第38話
あの夏のことを僕は思い出す。
僕らの中学最後の夏はあんなにも長くそして、喜びに満ちてはいなかった。
勉強会も夏祭りも映画も花火大会もなかった。そんなことはできなかった。
僕が見ていたものは一体何だったのだろうか。僕はどうしてあれが現実だと思い込んでいたのだろうか。
あの夏、僕はあの事件の後、一週間程度で退院することができた。
退院の日、近江や泉、それに小金井も病院に来てくれた。病院のエントランスで待っていた三人に僕は手を振った。
近江は泣きそうな顔で「よかった、よかった」と言った。
泉は何度も頭を下げていた。僕は大丈夫だと何度も伝えた。
小金井はただ一言「おかえり」とだけ言って笑った。
僕はこの時ようやく元通りの生活が戻ってきたのだと思えた。
次の日、僕が学校に行くと教室で近江と泉が乳繰り合っていた。
「亮太、ほらこれ昨日家で作ったんだぁ」
泉は袋に入った菓子を近江に手渡していた。そして、近江はその袋からクッキーを取り出して口に運ぶ。
「うっめえ! これうめぇえぞ」
完全に二人の世界だった。入院中に二人が付き合い始めたことは知っていたけど、いざ目にすると複雑な気持ちになる。この甘々な空間に慣れるにはしばらくかかりそうだった。
僕が席に着くと近江が立ち上がった。
「おう、まっちゃん! 今朝から元気ないなあ」
「甘いもの食べると辛いものが食べたくなるからね」
「何だそれ?」
近江は何のことかわからないと笑っていたが、泉はムッと眉根を寄せていた。
すぐに予鈴が鳴った。
僕が教科書を出し始めると泉が何かを思い出したかのように言った。
「昼休み、みんなで学食行こう! 夏休みの予定も決めないと!」
僕や近江の返答も聞かずに泉は「それじゃ、お昼ね」と言って教室を後にした。泉は相変わらずだった。
授業が始まると僕はいつもの光景に安堵した。
たかだか数週間の出来事だったが、この数週間は通常よりもずっと長く感じられた。
昼休み、僕は泉と近江と学食に向かった。相変わらずの混み具合で僕は人の多さに嫌気がさした。
泉はカツ丼を、僕と近江は中華そばを注文し一番奥の席に陣取った。
「小金井さんは?」
僕は泉に訊いた。
「今日休んでるの。なんか風邪みたいで」
泉は箸を手に取った。
「それなら、みんなでお見舞いにでも行くか?」
近江が中華そばを啜りながら言った。
「こら! 食べながら喋んないの!」
近江が散らした中華そばの汁を泉が紙ナプキンで拭った。その様子は出来立てのカップルというよりも親子のようだった。
「それに、こういうときはハルに行ってもらったほうがいいわよ」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら泉が言う。
近江もそれに便乗してニヤつき始める。
「だなぁ。二人がくっ付いたらダブルデートしようぜ!」
僕は勝手なことをと思いながらも言い返すことはしなかった。
「そうだ!」
泉が急に大声を出す。
「私、転校せずに済みそうなの!」
泉は心底嬉しそうだった。
「本当に、よかった」
転校のこともそうだけど、それ以外も、本当に無事でよかったと思った。
「全部ハルのおかげ」
僕は結局何もできなかったのに、泉はそんなふうに言う。神父から泉を守ることもシラズ蛙をどうにかすることも僕にはできなかった。
僕がやったことなんて結局何もない。
「近江がいてくれたからどうにかなったんだよ」
僕が言うと泉が手を伸ばしてきた。そして、僕の額を小突いた。
「ばか、ハルがいなかったらきっと私はここにいなかったよ。だから、人の感謝は素直に受け取りなさいよ」
その時の泉はやけに大人びて見えた。
「まっちゃんはすげぇからな!」
近江もそれに乗っかって言う。
二人の言葉がなんだからすくすぐったくて僕は落ち着かなかった。でも、二人が笑っているのだからこれでいいと思えた。
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