第385話 熱き大地
南国の空気というのは、単純に夏のものとはまた違う感じである。
客層を見るに、日本よりも若い層が多いであろうか。
台湾も経済成長率は高い国である。
もっとも単純に、実体経済を反映しているとは言い切れないものだが。
日本は成長率が実質マイナスと言われても、金があるところにはあるものだ。
だが音楽で儲けることは、やはり難しくなっている。
サブスクなどではなかなか儲からず、ライブと物販がメインというのは変わらない。
ただ前提としてインディーズでやった方がいいというのは、やはり自分でマネジメントを出来ない音楽バカが多いのだろうか。
俊はとにかく、儲けなければ続けられない、と思っていた。
自分自身はいくらでも、親の脛をかじることが出来たのだが。
高校時代の友人などは、ライブハウスデビューをした時に、チケットを捌くのにも苦労したと聞いた。
それだけで自分が恵まれていると、本格的に気付いたあたり、俊も充分に頭がいい人間とは言えたであろう。
栄二や信吾にしても、とにかく自分たちだけでは売ることが出来ず、メジャーデビューを夢見ていたものなのだ。
伝手やコネにノウハウ。
自力で鍛えられるものもあるが、やはり他者からの助言があった方が、当然ながら楽になる。
俊にとっての理解者は岡町で、彼は特に過去と現在の比較から、どうすれば音楽を続けられるかを考えた。
自分自身は講師の他に、楽器教室にも勤めており、また業界の状況についても教えてくれた。
俊にとってはまさに、父のような存在であったと言える。
パイを大きくするためには、競争相手とも協力できる。
そもそもフェスというものは、そういう側面から発達したものだろう。
色々なお題目を掲げてはいるが、本質は金儲けの手段。
またずっと続いていくステージは、日常を忘れさせるものでもある。
だがチケットの販売は、年々厳しくなっているとも言われている。
フェスは直前になって、出演者が代わったりもするのだ。
非日常の体験という意味では、遊園地などにも似ているかもしれない。
ノイズのフェスにしても、六万人を集めたことがある。
だがワンマンでのライブとなると、三万人のアリーナを埋めるぐらいまでを目標としている。
永劫回帰やMNRと協力して埋めた東京ドームは、あくまでも例外であるのだ。
ブラジルはとりあえずやってやろう、という気分で挑んだものだ。
もっとも勝算を立てた上で、参加したのも確かだが。
ステージがやや小さめというのも気楽ではあった。
スペインやシカゴのフェスも、それは同じことである。
そういった前段階の準備なしで、東南アジアにはやってきたのだ。
出来ることならあちこち、フェスに参加してからツアーなどは企画したかった。
俊には焦りがある。
その焦りが何かというと、月子の健康状態に関するものだ。
癌化した部分を切り取ったとしても、既に癌細胞が他に転移しているかもしれない。
なので抗がん剤の投与と、五年間の再発をもってして、治癒したかどうかの目安になる。
もっとも月子の場合は遺伝子性のものであるため、他の部分からもまた癌となる。
これを家族性という呼び方にしているのだが、遺伝するのだからひどいものだ。
その確率は種類にもよるが、50%である。
ただ何歳で発病するかなどは、個人差が大きい。
統計の上ではおおよそ、50歳までにはほとんどが発病する。
正確に医学的に言うなら、大腸に最初は良性のポリープが出来るのだが、それがどんどんと増殖する。
そしてやがては悪性の、つまり癌になるという順番である。
大腸癌は気付きにくい癌であるので、そこから転移して気がつけば手遅れ。
他の病気で見つかった月子は、むしろ運が良かったと言えるのだ。
月子の人生はそんなものばかりだ。
他者が嫉妬するような成功者になったが、それまでに味わった苦悩が消えるわけではない。
両親を失ったことや、先天性の障害などは、これだけ揃っていれば思春期あたりに、自殺していてもおかしくないと思えるようなものだった。
祖母の教育と叔母の理解が、彼女をこの世につなぎとめた、と言えるだろうか。
病気になった時、月子は自分が、この世界にまだいようとする理由がほしかった。
だから子供を作ったのだが、これはこれでやはり辛さが出てくる。
愛する者を残して、早く世界から去らなければいけない。
凡人には味わえない人生を生きたわけではあるが、それが成功と引き換えになって、幸福になっているというわけでもない。
自由になることが増えても、多くの場合は生きづらいことに変わりはない。
普通の人が普通に出来ることが、月子には出来ないのであるから。
代償として大きな成功を求めても、それは幸福につながるわけではない。
満たされたはずが、どんどんとまた減っていく。
その減っていくものは、生命の力そのものである。
屋内のステージではあるが、南国であることには変わらない。
衣装については俊などは、ジャケットを脱いだシャツの状態で登場する。
だがオーディエンスの多くにとっては、そんなものはどうでもいいだろう。
注目されるのは月子である。
肩と背中が大胆に開いた衣装は、風通しはいいのだが照明の熱には弱い。
控えめな光量であるが、客席からはしっかりと見える。
これもまた撮影をしているので、後世に残すのだ。
客のノリが日本と違うし、欧米とも違うかな、と俊は感じていた。
一応は全部が着席になっているのだが、最前列は臨時の設営なので、立ち上がる人間もいる。
そしてそれが伝染して行くと、どんどん立ち上がって混乱して行く。
警備の人間は必死になって、それを止めようとしているのだが。
これぐらいは充分に、予想できたことである。
客席が熱くなりすぎたあたりで、月子は三味線を持つ。
カン! と鋭い音が鳴り響いた。
ゆっくりとした音が、アリーナの空間を染めていく。
弦楽器というのはおおよその文化において、存在する楽器である。
その中で三味線は、比較的硬質な音を出していく。
この硬質な音で、盛り上がりすぎたステージを一度落ち着かせる。
あまり盛り上がりすぎると、自分たちも大変になるからだ。
月子の演奏する音は、即興の曲である。
だが徐々にスピードが上がっていくと、メロディラインが近づいていく。
霹靂の刻の歌唱パートを、三味線で弾いていく。
ここからリズム隊が合わせていくわけだ。
マスターでは聞けないし、他のどのライブでもやったことのない、オリジナルのアレンジである。
こういうものをやるからこそ、ライブの価値はあると言える。
普段と変化をつけているこれが、まさにライブ感なのである。
そしてライブにおいては、月子の喉は大きく開く。
そこから伝わる声の感情は、言葉の意味が分からなくてもいい。
もちろんここにいるような人間は、全て翻訳された歌詞を、読んでいるはずなのだが。
月子の声に比べると、千歳の声はどうにも、ねっとりとして聞こえる。
だがそれはそれでいいのだ。
二人の声は違う性質であるからこそ、ツインボーカルである意味がある。
ミステリアスピンクなども、二人でユニットを組んでいるのは、そのあたりに理由があるのだ。
もっともあそこは本来、徳島がもっとイニシアティブを握るべきなのだが。
アンコールに三回応えた。
二回の予定であったのだが、三回目をやってしまった。
準備していなかったので、他のミュージシャンの歌をやってしまう。
これでまた事後承諾で、色々と大変なことになる。
だがとにかく、無事にではないが、終わったことは終わったのだ。
ふらふらになりつつも、台北の一流ホテルで、その日のディナーを終えたノイズ一行である。
ただ出来ることならば、もっと賑やかな席で、色々と語ってみたかった。
しかし今日はプロモーターや、スポンサーのお偉方との会食でもある。
さすがに中国語は喋れないメンバーばかりであるが、向こうが日本語を使えたりした。
それなりに年上ではあっても、年齢的には日本統治下よりも、後に生まれた世代である。
日本が好きで日本語を覚えた、というありがたい人である。
学生時代には日本に留学して、そこでのノウハウで起業して成功した、ということらしい。
台湾の人間というのは、元から台湾に住んでいた人間と、大陸から渡ってきたものとに大きく分かれる。
もちろん元から住んでいた人間の方が、ずっと多いのであるが。
台湾人にとっては日本の統治下は、基本的に悪いものではなかった、という記憶であるらしい。
そう言われると日本人としては、普通に友好的な感じになっていく。
戦前の日本の大陸での行動が、いまだに色々と影響している。
戦後のどさくさに紛れて、主権を勝ち取った元植民地は多いのだ。
台湾はそうでもないが、東南アジアもまたそれなりに、宗教の争いは起きている。
もういっそのことヒンズー教ぐらいになると、あれはもう神話とかの話なので、あまり争いにもなりそうにないのだが。
もっともインドの場合、いまだにカーストがあるので、そこは難しい問題だ。
世界を渡って音楽を広げると、どうしてもそういう問題が起こってくる。
特にイスラム圏の場合は、もう完全に触れてはいけない領域に入っている。
台湾の文化はかなり、日本に近い。
これは日本統治下にあったという以外に、普通に今も地理的に日本に近いからだ。
いっそのことあの頃、完全に日本語を公用語にしていれば。
そう思うお年よりは、けっこうな数でいたという。
だが今は台湾は台湾で、しっかりと独立したところがある。
ちょっとひよってしまったら、中国に物理的に侵略される。
そうなると色々と困るが、実際のところ2000万人のこの国は、海洋国家である。
おそらく中国は侵略できない、と思っている人間は少なくない。
俊は中国に関しては、経済的な侵略が多いな、とは思っている。
もっともその中国バブルも、今は大きく弾けた時代だ。
日本のコンテンツを海賊盤として多く使い、しかし政府がそれを取り締まる。
自前の中国のコンテンツでも、それなりに伸びそうなものはあるのだ。
だがそれを潰してしまう中国には、経済の原則が働いていない。
まあ日本も財務省が、徹底的に経済音痴というところはあるが。
台湾のお偉方は、特に変に偉ぶってもおらず、感じのいい人間が多かった。
また来たいな、と思わせる国である。
この規模のアリーナを簡単に埋められるなら、と向こうの方も好感触だ。
ただ台湾は他の国ほどではないが、問題も抱えてしまっている。
安全保障の問題。
日本の移民問題よりもはるかに深刻で、ずっと重要な問題である。
ライブの終わったノイズのメンバーは、今度こそ本当に観光に赴いた。
故宮博物館を初め、けっこう博物館が多いのだ。
プロ野球があるというのも、俊たちは知らなかった。
実際に日本のNPBで機会のない選手が、台湾にやってくるということはあるのだ。
また台湾の選手も、かつてはNPBでプレイしたことがある。
エースクラスの活躍や、主砲クラスの活躍であったりする。
もっとも外国人選手は、それぐらいの力がなければ、試合に出られないのが日本であるのだ。
博物館などの文化だけではなく、普通の街も歩いてみた。
雑多な中にはなんだか、ちょっとだけ昔の日本を思わせる光景がある。
新宿っぽいなと思ったりもするし、普通にアルファベットの看板もある。
だがやはり、一番多いのは漢字である。
漢字であっても何か、他とは違うところがある。
日本で教えている漢字よりも、なんだか省略されていたりするのだ、
たとえば食という字が、単純化されている。
他にも色々とそういうものがあるが、それなりに日本人にも読めてしまう。
今がどうであっても、中国の広げた漢字の文明というのは、とんでもなく広いものである。
もっともそれをさらに複雑にしてしまった、日本という国はずっとおかしな国であるが。
日本語の特異性のゆえに、日本人は英語を身につけるのが難しいとも言われる。
言語的に一番近いのは、なんでも朝鮮語であるのだとか。
もっとも朝鮮は朝鮮で、ハングルを採用してしまったため、過去の歴史の検証などが出来なくなってしまっている。
これは本当に、日本がやってしまった、朝鮮半島へのやらかしであろう。
なにしろ韓国人が歴史を研究しようとすると、中国人か日本人に、助けを求める必要になってしまうからだ。
自国の歴史を調べることが出来なくしてしまった日本人は、当時はそれが手っ取り早いと思ったものの、反省するべきなのは確かだ。
まあそんな韓国には、全く行こうとは思わないノイズである。
阿部にしても韓国は金にならない、などと言ってしまっている。
それなら日本でしっかりと、ライブを短期間にやった方がいい。
さらにいうならレコーディングをした方がいい、ということになるのだ。
観光にはそれなりに時間を取ったが、次に移動する日がすぐにやってくる。
次の公演先は、フィリピンである。
フィリピンは島国であるが、同じ島が他の国と分かれていたりする。
なおフィリピンは意外かもしれないが、キリスト教が主流である。
そもそもフィリピンという国名自体が、植民地の時代につけられたものだ。
今からこれを変えようという動きもあるが、面倒なことは間違いない。
インディアンをネイティブ・アメリカンと言い換えたような、奇妙さを感じる。
もっとも国名の問題は、他のところにも色々とある。
ロシアと東欧圏の国々では、呼び方が変わってくる。
キリスト教が多いといっても、イスラム教や現地宗教も、しっかりと生き残っているのが東南アジア。
一度はキリスト教に汚染されたが、それでも根本的には違うものが生きている。
「ボルテスの国なんだよね」
千歳はそんなことを言っているが、彼女が生まれるずっと前の話である。
このあたり日本とは、変に親密なところがあったりするが。
フィリピンは大きなフェスが、それなりに開催される国でもある。
ここもまた、乾季と雨季があるのだ。
南国であることは変わらないが、またイメージは変わってくるだろう。
ノイズのメンバーは誰も、この国に足を踏み入れたことがないのであった。
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