第45話

 病院に戻った僕はそれからしばらくして退院することができた。


 親戚もいなかったため僕は蓮見町から少し離れた町の養護施設に入ることになった。


 同時にその養護施設の近くの中学校に通い始めた。


 そこには僕と同様に別の中学から転入してきた人も多かったが、蓮見中学からの転校生は僕以外にはいなかった。


 住む場所も通う学校にも知っている人はいなかった。僕は一人でいることが多くなった。でも、これが当然なのだとも思う。かつて僕が一人じゃなかったのは近江や泉、小金井がいてくれたからだった。


 僕は施設にこもって本ばかり読んでいた。教会で拾った聖書は何度も読み返した。ページが張り付いて読めないところもあったが、いくつかの章は読むことができた。特に僕がよく読んだのはヨブ記だった。


 ヨブ記はしゃいで敬虔な信徒であるヨブにサタンが数多の苦難を与えるというものだった。神はどんな苦難があろうとヨブの信仰は揺るがないと信じていた。ヨブは最後まで神を理解しようと努めた。その結果、神によってヨブは救われる。


 ヨブ記では理不尽な苦難というものが主題なのだと思えた。そして、それは現実にも当てはまる。世界は理不尽なことで溢れている。


 ヨブは最後に多くの富を手に入れることができたが、失われたものは戻っては来なかった。それは本当に救いなのかと僕は思った。

理不尽な世界でも僕にはただ二つだけ心を慰めてくれるものがあった。一つは小金井のヘアゴム、いつも僕は左手にこれをつけていた。奇異な目で見られることもあったけど、これだけは肌身離さず持っていた。


 もう一つは自分の目に映るものだった。


 僕はシラズ蛙が見えるようになっていた。


 初めて見たのは入院中のことだった。


 隣の病室に入院している男の人の肩にプックリとした白い塊が乗っているのを僕は見た。アレがシラズ蛙なのだとすぐに理解した。目も鼻も耳もなくただ真っ赤な大きな口だけがある。


 そこの病室にいた男の人はそれから数日後に亡くなったそうだ。僕には何もできなかったけど、特に何も思えなかった。


 ただ、本当に僕は小金井と同じものが見えているのだという僅かな喜びを感じていた。今なら小金井の気持ちがもっと理解できるのではないかと思えた。


 それから中学を卒業して、僕は近辺で一番偏差値の高い公立高校に進学した。


 入学式の日、式が終わって僕は中庭のベンチに一人で座っていた。中学生の頃は高校生なんてとても大人のように思っていたけど、中身なんて何も変わっていない。僕はあの時のまま時間も思考も止まってしまったようだった。


 今でも僕は蓮見町へ行く。そこには何もないけど、何かみんなの手がかりがあるのではないかという気がした。父は現在も行方不明だった。近江や泉、そして、小金井については生死も、どこにいるのかもわかっていない。


 呆然と空を眺めると青く澄んだ空が広がっていて、それが無性に腹立たしく思えた。あの日から空の色だけは変わらない。


 その時、誰かがこちらに走ってくるのが見えた。スッと背の高い人影は短い髪を揺らしていた。


 僕は胸が締め上げられるような思いだった。


「ああ」


 自然と声が漏れた。


 その人は僕の前で立ち止まる。


「やっと……」


 その人は顔をしかめて今にも泣きそうだった。人の目も憚らず僕らはお互いの存在を確かめるように手を取った。


「やっと、やっとだよ」


 泉は泣きながら言った。


 僕も涙が溢れた。お互いの頬が涙で濡れていく。


「亮太が、亮太が死んじゃった、私のせいで、わた、しの……」


 僕は泣きながらその声を聞いていた。視界が暗くっていくようだった。


 近江が死んだという言葉が頭の中に反響している。


「どう、して?」


「亮太、わた、しを助けてくれたの。海の中で、わたしを引き上げてくれて、わたしだけ」


 涙を流しながら泉はただただ悔やんでいた。


 混乱した頭の中で近江の顔が浮かんだ。近江ならこんな時でも笑って人を元気付けるだろうと思った。


 僕は顔に笑顔を貼り付ける。


「泉は、何も悪くないよ。近江も絶対そんなこと思わない」


「でも、でも……」


「近江は、近江はやっぱり、凄い」


 泉は頷いた。涙がボロボロと溢れて地面に落ちる。


 近江がもういない。信じられなかったけど、妙に腑に落ちてしまった。それでは……


「小金井は? 小金井のことは知らない?」


「ごめん。知らないの。あの後、私も調べたけど……」


 落胆と同時に僅かに安堵した。


「そうか」


 僕は地面を見つめる。


「わたし、きっと、ハルならこの高校に来るって、だから、頑張って……」


「でも、どうして? 僕が生きてるなんて保証は……」


「亮太が言ってたの。ハルは絶対生きてるからって、だから、必死で、わたし……」


 近江はどうしてそんなことを言ったのかわからない。しかし、不意に終業式の日のことを思い出した。近江と小金井が珍しく二人で話をしていた。


 ああ、そうか。


 小金井にはわかっていたのだ。全てが壊れるほどの何かが起こることが。彼女にはシラズ蛙が見えていた。あれだけの死者が出た災害だ。町にはシラズ蛙が溢れていたかもしれない。


 小金井はそれを近江に伝えた。


 どうして近江に?


「ハル、大丈夫?」


 泉がこちらを覗き込んでいた。


「う、うん、大丈夫」


 僕は涙を何度も拭ったけど、止めようがなかった。


 近江が死んだ。その事実だけが重くのしかかってくる。


 近江にはシラズ蛙が憑いていたんじゃないだろうか。だから、小金井はそれを近江に伝えていた。だから、近江は僕に泉を頼むと言った。


 僕は声を出して泣いた。


 泉は優しく背中を撫でてくれた。


 孤独になった僕が再び人の繋がりを持つことができた。あの時、泉に出会えなかったら僕は生きることを放棄していたかもしれない。


 僕が生きているのは三人のおかげだと強く感じるようになっていた。

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