第393話 28歳
終わりかけている。
果てかけている。
自分に才能があるとは、ほんの小さな頃以外は、思ったことのない俊である。
そもそも多くの天才に見える人間は、素質を徹底的に磨いた産物だ。
徳島なども楽曲作成には、妥協のない執念で取り組んでいる。
同じ曲を何度も何度もリテイクして、やがて少しずつ調整したものが曲として完成する。
「あ、自分の仕事してた」
うん、いいよ。
自分の仕事を気合を入れて終わらせた後には、他人の仕事を手伝ってリラックス。
素晴らしい黄金の循環が成立している。
音楽が音楽を生み出し続けるというこの環境。
永久機関の完成で、ノーベル賞がもらえるかもしれない。
「ボブ・ディランに続く栄誉だ!」
俊はそう叫んでいたが、周囲からの視線は冷たい。
そんな視線にすら気付かず、俊は自分の仕事に戻っていく。
もはや己の内面世界が、外界の干渉を受けない。
白雪謹製のハリセンは、主に暁か千歳が使うことになっているが。
春になってもうすぐ、月子は28歳になる。
なんとなくではあるが俊は、月子が28歳まで生きられれば、もっと長生きできるのでは、などという根拠のない認識があった。
実際は少しずつ、月子は体力がなくなっている。
一日のうちの半分ぐらいは、薬を飲んで寝ている。
しかしそれでも、おそらくと言われた三ヶ月は過ぎていった。
俊は自分が思っていた以上に、たくさんの楽曲を作っている。
ただしこれが客観的に見て、いいのか悪いのかが分からない。
とにかく自分で鋭く思えるものも、どんどんと作っている。
徳島がさらにそれを変えようとする、楽譜かノートPCの奪い合いになる。
ハリセンを受けてどちらかが離すのが、もう定番のやり取りになっている。
おかしい。そんなギャグ時空をかましている暇は、全くないはずなのだが。
ともかくとんでもない分量の楽曲となった。
俊はMVはかなり任せたが、ものすごく簡単なコンテを切ったりはしている。
普通なら10年ぐらいをかけて、徐々に出来上がっていくのではないか。
ジャンルというか曲の傾向も、多くはバラバラである。
ただ全体的にシリアス調であるものが多いのは間違いない。
生命賛歌が多いと言えるであろうか。
あるいは人生への愚痴めいたものもある。
凶悪な感情をぶつけた、ちょっとイメージが違う曲もある。
ただこれはメインが、千歳の曲であったりする。
月子が中心になってはいるが、ノイズというバンドなのである。
多少は丸くなったとは言っても、社会に対する憤懣をぶつけるようなタイプの歌は、千歳の方が合っている。
月子の場合は声に感情があって、言葉はもう少し曖昧である。
千歳の場合は言葉を伝えるために、歌っているという感触が強い。
なので珍しくもラップを入れた時、俊はそこを千歳に任せた。
今回の楽曲の中には、そういたタイプのものはない。
ロックの中でもR&Bに近いものだが、古典的な調子がまた戻ってきていたりする。
しかしその底のリズムをカバーするのは、複雑な電子音などである。
俊はだいたい気絶するように眠りに入り、そして起きたら胃にエネルギーを入れてまた、曲作りに戻っていく。
その姿を見た誰かが、片手で食べられるものなどを、俊の手元に置いておく。
カロリーになるものと、野菜ジュースと牛乳。
あとはもうとにかく、曲を作るマシーンとなる。
他のことはもう、何もしたくない音楽の奴隷である。
そんなわけなので楽曲の権利関係などは、阿部がノイズの所属事務所所長として、当然のように交渉する。
立ち会ったのはゴートや白雪に、ケイティも代理人の傍にいた。
彼女のマネージャーなどは、ややこしくなるので契約関係だけの人間を連れてきている。
「そもそも私はイリヤの遺作で、散々に稼がせてもらっている」
ケイティの言葉はその通りで、イリヤの財産や権利の全ては、花音のものなのだ。
そして花音はゴートと同じレコード会社で、このあたりの力関係は微妙なのだ。
イリヤの曲の権利自体は、彼女の死の瞬間から、その権利の消失の時間が計測される。
しかしどこまでが彼女の曲であるのかは、知っている者は大変に少ない。
極端な話、花音が自分の曲だと言っても通用するのだ。
そもそもイリヤはピアノの五線譜で曲を残しているので、アレンジなどが大幅に必要になってくる。
作詞に関しては歌詞がまだ付いてない曲が、かなり多くあるのだ。
俊は確かに創造性は、天才と言うほどではないのかもしれない。
しかし何かをアレンジする方は、より才能に恵まれているとさえ言える。
また歌詞についても、相当の勉強をしている。
事務所どころかレコード会社さえ違うのに、こんな集団で名曲をどんどんと生み出している。
月子の分が全て終われば、俊にはフラワーフェスタの分を手伝ってもらえばいい。
もっともその時にまで、俊の情熱や執念が、まだ残っているとは限らないが。
弁護士まで含めて、色々と権利関係をまとめていく。
阿部としては経営者ではなく、ほとんどサポーターのような感覚であろうか。
最低限の金にならなければ、事務所も続いていかない。
ただ俊が完全に、自分の取り分を放棄してしまっているのだ。
月子の歌を届けるために、他の部分を度外視している。
これはあれだ、泳げたいやき君になる可能性がある。
もっとも音源の権利だけは、さすがにこちらのものになっているが。
月子の歌の権利だけは、和音に残さなければいけない。
そういう意識で阿部は、金銭面の交渉をする。
ただ弁護士はしっかりと、一方的ではない契約にしてくれている。
「私も自分の著作が映画化する時、一作目では買い叩かれましたから」
ノンフィクション作家としても有名で、むしろスポーツライターが本業と思われているのでは、という彼女はそう言った。
作品というのは著作権でしっかりと保護されている。
ただ音楽の場合は、曲と歌詞のパーセンテージ自体は少ない。
音源の権利を持っていると、ものすごい金額が入ってくる。
インディーズの方が儲かるというのは、中間に入っているレーベルや事務所の問題である。
極端な話、昔はライブハウスで焼いたCDを売っていて、それが全部収入になっていたというインディーズの話もある。
ノイズの場合はレコーディングが、完全に自分たちで出来るのが大きいのだ。
今の規模で売れるようになっていると、むしろメジャーシーンで売っていった方が本来はいい。
しかし関わっている人間が多くなると、どこまでが誰の著作物か分からない。
極端な話、ノイズが今までに稼いだ金で、ここで働いてもらっている人間に、作成された曲を買い取るという形を取ればいい。
重要なのは目先の利益ではない、と誰もが分かっていた。
この空間を共有しておくことが、将来のための実績になる。
伝説を作っている、と気付いている者もいれば、全く意識していない者もいる。
そもそも日常の、ほんの少しの延長だ、と考えている人間もいるのだ。
ややこしい権利関係や利害関係が、契約書で成立した。
もっともゴートなどが必要と思ったら、一般的な楽器以外の演奏者を、連れてきたりもした。
俊がシンセサイザーで再現しても、本職には違う鳴らし方があったりする。
そのためやはり人間がいないと、人間の音にはならない。
当たり前のようであるが、難しいことである。
今日も月子は病院に通ってきた。
腫瘍の進行は、CTなどで見る限りでは分からない。
だが実際に開いてみれば、進行している部分があるのではないか。
少なくとも腹水が、少したまっているのは発見された。
だから確実に、状態は悪化している。
月子の症状を詳しく知っているのは、他に阿部と春菜だけである。
俊にさえ伝えず、歌える時に歌うのみ。
起きている時でも、横になっていることが多い。
自室に戻るよりも、ソファーに横になるのだ。
眠る以外ならば、移動しなくてもいいだけ楽になる。
もう入院した方がいい、とも言われた。
不思議と痛みはあまりないが、それでもあとは痛みのコントロールが重要になってくる。
ただ強く言われたりはしないのは、もう医師の眼から見れば、時間の問題であるからだ。
それなりに動けているのが、不思議なぐらいである。
だが月子はマイクの前に立つと、しっかりと歌い始めるのだ。
20年以上も歌ってきた。
それは既に月子の体において、自動化されている。
体調が悪かろうと、体力がなくなろうと、歌う時には体が歌う体勢になる。
その姿を見ていて、春菜などは涙が出てくる。
阿部は目を逸らさず、最後までそれを見届けるのだ。
自分が発見したのだ。
俊と同じように、地下アイドルグループなどの中で、ディーヴァがなぜか歌っている。
ソロとして華々しくデビューさせることが出来る、と阿部は思っていた。
だが結果を見れば、俊の選択の方が、間違いなく正しかった。
おそらく、もう言ってしまうが、月子の命は尽きようとしている。
しかしその最後の瞬間に向けて、ここまでの人が集まってくれているのだ。
ノイズのメンバーは、運命共同体であった。
一緒に暮らしていたメンバーもいたが、そこで下手に甘えたりはしなかった。
この家を拠点にして、どれだけの楽曲が作られていったか。
現在進行形で、伝説は生み出されていっている。
それにもさすがに、終りが来るのだが。
意識が白い状態で、俊は目覚めた。
ずっと夢の中のような、それも悪夢のような中で、戦い続けていた時間であった。
性質の悪いのは、その悪夢がむしろ面白かったことである。
人間の創作は、むしろ悪夢のような現実の中から、傑作が生まれることが多い。
そこにやっと、空白の時間がやってきた。
レコーディングをしなければいけない。
まだ作った曲のアレンジが終わっていないが、出来るならばレコーディングをしなければいけない。
月子の体調を確認するのが、目覚めてからのルーティンとなっている。
今日もまだ生きている。
生きているならば歌えるのだ。
生きているのならば働け。
生きているのならば戦え。
生きているのならば学べ。
そして生きているのなら、歌うべき人がいる。
月子は歌うために生きている。
そういう存在となっている自分が、透明になっている気がした。
ただ歌う瞬間に、白い光の中から、鮮やかな色彩が飛び出してくる。
太陽の光は強すぎる。
だが月光の中ならば、鮮やかな星の輝きの、わずかな色彩も確認できる。」
月子の光は、誰かに照らされて輝くものだ。
しかし同時に他の輝きを、消してしまわないものでもある。
「まだ生きてる……」
眠りに入る時、もう目覚めないのではないか。
そんな予感もするが、今日もまた目が覚めた。
どんどんと純化されていって、歌うだけの存在となる。
俊のやることが作曲から、アレンジへと比重を移していった。
つまりそれはもう、曲自体は完成形が見えているということ。
あとはその曲を全て、音源として形にするのだ。
休憩を挟みながらも、俊の指示通りに歌っていく。
そしてまた戻って、リズムやギターなどを変えていく。
この期に及んで強烈な、激しい歌があったりする。
だが月子はその演奏に反射して、より激しく歌えるのだ。
体の中を空っぽにしてしまえ。
そうすればそれだけ、強く音も響いていくだろう。
自分はボーカルという楽器である。
ノイズのルナは、ここにいる。
そして音の中で永遠に生き残り続けるのだ。
レコーディングが終了して、ノイズなどをあえて残して原盤とする。
そうである方がむしろ、はっきりと伝えたいものが伝わる。
重要なのはクリアなことではないのだ。
ノイズこそが人間の存在だ、と分かっている。
そうか、と今さらながら俊は気付く。
なんとなくすっと、思いついて名付けたノイズという名前。
その後も名前をちょっと変えようか、と思ったことは何度かある。
しかしそうしなかったのは、この単純な言葉こそが、音楽の本質を表していると思ったからだ。
人間の社会の中、生活の中で音楽などは、むしろノイズであるのだ。
ただ生きていくだけならば、人間に音楽などは必要ない。
音楽こそがまさに、雑音であるのだ。
しかし音楽がなければ、人間の社会はどうなるのか。
音楽を禁止するような文明、宗教、国家がどういうものであるのか。
なるほど音楽というのは、一定の人間にとっては不都合なものであろう。
だが人間の文明の始まりから、人間と共にあったものだ。
楽器の原型というのは、はるかに宗教が登場する以前より、遺跡から発掘される。
音楽をはじめとする雑音を持ったことこそが、人間の存在する理由になるのか。
宇宙人と初めて交流できるのはミュージシャンだ、などということは言わない。
それはSFの知識が貧困か、マクロスに毒されているだけである。面白いけど。
音楽は普通に人間の存在する中で、ずっと必要とされていく。
それでいいではないか。
俊はずっと曲を作り続けてきた。
理想のボーカルというのを、月子に見たわけではない。
ただ月子はどんどんと、俊の理想に近づいていったのだ。
また俊も月子に引きずられて、その音楽性は広がりを見せていった。
そして一通りの楽曲が、レコーディングを終える。
あとはエンジニアとして、どうやって音を切ったり貼ったりするかである。
もっとも俊は極力、クリアになりすぎない音源を、残すつもりである。
映画監督がフィルムから、実際の映画を作り出す。
上映時間の関係上、多くの映画は本来のものから、削られているものなのだ。
音楽にしてもライブではないのだから、上手く組み上げて作っていく必要がある。
ただ作為を下手に入れると、メッセージ性が弱まってしまう。
未完成であるからこそ、逆に心を打つものがある。
そもそも全てのアルバムなどの音源は、完璧であるものなど一つもないはずだ。
完璧ではないからこそ、逆に心を打つのだ。
俊はもう、そういう考えになっている。
もちろんただのBGMとしては、クリアな音楽の方がいいだろう。
だがそんなもののために、俊はこの時間を使ってきたわけではない。
「え?」
俊は気付かなかったが、阿部がケーキを買ってきていた。
月子の28歳の誕生日である。
この年齢になると、誕生日を祝うのがいいことなのか悪いことなのか、微妙になってくる。
だがここまで生き残れた、ということが重要になってくるのだ。
季節はもう七月に入ってきていた。
月子の宣告された三ヶ月はおろか、半年も経過していた。
だからといって病気がよくなったわけでもなく、月子は寝転がっていることの方が多い。
そして肌の色が少しずつ黄ばんできて、ややむくみも出ていた。
明らかに肝臓の機能の異常であるが、それでも月子は28歳になった。
誕生日プレゼントを用意するなど、そんな余裕はなかった俊である。
そもそもレコーディングにしろ、出来ればもうちょっと変えてほしいというところはある。
完璧主義者というわけではないが、まだよくなるところがあるのではないか。
それを考えている間は、時間の流れが止まるような気がする。
「じゃあ、ライブをしたいな」
そうは言ってもフェスなどは、予定が上手く空いていない。
そもそも月子の体力で、一時間を歌うのは不可能であろう。
「小さくてもいいから」
むしろ小さなところで、ライブをやってみたい。
今の自分が、どうやって人の前で歌うのか。
月子はそれを考えている。
そう、どこでもいいのだ。
ライブハウスが無理ならば、路上ライブでも構わない。
ノイズがそれをすれば、とんでもないことになるだろうが。
「ライブか……」
俊の頭が切り替わるのは、どれだけのパフォーマンスが出せるか、を考えるからだ。
レコーディングではなく、オーディエンスの前で歌いたいということ。
「敷居の低いところなら、なんとかなるかな」
そう、たとえばあの場所で。
本当に50人しか入らないようなハコでもいい。
ただそれでも二時間のワンマンは、ちょっと辛いであろう。
しかし月子を休ませながら、他のボーカルが歌えばいい。
「まあそういうことなら」
レコーディングはともかく、もうライブは完全に休止中の、MNRが動いてもいい。
あとはフラワーフェスタから、花音が入ってもいいだろう。
さすがにバンド全部が、その予定に合わせることは難しいが。
これが最後になる、と俊には分かっている。
予感ではなくそれは、確信であった。
月子だけではなく、自分の音楽への感性も、燃え尽きようとしている。
それが分かっているから、これは月子のためだけのものでもないのだ。
「ライブをしないとな」
思考ではなく反射で、俊はその予定を考え始めていた。
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