第33話

 電車に揺られながら教会に泉がいるかもしれないことを近江に連絡した。


 僕は遠い海岸線を眺めた。それを見ているとなぜかとても穏やかな気持ちになった。昔もこんなことがあった気がして焦る気持ちが少しだけ和らいだ。


 近江や泉は僕にとって絶対必要な人たちだった。二人がいなければ僕の人生はもっと彩りのないものになっていたと思う。


 駅のホームに降りた時、眼前に広がる海、そして手前には教会がそびえている。


 僕は走って蓮見岬の教会に向かった。途中の道で人には会わなかった。遠くでウミネコの鳴く声が聞こえた。

教会の前には向日葵がいくつも咲いている。それらは今までで一番鮮やかに咲いていた。その光景がなぜか苦しくなるほど懐かしかった。僕はいつまでもそこで佇んでいたいとさえ思った。

僕は教会の扉を開こうとするが鍵がかかっていて開かなかった。


 すぐに僕は教会の裏手に向かった。先日、侵入した窓からなら入れるかもしれないと思ったのだ。裏手の端の窓に手をかけるとギギッと鈍い音がして開いた。僕はそこから靴を履いたまま侵入した。教会内の廊下は静かだった。ここに泉がいるのかは疑問だった。


 礼拝堂に行こうとしたが扉には鍵がかかっていて中には入れなかった。仕方なく僕は二階に続く階段を登った。教会内はには異様な臭いが立ち込めている。


 二階の廊下には何枚も絵画が飾られていた。どれもかなり昔の宗教画ばかりだった。そして、僕は二階の部屋を片っ端から探っていった。しかし、泉の姿はどこにもなく、神父もいなかった。


 ただ、一つだけ探していない扉を僕は見つける。そこは礼拝堂の二階につながる扉だった。二階から礼拝堂を眺めることのできる唯一の場所。その扉を開くと奥に礼拝堂が見えた。


 異臭はより強くなっていた。


 正面には巨大なステンドグラスがある。そして、礼拝堂内には人の姿があった。一人は神父、そして最前列のベンチに泉が座っていた。


 前方の講壇には銀のナイフがあり、さらに神父の傍らには赤いポリタンクが置かれている。


 僕は二階から礼拝堂を見下ろす。そこから一階の床までは二メートル近くあったけど、躊躇している時間はなかった。


 僕は意を決してそこから飛び降りた。下に落ちた時、ジーンと足の裏が痛む。しっかりと足の裏で着地できたのが幸いだった。


 僕が飛び降りると神父はこちらを見た。


 僕はすぐに泉の方に駆け出した。


「泉!」


 泉の返事がない。


 泉はベンチにもたれかかり目を瞑っていた。


「泉!」


 僕は彼女の手首に手を当てる。脈はあり生きていることがわかって安堵する。


 僕はそこでようやくこの場所の異様さに気が付く。そこら中が何かに濡れていて、異様な臭いがした。


「泉に何したんですか⁉︎」


 僕は神父を見た。


「薬を飲んで寝ているだけですよ」


 神父は近くのポリタンクを手に持つ。


「どうして君がここに?」


 神父は冷然と言い、そして、強い眼光で睨み付ける。


「西海に聞きました。昨日ここに泉が来ていたって」


「ああ、あの子ですか。それは失敗でしたね。彼もこの町を出ると聞いていたのであまり気に留めていなかったのですが……とにかく、君は早くここを出なさい」


「泉をどうするつもりですか?」


 僕は泉の前に立って神父を睨んだ。


「私は彼女の望むままに役目を果たそうとしているだけです。邪魔はしないでください」


 神父はポリタンクの中の液体を辺りに撒き散らし、空になったそれを投げ捨てた。そして、彼はポケットからライターを取り出す。


「な、何を?」


 神父はライターを手に持ったまま近づいてくる。


「あなたも知っているのでしょう? 由紀さんがもう長くはないことを。もっともあなたには見えてはいないようですけど……」


 小金井の言っていたことは正しかった。やはりこの人もアレが見えているのだ。


「何をしようとしているんですか⁉︎ 見えているなら一緒に泉を助けてください!」


 僕は叫んだ。


 神父の足が止まる。


「それは不可能です」


「何で⁉︎」


「私がどれだけ長い年月アレらを見てきたと思うのですか? 私ができることは全て試しました。けれど、死を避ける方法なんてものは存在しない。全ては自然のまま、ある種、神の御心のままと言っても差し支えないでしょう。ですから、私たちはこの教会と共に終わりを迎えることにしたのです」


 礼拝堂の中の臭気が何なのかこの時ようやくわかった。よく嗅ぎ慣れたこの臭いは灯油だった。


「燃やすつもりですか⁉︎ 教会ごと泉も!」


「彼女も私と共に行くことを望んでいます。何の問題もない」


 僕は泉を揺する。


「泉! 起きて! 早くここを出ないと!」


 しかし、泉は一向に起きる気配がない。


「無意味なことです。由紀さんが望んでいるのです。私と共に行くことを」


「そんなわけない! 泉がそんなこと望むわけない!」


 僕は泉を抱えようとする。しかし、非力な僕では持ち上げることはできなかった。僕は泉の脇を抱え引きずるようにして灯油のかかっていない前方へ移動する。


 神父は講壇のナイフを手に取る。


「君のような人には理解できないかもしれませんが、私たちはすでにもう十分役目を果たしたのです。私は由紀さんをずっと見てきました。ずっと、幼い頃からです。それなのに、こうなってしまった。人の生は短く苦しみは絶えない。だからこそ、ここで終わらせることが唯一の救いなのです」


 神父が何を言っているのか理解できない。死に救いなどあるはずはない。いくら辛くても生きる以上のことはないはずだと僕は思う。死ぬことがただの終わりでないとしても生きる以上のことはない。


「泉を殺させるわけにはいきません。泉は僕たちが助けます。方法がなければ探します」


 神父は首を振った。


「無駄です。君らが考える程度のこと私が考えなかったと思いますか? 考えました。全て、私のできることは尽くしてきたのです。この瞳は神から与えられたものであると信じていました。けれど、誰も救えなかった。だから、せめて由紀さんだけは一人にはしたくないのです」


 神父はゆっくりと近づいてくる。


「来るな!」


 僕は手を振り回し後退りする。


「ハル?」


 その時、耳元で声が聞こえた。泉の目がわずかに開いていた。


「ハル、どうして?」


「泉! 早くここから出よう!」


 僕が言うと泉は目を見開いた。


「離して……」


 泉は冷然と言い放つ。僕は彼女からゆっくりと手を離した。


 おぼつかない足取りで彼女は神父の元へ歩いていく。僕は泉の手を摑むが振り払われてしまった。


「泉、帰ろうよ。みんな心配してるんだ」


 神父の腕を借りて立つ泉は首を横に振る。


「誰が心配するの? 親? そんなのあり得ない。あの人たちは自分のことで精一杯だから。私のことを心配する人なんていない」


「そんなわけないだろ! 僕も近江だって、みんな心配して!」


 泉は近くにあった先ほどと別のポリタンクを手に取り、自分の体に灯油をかける。次に神父にもその灯油をかけた。


「君は早くここを出ていきないさい。でなければ君も一緒にいくことになりますよ。私たちと違って君は望まれているのでしょう? それなら早くお帰りなさい」


「頼むから、泉を巻き込むのはやめてくれ! じゃないと、僕はあなたを殺してでも泉を連れ帰ります」


 僕は近くにあった燭台を手に取り神父に突きつける。


「君も邪魔をするんですね」


 神父は動じない。


「ハル、やめて。お願い」


 懇願するように泉は言う。


「私が決めたことなの。だから、邪魔しないで。ハルは亮太も心配してるなんて言うけど。亮太は私のことなんて何とも思ってないよ。だから、私はもういい!」


「それは違う! 近江は泉のことを大事に思っているって!」


「そんなのいらない!」


 泉が叫んだ。


「私はそんな言葉、望んでない……」


 神父が前に出る。右手にはナイフ、左手にはライターが握られている。


 僕は意を決して燭台を神父に目がけて振りかぶる。しかし、僕は体を蹴り飛ばされ、燭台も手から離れた。内臓が圧迫されるこの感覚、西海のせいで何度も経験した。僕は立ち上がり、神父目がけて走り出した。拳を握り、神父に振りかざす。その時、ナイフが僕の拳をかすめる。微かな痛みを感じた。


 僕は神父の左腕を摑み、ライターに手を伸ばす。


 その時、腹部に鈍痛が走った。


「いや!」


 泉の叫び声が響いた。

 

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