第5話
近江と知り合ったのは小学四年生の春のことだ。
昔から僕は海の生物が好きだった。海の生物は姿、色、性質、どれをとっても子どもの僕を飽きさせなかった。それらは謎と不思議で満ちていたから。その中でも祖母が語ってくれた蓮見町沖に住むというシーラカンスの話が好きでいつもシーラカンスの載った図鑑を持ち歩いていたのを覚えている。
小学三年生の頃、祖母から聞いたシーラカンスの話をクラスのみんなに披露したことがあった。
僕はその時のことを今でも後悔している。
「シーラカンスなんていないよ! うそつきだ!」
この町の人なら子どもでも蓮見町の海にシーラカンスなどいないこと、そして、あの話が単なる作り話だということを知っていた。でも、僕はそんなこと知らなかった。
それから僕はクラスで孤立するようになった。
「お前んちのばあちゃんはうそつきだってかあちゃんがいってた」
誰の言葉かも憶えていないけど、この言葉を思い返すと今でもあの埃臭くぼやけた教室の景色が浮かぶ。
祖母は嘘つきではない。僕も嘘つきではない。そんなことを何度も訴えたと思う。けど、誰も僕の話を聞いてくれなかった。
それから一年ほど経ってクラスが変わり、四年生となった。
そして、新学期の行事で社会科見学に行く機会があった。
僕にとって学校はつまらないものだったから、その時も特に期待はしていなかった。行き先も家族で行ったことがある隣町の博物館だから特に目新しさもない。
当日、学校を出発する前に体操服に着替えて学年全員で電車に乗り込んだ。僕らは学校の最寄駅から数駅離れた科学博物館へ向かった。
新クラスになっても僕は相変わらずクラスで孤立していた。だから、教室でも図鑑や本ばかり読んでいた。
その日も電車の中、一人離れた席に座って図鑑を眺めていた。普段よりも雑然とした車内は同級生の話し声でうるさかった。
その時見ていたのは確かベニクラゲについてのページだった。
ベニクラゲはいわゆる不老不死の生物として有名で当時のお気に入りだった。通常のクラゲは成長過程でプラヌラという幼年期を経てイソギンチャクのようなポリプと呼ばれる形態に変化する。いわば蝶の幼虫が蛹を経て成虫になるような過程だ。そのポリプが枝を伸ばすように成長して枝の一つひとつに実ができる。その実がクラゲになるのだ。しかしベニクラゲはその過程が少し特殊でクラゲの成体からそのまま生殖行為を経ずにポリプになることができる。そこから同一の遺伝子を持った個体に生まれ変わるのだ。つまり、ベニクラゲは死にかけたとしても若返ることができる生物だった。
当時、このクラゲのことを知った僕はベニクラゲになりたいと思った。何度も自分の生命をリセットできるならばどれだけ幸せだろうか。そんなことばかり考えていた。
だから、周りに誰もいないことにも気づかなかったのだと思う。
いつの間にか同級生の姿はなくなっており、降りるはずの駅もとっくに過ぎてしまっていた。
僕は不安に駆られて立ち上がり周りを見回した。するとこちらをじっと見つめている同級生を一人見つけた。
それが近江だった。
近江も僕と同様に電車を乗り過ごしてしまったらしかった。
近江はこちらに近づいて僕の持つ図鑑を覗き込んできた。無言でずっと図鑑を覗きこむ彼を不気味に思った僕は何度も向きを変えた。しかし、彼は図鑑を覗き込むのをやめなかった。
そして突然、
「これ何?」
と言ったのだ。
何もわからずに覗き込んでいたのかと思うと何だか笑ってしまった。彼は一体何を熱心に見ていたのだろうか。
それから近江も笑って、なぜか二人で図鑑を眺めた。僕が「この魚はとても強い毒を持っているんだ」とか「この魚はとても大きいんだ」とか言うと彼はどの魚を見ても「これは美味いのか?」と訊くばかりだった。
それから僕たちは終点の駅に着いて駅員に保護された。車で迎えに来た教師にはこっぴどく叱られたことをよく覚えている。体操服を着ていたのに置いていった教師にも責任はあっただろうと今では思う。
帰る頃にはすでに日も暮れかけで僕と近江は教師の車で家まで送り届けられた。
僕は車内で近江に質問した。
「どうしてみんなとおりなかったの?」
きっと近江はみんなが降りる駅で降りられたはずだった。いつも同級生と騒いでいる近江が一人になることなんてほとんどなかったのだから。
「すげえ楽しそうに見てたから、どんなにおもしろいもん見てるのか気になったんだぁ」
近江は間延びした声で言った。
これが近江との出会いだ。決して劇的な出会いではなかったけど今でも鮮明に思い出せる。
それ以降、僕は近江と一緒にいることが多くなった。
僕は近江に救われたのだと思う。彼は僕の話を嘘だなんて言わなかった。シーラカンスの話をした時も「一度食ってみてえよな」と真剣な面持ちで言っていたほど能天気なやつだ。だから僕はその言葉にこう返した。「すんごい不味いらしいよ」と。近江は「マジかよ」と笑った。
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