第47話
大学院を卒業してから俺たちは蓮見町から少し離れた市の海洋生物研究所に就職することができた。
そして、俺たちは蓮見町に戻ることにした。全てが壊れてしまったあの場所。今でも復興はほとんど進んでいないあの場所に。
蓮見町は忘れ去られたように静かだった。
全てが失われたはずのこの町で唯一あの日と変わらない姿で残っているものを俺は見つけた。
かつての自宅からほど近い山内病院とその隣にあった養護施設だ。
この二つの建物は標高のかなり高い場所にあったため被害を免れたようだった。
そこはすでに誰にも使われておらずあの日から人の手が入っていないように見えた。白かったはずの壁はくすんで灰色がかっている。
俺と泉は所有者に嘆願して病院の一室を個人の研究室として借りることができた。ここならば海からも近く、隣町で借りているアパートからも遠くない。
俺と泉は休日にはそこでシーラカンスについての研究を行なっていた。
病院の所有者から隣の養護施設後には入らないようにということを聞かされていた。もう古いため倒壊の危険性もあるということだった。
しかし、俺たちは一度だけそこに足を踏み入れた。
中の壁はボロボロで隅に置かれた消化器は埃に塗れていた。
「ハヤちゃんはここで?」
泉は入り口の扉を見ながら言った。
「うん、ここに住んでいたよ」
泉は小金井から住んでいるところについて聞かされていなかったらしい。俺も西海に教えてもらわなかったら知る機会はなかったかもしれない。小金井は自分のことをあまり話さなかったから。
泉は辺りを見回していた。
「でも、ここって……」
「どうかした?」
「ううん、何でも」
俺たちは奥に進んでいった。中は埃や汚れが溜まっていたけど、物の配置や室内の様子は当時とほとんど変わっていなかった。
俺は二階の隅の小金井の部屋に向かった。
その途中、本棚がいくつも並んだ部屋を見つけた。俺は何気なくその部屋に入った。
小さい部屋だったが、壁際には本棚がびっしりと並べられ、蔵書も豊富だった。
小さい机の上には聖書が置かれていた。俺はそれを手に取った。埃に塗れていたが、僕の持っているものよりもずっと綺麗だった。開くと中には赤字で書き込みがあった。
「すごい。ここ、いろいろな本があるのね」
泉は本棚の蔵書をいくつか手にとっていた。
「ほら、これ見て」
泉がこちらに一冊の本を持ってきた。
「これ昔ハルが持っていたのと同じじゃない?」
泉が持っていたものは表紙にシーラカンスの絵が描かれた本だった。確かに昔、俺はその本と同じものを持っていた。しかし、それは自宅と一緒に流されてしまっていたから手元にはもうなかった。
ここには他にもシーラカンスについての本や民俗学の本などがいくつも納められていた。まるであの時、泉を助けようとしていた時の俺たちのようだと思った。
俺は机に戻って、机の脇に置かれていたノートを見た。その裏表紙には西海の名前があった。
この部屋は西海の部屋だったのだろう。ここの蔵書を見ればわかる。西海が何を調べていたのか。どうしてこれほどまでに本を集めていたのか。
西海はやはり小金井のことをよく理解していたのだ。そして、小金井のためにできることを模索していたのかもしれない。それを思うと自分が情けなくなった。小金井はここにはもういない。
「ハル?」
泉は心配げにこちらを見つめていた。
「何でもない。行こうか」
それから再び俺たちは小金井の部屋を目指した。
部屋の前に来てみると初めて来た時よりもずっと小さい部屋だったのだなと感じた。
汚れはしていたが小金井の部屋は当時とほとんど変わっていなかった。全てはあの時に時間を止めてしまっていた。
「ここに用があるの?」
泉は僕の後ろについて言う。
「うん、小金井の部屋だった場所だよ」
俺は小金井の机を調べた。もうあれから十年近くが経っているからあるかどうかは正直わからない。
一番下の引き出しを開いた時に俺はそれを見つける。
「何それ?」
泉が覗き込んでくる。
「これね。昔の文献でシーラカンスのことが書かれてあるんだ」
「なんて読むの? 魚……」
「魚齢章だよ。もともとは教会にあった蔵書なんだ」
「どうしてハヤちゃんが?」
「……まあ、色々あってさ」
俺はそれを開いた。中程のページに何かが挟まっていた。栞だろうか。平たいシーガラスのようなものだった。
俺はそのページを眺めた。赤いペンで加筆された文字が目に入った。
『ガラス』
そんな言葉が書かれていた。そして、その文字から線が引かれてシーラカンスの挿絵に繋がれていた。挿絵の隣には赤い文字で『音』と書かれていた。
いくつかの記憶が蘇る。教会で起きた事件のこと、小金井が話した西海が父親を刺した日のこと、そして、みんなで船に乗り沖に出たあの日の小金井の行動、それぞれが繋がっていくように思えた。確証ではないし、それがどういう意味を持つかもわからなかった。けど、俺の考えは間違っていないと思えた。
俺は海に落ちたあの日、シーラカンスを目にした。あの魚は音を発していた。それは確かにガラスが弾けるような音だった。そして、シラズ蛙はその音を聞いて散り散りになっていた。泉の時も西海の時もシラズ蛙がいなくなる前にはガラスが割れていた。西海の時は花瓶と窓ガラス、泉の時はステンドグラスが割れた。小金井の時はガラス玉が。
俺は首に下げていた小金井から預かったガラス玉を見つめた。ゴムの部分はもう朽ちてしまっていたため、俺は紐を通してペンダントのようにして首につけていた。これだけはなくさないようにいつも持ち歩いていた。
どうして小金井があの日、船に乗る前にあんなことをしたのかようやく理解できた。そして、同時に俺は……
「ハル? どうしたの?」
近くにいた泉の声を聞いた俺は目元を拭った。
「いや、何でも、ない。行こうか?」
俺たちは魚齢章を手にそこを後にした。
今更気づいても全ては遅いのだと思う。今更何も変えようがないのだから。
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