第381話 三日間
人間にはそれぞれ、全盛期というものがある。
知的作業なら年を重ねてもと思うかもしれないが、将棋などは全盛期がどんどんと若年化していっている。
経験の蓄積と思考の鋭敏さはまた違うものだ。
ならば芸術家の全盛期というものは、果たしてどういうものだろうか。
画家などは晩年の作品が、評価されることは珍しくはない。
また画風が完全に変わっていて、初期には暗く沈んだものを好み、晩年には明るくなっていくタイプが多く、最初から明るかったのはルノワールが有名であろうか。
ミュージシャンの全盛期はどこにあるのか。
アイドルの全盛期は、若ければ若いほどいい、などという暴論もある。
しかしミュージシャンの、そして中でもボーカルの全盛期はどこにあるのか。
単純な声量などは、若い頃の方が優れているかもしれない。
確かにシャウト系のボーカルは、年齢が嵩んでくると、もう声が出なくなっていることはある。
復活ライブなどをして、そのあまりの衰えに、失望するというパターンは少なくない。
白雪がMOONと同じように、SNOWを作ったのも、衰えというか声質の変化を感じ始めたというのはあるだろう。
中学生に間違われても、アラフォーなのである。
そして月子の場合は、おおよそ今が全盛期であろうか。
ただ年を重ねればそれだけ、味のある声になったりもするのだ。
(少なくともあたしより、声はいい)
千歳もそこは、冷静に認めるのだ。
歌詞のメッセージを伝えるのは、千歳の方が上手いかもしれない。
だが月子は感情を乗せていく。
声と言うよりは叫びや咆哮。
声自体は美しいのに、そんな印象を与えていくのだ。
全盛期の問題だ。
千歳の場合は声に、ざらりとしたものが混ざっている。
下手をすれば不快にもなりかねないが、安定した歌い方を教わったことにより、むしろ耳に残りやすい。
月子の場合は声自体は、とても透き通ったものだ。
しかしそこに上手く、感情や衝動が乗っている。
アイドル時代はある程度、周囲と合わせていたところがある。
それでも俊としては、月子はボーカルのメインだと考えていたが。
月子に合うような感じを、千歳の声から受けた。
その理由は後に、二人の境遇を知ってから、そういうこともあるのかなと納得したものである。
不幸であることが、何かを創造する元になる。
自業自得なところもあるが、今もその文章や音楽が残る人間で、生涯金に困ったという人間もいなくない。
月子は一度満たされかけた。
いや、完全に満ちたのかもしれない。
しかしそこから、どんどんと欠けていこうとしている。
そこを埋めるために、歌声には力が乗っていっているのだ。
死の直前にまで、何かを作り続けるなど、可能なことなのだろうか。
まあ手塚治虫は、臨終の言葉でもっと仕事をさせろとか言ったらしいが。
著名人や偉人の最後の言葉としては、ちょっと面白すぎるものである。
単行本400冊にもなるという、その原稿の量。
ボツにした分まで含めるなら、いったいどれだけのものとなるのだろうか。
この大きなステージでも、月子の存在感は大きい。
魂を削って歌っているような、そんな凄みすらある。
千歳も自分の、痛みを思い出しながら歌う。
そんなことでもしないと、月子に付いていけない。
千歳は千歳で、ちゃんと違う形で力はつけているのだが。
アリーナでの三日間の公演では、誰もが高いパフォーマンスを発揮していた。
俊などは自分がいなくても、だいたい栄二か信吾がリズムを戻してくれるな、と理解もしている。
もっともそれだけでは、俊が表舞台から引いてしまう理由にはならない。
ステージの空気を感じて、微調整していく音というのは存在する。
ただの打ち込みを流すだけでは、むしろ足を引っ張ってしまうのだ。
三日間の公演となると、体力の心配は確かにあった。
しかし逆にステージの盛り上げ方は、日を追うごとに上手くなっている。
賢しく上手くなっているのではなく、感情が上手く合っているのだ。
スクリーンに映し出されるのは、歌のMVの映像など。
それでなければ高速演奏をする、ギターやドラムの動きである。
このあたりをどうするかも、俊は必死で考えたのだ。
いや、俊は基本的に、どんな小さなハコであっても、常に真剣ではある。
課題を変えていくため、ちょっとノイズの方向性とは違うのでは、ということもあったりする。
上手くノらない時はもう、月子や暁のパフォーマンスで、力技でどうにかしてもらう。
そうやって本番を練習にするわけではないが、確かな経験を積んでいくのだ。
経験の蓄積で変な慣れがあったらまずい。
どれだけ上手くいっていても、油断をすればそこから転がり落ちる。
俊は実体験こそないが、周囲の忠告をしてくれる人間がたくさんいた。
それこそ父親代わりには、岡町が色々とアドバイスをしてくれたのだ。
普段の講義ではやらないような、もっとシビアな世界の話。
綺麗ごとだけではどうにもならない話で、また食い物にされることも多いのだと、実例をいくつも挙げて語ったものだ。
やはり芸能界に付き物なのは、金と女である。
そしてそれ以上に厄介なのが、権力欲と言える。
正直なところ一般家庭の女の子などは、芸能界には来るべきではない。
いくつかの意味で食い物にされてしまうものだ。
それから守るためには、実家がそもそも太いか、パトロンが必要になってくる。
俊にしても何気に、岡町は見守っていたのだ。
もっともインディーズで名前を売っていくというのが、想像以上に上手くいっていたため、心配はほとんど杞憂に終わったが。
男女混合バンドなどというのは、ボーカルだけが女というならともかく、他にも女がいた場合、確実に分裂するものだと思っていた。
そんな心配をされて、俊としてもその可能性は高いな、と考えはしたのである。
おおよそは男の方から、女の取り合いになっていく。
だからこそ外部で性欲を発散させている、信吾と栄二なら上手くいくだろうと思った。
自分が誰かに手を出すなど、本当に全く考えてもいなかったのだ。
最終日には岡町のみならず、業界人も多くがチケットを送られている。
VIP待遇なので、他の誰かに譲ったとしても、問題はないチケットだ。
岡町はこのアリーナの、ほぼ最後方の席から、ステージのパフォーマンスを見ていた。
(すごいな)
前方だけではなくこの一番後ろにまで、月子の存在感が圧力として感じられる。
彼女の病気については聞いていたが、そんなことは感じさせない、圧倒的なものである。
せっかく日本のトップとなり、世界でも評価されてきたところに、メインボーカルの発病。
普通ならばこれは、大きなブレーキとなっただろう。
だがより遠くへ飛び出そうとするならば、一度下がらなければいけない。
助走の期間というのが、結果的に存在したわけだ。
常に熱量を発散していたのでは、爆発することは難しい。
停滞に見える、熟成の期間が必要であったのだ。
病気によるものが全て、人に力を与えるというわけではない。
だが闘病することによって、何かを得るということは普通にあることだ。
誰かと対決する、というわけではない。
病気などというものは、どれだけ強い人間であっても、勝てるというものではない。
戦うということは、自分を信じるということ。
言語化したのかは分からないが、月子は間違いなく、己自身について色々と考えた。
ノイズのメンバーは多くが、複数が、身内の死を経験している。
ただかなり将来が削られるような、そういう病気はあまりなかった。
信吾の場合は母親を病気で亡くしているが、他は事故などの突然死が多い。
同世代や、年下の人間の死というものには、さすがに慣れてはいない。
月子の病気については、他のメンバーにも多く、改めて考えるということの意味を示した。
未来はずっとつながっているわけではない。
約束されたものなど、絶対にありえないはずなのだ。
長期的な視点というのも、もちろん重要なものではある。
だがミュージシャンとしてはまず、目の前のステージの演奏に、全力を尽くすのだ。
全体の調和を考える俊としては、月子が強くなりすぎても、それを止めようとはしない。
周囲のメンバーがさらに強くなっていけば、ちゃんとバランスは取れるのだ。
千歳のように必死であっても、その感情が重要になってくる。
ステージの上にあるのは、技術よりもむしろ感情だ。
もちろん技術が上手ければ、よりその表現に説得力が増してくる。
ただ正確に弾けばいいというわけではない。
外れるかどうかぎりぎりの、不安感ももたらさなければいけない。
暁のギターをヘタウマなどと言っている人間もいるが、ヘタウマに聴かせるということは、普通に上手く演奏するより難しい。
バンド全体の演奏の中で、ギリギリを攻めていくのだから。
正確なだけなら、打ち込みでいい。
それこそ今はドラムでも、生ドラムを使っていないバンドだってある。
打ち込みならではの、人間には不可能なドラムパターンはある。
もっともそれを言うならば、ギターの音でも人間には不可能な、そんな演奏もあるのだろうが。
なおこれは無理だろうな、と思って作っていた曲を、実際に弾いてしまうのが暁である。
技術だけでも絶対的なものがあるが、今ではもうフィーリングを重視している。
速く、速く、速く。
そういうものを求めていたし、今でも大好きではある。
だがそれだけではないのが、リードギターだと分かった気がする。
今では少なくなっていたが、それでもノイズの音楽には、ギターソロが多いということ。
そこで超絶技巧を見せ付けるか、あるいはパッションを迸らせるか。
俊は色々と課題を出して、暁もそれに応えるのである。
ノイズ全体が、もう何千回も合わせて、そろでアレンジを入れられるレベルになっている。
一度紫苑が入ったことで、他のギターを経験したことも良かっただろう。
ちょっとした問題があっても、そこからすぐにアジャストしていける。
ライブは生き物であるのだから、そんな不ぞろいの状態さえも、ライブ感があっていいとなるのだ。
人間の演奏する音楽は、不完全であるからこそ美しい。
逆のような気もするが、人間は人間的なものを心地よく感じるのだ。
CDよりもレコードの方がいい。
そういう人間はずっと、昔からいたものである。
実際にアナログ音源には、デジタル音源にはない揺らぎがある。
それを聞き分けられるものならば、確かにレコードの方がいいだろう。
もっともおおよその人間は、そこまでの変化を感じないものだが。
ライブの良さというのはそこにある。
広大なアリーナの空間に、バンドの音が満ちていく。
近くでも遠くでも、関係なく聞こえてくる声は、存在感が全く違う。
ただ上手いというだけではなく、深みがあるのがいいボーカルなのだ。
何かが混じっているのが、ボーカルの味となる。
千歳はそういうタイプで、バンドボーカルとしてはよくいるのだ。
月子はやはり、本来はソロのタイプ。
だが自分でも三味線を弾くあたり、バンドの中で歌って良かったのだろう。
作曲の能力を伸ばすことは、高いインスピレーションを呼び覚ますことにもなる。
月子は文字が読めなくても、言葉が聞き分けられないわけではない。
そして歌に秘められた感情は、しっかりと感じられるのだ。
三日目のステージが終わった。
控え室に戻ってきて、ぐったりと座り込むノイズメンバーである。
暁はギターをしっかりと、置いてから座り込む。
ギターを大切にする姿勢は、昔からずっと変わらない。
なんとか三日間、全力のライブを終えることが出来た。
来客の満足度は、その顔を見れば分かるという。
もちろん俊たちは、それを見る場所に行くわけではない。
だがマネージャーたちは、それをしっかりと見ているのだ。
凄い演奏であった。
休止する以前よりも、月子の声の迫力が増している、と思った人間も多かった。
ただ声量が大きくなったとかではなく、もっと感情が入っていると言えるか。
むしろ弱いところさえも、しっかり表現できていたと言おうか。
身内の中から見ても、月子の歌の変化は分かるのだ。
人間は経験をすれば、それだけ強くなっていく。
その経験というのは何も、いい経験ばかりではない。
特に創作というものは、悪い経験からこそ、それを抜け出すために、もがいて生み出すものがある。
月子の病気については、本人に絶望を与えるものであった。
そしてそこから蘇った者は、より深い哀しみまでも表現出来るようになる。
自分の命は、あまり長くない。
遺伝子的に今回の治療で、肝臓などは無事であっても、他のところからも癌化する可能性が高い。
生まれつきそんな体質なのだ、と言ってしまうのはひどい話だ。
だが事実であるのだから、それを否定してもどうしようもない。
長くは生きたいと思う。
そのための努力も、しないわけではない。
しかしただ生きているだけではなく、何かを残したいではないか。
俊も同じようなことを言っている。
どうせ生まれてきたのだから、何かを残していきたいのだと。
そしてそれで、誰かの人生を変えてしまいたいのだと。
そういう影響を与える存在になれば、自分がたとえ死んでしまっても、存在としての自分は死なない。
肉体的には死を迎えても、その影響力が残る限りは、ずっとまだ生きているのだ。
このあたりの理屈を、月子も分かってきた。
だから自分は死が身近になっても、まだ歌い続けるであろう。
今はQOLとか言って、たとえ末期の患者であっても、そのしたいことを最大限にするように、と考えられている。
月子も自分のしたいことを、全力でやるのだ。
ただ、子供のことに関しては、自分は卑怯だなと思うことがある。
自分が死んでしまっても、俊と暁が絶対に、育ててくれると信じている。
遺伝子的な父親の俊はともかく、暁には自分の代わりに産んでもらうことまでした。
本当にエゴだな、と月子は思う。
もっとも二人がそれを聞けば、むしろそれでいいと肯定したかもしれないが。
これで夏の大きなライブは、フェスだけとなる。
ただし秋口からは、アジアツアーを考えたりもされている。
月子の健康を考えれば、不安なところはある。
だが万全のフォローをして、新しい場所に音楽を届けるのだ。
世界中に、ノイズの音楽が広がっていく。
それは昔からずっと、俊が夢見ていたことでもあるのだった。
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