第375話 新目標

 ゴールデンウィークのフェスも無事に終り、ライブの予定などを立てる。

 本格的な活動は夏になるが、大規模ライブにフェスがあり、海外からのオファーまでやってくる。

 国内の分はともかく、海外からの分は想定していない。

 一応はあるかも、という程度には考えていたが、ノイズは再起動したところなのだ。

 それでも年末のフェスやゴールデンウィークのフェスに加えて、音源自体はMV付きで色々と出している。

 そのためもう大丈夫なのでは、という打診を含めた感じのオファーになっているらしい。


 海外で活動するのは、悪いことではない。

 休んでいた一年間、俯瞰して業界を見ることが出来ていた。

 音楽のジャンルは日本の場合、いや世界を含めてもいいのだろうが、とにかくバズりやすいものが必要になっている。

 そのためにタイアップしたいのが、日本のアニメである。

 とにかく日本から発信されている、テレビアニメに劇場版アニメ。

 どちらも欧米圏のみならず、南米や東南アジアでも、かなりパイを拡大しているらしい。


 そもそも日本の音楽は、東アジアと東南アジアでは、90年代にもそこそこ売れたという実績がある。

 もっともその頃はまだ、市場自体が小さすぎて、台湾であってもそこまでの市場ではなかったのだが。

 中国はその政策からして、そもそも市場として成立しにくい。

 ならばインドはどうなのかというと、ちょっとこれまた音楽のジャンルが違いすぎるのだ。

 インドの音楽というのは、いったいどういうものなのか。

 それはとりあえず、映画を見てみれば分かるであろうか。


 オリエンタルなイメージが、いまだに強いのは確かだ。

 そしてインド映画を見れば、もうとにかく踊っているのである。

 またインド映画に関しては、ちょっと他人にオススメしにくいところがある。

 面白いものは確かにあるのだが、やたらと長い作品が多いのだ。

 これには理由があって、インドはまだ空調などが完全に整備されているわけではないため、映画館に入ると長く涼みたくなる。

 なので長い映画が好まれる、という説がある。

 本当かどうかは、さだかではないことだ。


 夏場のフェスはもう、郊外型のフェスへの参加は難しい。

 少なくとも今年は、まだやめておこうという話になっている。

 月子の体力が一応の理由だが、もちろんそれだけでもない。

 新しい曲を作り、その音源を残すという仕事を、たっぷりと入れてあるのだ。

 また夏の時期は、海外からのオファーも入る。

 基本的には断る方向で考えているが、月子のことを考慮して環境を整えてくれるなら、参加するのもやぶさかではない。


 音楽は売っていかなければいけない。

 そして大きくファンを増やすのが、フェスという舞台である。

 休止していたノイズが活動を再開して、またファンクラブの人間が増えた。

 これが順調に増えている間が、人気の拡大期である。

 普通のミュージシャンはどうしても、この拡大期が一度ぐらいしかない。

 だがノイズの場合は、他のバンドとの合同コンサートや、月子の闘病などといった、言ってはなんだがイベントが目白押しだ。

 不幸を売り物にしている気もするが、ストーリーがなければ売れないのは確かだろう。




 最近の俊は、またインプットの領域を変化させている。

 インドだけではなく、東南アジアの音楽がある。

 また中国の音楽というのも、しっかり残っているのが台湾であったりする。

 そしてアラビア圏の音楽も見ていく。


 アラブのあたりはかなり、イスラム教と重なっている。

 基本的にイスラムは、音楽を禁止としている。

 だがクラシックは基本的に問題がなく、男性の演奏なども問題がない。

 要するに性欲に関連するようなものが問題で、ラブソングが多いポピュラーソングが問題視されるというのが正しい。

 女性の演奏についても、それが官能的なものである、などという理由である。

 ノイズの場合は現時点では、イスラム圏で演奏することはないだろう。


 もっとも東南アジアでも、かなりイスラム教徒はいたりする。

 このあたりはさすがに俊も、無茶をしようとは思わない。

 ただイスラムにある音楽は、これはこれで宗教的ではあるが荘厳な感じもする。

 神道の宗教音楽を組み入れようかと思ったこともあったが、さすがにどうにもならなかった。

 洋楽のロックでは、普通にクラシックを取り入れている曲もあるが、民謡までが精一杯である。

 周囲から見ていると、ノイズの代表楽曲は、霹靂の刻であると思われたりもするのだが。


 オリエンタルなムード、というのを入れるのは難しい。

 だが逆に今だからこそ、取り入れてみるのも面白い。

 基本的に今は、楽曲の時間が短く、バズりやすいテンポの音楽が好まれる。

 しかしそんなものばかりになったら、反発して違う音楽も求められるのだ。


 調べてみたところ、あの「石焼き芋」の声というのは、イスラムの宗教音楽に近い響きがあるらしい。

 俊はそういったものも、どうにか組み入れようと考えている。

 母が本来は声楽の世界の人であったため、クラシック自体はある程度体験している。

 月子の声も高音で、分類するならソプラノだ。

 実は千歳の声も、ソプラノに分類されるのだが。

 ただ月子が力を入れて歌うと、低音までもしっかり出る。

 音階が広いというのは、昔から言われていることだ。


 千歳が歌詞を作ると、そこそこラブソングが生まれる。

 ポップスなラブソングを作るのは、意外と俊は困難ではない。

 ポップスすぎるというか、かなり頭のおかしな、スキスキダイスキを作る下地が、俊にはあるのだ。

 黒歴史と本人もしているが、ネタ曲をしっかりと作ることが出来る。

 またメロディーを単調に続けていって、そこから一気にサビで転換、という手段も普通に使う。

 明るいラブソングも、作れなくはないのだ。

 なおここに暁が入ると、激しいラブソングになってしまう。


 夏の雨の日に制服で、海岸沿いの道を駆けていく。

 千歳がそんな感じで爽やかなラブソングを書いてきたのは、ちょっと驚いた俊である。

 問い詰めたところ、同棲中の彼氏に、チェックを入れてもらったらしいが。 

 このあたり歌詞の著作権の問題にもつながるので、ちゃんと確認しておかなければいけない。

 こう言ってはなんだが、千歳の彼氏君は、小説家よりも作詞家になった方が、売れるのではと思う俊である。

 俊も昔から、作詞能力は高いと言われる。

 だがそれはインプットと、取捨選択の能力で、本当に自分で生み出しているのかというと、それは違う。


 創作はそれでいいのだ。

 99%が過去の作品の引用であったり、あるいは100%そうであってもいい。

 それを新たに組みなおせるなら、それはオリジナルであると言える。

 もっともやりすぎると、普通にアンチが叩いてくる。

 だがいい曲であれば、それすらも弾き返すのだ。




 俊は天才ではない。

 作詞はセンスはあるが、作曲の方は難しい。

 先にテーマを決めたりして、そこからメロディを生んでいく。

 ただノイズのメンバーは、その力の基盤が強力な者が多い。

 現時点での発表される曲などは、フラワーフェスタが上を行くことが多くなっている。


 いつかは追いつかれ、戦う相手になると思っていた。

 花音の母が残した、天才の膨大な遺作。

 そのままではバンドの音楽にならないものを、白雪がアレンジしている。

 作詞と作曲に関しては、白雪はもう自分の限界を、果てしなき流れの果てに、で使い果たしたと断言する。

 あとは他人の作った曲を、上手くアレンジして食っていくのだ。


 死後に20年経過しても、いくらでも楽曲が出てくる。

 27歳で死んだというのに、二万曲の遺作があるというのが、言われていたことだ。

 プリンスもたいがい多作の人間であったが、これには及ばないであろう。

 フラワーフェスタでやれない曲は、他のミュージシャンに提供もしている。

 これらの作品は全て、花音が相続した財産だ。


 10代の前半には作曲を始めたと言われるが、27歳で死ぬまでに、一日数曲は作っていかないと、二万曲にはならない。

 その一割であっても、充分すぎるほどの多作であると言える。

 作詞の方は苦手であったというが、クラシックの要素も俊より上手く含ませている。

 本当の天才であったのだな、と今でも世界中のミュージシャンに影響を与え続けている。

 俊はそれに比べると、普遍的な要素を見つけた上で、時代性を逃さない、という小手先のセンスで作っている曲が多い。

 もっともその時点で大きく売れれば、ある程度は後世に残るのだ。


 才能というのは本当に、これと言い切るのが難しいものだ。

 一般の人間からすれば、俊も才能があるどころか、天才にさえ見えるだろう。

 ただ俊は自分に関しては、環境の要素が大きかったと思う。

 時代の代表作などに、しっかりと触れていく。

 そしてクラシックなどの、別ジャンルにもちゃんと、その導線があったのだ。


 今どきはプロスポーツの選手などでも、五歳ぐらいに始めたことが、その基礎となっていることが多い。

 環境に恵まれてスタートし、その中から素質に優れた者が、トップアスリートとなっていく。

 音楽に関しても、絶対音感は幼少期から訓練しなければ、まず身につかないものなのである。

 一応は響などにも、音楽を聞かせたりしている。

 子供用のアコギを与えて、暁は対面の姿勢で教えるのだ。

 わさわざ子供まで、左利きにしようとは思わない。

 左利きの方が、かっこいいかもしれないのは確かだが。


 子供たちのことを思うと、習い事をどうするかということも考える。

 経済的に余裕があるのならば、勉強だけではなく芸術的なことに加え、スポーツもやらせるべきだろう。

 その分野のプロになどはならなくても、経験は人間に、話のネタを与えてくれる。

 そこからコミュニケーションを取っていければ、立派な陽キャの誕生である。




 育児もまた、インプットの一つではあった。

 かつて自分では気付かなかった、幼少期の思い出。

 それを息子を通じて、追体験して思い出す。

 人間が複雑に生き始める、それよりももっと手前。

 素朴な疑問が、人間には生まれてくる。


「人間ってなんのために生きてるの?」

 こんな言葉が息子から出てくる。

 そして俊としては、どうにか答えを持っている。

「本当は意味なんかないんだ」

 どんな人間も、いつかは死んでしまうのだ。

 だからといって本当に意味がないかというと、そんなはずもない。


 意味がある人生を、期待されている人間がいる。

 普通に生きればいいと、そう言われる人間がいる。

 普通には行きたくないと、そう自分で思う人間もいる。

 そしてどういった普通でない人生を生きるかを、俊などは選択したのだ。

 正確には選択したと言うよりも、音楽に魅入られていたと言うべきであろうが。


 どう生きたっていいのだ。

 社会の歯車になっても、普通に楽しく生きていくことは出来る。

 最低の生き方に見えても、自分だけが楽しければそれでいい。

 あるいはわずかに世界に痕跡を残せば、それでいいという人間もいる。

 まともに社会貢献をしなくても、人間としてはそれでいいのである。


 もっとも日本国民の場合、憲法に義務が書かれている。

 勤労、納税、教育の三つの義務であって、働いて税金を納めるのは、まさに義務であるのだ。

 ただこれより先に権利もあって、健康で文化的な最低限度の生活、というものである。

 ミュージシャンは勤労なのかと言われるかもしれないが、稼ぎが出ていれば立派な仕事である。

 そこから納税もしているのだから、ちゃんと義務は果たしている。

 あとは子供に教育を受けさせれば、それで国民の義務は完了である。


 基本的に人間は、人間の中で生きている限り、ルールを守る必要がある。

 ただ人として孤立して生きるならば、何もルールなど守る必要はない。

 もちろん音楽は、演奏している側だけでは成立しない。

 聞く人間がいなければ、何も生み出していないのと同じなのだ。


 こんなことを話して、自我のしっかりしてきたわが子を、既に一人の人間として扱う。

 俊はそのあたり、不器用な人間であるのは間違いない。

 子供の頃から大人の間で生きてきたので、一見すると大人のように見える。

 しかし大人の間で生きるというのは、甘やかされて生きていくということでもあるのだ。

 そのあたりを自分でも認識すると、今までの自分が恥ずかしくなる。

 俊としても幼少期、そんな人間であった。

 暁の場合は同じく大人に構ってもらっても、同年代とはなかなか付き合いが出来なかったものである。




 生きていくということは、経験の蓄積だ。

 しかし蓄積された経験を、ちゃんと使わなければ意味が薄い。

 俊はそれを息子の人生を通じて、思い出している。

 父もそうだったのかな、と考えたりもする。

 もっとも父の全盛期は、俊が完全に物心つく前で、それを知るには母と話す必要があるのだろうが。


 響の生まれた後に、何度か母とは会っている。

 だが子供の世話をするのは、下手くそな母であった。

 俊のときもやはり、シッターやマネージャー任せであったと聞いている。

 母方の祖母は、俊の生まれるずっと前に、もう死んでしまっていたのだ。

 だから子供に対する接し方は、父親との記憶が多いらしい。


 昔は一応、父方の祖母が見てくれたりもした。

 だが中学生になる頃には、もう一人で過ごせるようになった。

 こんな環境であれば、ぐれてしまってもおかしくない。

 しかし暁もまた、父の仕事仲間などから、色々と構ってもらえてたのだ。

 その中には俊の父もいたが、俊と一緒に会ったことは、幼少期のほんの数度だ。


 別に小さい頃、結婚の約束などもしていないが、結婚した二人である。

 仕事中にも日常でも、夫婦らしい雰囲気は見せない。

 実は家の中でもそうなのだが、子供を通じるとさすがに、父親と母親の姿を見せる。

 別に普段から、仲が悪いふたりでもないのだし。


 六月には休日がないが、それでも週末のライブを一つ入れた。

 1000人が入るハコであるが、それでもまだ小さな方なのだ。

 やはりノイズがライブをやるなら、3000人ぐらいのハコはほしい。

 俊としてもあと何度ぐらい、ライブが出来るのか分からない。

 月子の病気を別にしても、ノイズというバンドの旬が、いつ切れるのかは分からないからだ。


 バンドというのは生き物である。

 家族よりも濃密な時間を共有したりするが、普通に家族でも離婚などで別々になる。

 最後までずっと続けるバンドなど、そうあるものではない。

 たとえば俊か月子がいなくなれば、それはもうノイズというイメージではなくなる。

 この六月のライブも、あっという間にチケットは売り切れた。

 ワンマンライブであるが、二時間をしっかりと盛り上げる。


 やはりワンマンで、一万以上のオーディエンスが入るライブをやってこそ、と俊は考える。

 夏には郊外型フェスへの不参加を決めただけに、他の予定を入れていく。

 七月にも一度は都内でライブをやって、フェスにも参加していく。

 八月こそがまさに、本格的な動きをするのだ。


「やれるだけのことは、だいたいやったかなあ」

 俊はそんなことを口にする。

 三万人以上が入るアリーナで、三日間のライブも行ったりした。

「東京ドームは?」

 月子はそう言うが、ドームは採算が取れにくいので、俊はずっと避けていたのだ。

 そもそもドームは野球場であり、音楽をするところではない。


 人数を集めてその記録を誇る、というのは俊の考えではない。

 それをやるなら東京ドームではなく、野外のステージの方がいいであろう。

 国立競技場のライブなどは、音響でかなりの失敗をしたものだが、失敗こそ成功の母である。

 そもそも武道館でビートルズがやった時も、音響は失敗しているのだから。


 一応月子としては、アイドル時代の最終目標は、武道館であったのだ。

 もっとも武道館は、既に達成されている。 

 ならば東京ドームか、という話になってくる。

 だがあそこで採算を取るには、数日間をやった上で、物販も大量に売らないといけない。

 チケットを高くして、席によって差をつければ、普通に採算も取れるのであろうが。

 純粋に俊が、ドームでやるのを嫌っているだけである。


 単純に記録だけをいうなら、20万人という記録が日本には存在する。

 しかし今はそんな人数、集めるのも現実的ではない。

 ネットで拡散していって、それで売れる時代であるのだ。

 東京ドームは合同でやった時に、大変さがよく分かっている。

「目標かあ……」

 月子も暁も考えるが、単純に数字などの目標は、あまり意味がないのだ。


 やりたいことは、素晴らしいライブである。

 ステージの上で、どれぐらいのパフォーマンスを出せるか。

 俊はそれを、プロモーター的に考える。

 ライブでも儲けを出すが、あとは音源作りが重要だ。

「ライブCDを作りたいんだけどなあ」

 それは確かに一つの目標ではあった。

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