第365話 新しい音
ボストンの冬が近づいてくる。
大西洋の影響か、冬場もそう極端に寒くはならないという街。
特徴的なのは、年間を通じてそれなりの降水量が、月ごとにそれほど変わらないということだろうか。
冬の前には日本に戻りたい。
東京は寒いが、建物だらけの土地でもある。
俊の家からであれば、電車一本で都心に行ける。
今ではもう暁の家でもあるのだが。
月子のことは業界の中でも、外部にはあまり知らせていない。
彼女一人の動向によって、レコード会社の株価などにも影響するからだ。
これが画家なら、死後に値段が上がってしまったりするのだろう。
だがMOONを使っても、さらにAIで調整を入れても、本当の歌声にはならないのが今の限界だ。
純粋に稼ぐ人間がいなくなって、株価は下がってしまう。
さすがにこのあたりは、俊としても想像の範囲外の話である。
これから先もずっと、月子は再発を恐れて、それでも子供のためにも生きていくのだろう。
いくらしっかり検査をしても、再発の可能性は高い遺伝子。
しかもこの体質は、50%の確率で遺伝する。
だが食生活の改善や、生活習慣の安定などで、発症する可能性は抑えられるはずだ。
俊も今回の話まで、癌が遺伝的な病気だという認識が、まるでなかった。
普通に年寄りになれば、癌になる確率があがるとは知っていたが。
細胞が劣化していけば、それだけ異常な細胞の発生する確率も増えていく。
癌になって死ぬというのは、細胞の老化であり人体の老化である。
それでも昔から、癌は身近な病ではあった。
江戸時代であっても、体の中の腫瘍によって、死亡するということは知られていたのだ。
「体調の管理のためにも、子供を育てるためにも、一緒の方が頼りやすいよね」
そろそろ陣痛が強くなってきた中で、暁はそんなことを冷静に言っていた。
自分の子供を、他の誰かが産んでくれる。
ハリウッドセレブにとってみれば、妊娠期間をキャリアの断絶としないための、当たり前になりつつある繁殖手段。
だが月子は日々、お腹が大きくなっていく暁の様子を見てきた。
それが膨らむごとに、自分の中の母性が大きくなるのを感じていた。
想像妊娠という現象がある。
妊娠もしていないのに、妊娠と同じ症状が、母体に起こることである。
月子が祖母から聞いていた事例では、親戚の次の赤ん坊を、養子にもらうと決めていた奥さん。
その親戚のお腹が大きくなるにつれ、妊娠していない自分さえ、母乳が出てきたという。
これは本当にあったことだと聞いているが、月子はさすがにそこまでの思い込みはない。
わざわざそこまで強調しなくても、子供が本当に自分の血を引いていると、分かっているからだ。
そして今日か、あるいは明日になってから、自分は母親になる。
暁が文字通り体を張ってくれて、それを自覚することが出来ているのだ。
冬になろうというこの時期、暁は自分の子供ではない第二子を出産。
エコーで見ていた通り、間違いなく女の子であった。
24歳で二度目の出産。
今の日本の基準では、かなり早いと言えるであろう。
「うわ~、おっぱい飲んでる」
日本の病院とは違い、金があればあっさりと待遇が変わる。
それがアメリカの医療の現場だ。
自分の子供が他人のおっぱいを飲んでいる。
いや、子供の父親の妻なのだから、他人ではないのだが。
それに月子にとって暁は、戦友と言っていいだろう。
友人と言うにはもっと、関係が複雑である。
そして共に同じ方向を向いて、突き進んでいる。
家族なわけではないが、あるいはそれよりも深い関係なのだ。
赤ん坊の顔立ちが、月子にはしっかりと認識できた。
これは単純に顔を記憶するというわけではなく、自分の娘を記憶する、という認識で脳が処理しているからだろう。
こんな生まれたばかりの子供、むしろ判別がつかない場合が多い。
しかし月子の能力は、ちょっと特殊なものなのだ。
響にとっては妹となる。
しばらくは月子も日本で一緒に過ごすので、その捉え方で問題ないだろう。
しかしやがて月子は、娘を連れて独立するかもしれない。
その時に妹をなくす響が、どう感じるものなのか。
「真っ赤だね」
生まれたばかりの赤ん坊は、だいたいそういうものである。
あとは名前をどう付けるかだ。
俊は男でも女でも通用し、自分と暁も一文字なので、響か奏にしようと思っていた。
奏はやや女の子向けなので、響と決まったわけだ。
月子の子供なのだから、名前は月子が付けるのが自然だ。
もっとも多くの感じが読めない月子には、音の付け方はともかく漢字は、ちょっと難しいものであろうが。
そう思っていたのだが、月子は月子で音楽用語は、ある程度は漢字でも読めるようになっている。
「和音と書いてカズネって読むの」
「へえ」
俊と暁も感心した。
フルネームであると久遠寺和音となる。
和音は音楽用語でそのまま「わおん」とも読むものだ。
なおこの名前の付け方については、千歳が相談に乗っていた。
漢字などを選ぶセンスは、千歳は優れたものがある。
和音とは一緒に鳴らした時に、心地よく感じる音の重なり。
これが心地よくはないものが、不協和音とも言われる。
ただわざと不協和音を使うテクニックもあるので、和音であれば正しいというものでもない。
月子はその人生において、周囲と上手く合わせることが、なかなか出来なかった。
和音という名前には、調和の音という意味を込めている。
今の名前ならば、わおんとそのまま読んでもいいだろう。
しかしかずねと読ませるところに、日本人らしさがあると言えようか。
月子は自分でもあまり意識していないが、そのあたりの感性は良くも悪くも古いものであったりする。
飛行機に赤ん坊が乗れるのは、生後八日から。
しかし実際には状態が安定する、一ヶ月ほど後からが推奨される。
暁の体調も一ヶ月すれば、ある程度は回復するだろう。
そこから日本に戻って、年末のフェスの準備に入る。
だがライブをもう、一年ほどはしていない。
信吾や栄二は日本に戻った時、ヘルプで少し入ったりはしたが。
アメリカにいた頃は、そういった機会もなかった。
ミュージシャンなら普通に、いくらでもいるのがニューヨーク。
ボストンにも音大の学生がいくらでもいて、それこそ下手なプロよりも上手い。
英語でのコミュニケーションがやや苦手な日本人を、わざわざ使う必要はない。
ノイズの名前にしても、バンド全体の名前はそこそこ通じるが、楽器パートの名前まで知られているというほどではない。
さすがにボーカルの名前は、ある程度知られているが。
ルナという名前にしたのは、正解だったなと思う俊である。
外国人相手にも、ちゃんと意味が分かるのだ。
その点では暁も、少しは分かりやすい。
千歳はアコギ一本を持って、適当に公園などで弾いたりもしていたが、とてもライブとは言えない規模だ。
もっとも彼女の声は、それなりに道行く人を止めるぐらいの力はあったが。
やっと本当に、日本に帰ることが出来る。
成功した人間というのは、出身国ではなくアメリカに、それもニューヨークに住むことが多い。
あるいは都市圏に住むならば、カリフォルニアのロスの都市圏を選んだりもする。
あちらには近くにハリウッドがあるのだ。
ただアメリカは国内で、大きく人件費の違いがある。
企業にしても平気で、本拠地を移動したりするのだ。
アメリカの成功者が晩年を過ごすのは、フロリダなども多い。
ただしフロリダは、全体的にそういった富裕層を狙った、強盗などもそこそこあるのだ。
日本人はやはり日本に住んだ方がいい。
少なくとも今の俊は、そう考えている。
世界の文化の一番の中心はニューヨーク。
それが分かっていても、日本にもまた東京があるのだ。
日本の場合は東京に、一極集中していると言える。
もちろん大阪などにも、それなりの文化的な背景はあるが。
福岡や札幌などに、ゲーム会社がかなりあるのは、知らない人からすれば意外であろう。
ただネットによるコミュニケーションが可能であれば、ある程度の都市でオフィスを構えるのに不自由はない。
東京は住環境も含めて、物価が高すぎる。
その点ではやはりノイズは、スタジオを自前で持っているというのが、大きな成功のポイントであったのだ。
今の専門的な世界は、幼少期からの環境がトップを作る、と言ってもいいだろう。
もちろん例外をいくらでも出すことは出来るが、成功率が違うのだ。
幼少期からそういう環境に育ち、その中で才能が峻別されて、トップに立っていく。
もっとも音楽の分野というのは、本当に創造性の世界の一つ。
その人間がどう生きてきたか、それがそのまま楽曲に出る。
コンポーザーの俊は、その点でやはり一番重要な人間だ。
響も和音も、幼少期からの環境には恵まれることとなるだろう。
ただ俊は響に対して、音楽のエリート教育をしようなどとは考えていない。
ただピアノなりギターなり、楽器は少し教えるつもりだ。
こういったものは普通に生きていく上でも、何かしらの場面で役に立つのだから。
ノイズのメンバーが全員、やっと日本に戻ってくる。
この間もずっと、新曲の発信などはしてきた。
しかしライブがなかったのは、本当にノイズの音を待っていたファンにとっては、物足りないものであったろう。
年末のフェスへの参加予定を見て、ようやく歓喜の声を上げる者もいる。
そんなノイズはゆったりとしたビジネスクラスの飛行機で、日本に戻ってきたのである。
産みの母親である暁が、やはり和音を世話することは多い。
他のノイズのメンバーとしては、響をいじり倒して寂しくないようにさせる。
このあたり子供を育てた栄二は、本当に一番頼りがいがある。
空港で皆を迎えた阿部は、特に俊だけを一人、自分の車に乗せた。
月子のことについては、パートナーという扱いで、俊も共に聞かされている。
「それで、本当にもう治ったの?」
「五年間再発しなければ大丈夫、というのが普通の癌なんでしょうけど」
月子のものは遺伝の性質が強い。
今回の癌が治ったとしても、また別の癌が発生する可能性がある。
もちろんあるかもしれないし、ないかもしれない。
普通の人間よりも、なりやすい可能性が高いというだけだ。
毎年一度は必ず、全身を検査していく。
おそらくそれで大丈夫だろうが、場所によっては一気に致命的なことにもなりかねない。
とりあえず年末までは、確実に大丈夫と言えるであろうが。
生活習慣を改善し管理する。
これは月子だけではなく、俊にもある程度必要なことだ。
また来年には、子宮筋腫の手術もする。
そこからまた体力の回復を待って、ようやく本格的な活動の再開となるだろう。
そういったものとは別に、俊は阿部とも話して、計画を進めていた。
AIによるボーカルの再現。
これはAIの進歩が早いので、どのようになっていくのかは分からない。
ただ俊からこれを聞いた時、阿部はその意図を理解した。
俊は月子が、近いうちに死んでしまうことさえ、考えているのだと。
「まあAIによるボーカロイドの制御も、ライブではさすがに対応出来ないでしょうけどね」
ボーカルがいなくなっても、続いていくバンドはある。
だがノイズがそういうバンドであるのか。
一応はツインボーカルだが、月子がメインなのはほぼ明らかだ。
彼女を失った時は、ノイズの終りであるだろう。
フェスの前に一度はライブをして、勘を取り戻しておく必要はある。
出来れば長いライブがいいが、それは月子や暁の体力の問題がある。
暁は10ヶ月もかけて、人間一人を生み出したのだ。
そして月子は臓器の一部を切除している。
もっとも出産日まで、普通にギターを弾いていたのが暁である。
そしてそれに合わせて、月子もスタジオで歌っていた。
アメリカでは本当に、医療に金がかかったものだ。
しかし基本的な医療、妊娠出産に関しては、日本の保険を使うことが出来る。
金がなければ治験に参加し、運が良ければそれで治る。
ただ今回の治療に関しては、本当に金が必要になった。
それでも普通の手術の方には、日本の医療保険が使える。
正確にはこれから手続きをして、還付されるのを待つのだが。
俊はこの一年以上の時間で、当たり前のことを思い出した。
人は必ず死ぬのである。
それこそ月子は、確かに病気で死ぬ可能性が高いのだろう。
だが歴代のミュージシャンには、酒やドラッグを原因として、事故死した人間が少なくはない。
アルコール中毒は、普通に死ぬものであるのだ。
またジョン・レノンは暗殺された。
実行犯は捕まったまま、ずっと刑務所の中である。
ビートルズの熱烈なファンに、逆に殺される可能性が高くて、とても釈放できないのだとか。
ルックス売りをしていないノイズは、変なアイドル的なファンはついていない。
だがその音楽性に対し、文句をいうファンは必ずいるのだ。
日本のミュージシャンの中にも、これは自殺ではないのか、と言われるような人間はいる。
また芸能人であれば、それこそ本当に自殺した人間がいる。
今は芸能人であっても、一般人と距離が近い世界。
だからこそノイズは積極的に、日常の様子などを公開したりはしないのだが。
いずれは月子は死ぬし、自分も死ぬ。
人が生きる理由は、死ぬまでに何を残せたかによるだろう。
俊はとにかく音楽を残す。
楽曲を残すことが、俊にとっての生きる理由だ。
ひょんなことからもう一つ、残すものが増えてしまったが。
別に音源として、残す必要もないのかもしれない。
重要なのは音楽によって、どれだけ人の心を揺さぶったかだ。
そのためにはやはり、ライブをどんどんと行っていかなければいけない。
(あくまでも無理のない範囲で、ライブをどんどんとしていく)
結局は昔と変わらないな、と心の中で苦笑する俊であった。
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