魔術とで、既に現場で済ませてある。なので日和は結構だと手で制したが、彼女は構わず包帯やら湿布やらを手に触診を始めた。彼女の心配を無下にするのも気が引けるのか、日和はされるがままになりながら水を飲む。
「無事ならいいんだけど……それで、こちらの方が──」
怪我の具合を診ながら、叔母がふとシェリルの方を向く。シェリルは深々と頭を下げた。
「シェリル・X・カリバーと申しマス。イングランドの騎士デス。ゆえあって、ヒヨリサンの弟子になりまシタ」
「まだ弟子にはしてない」
淡泊に言い捨てられ、シェリルは子犬のようにしゅんとしてお冷を飲む。口に含んだ氷水がとても冷たく感じた。
「シェリルさんね。私は日和の親戚で、東本
「ハイ。カツカレーをいただきまシタ。とてもおいしかったデス」
談笑を始めるシェリルと美鈴。そこへ日和が口を挿む。
「妖災の被害者で、鬼になりかけてる。食べ終わったら合氣道を教えに行くから、片付けは任せちゃってもいい?」
「それは構わないけど。教えるってどこで?」
「テニスコート。今、一椛に手配してもらってる。それと彼女のウェアとラケットも」
「そう。忙しいね」
そうこうしているうちにそばが茹で上がった。美鈴が二人分のざるそばをテーブルに運んでくれる。
茹で立ての麺から上るそば独特の香りを嗅ぎ、シェリルは早速箸を手に取った。
「この黒いスープにつけて食べるんデスヨネ?」
「ええ。その緑のはわさびといって、辛いので気を付けてください」
答えながら、日和はそのわさびなる黄緑色の物体を箸でひとつまみし、漬け汁の中に溶かし込む。ちょうどラーメンにかけるコショウのようなポジションと見受けられる。シェリルも多少話には聞いていたが、実物を見るのはこれが初めてだ。
「ほほゥ、コレが噂に訊くワサビ……サシミやスシのお供によく使われル、ワビ=サビの語源にもなったとされる日本のスパイスですカ」
「侘び寂びとは無関係です」
「そうでしたカ。さてはテ……あじゃバッ!」
まずは試しにとわさびを一掬い口に入れたシェリルは、想定を遥かに超えた刺激に悲鳴を上げた。慌てて水を飲むも、辛味を洗い流すはずの冷水が、わさびの火傷を消毒液のように炙っていく。
「辛いと言ったのに……なんでそのまま食べるんですか」
「イエ……ハジメテなので、どんなモンかト……マスタードやホースラディッシュとハ、なんというカ辛さの質が違いますネ。陰湿というカ陰険というカ、ジャパニーズホラーの怖さにも通じるようナ、じめじめした意地の悪さを感じマス」
「そこまで言いますか」
日和は悲鳴を上げるシェリルを呆れ顔で一瞥すると、それきりさも我関せずとざるそばを啜り始めた。コップ二杯の水を飲んで辛味を洗い流したシェリルも、気を取り直して人生初となるソバヌードルに手を付ける。
箸の先端でそばを巻いて掬い、漬け汁に浸す。箸の扱いは祖国のジャパニーズレストランで修行して来たが、やはりフォークと比べてどうにも麺を巻き辛い。ネイティブは子供ですらこれを巧みに扱えるのだから恐れ入る。
と、そこでシェリルは違和感を覚え、対面に座る日和を見やった。彼女は箸で麺を巻いてはおらず、あまつさえ啜りながら食べている。パスタなら行儀の悪い食べ方だ。が、
癖のある独特な味わいがした。同じ麺でも、小麦ベースのパスタやラーメンとはまるで違う。醤油ベースの漬け汁も素朴な味わいだが、そばをよく噛み締めてみると、単純な塩味だけではない複雑怪奇フレーバーを感じる。この味の薫り方は、コンソメや、スープに染み出る具材の味に似ている。これが“ダシ”だとシェリルは直感した。
日本にはめんつゆと呼ばれるソースがあるという。醤油をベースに、塩や砂糖で味を調え、鰹節や昆布や椎茸といった様々なダシで味に奥行きを持たせ、更に酒やその他の調味料で風味を彩った、素朴なようで奥深い調味料だと。なるほど
とはいえ、複雑さだけが和食ではない。
素材の味を突き詰めた究極の素朴さもまた、和食を和食たらしめるもう一人の主役だ。むしろこちらの方が有名だろう。そばの実をすり潰し、小麦の粉を繋ぎに練った麺。このシンプルイズベストな味覚は、複雑怪奇な漬け汁とは対極に位置する。まさしくカレーにおけるライスのような存在だ。
カレーとライス。漬け汁とそば。無数のダシやスパイスの織り成す精緻な味覚のパズルと、素材の味を最大限に引き出したありのままの味覚の究極。相反するふたつの在り方が奏でるハーモニーこそ、きっと和の美学なのだ。シェリルはそれを肌で感じた。
一口でそばの味に魅了され、シェリルは慣れない箸ながら猛然とそばを啜った。間もなくギョーザも運ばれてくる。昼にカツカレーのサイドに食べたのが忘れられず、すぐにでもまた食べたいと思っていたのだ。
訊いた通りに、
ハンバーグが
スシやテンプラといった伝統的な和食も素晴らしいが、カレーやラーメン、ギョーザといった新しい和食も実に素晴らしい。近代化と国際化に伴い、世界中の美食を取り込んで進化を続ける和食の可能性に限界はないということか。
「さて、カリバー。あなたの鬼化を防ぐ手立てですが」
咀嚼したそばを飲み込み、日和が口を開く。夢中でそばを啜っていたシェリルは、その言葉で思い出したように顔を上げた。
「ワタシが妖になりかけてるコトについてでしたよネ。“氣”がどうとカ」
「ええ。まずはその“氣”について簡単にお話しします。食べながらでいいので聞いてください」
日和は箸を休め、対面に座るシェリルを見上げた。言われた通り、シェリルは失礼にならない程度にざるそばを啜りながら、日和の話を聞く。
「“氣”とは、万物に宿る目には見えないエネルギーのことです。大気や水、草花や虫、魚、鳥、獣……動植物から石や土といった無機物まで、およそあらゆるものが氣を宿しています。勿論、人間も例外ではありません」
「万物に霊が宿ル。アニミズムなる日本古来の哲学ですカ」
「ええ。これは島国という風土が関係していると考えられています。大陸と分断され孤立しているがゆえに、動植物だけでなく、そこに宿る霊なるものもまたガラパゴス的な進化を遂げたのだと。
私もあまり詳しくはありませんが、中国やインドあたりの魔力も、日本の氣ほど特殊ではないにせよ、西洋のそれとは異なる進化を遂げていると聞きます。確かチャクラとかフォースとか。いずれにせよ、魔力の仕組み自体が地方によって異なれば、それを扱う哲学や技術も異なるということです」
「西洋式のやり方で魔力を扱おうとしても上手くいかないワケデス。身体強化なラ割と得意ですシ、自分の中で完結してるノデまたよかったですガ。魔力探知は全然ダメでシタ」
「……身体強化術が自分の中で完結、ですか? 西洋式の魔術の場合は」
シェリルがそばを啜るとほぼ同時に、不意に日和の方から質問される。シェリルは一瞬、日和が何に疑問を持ったのか分からず戸惑った。が、そばを咀嚼しているうちに答えを得た。
「エエ。ヨーロッパの対魔武術ハ、自分自身の肉体と精神から力を引き出して使いマス。魔力を回復させたリ、より大きな魔術を使ったりする為ニ、自然のマナを利用することもありますケド」
西洋式の場合、魔術のエネルギーは、体力と同じく術者自身から捻出される。自然のマナを利用するにしても、一度術者がそれを吸収した上で利用するものだ。術を暖に喩えるなら、薪である魔力は術者の肉体という貯蔵庫から持ち出すものであり、炉は屋内のかまどと言える。
翻って日本式の場合、そのエネルギーは専ら自然の“氣”だ。それも術者が一度吸収してエネルギーにするのではなく、自然のうちにあるエネルギーをそのまま扱うとのことだ。即ち術を暖に喩えるなら、薪は外にある木を切って用意するものであり、それを燃やす炉も屋外の焚火と言える。
即ち、西洋魔術が“内”の力を扱うとすれば、日本の合氣道は専ら“外”の力を扱うということだ。根本的な仕組みから世界観まで、同じ魔術でも東西で大きく異なる。
日和がシェリルの言葉に違和感を覚えた理由もそこにあった。日本式の魔術において、術のエネルギーや構築式が自己の中で解決するなどということは、たとえ身体強化や知覚強化の類の術であってもありえない。ところが西洋式の魔術は、むしろ自己の中で術が完結しないものの方がまれなのだ。
「そういうことですか。興味深いお話です……と、話が逸れましたね」
そう言って誤魔化すようにそばを啜る日和の顔は、少しばかり照れくさそうだった。
シェリルとしても、正直言えばもっとその話をしたかったのだが、今はそれより優先すべきことがある。脇に逸れた会話を咳払いで断ち切るように、二人は音を合わせてざるそばを啜った。
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