第49話
蓮見岬の海は冷たかった。目の前には泉の姿があった。
「泉」
「ハル……」
目の前の泉は俺を抱きしめて泣いた。彼女の身体の暖かさを感じる。
どれほどの間、俺は夢を見ていたのだろうか。とても長い夢を見ていたように思う。自分の顔を触る。髭が伸びている。髪の毛も無造作に伸びていた。
夏だと思っていた海はひどく冷たかった。空を見上げると雲が高く感じられた。
「寒い」
「当たり前よ。いま何月だと思ってるの! 十一月だよ」
泉が眉根を寄せて言う。
「よかった。本当に。ハルが戻ってきてくれた」
泉は俺の身体に顔を埋める。
「ごめん」
俺は何度も謝った。
安堵した瞬間、俺は泉の肩にいるものに気がつく。
そこにはシラズ蛙が大きな口を開けていた。
「なんで……」
どうしてまた俺たちばかりと激しく憤った。世界を呪いたくなった。神様がいるなら殺してやりたいとさえ思った。
シラズ蛙の口は今にも開ききる寸前だった。
俺は急いで泉と共に岸へ向かう。
かつて飛び込んだ大きな岩礁の上に登って俺は息をついた。
その日の海も小金井と出会ったあの日のように凪いでいた。
泉が服の裾を絞っている姿が、小金井と重なる。
そして、彼女の肩には白いモノが真っ赤な口を開く。
俺は自分の胸を見た。そこには小金井から預かったガラス玉の付いたペンダントがあった。シラズ蛙を引き剥がす方法はこれなのだと思った。
俺はペンダントを外した。
「泉」
「何?」
彼女の前でそれを落とした。青いガラス玉はいとも簡単に壊れてしまう。
今ならあの時の小金井の気持ちがわかる気がする。
「何しているの? ハル、それ大切な……」
「いいんだ。これで全てがうまく行く」
「どういうこと? 何かしたの? それって——」
シラズ蛙は一瞬その身体を震わせると這いずるようにこちらに向かってくる。そして肩に乗り大きく口を開いた。その赤々とした口には無数の赤い歯が生えている。
今までのことを思えばこうなることは推測できた。西海の時も神父の時も誰かが助かると誰かが亡くなった。この生き物から逃れるには身代わりが必要なのだろう。
俺がどうして今まで生きてきたのかわかった気がする。この時のためなのだ。
もうすぐ近江と小金井のもとに行ける。
その時、誰かの叫び声が聞こえる。
「おい! 女連れていい気なもんだな!」
その声には聞き覚えがあった。
痩身な男だった。頬は痩せこけていて、無精髭を生やしている。俺はその顔に見覚えがあった。
「西海」
教会付近の岩場に男は立っていた。手足がやけに細く今にも折れてしまいそうな体だった。
西海はこちらに近づいてくる。
「テメェがなんでのうのうと生きてんだ!」
西海の右手にはナイフが握られていた。銀色の光が海面に反射した。
西海は俺の胸ぐらを摑んで言う。
「お前さえいなければ……」
西海の力は弱々しく、俺を持ち上げるほどの力もなかった。
そして、西海は泣いていた。
「ハル!」
泉が叫んだ。
「離れてて!」
俺はこちらに来ようとする泉を制止した。
「お前さえいなければ、早瀬は!」
かつての面影はあったがあの頃のような強さは西海には感じられない。俺は西海に押されて岩礁の際に立っていた。
炯々と光る目には夕焼けの空が写っていた。
かつての西海司はこんなに弱々しくなかった。
西海はナイフを振りかぶる。
「小金井のこと全部知っていたんだろ?」
俺は西海に尋ねた。
「当たり前だろ! 俺は早瀬のことならなんだって知ってる! 子どもの頃からずっと見てきた」
「なら、どうしてこの町から離れたの?」
西海は俺を睨み付ける。
「テメェ……」
西海の力が弱まる。
「お前らといる時の早瀬は、落ち着いていた。だから、俺がいなくても大丈夫だって、なのに早瀬はいなくなった! なんでだ! なんで、お前らは生きてんだ!」
西海が叫び、胸ぐらを摑む力が再び強くなる。
俺はその通りだと思った。なんで俺たちだけが生き残ったのか。それは小金井が俺の身代わりになったから。だから、これでいいのだと思えた。
俺は後ろに体重をかけた。俺と西海の体は海の方へ傾いていく。
「ハル!」
泉の叫び声を聞いた。
俺と西海はそのまま海に落ちた。
俺はもがくこともせずそのまま海に沈んでいく。隣のシラズ蛙は大きな口を開いていた。もう全てがどうでもいいような気がした。
深い闇に沈んでいくような感覚だった。徐々に視界は暗くなっていく。西海の姿ももう見えない。
それから俺は再び幻覚を見た。
そこはさまざまなものが混ざり合うところだった。海の中のようであり、空の上のようでもある。俺は見えない地面にただ佇む。
そして、目の前には小金井の姿がある。
小金井はあの照れ臭そうな笑顔で「やあ」と言った。
俺は涙が出るのを堪えた。
あの夏、俺は彼女に何も言えずに別れてしまった。
「どこにいたんだよ」
俺が言うと早瀬は微笑みながら俯く。
「ずっとこの海にいた」
甘い香りが周囲に漂っている。俺は懐かしさを感じる。
「あの時なんであんなこと、俺は、君に……」
涙が溢れる。全ては俺のせいなのだ。君がいなくなったのも近江だけが死んでしまったのも。
早瀬は再び笑う。
「君に、俺は似合わないな」
俺は泣いてしまう。涙が出て止まらなくなる。でも小金井は笑っていた。
「でも、俺は……」
小金井は膨れっ面になる。相変わらず表情が良く変わる。
「いつまでもメソメソしないで。君は何も悪くないんだから、堂々としていなよ」
「ごめん。ごめん。でも、俺は、ずっと小金井に会いたくて」
小金井の手が伸びてくる。そして、俺の顔に触れる。
「私も」
小金井は微笑む。
「君はずいぶん背が伸びた」
あの頃は同じくらいだったのに今は目線も全然違っていた。
「小金井は変わってない」
小金井は頷く。
涙が流れながらも、俺は笑うことができた。
「それにしてもいい加減、名前で呼んでくれてもいいんだよ。ハルくん」
小金井はいたずらをする子どものような笑みを浮かべる。
俺はそれに頷いて言う。
「そうだね。早瀬」
小金井は少し不満げだった。
「やっぱり、大人になったね。ハルくんは。前なら照れて言えなかったのに」
俺は頷いて笑った。
そして、その時、激しい音が遠くで聞こえてくる。それはかつて海に沈んだ時に聴いた音とも違っていた。全てを包み込むような暖かな音だった。
小金井も俺もその音の方向を見つめていた。
「まだ君とは一緒にいられないみたい」
「どういうこと?」
音と共に巨大な魚が姿を現した。それは僕らが追い求めているシーラカンスだった。そのシーラカンスの皮膚はボロボロだった。かつて海に放り出された時に見たものよりもさらに巨大で長い年月を生きていることがわかった。その魚は音を響かせながら、悠々と空とも海ともわからないこの場所を泳いでいく。そして、大きくて長い腕のような胸鰭にシラズ蛙がいくつも絡みついていた。
「あれが全部連れて行ってくれるから」
小金井が言っていることがどういうことなのか俺にはわからなかった。
それから、光がその場に満ちてきた。
早瀬は泣きそうな顔で言う。
「もう少し永く生きてみて。それでこっちにきた時はさ。泉さんと一緒に思い出話をいっぱい聞かせて」
早瀬の顔が徐々に白んで遠ざかっていく。
遠ざかる早瀬の向こうに父や近江の姿も見える。近江は笑顔でこちらに手を上げた。
「父さん! 近江! 早瀬! 僕は」
不意に小さな子どもが俺に縋りついてきた。
「司のこともお願い、ね」
その子どもはずっと泣いていた。それをあやすように俺は抱きかかえる。
「早瀬! 僕は──」
早瀬も近江も全てが光に包まれて見えなくなった。俺はその光の中で身体が浮上していくのを感じた。
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