第364話 レコーディングバンド
日本に戻ることなく、ノイズは新曲の発信自体は続けた。
ただ俊としてはこの状態が、あまりいいとは思っていない。
アメリカにいるならアメリカにいるで、巨大な都市圏をツアーで回りたい。
もちろんそれは許されることではない。
月子の体調は、体力を維持することが求められる。
薬の効果でダメージを少なく出来るといっても、完全に何も副作用があるわけではない。
レコーディングにしても、体調のいい日を選んでいるだけだ。
人はいずれ死ぬ。
それは誰もが分かっているはずだが、本当の意味で分かるのは、身近な者の死を経験するしかないかもしれない。
老人になれば当たり前のように死ぬ。
だが平均よりもずっと早く、死んでしまう人間はいる。
幸いなのかどうか、俊は同じような年齢で、親しい人間が死んだことはなかった。
しかし今の月子は、死から近い存在である。
本当ならば月子の歌を、ライブで伝えたい。
鑑賞ではなく体験。これこそが人々の記憶に残るものだと思うのだ。
病気をしっかりと治して、それからまたどんどんとライブをしていけばいい。
それに来年の今頃には、家族も一人増えているはずだ。
完治したとしても、月子が一人で育てるのは難しい。
ならばまた俊の家に戻ってきてもらえば、上手く暁が見てくれることも可能になるだろう。
響にとっては完全に、弟か妹の扱いになる。
そんな響は現在、一緒に海外に連れてきている。
暁の実家に預けるというのも、少しは検討したのだ。
だがあちらのママさんは、新人のママさんなのである。
保も暁の時は、実家の母親に手伝ってもらったりしていた。
しかし今となっては、それも苦しい年齢である。
アメリカは女性の社会進出が、日本よりもはっきりとしている、
そのため保育園なども完備していると思われがちだが、実ははるかにその数は少なく、しかも公立のものではない。
つまり保育料が高いのだ。
上流層は専門のシッターを雇うが、他は預けるのも日本の下手な私大並の料金。
貧困階級には援助があるが、むしろ中間層がしんどかったりする。
ノイズの連中は基本的に、自宅となっている家で生活している。
そして子育ての経験のある人間が多いので、響は色々と構ってもらっていた。
幼稚園にしろ何にしろ、同じ年齢層と関わらないのは、ちょっと人格が歪むかもしれない。
そう考えて週に一度ぐらいは、保育所に預けてみたりもする。
だが響は日本語しか話せない。
それでも子供同士であれば、普通に意思疎通が出来るらしいが。
ノイズの皆の子供だ。
これから生まれてくる月子の子供も、そうやって思われるのかもしれない。
少なくとも俊は自分の子供であるし、暁も自分の子供であるという意識がある。
そういった子供の世話は、千歳はほとんど焼いたことがない。
千歳は日本に、ちょっとよさ気な雰囲気になっていた男と、離れて今は暮らしている。
だが連絡自体は頻繁に取っている。
年下の男の子だけに、思ったよりも手がかかる、などと言っていた千歳。
しかし実際には寂しそうにしているのは、千歳の方であろう。
人間関係や育児環境に、悪い影響が出かねない。
栄二にしても娘がある程度の年頃でなければ、日本を離れることは出来なかったであろう。
ノイズというグループの存続に、メンバーが全力を出している。
現実的には確かに、活動するには全員がアメリカに来るしかない。
幸いにも月子の癌は縮小している。
あとは手術をして取ってしまって、それからまた体力の回復を待って抗がん剤治療、という流れになっている。
効果がしっかり出ている間は、他の治療を併用するのは検討までに終わる。
月子は当然のように痩せたが、それでも声の力は持ったままであった。
レコーディングをやっていると、今までにない感情を与えてくる。
それこそ逆にこの病気が、月子に新たなパッションを与えたように。
苦しみの中から、彼女の音楽は生まれた。
今は新しい苦しみが、また異なった音楽を生み出しているのかもしれない。
喜怒哀楽という。
それ以外にも感情は、人間を複雑な存在としている。
安楽な人生からは、深みのある創造性は生まれない。
そう信じている人間はいるかもしれないが、何に怒り、何を悲しみ、そして苦悩するのか。
結局のところはその人間が、何に飢えているかによるだろう。
俊などは別に、もっと簡単な人生を送れた。
そしてそれは、一般的な幸福になったのかもしれない。
だが俊にはどうしても、それが不可能であったということはある。
音楽によって、呪われてしまったようなものだ。
だからボカロPとしては、あの映画のアマデウスを見て、サリエリと名乗ったりもしたのだ。
環境がぎりぎりのところから、スターダムにのし上がる人間はいる。
逆に恵まれた環境から、普通に成功する人間もいる。
理由があって自分はこうなっているのだ、と思い込みすぎるのは良くない。
創作者が創作するのは、それぞれのオリジナルの理由が必要となる。
俊は音楽に囚われて、そして呪われたように離れることが出来ない。
ひたすらギターを弾くのが好きな暁も、やはり呪われているようなものなのだろう。
結局プロで音楽で食っていくような人間は、どこかおかしな存在ではあるのだ。
別になくても生きていける、虚業の世界。
特に芸能界は、虚構の世界ですらある。
それでも人はそこに価値を見出した。
健康で文化的な生活のためには、音楽もまた必要なもの。
人はパンのみによって生きるわけではないのだ。
手術によって、縮小した病変のある、肝臓の一部を切り取る。
これによってまずは、当面の治療は終了である。
次は子宮筋腫の手術となるが、これは別にアメリカでやらなければいけない、というものでもない。
肥大していく状態も見えないため、まずは体力を取り戻してから、また時期を開けて手術をした方がいい。
そして定期健診によって、他の箇所で癌が発生しないか。
五年再発がなければ、完治とされるのが癌という病気である。
ただアメリカの病院であるだけに、しっかりとした検査も行われた。
何かと言えば、遺伝子検査である。
今の医学では遺伝子のどの部分が、癌になりやすいものか分かっている。
それを早期から調べておくと、癌の予防にも役立つのだ。
そして説明されたのは、そもそも月子は遺伝的に、かなり癌になりやすい遺伝子を持つということ。
これに対する治療法も、今では幾つか存在する。
免疫力を高めて、癌細胞を抑える、というのも一つの方法だ。
単純なものであると、純粋に食生活を変えることが、癌の予防につながる。
月子が便秘になって、それによって癌を呼び起こしたのだとしたら、確かに食生活にも原因がある。
欧米の食生活になってからは、癌によって死ぬことが多くなった。
ただこれはやはり順番が逆で、癌で死ぬまで生き延びる栄養になった、ということでもあるだろう。
これだけ色々と癌になる原因は分かっている。
それでも遺伝的なものであると、若いうちの早期発見は難しい。
細胞分裂が早いと、それだけ癌も進行しやすいのだ。
月子の場合は、むしろ運が良かった。
便秘から子宮筋腫が見つかり、しかし医師が子宮筋腫以外の原因をも考えたのだ。
全身の検査をしていなければ、見つからなかったかもしれない。
もっとも子宮筋腫と大腸癌は、場所が近いだけに筋腫の方も、悪性であることが予想されたのだが。
良性のポリープだと判断され、そのまま単純な手術になっていたらどうなったことか。
医師がなぜ他の病気も疑ったのかは、血液検査の血球の数からであったらしい。
子宮筋腫が良性の割には、おかしな数字が出ていたからこそ、全身の検査をした。
この医師が一番、月子にとっては命の恩人だったと言えよう。
血液検査の数字だけで、全身の検査をというあたり、ものすごい直感なのでは、とも思うが素人には分からないことだ。
ともかくこれで、一応は安心できる。
しかし遺伝的な問題で、今後はずっと定期的な検診を受けた方がいい。
実際に慶応大病院でも、そちらの検査をやるように言われていたのだ。
つまりこれからもずっと、癌には注意して生きていかなければいけない。
それでもQOLを落とすことなく、それなりに大きな癌の治療が終わった。
アメリカでの新薬を使ったことにより、治療費はそれなりに高くはなった。
だが副作用が少なくて済み、月子の体力も減らなかったことは、復帰のためにはいいことである。
ただ言われたのは、生活習慣や食生活の改善である。
癌になりやすい食事、というのは確かに存在する。
また高カロリーの食事なども、あまりいいとは言われない。
加えて適度の運動で、体力をつけること。
肝臓をそれなりに切除したのだから、肝機能の低下も当然あることなのだ。
そしてこれは喜ばしいことである。
暁のお腹が、やや目立ち始めた。
妊娠も安定期に入り、飛行機での移動も止められることがないタイミングになる。
月子の治療が終わった今、本当ならば日本に帰ってしまった方がいい。
だが出産してから後に帰国することが、戸籍上の月子の子供とする条件になっている。
ただ産んでしまえば産んでしまったで、今度は赤ん坊を連れて飛行機に乗ることになる。
さらに小さい子供までいるのだから、むしろ移動が大変になる。
法律の問題なので、どうしようもないことなのだ。
悪阻も終り、胎盤もしっかりと定着しているのが、病院でも確認された。
しかし日本に帰って産んでしまうと、これは俊と暁の子供、として届けられることになる。
産婦人科の医者に頼んでも、日本の医学界の決まりがそうなっているので、どうしようもないことだ。
アメリカで産んでこそ、月子の子供になるのである。
この時期には性別も分かってきていた。
女の子である。
名前をどうしようか、という気の早いことも考える。
月子の子供であるのだから、月子が考えることである。
そして腹部が重くなってくるにつれて、暁は母性本能が働きだす。
これは自分の子供ではないはずなのだが、どうしようもなく自分の子供だと感じてしまう。
当たり前なのかもしれないが、この子は自分の子でもある、と考えてしまう。
自分の夫の子供なのだから、自分の子供でも問題ないだろう。
暁がそう感じてしまうのは、どういうメカニズムによるものなのか。
考えてみれば動物であっても、普通に人工授精で自分の子供として育てる。
だから遺伝子よりも、誰が産んだかが問題になるのだろう。
一人目は男の子であった。
女の子も欲しかったな、と暁は思ってしまう。
(あと一人頑張ろうかな)
ミュージシャンとしてのキャリアが断続的になるが、生物の本能には抗いがたい。
予定であれば12月に入る前に、日本に戻ることが出来る。
年末のフェスには、どうにか参加出来るというわけだ。
およそ一年間の活動の縮小。
それでもまた音楽の世界で、ライブを行うことが出来る。
癌になりやすい遺伝子、というのは分かってしまった。
これからも定期的に検査をして、そして戦っていかなければいけない。
運よくちゃんと見つけてはもらったが、今回の治療にしても本当に成功したのか、数ヵ月後にしか分からない。
もしも転移していたら、それこそまた薬剤での治療となる。
またアメリカに行く必要が出てくるのだ。
(けれど、世界はまだ、月子を必要としているんだ)
ガッツリと体力を削られながらも、月子はまた歌うことが出来るようになるのだ。
アメリカで月子が動けない間に、俊は色々と試していた。
そして日本の会社と、新たな技術についても考えていたのだ。
いや、技術的には既に、ちゃんと前例がある。
ボーカロイドよりもさらにその最先端。
AIによる歌唱の実現である。
これが成功してしまえば、ボーカルが要らなくなるのではないか。
そんな心配もされていたが、そもそもこの分野の技術は、既に研究されているのだ。
かなり似せるところまでは、確かに出来てくる。
だがライブ感はさすがに、まだAIでは出来ない。
ただ新しい方向性として、面白いものであるのは確かだ。
現代の音楽の歴史は、コンピューターをなくしては語れない。
楽器にしてもエレキギターなどは、電装の部分がある。
ボカロPなら誰でも、ソフトを使って曲を制作している。
実際の音声は、生音から取ったりもするが。
子供が生まれたら、一ヶ月ほどは外への免疫など、注意しておいた方がいい。
そこを過ぎればもうすぐに、日本に帰ってしまう。
アメリカの医療費が高いというのは、本当に分かった。
だからこそ医者という職業を、高収入として維持することが出来るのだろうが。
弁護士は多すぎて食えない、という人間も相当にいる。
日本もそうだが弁護士は、仕事の奪い合いが起こっているらしい。
医者はまだしも、あちこちで必要とはされている。
日本にしても医者と一言で言っても、臨床の医者と大学などの研究者、そして企業の研究者などと生き方は色々とある。
弁護士のくせに野球選手で稼いでいる人間もいるように。
ミュージシャンにしても、演奏する側ではなく、俊のようにエンジニアとしての能力を持っている人間もいる。
作曲や作詞に、アレンジの編曲も含めて、色々な形のミュージシャンがいるのだ。
その中でも特に傑出した独立性を持っていると、アーティストという分類になっていくわけだ。
俊としてはミュージシャンならばまだしも、アーティストと言われるのにはしっくりこない。
自分は間違いなくエンターテナーだと、そういう自覚をしているのだ。
もちろんアーティストの面は、確かにあるのだろう。
だが俊は自分のやっていることは、再構成だなと考えている。
本当の意味での創造性から作成したのは、せいぜいが数曲。
他はある程度の共通点が、既存の曲に存在する。
歌詞にあるメッセージについても、実体験や伝聞から生み出したもの。
単純にそのバランスが良かったからこそ、売れたのだろうと思っているのだ。
次は暁の番である。
これまた金はかかるが、日本人の場合は海外で一般的な医者にかかった場合、日本の医療保険を使うことが出来る場合が多い。
月子の場合も新薬はともかく、普通の外科手術に関しては、それで随分とお安くなるのだ。
出産に関しても、同じことが言える。
日本の場合は産婦人科が少なくなっているため、色々と問題も起こっているが。
出産が終り日本に戻れば、いよいよフェスにまた出られるかどうかを決める。
月子も数度の手術を受けているし、また暁も妊娠と出産だ。
二度目のことなので、前よりは楽になっている、ということもありえる。
ベテランとまでは言わないが、初産は時間がかかるものなのだ。
年末のフェスには、出来れば参加したい。
およそ一年間に及ぶ、ノイズの活動休止からの活動再開だ。
このアメリカ滞在中に、色々と新曲を作ることが出来た。
ボストンの音楽大学に行ってみれば、前衛的なロックをやっている人間もいたりする。
またロックよりもジャズなど、そういった方面も大学ではやっている。
ただアメリカの最先端の音楽、というイメージを持つことはなかった。
比較的ニューヨークにも近いため、車を飛ばして色々と聞いてみたものだ。
ヒップホップやR&Bは、確かに流行していると、長期の滞在で感じられた。
しかし海の向こうから、色々なバンドがやってくるのもアメリカだ。
ロックは死んだと言われる中で、グランジ系はそこそこ続いていたりする。
またR&Bのシンガーというのは、それだけ影響を与えている。
いわゆるハードロックやメタルなどは、確かにもう先鋭化しすぎたものしか存在しない。
あるいは古いバンドなどを、ずっと愛好している人間が多いだろうか。
ただアメリカは日本よりもずっと、音大で専門的に、音楽をやっている者がいる。
それこそボストンでは、かなり若手のミュージシャンの、演奏を聞いたりしたのだ。
アメリカには音楽が集まる。
しかし俊の探し方にも問題があるのかもしれないが、日本の音楽のガラパゴス化に比べると、かなりのっぺりした印象になる。
あの小さな島国から、どうしてこういった音楽が生まれるのか。
コンテンツとしても日本は、アニメやマンガで大きな市場となっている。
国内だけではなく、今や国外にも届けられているそれら。
世界は情報に溢れていて、それはどこまでも飛んでいく。
SNSというアイテムによって、人は簡単に情報を発信出来るようになった。
さすがに活動休止中は、どのように日本で言われているのか、気になった俊である。
ちゃんと新曲の発信自体はしていたが、レコーディングバンドになるのかと、失望した意見が寄せられていた。
こういったものへの対応は、ずっと事務所の方が行っていた。
千歳はともかく月子はもちろん、暁もあまりやっていないのだ。
(年末のフェスの前に、少しは感覚を取り戻したいな)
だからといって今はまだ、月子が回復していない。
そして回復した頃には、暁の出産が迫っている。
この間に信吾や栄二は、何度か日本に戻っている。
千歳の場合も戻ったことはあるが、それでも出来るだけアメリカにいるようにしていた。
アーティストビザでもって、アメリカに半年以上もいる。
この更新が面倒だな、などと思ったりする千歳であった。
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