第367話 またここから
300人の入るハコは、地方ならばトップレベルであるし、東京でもそうそうないほどの規模である。
これより上となると、もう1000人とか3000人とかそういう、すぐにはスケジュールが空かないほどだ。
300人のハコでも、そう簡単には空かないものだが。
俊や信吾、そして栄二なども、最初は50人や、それよりさらに小さなハコから始めた。
誰だってそうであるが、MNRなどはプロモーションをしっかりとして、いきなり大きなハコを埋めたものである。
300人のステージを少ないと感じるとは、偉くなったものだ。
ライブハウスでやるようなバンドは、むしろ最初の一回は、付き合いで知り合いがチケットを買ってくれたりする。
あるいはタダで配ってでも、どうにか集客しなければいけない。
俊にしても高校時代は、ぎりぎり二桁ぐらいの客の前でやったものだ。
文化祭のステージデビューして、大いに受けたものだ。
しかし2000円だの3000円だのを、高校生が簡単に用意するのは難しい。
ただで配るだけならば、俊も出来たものだろう。
だがそれをやっていてはまずいと、普通に分かっていたのだ。
大学時代に組んだバンドは、おおよそ問題なく50人以上を集めることは出来た。
しかしステージを上がっていくと、その限界が見えてくる。
未来があるのか、そこで足踏みするだけなのか。
いつかは先に進めると思って、同じことをしていてもいいのか。
労力も時間も、そして金も使うことになる。
俊は金ではあまり苦労しなかったが、それでも別の理由のために、アルバイトはしていた。
ノイズは本当に順調に売れていった。
俊がボカロPとしてある程度の知名度があったのと、月子の声の相乗効果。
そしてそこから暁が加わって、これがノイズの中でも強固なトライアングルになっている。
それは人数が倍になった今も、割り振りの仕事はこの三人をメインにしている。
月子とメンバーは話したが、ある程度の説明は必要だな、とは思っていた。
ただ出産の件に関しては、秘密にしておくべきであろう。
月子はしばらくの間、また俊の家に居候することになる。
だがこれで月子の食生活などは、俊なども管理が出来る。
それよりは子供二人を、三人で見た方が楽だろう、という理由もあったが。
俊は響のことも、あまり世話を出来ていない。
最近の賢くなってきた響には、それなりに父親として接することが出来るようになっているが。
響からすれば、母親から生まれた妹が、妹と言い切れないのが不思議である。
俊はちゃんと世話をするが、それでも一歩引いたところがある。
むしろ響の世話などは、初心者お母さんの暁よりも、田舎の近所づきあいで面倒を見ていた月子の方が、シモの世話まで教えていたものだ。
記憶に残るはずもないが、もう一人のお母さんがいたような気がする。
それが響の最初の記憶である。
月子は自分の病気に関しては、全部発表してしまおう、というつもりでいた。
ハンデを持って育ち、両親を早くに失い、イジメを受けて東京にやってきた月子。
さすがにちょっと人生が、マイナス面に振れ過ぎだろうと、周囲の人間は思っている。
「月子が決めたなら、それでいいとは思う」
俊はあくまでも、月子の意思を尊重する。
しかし月子にしても、自分の不幸を売ってでも、さらに売っていく必要はあるなと思っているのだ。
月子は母親になった。
あまり実感出来ないのは、やはり自分で産んでいないからであろう。
だが暁はしっかりと、自分の子供ではないのだと線を引いている。
お腹の中にいた頃には、自分の子供だという意識もあったのだが。
この子のことは普通に、娘のように扱っていく。
自分の遺伝子を持ってはいないが、養子でも血はつながっていない。
だが姪っ子程度の感じはずっと、持っているのには変わらない。
ノイズというグループは、馴れ合いのバンドではない。
しかし戦っているということは、よりその結びつきを強くする。
血縁というのはあまり、意識していない者が多いノイズだ。
俊などは実は、母方の祖父はオーストラリアで暮らしていたりする。
今までに数回しか会ったことがないが、実はノイズの活動を向こうは知っていたりする。
また父方も親戚はいるが、こちらは絶縁している。
父が成功した時と、そして借金を残して死んだ時とで、色々といざこざがあったのだ。
月子も母方は、自分が生まれる前にもう、祖父母は死んでいた。
一人娘と結婚したのが、よそ者の父であったのだ。
その父にしても叔母以外は、遠くの親戚しかいない。
血縁関係自体は、そこそこ近かったりもするのだが、山形にいた頃の親戚には嫌な思い出しかない。
そんな人生を送ってきても、それほど性根が曲がったりはしなかった。
これだけでも充分に奇跡であるが、それは叔母の三年間の保護と、なんだかんだ言いながら生活力は身につけさせておいた祖母の力のおかげなのだろう。
叔母はともかく祖母に感謝するには、かなりの時間がかかったが。
こういった二人に比べると、暁は確かに両親が離婚していたが、完全に没交渉になったわけではない。
子供の頃はそれこそ、亡くなった父方の祖母がそれなりに、面倒を見てくれたものだ。
母親の亡くなっている信吾も、頼れる兄と保護対象の妹がいた。
そして栄二はなんだかんだ言って、埼玉に実家がある。
父親が偉大であった俊もそれなりに、失敗を重ねていたものであった。
親との関係というものは、当然ながら人間に、大きな影響を与えるものだ。
離婚する前からそうであったが、俊は父親に可愛がられてはいたが、母親から無視されているわけでもなかった。
そして離婚する時にも、父には会えるという条件で、素直に母に引き取られた。
今から思えばここが、一番の決定的な分岐点であったと思う。
父はその頃には、もう没落の寸前になっていた。
過去の遺産を食い尽くしつつ、生活のレベルを落とせない。
なんだかんだ言って父親の会社が倒産するまで、お嬢様育ちであった母がむしろしっかりと生活できたのはこれも、今から思えば不思議なものだ。
これは後に聞いたことだが、その時に自分には何も出来ないことに気付いて、離婚までに色々と覚えたからだと言っていた。
将来的に崩壊することを、母は割りと早い段階から、気付いていたということだ。
それに父親としても、俊は出来のいい息子であるが、時々会えればそれで満足する存在。
特に虐待を受けていたわけでもないが、一歩ずれていれば問題になったかもしれない。
月子の人生については、ある程度は知られている。
この頃には既に、地下アイドル時代の話も、それなりに出回っていたのだ。
ただ化粧の具合や髪型などを大きく変えているので、あまりそうとは分からない。
それでもマスクの下の素顔は、かつてのように完全な秘密ではない。
どこから洩れたかは考えない。
そもそも分かる人間なら、声を聴けばほぼ分かるのだ。
それだけ地下アイドル時代が埋もれていて、ノイズのファン層ともかぶらなかったということだろう。
ただ活動の記録を追っていけば、ある程度は分かってしまう。
有名税とばかりに、追いかけるマスコミも出てくる。
このあたり月子の、なんだかんだ鈍くて強靭なメンタルは、芸能界には向いているのだ。
ノイズはあまり音楽以外の仕事を入れない。
それはずっと俊が続けてきた戦略だ。
芸能人というのは自分の人生を、切り売りしているところがある。
ならば出来るだけもったいぶった方が、長続きするだろう。
ミュージシャンが音楽以外で勝負していては、本末転倒の話である。
いずれは本にまとめられるとしても、ここで色々と書かれるのは避けたい。
ただ、月子の病気については、純粋に世間の同情を集めるだろう。
音楽以外の力で人気を得る。
俊の本音としては、そういうブーストはあまり望ましくない。
だが今の実力をもってすれば、それはただの勢いには終わらない。
伝説の中の一つとして、語り継がれるものとなる。
これで早世したら完璧である。
ただノイズとしては、まだまだ楽曲を生み出していく必要がある。
俊は月子のMC代わりの説明に、目を通しながら考える。
わざと作り出した話題性ではない。
ハンデキャップの存在によって。月子は微妙な存在となった。
障害者を叩く者は逆に叩かれる。
そういった武器を手に入れているのは、意識してのことではないがノイズの強さになっている。
俊や千歳も悲劇的な過去を持ってはいるが、月子ほどではない。
あまりに劇的な人生が、彼女をカリスマ化している。
本人は意外なほど、牧歌的なおのぼりさんなのだが。
「うん、これでいいと思う」
阿部と一緒にチェックして、月子の病状を通達することは考えた。
あとはこの影響が、どこまで出てくるかというものだ。
久しぶりの日本で、久しぶりのライブ。
セッティングからリハまで、しっかりと行っている。
スタジオではしっかりと、全てのリハを行っている。
だが実際のライブでは、想像以上にパワーが出てしまうものだ。
パッションの本流により、本来よりもずっと激しい演奏になる。
それはいいのだが、すると体力が最後までもつのか、そちらが心配になるのである。
妊娠から出産で、かなり体力の落ちている暁。
今回は悪阻もあったし、前回よりも慎重になっていた。
自分のお腹の中にいるが、自分の子供ではない。
それだけに慎重になっていて、無茶なことは出来なかったのだ。
もちろん月子も、体力は落ちている。
抗がん剤を副作用の影響を少なくする薬を使ったとはいえ、完全に0に出来たわけではない。
それによって健常の細胞にさえ、ダメージがいったのは確かだ。
なによりも肝臓の一部を切除し、機能自体が落ちてしまっている。
もうこれからは酒は飲めないな、というのが少し残念なところだ。
きちんと節制しても、果たして再発するかどうかは分からない。
一応は完治と言っても、五年は経過してやっとそう言えるものだ。
また今回の検査で、遺伝子的に癌のリスクが高いとも分かった。
これからずっと、病気の恐怖と戦って、生きていかなければいけない。
それでも生きていくための、力となるものは生まれてくれた。
自分の子供のためにも生きる。
赤ん坊の顔など分かりにくいとは言うが、なんとなく自分に似ているかな、と判別のつく月子である。
自分の娘という要素が加わることで、相貌失認の対象外になっている。
あとは娘にも、これが遺伝していないか、それが心配だ。
一応は脳に出来た血種の影響が、脳機能に影響しているのでは、とも言われた。
アメリカの病院でも、その可能性はあるとは言われたのだ。
だが下手に溶かしてしまったりするより、生活に不便がなければリスクを負わないほうがいい、という結論も同じであった。
事故からこちら、月子の人生はマイナスの方向にずっと振れている。
ノイズで成功してようやく、プラスとマイナスの釣り合いが取れたか、とも思ったものだ。
それが今回の病気。
しかし手遅れになる前に発見できたのは、不幸中の幸いだ。
これからずっと、死ぬまでこの体とは付き合っていく。
月子にはもう、しっかりと覚悟が出来ているのだ。
ノイズの活動再開ライブということで、300人のはずのハコに、それよりも多い人間が入っていた。
前座のバンドはそれなりの演奏をしてくれたが、期待を上回ることなど出来ない。
セッティングの微調整を行いながら、月子はステージの上からオーディエンスを眺める。
こうやって多くの人間を前に立っていると、自分が偉くなったように思ってしまうものだ。
月子はその点、いい意味で謙虚であった。
自分のハンデがあるので、誰かを馬鹿にするということがない。
単純に頭が悪いとか、虚弱であるとか、そういうことは本人の責任ではない。
問題があるとすれば、それは性格なのであろう。
ただ月子は、他人の悪意もあまり感じず、スルーしてしまうこともある。
『こんばんわ、ノイズです』
普段は俊か千歳が話すことが多いが、今日は月子が最初に話す。
『しばらく休んでいましたが、無事にステージに戻ってくることが出来ました』
それは本当に、ファンにとっては嬉しいことであろう。
『病気に関しては色々言われていたみたいですが、それはわたしの癌のことです』
癌という病気に関して、何も知らないという人間はいないだろう。
そして若年性の癌は、予後が悪いということを、知っている者もいるかもしれない。
『幸いにもアメリカでテスト中の薬を使って、手術も伴いましたが、こうやってステージに立てています』
月子の言葉に、わずかなざわめきも小さくなっていく。
闘病の公開である。
こうやって戻ってきたからには、ある程度は楽観してもいいのだろう。
それは分かるが、それでも怖くなってしまうのが、癌という病気だ。
『ただ遺伝子検査で、わたしは癌になりやすい体質だということも分かって、これから五年生きられても、また再発したり他の場所に出来たりする可能性はあります』
こういったことは、身内からならば聞きたくないだろう。
『けれど、人間はいつかは死ぬもので、わたしはその確率が他より、ちょっと高いだけ』
そう考えられるのは、月子が強いからである。
『こうやってステージに立って、歌うことが出来る。それがわたしの嬉しいこと』
本心から、月子は言っているのだ。
『いつ死ぬのか分からないから、今日を精一杯生きる。誰もが聞いたことかもしれないけど、わたしはそれを受け止めることが出来ました』
覚悟が決まった、と言えばそうであるのか。
人間、いつ死ぬのかは分からない。
だから後悔のないように生きる。
しかし実際のところは、ある程度は生きることを前提に、予定も立てなければいけない。
月子が言いたいのはだから、このライブにも全てを出していくということだ。
『皆にも、全力で歌うから、聞いてほしい』
そして月子が告げるのは、今日の第一曲目。
『新しく発信してる曲じゃないけど、ノイズはここから始まったから、今日もこの曲から始めるよ。ノイジーガール!』
激しいギターの旋律から、この曲は始まる。
また少しバージョンが変わっているが、大筋はもちろんそのままだ。
ステージで輝くことが出来る。
多くの人間には不可能な、ほんのわずかな人間の特別な才能。
いや、それは才能でもなく、奇跡とでも呼ぶべきものなのか。
月子の歌声には力があった。
一年以上もステージに立っていないとは、とても信じられないぐらいの。
そしてボーカルに合わせて、ギターもそのパッションを激しくして行く。
ノイズの復帰は、大きいとは言えないこのライブハウスから始まった。
終りがいつかは来ると、月子は分かっている。
だからこそ今日を、全力で生きるのだ。
活動の休止と再開の背景は、ものすごい勢いで世界中に拡散されていった。
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