第50話

 俺が目覚めたのはベッドの上だった。何度同じようなことがあったかわからない。


 けれど、俺は確かに生きていた。


 目の前には今にも泣き出しそうな泉の姿があった。


「おはよう」


 泉の目には涙が浮かぶ。


「もっと早く起きろ。ばか」


 俺は何度も謝る。けれど、泉は当分許してくれそうにはなかった。


「西海は?」


 俺が言うと泉は渋い顔をした。


「別の病室にいる」


「よかった」


 泉は首を傾げた。


「よかった? 殺されかけたのよ⁉︎ あんな奴さっさと警察に突き出した方がいい」


 俺は首を振った。


「そこまでしなくていいよ。俺も無事だったんだから」


「でも……」


 食い下がる泉を俺は制止した。


「夢を見たんだ」


「なんの?」


「小金井や近江たちの夢」


「それって昔の?」


 泉の顔がみるみる青ざめていく。


「違う。海の中だったのかな。分からないけど、そこで小金井に生きるように言われた気がする。それで、西海のことも頼まれた」


「だから、許すの?」


「うん」


 泉は頷いて、「わかった」と言った。


 それから、俺は泉に海の中で見たシーラカンスについて話した。俺はあれが現実に起こったことだと思っている。


 俺は死ぬはずだったけど、生きている。あの時、あの巨大で老齢なシーラカンスの胸鰭にはシラズ蛙が絡まっていた。


 この海のシーラカンスがどうして太古から生きてこられたのか。俺は仮説を立てた。


 シラズ蛙と言うものがどういうものなのかは分からないけど、この海のシーラカンスは独自の器官で音を発してシラズ蛙を追い払うことができたのだろう。しかし、その追い払ったシラズ蛙はまた別の個体に近づこうとするはずだ。そうなれば個体数は減少してしまう。けど、そうなっていない。その理由があの巨大なシーラカンスなのではないかと思う。老齢な個体は通常の個体とは別の音を発していた。あの音につられて多くのシラズ蛙が集まっていた。そして、シラズ蛙を集めるための胸鰭、老齢な個体は無数のシラズ蛙を集めてその生涯を終えるのではないだろうか。だから、この海のシーラカンスは生き抜いてこられた。


 俺はこのことを泉には話さなかった。あまりに荒唐無稽な話だったからとてもじゃないが研究として発表はできない。俺はこのことを自身の胸の内に留めた。


 それから、俺はめっきりシラズ蛙を見なくなった。理由はわからないけど、これでよかったと思えた。


 退院後、西海と一度だけ話す機会があった。


 かつて西海と小金井が住んでいた養護施設で会う約束をしていた。


 その時の西海は穏やかだった。


 黙ったまま俺たちは養護施設の中に入って、かつて西海が暮らしていた部屋を訪れた。


「小金井のために調べていたんだろ?」


 俺は部屋の中の書棚を見て言った。


「ああ、でも、全部無駄だった。神頼みもしてみたけどな。なんの意味もない」


 西海は机の上にあった聖書を地面に捨てた。


「あの日、お前と海に落ちた日、早瀬に会った」


 俺は黙ってそれを聞いていた。


「死んでんのに、人の心配なんかしてバカだよな? あいつ、本当に」


 西海はこちらを見た。


「お前のことは正直今でもムカついてる。殺してやりたいって思ってるけどよ。早瀬からすりゃ、それは嫌なことなんだってことは、何となくわかった」


「俺も、あの時小金井に会ったよ。君のことを頼まれた」


 西海はため息を吐く。


「余計なお世話だ」


 西海は本を数冊手に取って部屋の入り口に立った。


「お前になんか世話焼かれる気はしねぇけど、早瀬が生きろって言うなら、俺は死にゃしねえよ」


 西海は一冊の本を俺に手渡してきた。


 それは遺伝子に関する本だった。


「これは?」


「やるよ。もう会うこともねえだろうからな」


 西海はそれだけ言って、部屋を出ていった。


 俺は一人、部屋に取り残された。


 窓の外を眺めているとわずかに雪が降ってきていた。


 冬を過ぎればまた春が来て夏になる。俺は窓の外を見続けた。鶺鴒が窓の外を横切っていく。どこに飛んでいくのかその姿を俺は追い続けた。

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