第43話

 終業式の日、式が終わって体育館から教室に戻る途中、僕は小金井と近江が中庭で一緒にいるのを見た。


 何を話しているのかはわからなかったけど、二人はずいぶん神妙な面持ちだった。何だかそこに入っていくのは気まずかったから僕は一人で教室に戻った。


 心の中に僅かなわだかまりができた。


 終業式の次の日、いよいよ夏休み初日ということもあって僕は浮かれに浮かれていた。何といっても今日は沖に出て釣りができるのだから仕方がない。


 僕は自前の釣竿をケースに入れで身支度を整える。


「気をつけていくんだぞ。くれぐれも向こうの親御さんに迷惑かけるんじゃないぞ。あと、蛙には──」


「わかってるって!」


 僕は父の言葉を遮るように言った。そして、前までは何とも思わなかった蛙という言葉も以前よりずっと恐ろしいものだと理解している。


 僕は「行ってきます」と声をかけて駅に向かった。外は真っ暗だった。


 泉に無理を言って、深夜集合に変えてもらった。僕はどうしても夜の海に出たかった。


 駅では小金井が待っていた。小金井は白いシャツにデニムのスカートを着ていた。制服以外の姿を見たのはこれで二回目だ。


「ごめん待たせた?」


「ううん、私も今来たところ」


 僕らはそれから電車に乗り込んだ。


 しばらくして蓮見中学の最寄駅で近江と泉も乗り込んできた。


 泉だけやたらと荷物が多かった。


「何その荷物?」


「お母さんが持ってけっていうから」


 泉は親戚への手土産をいくつも持たされていた。


 僕たちは電車の赤いシートに横一列に座って遠くの暗い水平線を見ていた。


「なんだか、今学期は長かったように思うな」


近江が口を開く。


「いろいろあったからね」


 僕が言うと泉がうんうん頷いた。


「本当にいろいろ迷惑かけた」


 泉にとっては本当にいろいろなことがあった夏だったんじゃないだろうか。僕とっても目まぐるしい夏だった。


「でも、いいこともあった」


小金井が言った。


「どんなこと?」


 僕が言うと小金井は笑った。


「みんなと友達になれた」


「それはあるな」


「私も」


 泉も近江も小金井の言葉には同意した。


「僕も。いろいろあったけど忘れられない夏になったと思うよ」


みんなしてうんうんと頷いた。


 車窓の風景は流れていく。町の光がとても早くそしてあっさりと入れ替わっていく。

この景色のように僕たちは大人になって、きっといろいろなことが変わっていくのだろうと思った。関わる人も環境も全てが入れ替わる。けれど、この四人で笑い合える時間だけは変わらないでいて欲しいと願っていた。


 隣町の駅に着いて僕らは泉の荷物を手分けして持ち、船着場に向かった。駅から十五分ほど歩けば着くということだった。


「それにしても叔父さんって何してる人なの?」


 道中、僕は泉に訊いた。すると泉は顎に指を当て、空を見上げた。暗い空にいくつも星が見える。


「たしか、会社とか持ってるって話だけど」


 僕はその答えで納得した。船を用意できるなんて漁師か大金持ちに違いないと思っていたからだ。うちの実家とは大違いだ。


 船着場には十艘の船が停留していた。


 その中の一つから人が降りてくるのが見えた。


 白いティーシャツに無精髭の三、四十代の男の人だった。


 クルーザーっていうやつなのか船は白くツルツルしていた。こんな綺麗な船を僕は初めて見た。


「叔父さん!」


泉が言うとその人が手を振る。


 僕は波が船体にぴちゃぴちゃと当たる音を聞いて、早く乗りたいと思った。


 泉と近江は叔父さんに連れられて先に船に乗り込んだ。


 僕と小金井はざらざらのコンクリートの上で海の向こうをしばらく眺めた。海と空の境界線は見えなくなっている。


「ハルくん」


小金井の呼ぶ声が聞こえる。


 振り向くと小金井は真剣な表情でこちらを見ていた。


「どうしたの?」


 小金井は結んでいた髪を解いた。そして、手にガラス玉のついたヘアゴムを握っている。


 彼女の髪が風になびいた。


「これ、受け取って」


 小金井の手のひらには青いガラス玉のヘアゴムがある。


「なんで?」


「いいから」


 僕はそれを受け取ろうと手を差し出す。その瞬間、彼女の体が僕に近づいた。そして、彼女の顔が僕の顔のすぐ横に来た。僕は彼女の腕に包まれる。その時、何かが割れる音がした。


「な、なに⁉︎」


 僕は何故か小金井に抱きしめられていた。


「ど、どうしたの?」


 甘い香りと小金井の体温を感じた。そして、彼女はただ一言「ありがとう」と言って僕から離れた。


「な、なんだったの?」


 顔が熱くなって僕は何が起こったのか分からなくなる。


「なんでもないよ」


 小金井は笑っていた。僕はまともに彼女の顔を見ることができなかった。


 地面を見るとコンクリートの上に先ほどまで小金井の手にあった青いガラス玉がついたヘアゴムが落ちていた。二つ付いていたガラス玉のうち一つが粉々に割れてしまっていた。僕はそれを拾い上げる。


「どうして……」


 大切なものでもこんなに簡単に壊れてしまうのかと思った。しかし、小金井は微笑みを浮かべていた。


 僕がそのヘアゴムを返そうとすると彼女は首を振る。


「預かっていてくれない?」


「でも、大切なものなんじゃ……」


 父親からもらったものだと言っていたのだ。大切なもののはずなのに小金井は首を振った。


「いいの。子供ぽいって思っていたから。それに養護施設じゃ、壊れてるものは捨てられてしまうもの。だから、ハルくんが持ってて」


 僕は頷いて、それをなくさないように手首につけた。


 小金井は小さな声で「ありがとう」と言った。


 それから僕らも船に乗り込む。船の上で近江に「付き合っちゃえよ」と言われたのでまた顔が熱くなった。僕は照れ隠しのために釣具の準備を始めた。


 それから船は沖へと出発した。


 船上での釣りは初めてだった。船が海の上を滑るように移動するのも楽しかったし、遠くのウミネコの声も僕の興味を掻き立てる。


 泉の叔父さんの指導のもとみんなも順調に釣りを楽しんでいるようだった。


「まっちゃんどうよ!」


 近江が鯛を釣りあげた時、こちらを見て言った。


「僕だって!」


 僕は釣り竿に引きを感じてリールを回した。


 近江も僕も笑っていた。


 泉は眉根を寄せて釣れないと怒っていたし、小金井は魚が苦手らしく自分では触ろうとしなかった。けど、それでもみんな本当に楽しそうに笑っていたのだ。時間が過ぎるのを忘れてしまうほどだった。


 僕は小金井に言った。


「空見てよ」


 小金井は空を見上げた。


 そこには満天の星空が広がっていた。


 小金井は昔父親とこの星空を見たのだと言っていた。


「これ……」


 小金井が言った。


「すげぇ!」


「ほんとう」


 僕らの会話を聞いていた近江や泉も空を眺めていた。


 見上げれば視界は全て星の光に満たされる。


 夜の海は深い闇のようだけど、一度空を見上げればそこは光に満ちていた。海岸から見ていた時は海と空の境界線なんてわからなかったのに今ははっきりとわかった。


 小金井はこちらを見て言った。


「ハルくん、夢が叶った」


 小金井の目元で一瞬何かが光ったように見えた。


 僕はこんな素晴らしい日が永遠に続けばいいのにと思った。


 けれど、そんな時間は唐突に終わりを迎えた。


 凄まじい轟音が地を鳴らす。


「何⁉︎」


 泉が叫んだ。


 小金井は船体に捕まってじっとしていた。


「まっちゃん!」


 近江が叫んだ。


「泉をよろしくな!」


 何を言っているのかわからなかった。


 船体が揺れ立っていられなかった。


「小金井! 大丈夫!」


 僕が叫ぶと小金井はこちらを見て微笑んでいた。


 徐々に船体が大きく揺れ始める。


「転覆するぞ!」


 誰かの声が聞こえる。


 そして、僕たちはいとも簡単に海に投げ出されてしまう。


 深い闇のようなの海が僕の視界を覆う。全てが水に浸されていくのを感じた。


 海に投げ出された僕は必死に三人の姿を探したのだけど、誰の姿も見えなかった。波が高く海面に上がることもできない。


 僕は深く自分の身体が沈んでいくのを感じた。


 息が苦しくてもがいている中、僕は音を聞いた。それはガラスが弾けるような音、近江がステンドグラスを叩き割った時のような激しい音が僕の耳をつんざいた。


 僕はその時、不思議なものを見た気がする。


 視界に深い闇が生まれたかと思うと青い海が見えた。それから全てを覆うような世界の移り変わりを見た。それは一瞬だったとも永遠に近い時間だったともいえる。


 僕の意識は何者かになった。初めは単細胞生物の姿となり、そこから多細胞生物、そして最後にはトカゲのような胎児の姿となった。それは地球の生命の進化の過程だったのかもしれない。きっと幻覚だったのだろう。しかし、僕はその瞬間確かに数億年の生命の進化を見たのだ。


 そして、再び海の中、ぼやけた視界の中で僕は巨大な魚を目にする。それは黒く、根元の太い鰭を有している。その姿は荘厳だった。僕はその姿に見入った。


 耳をつんざくような音が辺りに響く。それはガラスが割れる音に似ている。すると周りを取り巻いていた白いモノが散り散りになっていくのを僕は見た。


 僕はあれが小金井の見ていたものではないかと思う。


 僕の腕を何かが摑んだ。視界は歪んでいて誰に摑まれたのかは分からなかった。僕の体は上へと引き上げられていく。その時と同じ感覚を僕は覚えている。


 僕の意識はそこまでだった。

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