第374話 命の煌き

 最近のノイズは月子の仮面のデザインが、大きなフェスなどでは変わっている。

 元から何種類かを使いまわしていたのだが、ヨーロッパのメーカーから面白い商売があったのだ。

 仮面だけではないが、色々なデザインで名をはせたメーカーが、自分たちにオーダーしてくれないかとスポンサーの話を持ってきたのだ。

 そういえばこういう儲け方もあるんだな、と俊もちょっと思いついていなかったので、少し驚いたものである。

 それから契約をして何個も、フェスや大規模コンサートではおニューの仮面を使うこととなった。

 たったの一回きりであるが、これが意外な宣伝効果になったらしい。

 なんなら一回の公演で、四つの仮面を使ってもいいだろう。

 そもそもノイズのバンドTシャツなども、ロイヤリティが発生しているのだ。


 こういった商売はむしろ、アメリカの方が得意だと思っていた。

 また日本の伝統芸能においても、上手く商売に出来るのではとも思った。

 しかし何が一番になるかと考えれば、ヨーロッパの大手ブランド、という名前である。

 日本の作品としても、悪い選択ではなかった。

 実際に以前、般若面を使って、ステージに立ったことがある。

 だが日本では、そういう発想が出なかったのだ。


 ただ暁のギターに関してなどは、完全に日本製を使うことが多い。

 相変わらずメインは、レスポールのTVイエローである。

 それもこの数年の間には、しっかりとイエロー・スペシャルを完成させた。

 暁の思っている音を、完全に再現するために作られた世界で唯一のギター。

 このコピーモデルが作られて、随分とこれまたロイヤリティが、暁の懐に入ってきたものである。


 正直なところ月子は、もう素顔で歌ってもいいのでは、と思っていた。

 だがそこにこんな話がやってきて、絶好の儲け話となったのだ。

 また俊としても月子の日常の平穏のためには、顔の上半分だけでも、隠しておいた方がいいとは思った。

 彼女は自分が顔を憶えられないので、他人に憶えておいてもらう必要がある。

 だから普段はあまり、サングラスにマスクなどといったもので、顔を隠すのに支障があるのだ。


 そんな月子の仮面のデザインは、実は一人の人間がデザインをしているというわけではない。

 メーカーがフェスの内容やステージの雰囲気を話し合って、しっかりとデザインを決めている。

 なるほどスポンサー契約のようなものだな、と俊は感心したりした。

 昔の使いまわしの時代などは、そこまで注目されていなかったからである。

 ただ東北のツアーなどで、三味線メインの時は着物で歌うため、仮面のデザインが合わないことがある。

 こういう場合にはしっかりと、契約で例外事項を作っておくのが契約社会だ。


 月子はノイズのステージメンバーの中では、唯一派手にドレスアップもしている。

 するとこれまたヨーロッパの方から、うちでステージ衣装を作りませんか、という話がやってきたりする。

 こういうことはさすがに、事務所も一緒に相談する。

 出来ればこういうことは、日本の地元でやってしまいたい。

 地元と言うか日本でやってしまう方が、早くて安全で確実だ。

 ただヨーロッパ信仰というのが、芸能界の周囲にはある。

 俊は正直どうでも良かったが、アメリカなどでも衣装選びは、はっきりと重要なことなのだ。


 ジャケットは着ているがカジュアルなメンバーや、はたまた作業着で演奏する栄二に対すると、やはり月子の別格感が目立つ。

 千歳の場合は逆に、カジュアルな服装から、切り裂くような感情の叫びを出すのが、目立っている理由なのだが。

 暁は昔に比べると、髪ゴムを外すことはあっても、Tシャツを脱ぐことは少なくなった。

 母親に露出癖があると思われては困る、という真っ当な神経によるものである。

 それでも脱ぐ時はあるので、見せてもいいタイプのビスチェというのが、暁の衣装になってきた。

 年齢的にも弁えろ、という話になってきているだろう。

 まだ20代の半ばなので、それほど見苦しくもないのだが。

 マドンナなど50歳ぐらいになっても、レオタードでMVを作っていたのだ。




 女性ミュージシャンというのは、子供が出来ると生活が変わる、というのは普通のことだ。

 それまでのような活動は、難しいのが一般的なものである。

 しかし暁は一度目は強力なヘルプを得て、二度目は月子の休みと重なった。

 それでもレコーディングは、かなりの数を行ってきたのだが。

 若いうちに産んでよかったと思うのは、まだ自分がステージで目立つ姿を、見せ付けられるということにある。

 さすがに小学校入学前の、響たちはまだフェスになどやって来ないが。


 なお暁は、あと一人ぐらいは産んでもいいかな、と考えていたりする。

 酒の勢いと代理母とで、まともに子作りをしたことはないのだ。

 まあ子供が生まれてからも、夫婦の性生活は、ないわけではなかった。

 しかし普通に、俊はもう充分だろうと考えている。

 俊から見れば男女一人ずつ、二人の子供を持っている。

 少なくとも少子化の原因にはなっていないぞ、と不思議な言い訳を内心ではしていたりする。


 子供が生まれていようが、ロックはロックな暁である。

 最終日のこのステージ、やはりある程度の緊張感が、楽屋テントに満ちている。

 詳しくは数えていないが、少なくとも四万人はいるオーディエンス。

 年末のフェスと比べると、熱量が違う。

 あれは寒い中、それでも熱気で空気を変えていった。

 対してこのステージでは、既に熱量が最大になっている。

 日没を迎えても、まだその余熱が収まっていないのだ。


 ヘッドライナーとしてノイズは、ステージに立つ。

 照明に照らされたステージは、やはり月子を中心にスポットが当たる。

 俊の相変わらず低体温のMCから、一気に演奏は激しいものに変わる。

 ギャップによって煽っていく、テクニックの一つと言えるだろう。


 激しいビートの曲であるが、歌唱部分自体はむしろ、ゆったりとしたものであったりする。

 千歳がコーラスを入れていくと、より月子の歌には深みが与えられるのだ。

 ラップ的な部分は、MOONを使った機械音声。

 そこからまた生歌に変わるのが、これまたギャップの力である。


 機械による演奏や歌唱は、人間の存在を奪うものであるのか。

 少なくとも俊は、ただの新しい設備と思って、これを使っている。

 人間の仕事を奪うのではなく、人間の力をより活かす。

 今はまだそのレベルである。

 だが機械が発達し、人間の演奏が衰えて、さらに聞く側にも感性がなくなれば、確かに音楽も人が必要にならなくなるのかもしれない。

 それはまだ遠い先のことだと思いたいが。


 ボカロPとして出発しながら、なんだかんだとボーカルとのユニットを組む。

 それはいまだに、人間の声の方が、機械よりも上だと感じるからだろうか。

 機械音声はむしろ、純粋な声ではある。

 ただ人間の声には、感情がどうしても乗るのだ。

 そこを再現出来ない限り、機械が人間を上回ることはない。

 ノイズは感情であり、それが人間の心をざらりと撫でる。

 ライブというのは一度たりとも、同じ体験は味わえないのだ。

 たとえ録画などをしていても、最初に体験したものとは、間違いなく違うものになる。


 音楽は死んでも残る。

 だがライブはその名前の通り、生きている間にしか体験出来ない。

 どれだけのステージを、生涯で残していくのか。

 もちろん回数だけが重要なわけではない。




 60年代から80年代にかけては、巨大なライブやフェスが行われてきた。

 もちろん90年代に入ってからも、そして21世紀になってからも、大規模なものは行われてきたが。

 伝説になっているようなライブやフェスは、懐古趣味のところもあるのだろう。

 だがあの時代は、破壊的なパワーに満たされていた時代だというのも本当なのだろう。

 しかし今は、より正確にライブなどを、残せる環境になっている。

 もっともそこにあるのは、音声と映像までである。


 最も重要なのは、ライブにおいては熱量だ。

 それは確かに五感の中でも視覚と聴覚に頼ることが多い。

 だが温度や、周囲の汗の匂いや、共に突き上げる腕などというものがある。

 ライブは熱狂を提供される一方的なものではなく、オーディエンスの反応もまた、ステージのパフォーマンスを高めるのだ。


 一つとして同じライブなどない。

 そして全てのライブで、全力を尽くさないといけない。

 流してやってしまうとも、技術によって可能であろう。

 しかしまだまだノイズは、そんな老獪さを持ち合わせてはいない。

 月子の体力を考えるなら、それもいずれは必要になるのかもしれない。

 だがそれは遠い先のことであってほしい。


 地の底から天の果てまで。

 イメージとしてはそれぐらい、声を届けていかなければいけない。

 音響を考えたなら、室内のアリーナの方が、絶対にいいはずである。

 しかし野天の解放的なところから、声がどこまでも届く印象さえある。

 月子がリードしているが、さらにそれを先導するのは、暁のギターである。

 この二人を上手く合わせるのが、千歳の役目になっている。


 俊は基本的に、ステージが上手く行っている間は、平均的にキーボードを弾くぐらいしか仕事がない。

 何かのトラブルが起これば、そこで曲の順番を変えたりもするのだが。

 三味線を持ち出して、月子が演奏する。

 そして歌うぐらいには、しっかりと回復しているのだ。

 だがここから、彼女の声はさらに深く、その精神に潜り込んでいく。

 魂を揺さぶる声になるのだ。


 ライブハウスやアリーナの、後方までをも全て、一つの世界にしてしまう。

 世界の一流ボーカルでも、そうは出来ないことである。

 月子の歌声には、今はその力がある。

 切実さというものが、生きている力を引き出すのだ。

(今を生きる)

 今回の癌が完治していたとしても、また他の部分で発生しやすいのが、月子の遺伝子である。

 ただこの不幸や不遇が、月子の力にはなっている。

 あまりにも不運な一生を生きることが、月子にとっての才能となるのか。

 そういったことを考えると、不幸と成功と才能がぐちゃぐちゃなものになってしまう。


 今を生きる。

 それを胸に秘めて、月子は歌う。

 負けじと千歳も自分メインの、楽曲を歌っていく。

 そこに月子のコーラスが重なると、圧力が大きくなっていくのだ。

(もっと行ける)

 そう思う千歳のボーカルを、暁がギターで煽ってきていた。




 しっかりとアンコールにも応えて、フェスが終わった。

 演奏する側は家に帰って眠るだけだが、裏方のスタッフはこれからが仕事である。

 設営を全て解体し、また次のイベントへと持っていったり保管したりする。

 大変な仕事であるが、それでもやりがいはあるのだ。

 元は自分がミュージシャンであったが、今はこちらの仕事をしていたりする人間もいる。

 皮肉と言えるのかもしれないが、ミュージシャンをしていた時よりも、よほど収入は安定している。


 打ち上げを行うが、さすがにもう昔のように、居酒屋のチェーン店で行うことは出来ない。

 見つかったら騒ぎになる可能性が高いからだ。

 隔離された個室のある店は、それなりにお高くて美味しい。

 そして酒を飲んだりもするのだが、もう月子は制限されている。

 節制することにより、少しでも長生きしなければいけない。

 まだおっぱいを与えることがある暁としても、アルコールは入れない。

 そろそろ離乳する時期であるのだが、和音はおっぱいが好きであるらしいのだ。


 響は妹の動物的な行動に、嫌悪の感情を向けることがある。

 年齢の割にはしっかりしているのが、そういう形で出てしまうのだ。

 同じ年の子供に比べて、あまり交流する機会がなかったのが、行動に出てしまうこともある。

 これはもう仕方のないことだが、致命的に人間関係に問題がありそうなわけではない。


 イベントが終わると、日常が戻ってくる。

 ただその日常は、また次のイベントへの準備期間でもある。

 アーティストというのはもう、人生の全てが何かのための時間になってしまう。

 この窮屈さを感じているのは、やはり俊なのだろう。

 むしろイベントの本番よりも、それまでの方が大変なぐらいだ。

 一番切り替えの上手くいっているのが、千歳ではなかろうか。

 男が出来てからこっち、安定しているのは確かだ。

 もっとも千歳の性格からして、ああいう人間とくっつくというのは、ちょっと意外ではあったのだが。


「もう結婚しちゃおうかなあ」

「しろしろ。売れない小説家、養ってやれ」

「ちゃんと賞は取ってます~」

 それでも売れてはいないが。


 もはや文学系の小説家は、作品だけでは食えない時代であろう。

 大衆小説にしても、かなり読まれることは少ない。

 一部の人気作家は、どうにかファンの存在で食いつないでいる。

 だが本屋の数も、減ってきているのが今の時代である。

 マンガでさえ紙と電子は、売上の割合が変化する時代なのだ。

 俊などは懐古趣味的に、CDなどはしっかりと買っているが。


 東京などの場合、趣味の品物を置いておくスペースがあるだけで、充分に富裕層である。

 実際に音楽の電子データなどは、PCの中にいくらでも入る時代だ。

 ただ俊の場合であれば、レコードを取り出してセットする、そういうものまでが含めて趣味と言える。

 音楽以外の趣味が少ないと思われるが、実際は読書などのインプットは多い。




 今回のフェスも良かった。

 復活記念とは言われるが、最終日のヘッドライナーであったのだ。

 それだけに逆に、失敗するのは怖かったが。

 結局ステージでのパフォーマンスは、他のメンバーに任せるしかないのだ。


 会場で取っていたアンケートでも、ノイズに対してはほぼ好意的なものだ。

 全般的に好意的でないのは、失敗することを期待するひねくれ者が、どうしても世の中にはいるからだ。

 もっともSNSでそういうことを呟いても、はっきりと叩き潰されるのが今の時代。

 一瞬の風速はともかく、個人でもかなりの検証が出来る時代。

 マスコミが世論を作るのは、難しくなっている。

 そしてインフルエンサーも、偏ったことを言っていれば、すぐに信用をなくすのだ。


 ただの一般人がその発言をもって、影響を持てる時代になっている。

 特に本来は専門家の学者などが、馬鹿なことを言えばそういうことになるのだ。

 実際に科学的に再現性がある理系ならともかく、文系だと色々な捉え方がある。

 そういう場合は俊は、まともな人間のまともな思考で考える。

 またインフルエンサーの中にも、伝手やコネを作っておくのだ。

 そもそもノイズはスキャンダルが少ないか、あっても目立つものではないので、信吾は普通に業界内で恋愛をしているが。


 彼が特定の相手と結婚などをしないのは、かつての売れなかった頃のことも考えているからだろう。

 メジャーデビューの間近だったところから、その場所を捨てても信吾を援助してくれたサポーター。

 それと体の関係を持っていたあたり、誉められることではないのだが。

 ただベースの信吾は、わずかに作曲もしたが、そもそも目立つポジションではない。

 スキャンダルに近いものとしては、月子が俊の家に居候していることか。

 これも彼女の病気のことを考えると、単純にフォローするためと言える。


 他には千歳の恋愛関係かもしれないが、そもそも未婚の男女が同棲しているだけで、何をどう話題にするのか。

 もちろん煙を立てるために、無理矢理火をつけるのがマスコミではあるが、あまりにもスキャンダル成分が弱い。

 またノイズは成功者ではあるが、社会的に見れば弱者の立場を取れるのだ。

 月子の存在に触れるのは、下手をすると差別主義者のレッテルを貼られる。

 売れなかった地下アイドル時代にしても、月子は悪いことをしていない。


 ノイズにはもう、売れていく要素しかない。

 ただ話題性に関しては、どんどんと何かを考えていく必要もあるだろう。

 あまりにプラスのイメージだけにしても、今度は逆に薄っぺらくなる。

 創作ではなく話題性だけで売るのも、それはそれでノイズの路線とは違う。

 ロックの魂を持ちながら、ちゃんとポップスの音楽をやる。

 結局一番多くの人間に伝えるには、それが効果的なのは間違いないのだ。


 俊はそれとは別に、楽曲の作成だけはどんどんとしていく。

 月子の病気がいつ、再発するかも分からない。

 それまでに作っておきたい音源が、いっぱいあるのだ。

 MOONでは表現しきれない、人間が歌う楽曲。

 ライブ映像に関しては、大きなイベントであると、今はもう記録しているのだが。


 本当のライブ感というのは、なかなか伝わらないだろう。

 60年代から70年代は、チープであっても何か、意味の分からない映像として残っていたりするが。

 カラーでない時代など、普通にビートルズの映像も残っている。

 それよりさらに前の、プレスリーなどもそうである。

(まだまだこれからも、残していきたいものがあるんだ)

 月子自身を除けば、ノイズで作りたいものが一番多くあるのは、やはり俊なのであろう。

 残された時間が、長いのか短いのか、それは分からない。

 だが短いと考えた方が、いざという時になっても、後悔は少ないだろう。

 音源を作って、ライブを行う。

 ひたすらそれを求める俊は、むしろ彼の方が生き急いでいるようにみえるのであった。

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