最終話 ファースト・ラスト・キス

 眠りがやってくる。

 苦痛が引いていき、そして永遠の眠りが訪れる。

 それが月子にははっきりと分かった。

 横たわる自分の姿が、はっきりと見えている。

「死後の世界ってあったのかな」

「望めばね」

 振り返ると、穏やかな笑みを浮かべる青年がいた。

 月子は彼のことを、何度も見ている。

 顔を憶えられない月子が、すぐに記憶出来た彼である。


 声ではなく、心で伝わるものがある。

 この人は白雪が死ぬまで、ずっとここにとどまるのだ。

 ならば自分はどうだろう。

 娘がもう少し大きくなるまでは、ここにとどまるべきであろうか。


 それは止めた方がいい、と言われた気がした。

 月子としても、その理由は理解出来た。

 白雪がどういう人生を送ろうと、それを見守る勇気がある。

 だからこの人は、ここにまだいるのだ。


 月子は和音のことを、暁に託すことが出来る。

 随分と世話になっていて、本当に勝手な話だとは思う。 

 それでも暁とは、ずっと一緒にやってきたのだ。

 ノイズのメンバーとして、親友以上に戦友。

 それに響の小さい頃などは、むしろ月子が世話をしてやったぐらいである。


 二人のことを信頼できるのだ。

 未練はあるが、もうここにいるべきではない。

「嫌なところまで、見たくはないから」

「そうだね」

 白雪は結局、誰とも結婚していない。

 だからずっと見守ることも出来たのだろう。

 あるいは幸福になるのを見たら、彼も成仏出来たのだろうか。


 自分が薄くなっていくのを感じる。

 ああ、これが死なんだ。

 けれど最後に、誰にも気付かれることなく、しておきたいことがある。

「俊さん、大好きだったよ」

 横たわる俊に、わずかに唇を重ねる。

「恋か愛かも、分からなかったけどね」

 自分の全てが拡散して行く。

 それを悲しいとは思わない。


 世界の中に溶けていくのか。

 しかしこれを選ばず、まだここに残る人もいる。

 あるいはキリスト教徒なら、天国にでも行くのかもしれないが。

 人間はここで終わるのか。

 それが悪いことだとは思わない。

 優しく、しかしどこか寂しげに、彼は笑っていた。

 世界の中に本当に薄く散っていって、魂はほとんど無になる。

 そんな感触があるが、それは本当のことなのであろうか。


 それでいい、と月子は思えた。

 自分はもう、やりきったのだ。

 余命宣告を受けてから、ずっと長く生きることが出来た。

 そしてステージの上から、全てを歌にすることが出来た。

 よく生きたから、よく死ぬのだ。

 誰かが自分の葬儀で、泣くところなどは見たくない。

(幸せだったなあ)

 月子は笑いながら、世界の中に消えていった。




 夢を見ていた。

 長い夢であったが、最後の最後で、ありえないことが起こった。

 そして目覚めた俊は、随分とすっきりしている自分に気がついた。

「あ、おはよう、俊さん」

 傍には暁がいて、知らない天井の下、堅いシーツに触れながら俊は起き上がる。

 わざわざ確認しなくても、病院だと分かっている。


「俺は、どれぐらい眠ってたんだ?」

「そんなに長くないよ。12時間ぐらい」

 それは充分に長いであろうに。

「……ライブの後始末は、全部終わったのかな」

「うん、それは大丈夫。それで、俊さん、あのね」

「ああ、分かってる。言わなくてもいい」

 俊はアーティストの割には、現実主義者である。

 だがそれでも、あの夢は信じることが出来た。


 しばし、二人の間に沈黙が満ちる。

「最後に言ってたのは『ありがとう』で間違ってないか?」

「聞こえてたの?」

「他には?」

「ううん、それだけ」

 ならばその後のことは、本当に単なる夢であったのか。


 月子があんな、都合のいいことを言ったものか。

 言うはずがない。暁の見ているところで、そんなことをするはずがない。

「俺の方こそ……」

 俊は最後に、言ってやるべきであったのだ。

 月子を看取る時に、絶対に言ってやろうと思っていたのだ。

「それは俺の台詞だっての……」

 ありがとうと、最後には何度も言ってやるべきであった。

 月子の人生は、素晴らしいものであったと。


 ありがとうと、伝えられなかった。

 自分の前に現れてくれて、ありがとうと言うべきであった。

 別にステージの始まる前でも、言ってやるべきであったろうに。

「ツキちゃん、笑いながら……息を引き取ったから」

 それを聞いた俊は、思わず顔を覆う。

「最後に……最後に俺は、なんて言ったんだ……」

 月子に最後にどう声をかけたか、俊は思い出せない。


 MCの中で月子に何か言っても、それは準備された言葉。

 すると楽屋から出るときにかけた声か、あるいは途中で足元に気をつけろといったことか。

 突然に、月子は失われてしまった。

 いや、ずっと準備はしていたのに、それも無駄になってしまった。

「最後に、俺は……」

 ありがとうと言ってやりたかった。

 月子のおかげで、俊は俊になれた。

 誰でもない誰かではなく、自分を自分で認めることが出来るようになった。

 社会的な名声や成功は、それほど重要なことではない。

 本当に重要なことは、自分が納得して生きていくこと。

 そして死ぬことだろう。


 自分は幸福になった。

 それは成功以上に、重要なことであったろう。

 歴史に名前を残すとか、誰かの心を動かすとか、そういうことは全て幸福のための要素に過ぎない。

 それがなくても人間は、幸福になれるのだ。

 俊はなれないという偏食であっただけで。


 手で顔を覆っても、涙がこぼれるのを止められない。

 嗚咽が漏れるが、これはいったいどういう涙なのだろうか。

 失われるとはずっと分かっていたはずだ。

 だから最後に、声をかけてやるべきであった。

「ツキちゃんは、笑ってたんだよ」

 俊を抱きしめる暁も、涙を流していた。

 一度盛大に泣いたのに、まだまだ涙は流れてくる。

 悲しみの感情を、分け合える人間がいるのは幸いだ。

 俊は悲しみを止めてしまいたい。

 この涙すらも、月子が最後に残してくれたものだ。


 失われてしまったのだ。

 俊が音楽をしていく上で、絶対に必要なものであった。

 魂を削り出していくことは、もう二度と出来ないであろう。

 それでもう充分だと、俊は思っていた。

 人間が一生分で作り出すことを、もう全て作り出してしまった。

 月子がいなければ、誰のための曲を作ればいいのか。


 他の誰かのために、楽曲を作るのか。 

 作ってもいいが、どれだけのものになるのか。

 縮小再生産を続け、どれだけ飽きられずに済むのか。

 それでも必要とされるなら、技術は活かしていくだろうが。


 今後のノイズのことについても、考えていかなければいけない。

 だがまずは、やるべきことが色々とある。

 俊がやるべきことは、それほど多くはないのだろうが。

 スターは死んでこそスターになる。

 だがそんな形でスターになるぐらいなら、普通のままでも良かっただろう。

 彼女は夜空に星より強く輝く、月の光を持っていたのだから。




 葬儀は内輪のものだけで行われたが、それでも関係者が多くやってきた。

 喪主は叔母が務め、響は家に置いてきたが、和音は暁が膝に抱く。

 弔辞を俊が読むことはなかった。

 月子に伝えたいことは、もう伝えていた。

 それでも伝え切れていないことはあったが、それは月子自身に伝えなければいけないものだ。


 月子は眠るような顔をしていた。

 ただ違うのは、もうその唇からも鼻からも、息が洩れないということ。

 彼女の魂はもう、ここにはないのだと分かった。

 月子の姿をした、月子ではないもの。

 人の本質は、その心にある。


 長い旅を終えたような気がする。

 今は疲れを休める時なのであろう。

 火葬にショックを受けていたのは暁であったが、ノイズの他のメンバーは、なんだかんだ言いながら身内の葬儀でそれを見た経験があったらしい。

 俊も父の葬儀で見たし、千歳は両親の骨を見た。

 なんともひどいものだが、今では全てを業者がやってくれたりするらしい。


 月子には墓がない。

 山形の墓所は墓じまいをしてしまったし、叔母も自分の死後のことなど考えていなかったからだ。

 そういえばそういうものも必要なんだな、と改めて世の中の仕組みを思い出す俊である。

 父の場合は確か、実家の墓に入っていたはずである。

 俊はずっと、墓参りさえ行っていない自分に気付いた。

 骨壷はしばらく、俊の家で預かる。

 だが知らなかったことだが、全ての骨を入れるわけではないのだという。

 俊は残った骨も、出来るだけ全て集めた。

 瀬戸内海に散骨しようと、そう考えたのだ。


 人が死んでも事務的な作業が残っているというのは、人に少しでも悲しみを忘れさせるものであるからかもしれない。

 俊の脳みそが半分以上死んでいるので、主に阿部が事務的な手続きをする。

 それと叔母が、そもそもの血縁なので責任を持っている。

 ただ和音については、このまま俊が育てていくこととなった。

 今でもあまり育てていないが、ちゃんと世話はしている。

 それに遺伝子の上では、本当の父親であるからだ。

 生まれてから少し時間が経過して、どことなく母親の面影が出てくる。

 暁はそれを見ても、特に感情を動かさない。

 いずれは教えなければいけないことであるだろう。

 だが少なくとも今は、まだ幼すぎる。




 この夏のフェスでは、様々なミュージシャンが月子の死に言及することとなった。

 はっきり言ってしまえば、死んだタイミングがものすごくよかった。

 ノイズのラストライブが行われたニルヴァーナは、連日の大盛況。

 それも客よりも、演奏をしたいと申し込むバンドなどが大量であった。


 夏の終りには、俊はノイズの無期限活動休止を宣言。

 それはそうだろうな、とファンの全員が納得していた。

 ボーカルというのはバンドの顔である。

 その死によって解散したとなると、マジックアワーもヒートもそうであった。

 ただ解散ではなく、無期限活動休止。

 これには俊の身近な人間も、少し不思議に思ったものだ。


 信吾や栄二はヘルプをしつつ、他に副業などもする。

 ノイズで稼いだ金によって、不動産に手を出したりして、上手く不労所得を手にする。

 それでも音楽からは完全に離れることはなかった。

 やっと娘の反抗期が終わった、と栄二はノイズのメンバーに漏らしたりもした。


 千歳は結婚から妊娠出産した後、ノウハウを駆使して自分でバンドを立ち上げる。

 ノイズの名前は一種のレジェンドとなっていたし、千歳の固有ファンもいたので、これはかなり上手くいった。

 数年間はこれで通じるな、という感じの音楽。

 作曲はともかく作詞の方は、千歳がおおよそ作り出せる。

 曲の方は色々と任せたが、編曲に関しては俊に頼むこともあった。

 作曲は創作だが、編曲は技術とセンス。

 その部分に関しては、失われることはなかったのだろう。


 意外なほどに、暁は一番ステージから遠ざかった。

 ただ俊の家の地下や、区の公共施設を使って、ギター教室などを始めた。

 素人に楽しくやってもらおうかな、と思って始めた教室。

 だが集まってくるのは、既に経験のあるガチ勢ばかりで、暁も困惑したものである。

 ただ傍から見れば、彼女は自分の価値が分かっていなかった。


 俊はエンジニアとしての仕事をしたり、プロデュースの仕事をするようになった。

 楽曲提供に関しては、むしろアレンジの編曲者としてたくさんの名前を残すことになる。

 アウトプットというのは、インプットの刺激から出されるもの。

 千歳に対してはわずかに楽曲提供もしたが、本当に少ないものであった。

 主な仕事はノイズの楽曲の権利関係の管理。

 これによってメンバーに、毎年の配当を渡すことになったのだ。




 月子が最期にレコーディングした曲は、その死後にしっかりとMVを付けられた、わずかずつ発表されていった。

 この残った曲へのMVイメージの作成も、俊の仕事である。

 月子は失われたが、まだ未発表曲がある。

 それを知ったファンは、しばらくノイズの音楽を、まだ期待して待つことが出来た。

 ただ月子の死と共に、盛り上がった界隈がある。

 それはボカロ界隈である。


 月子の声によるMOON。

 もう二度と本人が、新しくレコーディングすることはない。

 それがかえって、このボーカロイドの使用頻度を高めることになった。

 ほぼ引退している白雪のSNOWと共に、かなりのシェアを築くことになる。

 またこのソフトを使って、コーラスの部分を歌わせることが流行した。

 月子の高音は、それだけよく響くものであったからだ。


 俊はそれよりも高度な、AIによる再現も考えた。

 確かにそれで、より本物に近い楽曲は作れるようになった。

 ただ正解のない芸術の中では、俊が満足するところまで、結局は到達することがなかった。

 それよりもやはり、残された楽曲のMVを作ることに、その労力は費やされた。

 俊の能力の中では、映像のセンスも優れている。

 多くの楽曲はアニメーションを使ったが、実写を使うこともあった。

 過去に残っていた多くの映像で、組み合わせによりMVを作成する。

 またイメージ映像を、改めて撮影することもあったのだ。


 残っていた録音を、全て満足する形にして、発表しきるまでには二年がかかった。

 これに加えてフィジカル媒体も、しっかりと制作して販売したのだ。

 CDが売れない時代に、四枚組のこのアルバムは、信じられないほど売れた。

 ラストバージョンのノイジーガールも含めた、実質的なベスト&ニューソングアルバム。

 これは100万枚以上も売れて、そしてこの中から多くの曲が、あちこちで流れることになる。

 伝説は月子の死後にも、まだずっと続いていたのだ。


 このアルバムの発売に合わせて、ノイズのノンフィクション的な伝記が発売された。

 メンバーのそれぞれのことにまで、かなり深く踏み込んだ内容。

 だが月子に関しては、最後の半年を除いては、かなり客観的にしか書かれなかった。

 またしっかりと取材されたものだが、当然ながら月子が、疑問や質問に答えることは出来なかった。

 ノイズのメンバーでさえも、ちょっとずれた反応をすることがある、月子のことを理解していたわけではない。

 それでもこれまでにあったインタビューなどを組み合わせると、月子という人間の内面が、おおよそは分かってきたのだ。




 人間は死後にむしろ、その影響力が強くなる、ということはある。

 芸術家の作品などは、それ以上はもう増えないと分かってからは、高騰するばかりであるのだ。

 それは音楽家のものに対しても、同じことは言える。

 だが音源は普通に、誰もが持っているものだ。

 アーティストという点で、芸術作品としては同じだろう。

 だが万人に聞かれていないと、音楽というものは意味がない。


 元々月子は、他人には天然と思われることはあっても、あまり悪意を感じさせる人間ではなかった。

 またその障害ゆえに、誤解されることも多かった人間である。

 だがもうその真実の姿など、新たな事実が出ることもない。

 むしろ死後にはひたすら、偶像化が続くのかもしれない。

 もっとも今は、死者に鞭打つこともある時代ではあるが。


 月子の中学時代までの話は、普通に知られていることだ。

 だからそのみっともない過去も、多くの人は知っている。

 ただその全てが、障害のためであったとする。

 これは公共放送の特集でもやっていたので、多くの人が知っている事実だ。

 下手に中傷などをしても、そんなことも知らないのか、と論破されるだけだ。

 ノイズのルナというのは、まさにそういう不可侵の、アイドルになってしまったのである。


 二年をかけて、レコーディングしてあった楽曲は、全て発表が終わった。

 もっとも曲自体は先に、サブスクやDL販売で、発表していたものであったが。

 アルバムのライナーノートなどは、分厚いものが作られた。

 それにはノイズの最後の日々が、しっかりと描かれていたのだ。

 協力者として名前が掲載されたのは、本当に多くの人物である。

 音楽業界だけではなく、文筆業界からも、小説家とノンフィクションライターが協力している。

 さらにこの作成中の映像も、しっかりと残されていたのだ。


 アルバムと本の発売に合わせて、テレビでの放送もされる。

 最後の日々を、どうノイズの人間が送っていたか。

 それをどれだけの才能が、見守っていたのか。

 完全なイメージ戦略は、俊ではなくゴートが行ったものだ。

 俊にはとても出来るものではない。


 月子は全く、完璧な人間などではなかった。

 むしろ歌唱力と三味線演奏を除けば、多くのことがへっぽこであった。

 しかし料理や掃除などの、家事力は意外と高かったのである。

 そういったところまでも含めて、月子のイメージは完成された。

 それが全てではない、と多くの人間が知っている。

 だがそれを伝えるべき相手は、一般大衆やファンではない。

 多くのノイズの映像媒体なども、この時期には発売されている。

 月子の死後の二年間で、ノイズはそれまでに稼いだ以上の金を、稼いだことになる。

 皮肉なことに、失われたことによって、価値が高まるというのは、本当にあることなのだ。


 月子の真の姿は、本当に求める者にだけ、教えられればいい。

 彼女が唯一、肉体的に残した存在。

 和音が真実を求めた時にこそ、教えてやればいい。

 月子とノイズの日々が、どういうものであったのか。

 過ぎ去りし日々の、全ての思い出を。

 彼女が望む限り、月子の歌う姿は、いくらでも見ることが出来るのだから。




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