第4話

 週明けの月曜日、窓から見える空には雲一つなかった。


「昨日近所の柴犬にさぁ。噛みつかれそうになったんだよなぁ」


 特別棟への渡り廊下でのこと、昼休みに二人でトイレに向かっている途中、唐突に近江おうみが話し始める。


「なんかちょっかいでもかけたんでしょ?」


「いやいや、そんなことしてねえよ。前までは大人しかったんだけどなあ。普通に触らせてくれてたんだぜ。なのに昨日は近づいただけで唸り始めたんだわ」


 僕は「ふーん」と相づちをうつ。


「んで、母ちゃんに聞いたらちょっと前に騒ぎがあったらしくてよ」


「騒ぎ?」


「なんでもその柴犬が家族に噛み付いたらしいんだ。しかも家族全員」


 まあ、凶暴な犬も中にはいるだろうからと思った。


「急に凶暴になったらしいんだ。その前の日までは普通だったらしいんだけど。次の日には豹変ひょうへんしてたんだってよ」


 近江が顔を近づけて言うから僕は思わずのけぞる。


「何かやったんじゃないの? 犬の機嫌を損ねたとか」


「いやいや、そんなことはなかったってよ。母ちゃんが言うには柴犬って結構そういうのが多いらしいんだよ。旧に凶暴になるとか」


 確かにそういう話を聞いたことはあった。犬種によっては元々凶暴な種類もいるだろう。


「それって病気とかじゃないのかな? 狂犬病とかは有名だけど、病気の症状でも凶暴化するって聞いたことあるけど」


「いや、そういう話は聞いてねえけどなぁ」


 病気じゃないのだとしたなら一体どんな原因があるのだろうか。


「動物の性格って半分くらいは遺伝で決まるっていうから、でも突然変わるなんてことあるかな」


「俺にはぜんっぜんわかんねぇ」


 近江は考えることを放棄したようだった。ふーっと息を吐いて大きく吸い込むと大声で話し始める。


「てか、そんなことよりも海だよ。海! いついくよ?」


 脈絡もなく話し始めるのは近江良いところでもあり悪いところでもある。


 近江の性格は小学生の頃から何一つ変わっていない。変わったのは見た目だけだった。


 身長は高く身体は筋肉質で目だけが妙に愛らしい。何が楽しいのかいつもニタニタと不可解な笑みを浮かべている。


「いつって、そんな話してたっけ?」


「いや、今思いついた。夏だぜぇ。海行かなくてどうするよ。っていうか海パン買わねえと」


「何で? 去年のは?」


「おう、もう入らん。背もだいぶ伸びたからな」


 近江は廊下の天井に手を伸ばす。白い天井は若干黄ばんでいて、ところどころ何かで擦ったような黒い汚れがついていた。


「さすがに届かないでしょ」


 僕はもっと届かないだろうと思った。


「それにしてもまっちゃんは身長伸びねぇよなあ」


「うるさい」


 近江はシシッと笑う。


「何してるの?」


「「おおっ!」」


 僕と近江は急に背後から肩を叩かれて飛び上がる。


 振り返るといずみがにやりと悪い笑みを浮かべていた。


 泉と近江と僕は小学生時代からの付き合いで泉は僕の唯一の女友だちだった。


 泉が笑うと彼女の短い髪が揺れる。


「何してんのあんたたち?」


「何ってただの便所だぞ」


 近江が言うと泉は嫌な顔をする。


「うえ、サイテー。もっとデリカシーとか持ったほうがいいよ。マジで!」


「持ってるよ! なあ、まっちゃん!」


 僕に振るなと言いたかったが、あえて何も言わなかった。


「あ、そうそう、そんなことより、お昼さ、学食行こうって思ってるんだけど、二人は?」


 泉が近江の言葉を無視して話しを変える。


「いつも通り店のパン」


 僕は自宅の商店で仕入れているパンを昼食として持ってきていた。


「俺も学食行くつもりだった」


「じゃ、二人ともお昼ないんだね。後で学食一緒にいこ!」


「え? あるって言ったけど」


 僕の声が聞こえていなかったのかと思い確認する。


「え? ハル、いつもパンじゃん。飽きたでしょ? それともパン食べたいの?」


 母は入院しているし、父も怠け者で弁当は基本作ってくれなかった。だから、いつも同じようなパンばかり食べている。飽きていたのも事実だった。


「まあ、別に食べたくて食べてるわけじゃないけど」


「なら、決まりね」


 泉は強引に話をまとめて、僕らの前を歩き始める。


 泉の身長は僕よりも高い。脚はすらっと長くて横に並ぶと自分がひどく短足に思えるから嫌だった。泉も近江と同じく、体育会系らしい性格で、もちろん運動もできる。しかし、二人ともクラブには所属していない。


「じゃ、ちょっとこれ返してくるね」


 泉は右手に持った本を掲げて言う。本のタイトルはデュルケームの「自殺論」だった。


「泉、死ぬ気なのか⁉︎」


 タイトルを見て近江が叫んだ。


「ち、違うから!」


「思い詰めてるなら相談に乗るよ」


 僕は彼女の肩をポンと叩いた。


「バカ、違うって言ってるでしょ! 面白そうだったから借りたの」


 泉はそう言うと僕らを置いて先へ行く。


 確かに題名からして面白そうではあるが普通は人目を気にして借りないだろうと思った。


 先を行く泉だったが、理科準備室の前でふいに足を止めた。


 僕と近江も気になって泉の方へ向かう。


「どうしたんだ?」


「シッ! 静かに。人の声がする」


 泉は口の前で人差し指を立てる。


 確かに耳を澄ますと誰かの話し声が聞こえてくる。


「理科室からかな?」


 泉が聞き耳を立てながら前進する。


 特別棟の二階、東の角に理科室がある。昼休みの特別棟はいつも静かで人の気配なんて微塵もない。だから、昼休みに使われていない理科室から声が聞こえてくるなんて普通はありえなかった。


 夏場は校舎の窓がほとんど開け放たれていて外からアブラゼミの声、雀や鶺鴒セキレイの声なんかもよく聞こえてくる。理科室の窓も開け放たれていて廊下から教室内がよく見えた。泉は素早く教室の窓の下に隠れて手招きをする。僕と近江も身を屈めて泉の横へ向かう。


 教室内を観察するために僕らはサッシの下から頭だけを出して中の様子を窺った。


 黒い机の上には木製のスツールが逆さまに並べられている。視界を遮るように置かれたスツールの向こう側に二人の生徒の姿があった。校庭側の窓際、二脚だけ下ろされたスツールに座る男子生徒と女子生徒。


 泉が囁く。


「……あいびきだ」


 僕と近江も頷いた。出歯亀でばがめ根性甚だしいが、まあ中学生なんてそういうもんだろう。


 机に並べられたスツールのせいで女生徒の顔は見えなかったが、男子生徒の顔は確認できた。


「西海だよ」


 泉が囁く。


 西海は校内でも有名な不良で、髪の毛の色は赤茶色で耳にはピアスをつけている。細身だが長身で近くに立てば威圧感もある。あまり人と関わっているところは見たことがない。誰かと付き合っているなんて噂は聞いたこともなかった。


「マジかよ。相手は?」


 近江が囁いた。


 室内の二人は何かを話しているが、話の内容は聞き取れない。ただ、女子の声には聞き覚えがあった。


「あれって、あっ、小金井さんだ」


 泉が言う。


 三人とも一旦頭を引っ込めて、顔を見合わせる。


 僕はその名前に聞き覚えはなかったが、近江は「マジか⁉︎」と驚いた。


「あの、西海が小金井さんと付き合ってんのかよ」


「小金井さんって誰?」


「え? まっちゃん、知らねえのか? 同じ学年じゃん」


「三年にそんな人いたっけ?」


「ほら、五月あたりに転校してきた」


 泉が言ってようやくそんな人もいたような気がした。しかし、顔は全く出てこない。


「顔見たらわかるんじゃない? ほら、そっちの窓からなら」


 泉の誘導のもと僕らは身を屈めながら一つ隣の窓に移動した。


「うん、ここからなら見えるよ」


 僕は恐る恐る顔を窓から覗かせる。


「あれが?」


 そこには昨日の女の子が座っていた。


 彼女は昨日の去り際と同様に長い黒髪を一つに束ねている。そのヘアゴムは昨日と同じ青いガラス玉が付いたもので中学生にしては少し子供っぽい。


「美人だよなぁ」


 近江が呟いた。


 それを見て、泉が顔をしかめる。


「男子ってああいうの好きよねぇ」


「そりゃ、美人には目がいくだろ? なあ、まっちゃん」


 近江は泉の刺すような視線から逃れるためにこちらに話題を振ってくる。


「僕に振らないでよ」


「で? 亮太はあの子が好きなわけ?」


 泉は片方の眉を上げて半ば喧嘩腰で近江に詰め寄る。


「いや、そういうわけじゃないって! 客観的にだなぁ」


 気圧されて近江の声も徐々に大きくなる。


「おい! 誰だぁ!」


 理科室内から怒鳴り声が聞こえる。


 中を覗くと西海が立ち上がったのが見えた。


「やばっ」


 泉はすぐに低姿勢で廊下の角に向かって走り出した。


「おい、ちょっ——」


 それに続いて近江と僕も走り出した。


 廊下の角まで来た時、後ろで理科室の扉が開く音がした。僕らは振り返らずに廊下の角を曲がり、そのまま全力で階段を登った。


 一気に四階まで登り、音楽室の前で僕らは壁に寄りかかり休んだ。


「あっぶなかったなぁ」


 近江はふうっと息をついてしゃがみ込む。


「ギリギリバレてないよね?」


「た、多分、だ、大丈夫」


 僕は階段のほうを見て、誰も追ってきていないか確認する。それにしても同じ距離を走ったはずなのに近江と泉は全く息が切れていなかった。これが運動神経の差か。


「やっぱりあれって付き合ってるのかな?」


 あの二人が何を話していたかは分からない。ただ、彼女、小金井は笑っていた。仲睦まじいと言って差し支えないように見えた。ただ、昨日見た彼女の笑顔とは少し違って見えた。


「そうなんじゃねえの? 人目につかないとところであいびきだぜ。完全に付き合ってるでしょ」


「そうかな?」


 僕が床に視線を落として言うと泉が覗き込んでくる。


「何? ハルもあの子のこと気になっちゃったの?」


 僕は否定する。


「そんなんじゃないって」


「ホントかなぁ」


 泉はニヤついていた。


 僕は誤魔化すために軽い笑みを浮かべた。


 不意に近江が叫び出した。


「ヤベェ! 忘れてた」


「何よ⁉︎」


「便所!」


 そう言うと近江は一目散にトイレに駆け込んでいった。


 泉は呆れたようにため息を吐く。


「本当、亮太って下品よね。それじゃ、学食でね」


 泉は僕らが登ってきたのとは反対の階段の方へ歩き出した。


 泉の背中を見送った後、僕も近江の後を追った。

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