エピローグ 月はいつでもそこにある

 時は流れる。

 果てしない時の流れの中で、ほんの数年後の話。

 その夏のフェスのメインステージのヘッドライナーは、ノイズ-1である。

 フィーチャリングということで、今回は風楓をメインボーカルとしていた。

 年に一度か二度程度のフェス、そして同じ程度の頻度のライブ。

 ボーカルに誰かを招待して、オリジナルメンバーが演奏するのだ。

 さすがに三味線だけは、どうにもならないものだが。


 基本的に活動は、もう国内限定となっている。

 一度ケイティに呼ばれたときは、さすがに色々世話になっていたため、アメリカのフェスで事実上のバックミュージシャンとなったが。

 今回は普通に、事務所から依頼されたものだ。

 もっとも筋としては、他の事務所から話が来ている。


 ノイズはフェスやライブにおいて、必ず-1と付ける。

 本来のメンバーは、もういなくなってしまったからだ。

 やがてもう一人でも去ったならば、さすがに解散するかもしれない。

 それも考えて、それぞれが活動をしている。


 俊はまだ楽曲を作り始めた。

 あの日、全てを月子に捧げたと思っていたが、世界には月子の声があふれている。

 MOONを使ったボカロ曲は、もはや定番のものとなっている。

 特に高音を使うには、他のボーカロイドよりも合っている、という定評がある。

 そういった曲を聞いていると、これは違うと湧き上がるものがある。

 そして新たな曲が生まれるのだ。


 俊の作る新しい曲には、月子をイメージしたものがある。

 ずっと彼女のために作ってきたのだから、それも当然のことであろう。

 月子の歌声は耳の奥に、今でも消えずに残っている。

 だから彼女は、まさに自分の中で生きているのだ。


 全てが空っぽになるはずもなかった。

 自分だけではなく、多くの人に月子の歌は影響を与えた。

 今回のフェスで組む風楓もまた、その一人である。

 普段はソロでやっているが、ソングライトはしていないシンガーだ。

 沖縄の海に向かって、ずっと歌っていたという風楓。

 その声を聞くと、高く深い青空を思わせるところがある。




 風楓と組んでもう一度ノイズをしないか、という声がかかったことがある。

 レコード会社まで違うのに、よくもそんなプランが出てくるものだ。

 ただビジネス上のメリットは分からないでもない。

 ノイズは月子の死によって、伝説として完成した。

 そこにどうにか代役になるだけの、実力が風楓にはある。

 まだ発展途上というものであったが、時々なら組んでもいいし、プロデュースならやってみたいなと俊は思った。

 だがメンバーは全員、それはないなと思っている。


 千歳が新しいバンドを持っているから、という理由もある。

 暁の場合はギター教室は、日程を決めてやればいいだけの話だ。

 だがライブのためにはスタジオで、必死で合わせる必要がある。

 少なくともかつてのノイズの音は、そういったシビアな練習の成果として存在した。

 今のフェスなどで集まるものとは、音の性質が違う。

 劣化したとかではなく、ただ合わせるというだけでもなく、それぞれが違う音を出すようになったというだけだ。


 懐かしい記憶を紡ぐ。

 そのための場所を、少し借りるだけ。

 フェスは祭りであるのだから、そこならば特別にやってもいいだろう。

 月子の音がまだ、胸の中に残っている。

 MOONを使えば彼女の声は、新しく言葉にすることが出来る。


 もちろん本物に比べるべくもない。

 だが月子の持っていた、声の特質。

 透明感のある高音は、ソフトにおいても保たれている。

 これをあくまでコーラスに使うのだ。

 だから他に、メインでボーカルを歌う人間が必要になる。


 千歳もまたノイズのボーカルであった。

 だが彼女が歌う場合は、ロックやポップスの曲調であり、バラードやブルースの要素は薄い曲であったのだ。

 花音や白雪の場合も、千歳とは違うタイプであった。

 特にフェスではフラワーフェスタも参加している場合が多いので、花音がノイズ-1に参加することはそれなりに多い。

 それでも向こうのバンドが重要なので、最近は風楓が多くなっているが。


 彼女もまた、俊の創作意欲を刺激する人間なのは確かだ。

 彼女のつながりもあって、色々なイベントの曲を作ったりもした。

 商業的な曲は、今でも普通に作れる。

 だがこれが半世紀後も親しまれているかというと、懐かしまれるのがせいぜいではないか、と思うのだ。


 俊は常に、バンドとなるとビートルズを意識する。

 ただ比較するべきは、レッドツェッペリンであろう。

 メンバーの急死により、解散したという共通点がある。

 ノイズの場合は無期限活動停止と言いながら、イベントの時だけは一時的に復活しているが。

 徳島がよく、もっと本気でやれよと言ってくる。

 だが俊が本当に、魂を燃やしてやりたかったことは、もう全て終わっているのだ。

 新たなインプットから、何かを生み出すことはある。

 しかしそれは、自分のアイデンティティにまで関係するほどではない。




 日が没して、薄闇の中で演奏をする。

 新しい曲だけではなく、ノイズの曲も演奏するのだ。

 森羅万象。

 あの最後の騒がしい日々の中で、作った曲の中の一つだ。

 月子の歌と比べられるだろうが、彼女も資質としては劣っているわけではない。

 沖縄の海に向かって、風に乗せて歌ってきた彼女は、充分にディーヴァとなる資質がある。

 それでも、俊が先に出会ったのは月子なのである。


 失ってからもどんどんと、その存在は自分の中で大きくなる。

 楽曲を作る時は、月子ならばどう歌っただろう、といつも思うのだ。

 人は記憶を忘れることで、苦しみや悲しみを忘れ、前向きに生きていくことが出来るという。

 ただし彼女に関する喪失の悲しみは、むしろ懐かしい喜びと共にある。


 悲しみすらも愛することが出来る。

 記憶が薄れることの方が、よほど恐ろしいことだ。

 成長する和音を見ていると、月子の面影があるのを感じる。

 それもまた俊や、暁には月子を思い出させるのだ。

 いや、思い出すというのは正確ではないだろう。

 月子の存在は、思い出すまでもなくずっと、そこにあるのだから。


 月子の亡くなった後に、月子のために作った曲が一つだけある。

 彼女自身が歌えれば、それで良かったのだが、MOONを使っても再現は出来ない。

 さらにAIのプロジェクトで歌わせても、思ったような歌にはならない。

 だが花音や白雪が歌ってくれても、月子の歌になるのだ。

 今日はそれを、風楓が歌う。


 月はいつでもそこにある。

 背景を知らなければ、ごく普通のラブソングか何か、と思うぐらいであろう。

 実際のところはラブソングではなく、月子への想いを語る歌である。

 それは恋ではないが、愛ではあるかもしれない。

 月子への感情というのは、俊の内面をしっかりと感じ取れば、尊重と崇拝、になるのだろうか。

 少なくとも初めて出会った時からずっと、女を感じないわけではなかったが、手を出そうという気には全くならなかった。

 俊にとって女性への性欲は、音楽への渇望と比べて、ずっと低かったというのもある。

 もっとも二人だけのユニットを組んでいれば、何かの拍子でそういうことにはなったかもしれないが。


 俊と暁の関係も、ちょっとした拍子によるものだった。

 今でも二人は夫婦ではあるが、同じ音楽に携わる人間として、お互いの尊厳を守っている。

 俊にとって月子は、もうちょっと遠い存在であった。

 それこそ夜空を見上げて、決して手の届かない月のように。

 だがふと見上げればそこにある、月のように。


 数多の星の輝きの中でも、特別であった丸い月。

 満ちては欠ける、まるで命の象徴のような。

 太陽ほどは強くなく、しかし明るく照らす月。

 人類の踏み入れた、地球以外の唯一の巨大天体。

 だがもうずっと長く、手が届かない存在になっている。




 俊の作ったこの曲には、色々な解釈がある。

 だが俊自身はそれを、否定も肯定もしない。

 あるいは三角関係があったのではないか、などという低俗な見方もされてしまう。

「どっかのプロ野球選手も奥さん二人にしてたし、それは当人納得済みならいいんじゃないかな」

 暁としてはロックな回答をするのみである。


 もちろん俊は、月子に手を出すことなどなかった。

 ハイタッチをし、あるいは抱擁し、喜びを共有したことはある。

 また月子の死に対して、共に戦ったこともある。

 それは暁も一緒であった。

 二人は、あるいは三人は戦友であった。

 感情や愛情の境界線など、他の誰かに分かるものではない。

 本人でさえ分からないのだから。


 真実などどうでもいいのだ。

 だが確実に、月子はあそこにいた。

 誰がどう考えようと、月子をしっかりと知っている。

 最後に伝えられなかった言葉に、後悔したことはある。

 しかし月子は笑っていたのだ。

 この世界から消える瞬間に、笑っていられること。

 それこそが最上の死であるのだろう。


 月に対して手が届かないという、そんなことを歌うものであった。

 だがかつて人間は、月に到達したことがあるのだ。

 届かないと思ったものにも、いつかは手が届くことがある。

 死という安らぎすらも、人は克服してしまうかもしれない。

 月子はこの世界に、多くの痕跡を残した。

 おそらくもう彼女の影響を、人類から完全に消し去るのは、不可能なことであろう。


 雑音というのは、人の耳に残る。

 どんな形であっても、ノイズの音楽は残るようになったのだ。

 やがてはタイムカプセルにでも、文化遺産として収納しようか。

 少なくとも国立図書館には、彼女について書いた本が、既に収録されている。

 ディスレクシアや相貌失認など、障害が多くの人々に知られたのも、一種の功績だ。

 そういったハンデがあってなお、彼女の歌声は人の心に響いた。

 むしろハンデがあったからこそ、その苦しみや悲しみが、人々に届いたのかもしれないが。


 人は多くの経験から、知恵や力を得ることが出来る。

 月子の人生は短かったが、イリヤなどよりは長かったのだ。

 そしてアーティストとしてはともかく、シンガーとしてはイリヤよりも高く評価されている。

 イリヤの残した自分の音源が、少なすぎたということもあるのだが。


 今日のこのステージでも、人々は月子を思い出す。

 そして思い出されるたびに、彼女は再び生まれるのだ。

 死ぬからこそ、生命は再び生まれる。

 それは生命だけではなく、人々に与える感動においても、同じことが言えるだろう。




 時が流れた。

 多くの人々が、記憶の中に残っている。

 死んでしまった人間も、それなりにはいる。

 だがやがては、自分が見送られる側になる。


 俊は結局、コンポーザーであることも、プロデューサーであることも、捨てることは出来なかった。

 捨てる必要もなかった、と言った方がいいかもしれないが。

 月子は確かに失われてしまった。

 だが彼女が残したことや、与えてくれたことが、失われたわけではない。

 彼女は確かに世界にいて、今も彼女の歌が流れる。

 人類の全ての生活の中では、わずかな雑音にしか過ぎないのかもしれない。

 しかしその雑音から、何かを得る人間は必ずいるのだ。


 和音の中に遺伝子を残した。

 だがそれ以上に、人々に音楽を残した。

 そういうものをこそ、魂の遺伝子とでも言うのかもしれない。

 俊は自分が生きている間に、何度も月子の歌を聴くだろう。

 そしてそこから、また何かが生まれる。

 焼き直しでもなく、縮小再生産でもないものだ。

 彼女が核にある限り、俊は新たな音楽の中に生きることが出来る。


 今日のステージも、ちゃんと終わった。

 たくさんの人間が、満足した顔で去って行く。

 俊たちはそれぞれ、ハイタッチなり握手なりをして、成功を喜び合う。

 人間の営みがここにある。

 誰かがいなくなっても、その魂を継承する人がいる。

 そして違う形になっても、どんどんと受け継がれていくものなのだ。


 ふと、空を見上げる。

 満ちてはいないが、月が見えていた。

 ここからまた、満ちていくのか欠けていくのか。

 月はいつでもそこにある。

「俊さん、打ち上げ行こうよ」

「ああ、そうだな」

 呼ばれて振り返り、そしてまた歩き出す。


 月がいつでもそこにあるように、彼女はいつもここにいる。

 死が二人を分かっても、二人の間には何かがある。

 月がいつでもあるように、月子はずっとそこにいる。

 世界に溶けた月子の欠片は、必ずそこに存在し続ける。

 どこにでも彼女はいる。

 見えなくても、聞こえなくても、必ずそこにある。

 月があるように。




  完 あとがきがありますが、各種ネタなどの解説程度です。

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