第362話 三者の関係
月子は暁と同じく、男性との恋愛関係というものが分からない。
暁の場合は鈍いだけで、勢いがあればそれでくっつけたが、月子の場合はそもそも顔を記憶出来ない。
俊や信吾などほども親しくなればさすがに分かるし、ゴートなどの目立った美形も区別がつく。
しかしだからどうなのだ、という話である。
月子は視覚からではなく、聴覚や嗅覚から、人を区別する手段を持っていた。
それは同時に、人の好悪も決めていった。
月子の歌声がクリアな高音であるにも関わらず、どこか叙情を持っているのは、声色に感情を込めて相手に伝えるから。
単純な言葉の意味以上のものを、その歌は伝えてくれる。
自分自身がそう受け止めているからこそ、自分自身もそのように歌う。
これもまたハンデキャップから生まれた、月子の持つ力ではあるだろう。
そんな月子は男性との恋愛関係が分からないのに、家族を持つことには憧れていた。
思えば千歳もそうであり、特に考えていなかった暁が、最初に結婚して家庭を作ったのは、皮肉と言えば皮肉であろう。
結婚は勢いと言うよりは、単純に出来ちゃった結婚である。
昨今は授かり婚と言うらしいが、どのみち何かのきっかけで結婚するのは、それはそれでいいのだろう。
月子と暁が二人でいた時間は、確かに存在した。
その間にどうして、そんな無茶な話になるのか。
もっと最初から自分も話に入れるべきでは、と俊は思った。
「そうかもしれないけど、まずは奥さんの了解を取るのも気持ちは分かるでしょ」
阿部はそう言ったのだが、俊としてはよく分からない。
「既に結婚して子供もいる人間から精子提供を受けたら、遺産相続問題とかがどうなるか分からないし、それに……」
こういうことは口にもしたくない阿部である。
「ツキちゃんが亡くなったとしたら、アキちゃんは普通に育てると思うけど、俊君は他の男の人と月子ちゃんの子供を育てる?」
暁が代理母になったとしたら、たとえ血はつながっていなくても、自分の腹を痛めて産んだ子になる。
だが俊にとっては、月子の子供ではあっても、あくまで他人の関係だ。
そのあたりの感覚に齟齬があるのか、と俊は感じた。
分かるような分からないような、微妙な感じである。
「アキちゃんが妊娠して、またギターを弾けなくなるのが問題なわけ?」
「いや、それは……」
月子の病状次第と言えるであろう。
女性の大腸癌は、それなりの死亡率になっている。
ただ今回のように、明確な転移が見つかっていないものは、それなりの生存率になっている。
しかし癌というのは、若ければ若いほど、逆に死亡率の高くなることがある。
細胞分裂が活発であるため、癌細胞も元気なのだ。
月子が死ぬ可能性は、100%だ。
なにせ人間は、誰だっていつかは死ぬのだから。
問題はどれだけを生きて、何を残すかということだ。
そして月子は、今は自分の血を残すことを考えている。
遺伝子よりも作品を残したい、と考える俊のような人間は少数派なのだろうか。
生物であれば普通に、遺伝子を残すことを重視する生き方をする。
また人間の社会についても、子孫を残すことをフォローするシステムになっている。
普通に子供が生まれなければ、社会自体が存続しないからだ。
手術が終わった段階では、転移らしい転移は見つけられていない。
浸潤していた部分も、しっかりと取れている。
問題は体の中を通って、どこか遠くの器官に転移していた場合だ。
その時は場所によるが、難しい闘病となる。
放射線治療や抗がん剤治療については、ある程度の知識は持っている。
ただあまり音楽に活かせそうにないということで、積極的に獲得する知識ではなかった。
ともかく月子と暁の意見は分かった。
俊としても別に、赤の他人に使われるならともかく、月子ならば問題ないと思える。
ノイズは運命共同体で、特に月子や信吾は一緒に暮らし、家族にも近い関係であった。
今でこそ別々に暮らしているが、それでも遠い親戚よりは魂が近い。
「暁がいいなら、俺も構わない」
その程度には俊も言えるのだ。
これについては二人は既に医師に相談していたらしい。
医師は精子提供については、特に問題はないと告げる。
ただ代理母については、日本では行われていない。
本人以外の卵子を使うこと自体は禁じられていない。
だが暁の場合は本人の生殖能力がはっきりと存在するため、他者の卵子で妊娠することが出来ない。
つまりやはり、アメリカに行くしかないのである。
アメリカ以外にもやっている国は多いが、話が早いのがアメリカである。
精子提供というのは本来、遺伝子的にはその子供の父親となるが、法的には父親でないというものである。
だが遺伝子的に父親であり、さらに妻である暁が産んだなら、それはさすがに法的にも父親とされる。
アメリカで月子の子供として届けて、そして日本に連れて来る。
これで法的には月子の子供ということになるのだ。
「男の子とか女の子とか、選ぶことも出来るのかな?」
「それはどっちでもいいと思うけど」
どちらかでないといけない、などとは全く思わない暁であるらしい。
ともあれ夫婦の間でも、意見はなんとかまとまった。
問題はいつ行うかであるが、それはさすがに自分たちでは分からない。
なので医師か、あるいは法律家に確認するしかないであろう。
法律にしてもそもそも、日本の場合は代理母を認めていない。
万が一のことを考える。
考えたくもないが、それでも最悪を考える。
(俺の遺伝子なら、俺の子供で問題ない)
暁が気にしなければ、という前提はあるが。
俊はもう少し責任をもって考えている。
月子の読解障害と相貌失認は、交通事故時の後天的な要因である可能性が示唆された。
ただしこれらの障害は、遺伝的なものでもあるのでは、という説がある。
脳の構造は、ある程度遺伝してもおかしくはない。
そういった子供が生まれる可能性を、ちゃんと計算しているのだろうか。
(いや、それでもいいか)
もっと重要なのは、俊と暁の納得である。
月子のために子供を作ってやるということ。
それならば、と俊は決断したのであった。
退院してからこちら、ようやく月子が練習に戻ってきた。
しかしさすがに、以前ほどのパワーが感じられない。
それでも高音のクリアな声というのは、人の声ではなかなか真似出来ない。
MOONによって作られた楽曲であっても、本人の声には敵わないのだ。
感情というものが乗っていない。
そこを上手く調声するのが腕の見せ所なのだろうが。
次のライブに関しては、まだ予定が立てられていない。
月子の体力が回復してから、ということになているからだ。
レコーディングなどならともかく、ライブは体力をものすごく消耗する。
臓器を切り出すというのは、肉体を削るということ。
それだけ体力が削れていてもおかしくはない。
ただ暁と千歳には、お通じがよくなったのは幸いだ、などと言っていた。
これで定期的に子宮筋腫の手術まで、転移が見つからないといい。
もしも転移があった場合は、本当に余命は長くないと思われる。
場所によるがおそらくは、抗がん剤や放射線治療では追いつかないのだ。
しかしまだアメリカで治験をしている段階の、特別に優秀な薬があったりする。
いくつかの抗がん剤を乗せて、その癌の部位だけを攻撃するという薬であるらしい。
つまり抗がん剤の副作用を、極端に減らすことが出来るのだ。
ただし問題はあって、抗がん剤そのものが効果がなかった場合は、いくら使っても無駄だということ。
癌とは細胞の異常な増殖なわけであるが、それに色々な種類があるというのは、初めて知った俊である。
この治療をするのならば、アメリカに行かなければいけない。
またこれは保険も利かないのだが、治験の段階の薬なだけに、むしろ高額の医療にはならなかったりする。
入院と手術をした慶応大学病院の医師は、そのような説明をしてくれた。
希望を伝えるものではあったが、声音自体は淡々としたものである。
おそらく治療が上手くいったのも、いかなかったのも両方があるのだろう。
とりあえずは先に、定期的な検診で転移が見つからないのを祈るのみである。
今年は夏も、フェスに参加は出来そうにない。
暁のギターが代理であった時は、まだしもノイズの音になっていた。
だがメインボーカルが代われば、それはもうほとんど別のバンドと言ってもいい。
実際のところは洋楽のレジェンドバンドなど、ボーカルが交代していたりはする。
それこそQUEENなどもそうなのである。
オリジナル四人のうち、フレディは死にもう一人は引退した。
しかしギターとドラムが残っている間は、確かにまだQUEENと言っていいのだろうか。
月子ではないボーカルが、ノイズと言えるのか。
それはちょっと難しいと、俊は考えている。
新曲は作成し、練習してレコーディングして発表する。
ネットの世界の中では、ノイズはしっかりと活動している。
しかし大規模なライブやフェスなどは、なかなか計画が立たない。
代わりと言ってはなんだが、MVは色々と制作しているのだが。
おおよそ三ヶ月ほどしてから、今度は子宮筋腫の手術である。
なんとか子宮は残せるが、代理母を利用するなら、別に必要のない器官でもあるのか。
そう考えるのは男性だけで、女性は子宮を取った場合、自分がもう女性ではないのだな、と感じたりもするらしい。
一応は将来的な妊娠の可能性も考えて、患部を切除する、という方針で手術をする。
しかしここで、検査で嫌なものが見つかった。
ごく小さなものであるが、癌の転移らしきものが見えたのである。
場所は肝臓である。
肝臓の癌というのは、発見した時には手遅れであることが少なくない。
月子の場合は転移がないかを検査していたため、とても小さい部分で見つかった。
これを手術で切除すること自体は、簡単なものである。
だが重要なのは、転移箇所として見つかった、ということなのだ。
一部に転移していたのなら、他の部分にも転移している。
癌というのはそう見るのが、一般的な病気である。
しかも今回は、大腸からは離れた肝臓という臓器。
その間のあちこちに転移している可能性は、もちろん存在する。
全身の検査をした限りでは、他には見つからないのだが。
子宮筋腫の手術は中止である。
前回の検査と比べても、この良性の筋腫は大きさを、変えているわけではない。
それよりも手術で体力を失うことを危険視した。
ここからは抗がん剤や放射線による治療を優先する。
ただ何度も言われたが、一度転移が見つかった場合、他の部分でも転移している可能性はある、というものであった。
月子としてはボランティアに参加した中で、抗がん剤治療の話なども知っている。
分かりやすい副作用は、髪の毛が抜けてしまうというものだ。
また他にも様々な副作用が出てくるが、重要なのは抗がん剤が効果があるかどうか。
同じ癌であるのに、効果があったりなかったり、また抗がん剤の種類が違ったりもする。
以前に切除した部分から、癌の種類は判別されている。
比較的浸潤しにくい癌であろう、とは医師は分かっているのだ。
なので転移があったとしても、まだ余命宣告をする段階ではない。
一応ステージ4に分類はされる。
だが同じステージ4でも、平均余命に差があったり、完治する可能性があったりするのだ。
重要なのはまず体力である。
抗がん剤は正常な細胞も攻撃するので、体が破壊されていくという感覚がある。
ここで俊は以前に調べていた、抗がん剤を大量に使っても、副作用がないという薬のことについて質問する。
「日本ではまだ認可されていないというか、アメリカで治験が始まって、日本でも治験をしてはいます」
気分を害したようでもなく、医師はそれに対して頷いた。
アメリカならば治験をやっているし、この薬も保険の範囲外にはなるが、使うことが出来る。
金さえあるのであれば、その選択もいいだろう。
「あちらの医師に対して、紹介状なども書きます」
「日本での治験に参加することは出来ないんですか?」
そこは知らなかった俊に対して、医師は治験について説明をする。
治験というのは要するに、まだ実験の段階なのである。
そしてこの場合、実はその治験に参加しても、ダミーの薬を投与される場合がある。
同じような症例に対して、ちゃんとダミーと比べて効果があった、と確認するのが治験である。
ダミーではないものを投与する治験は、ちょっと難しいものがある。
アメリカでならばそこは、間違いなく先端医療として、使ってもらうことが出来る。
ならば日本では、これ以上はやることではなかった。
月子は諦めてはいない。
諦めるのはもう、ずっと昔から何度もやっていた。
むしろ周囲の方が、この残酷さに落ち込んでいたかもしれない。
彼女の人生は本当に、波がありすぎる。
成功した今のステージであっても、それまでの苦難や不遇を思えば、それにようやく返ってきたものと言えるだろう。
「アキちゃん、お願いしていいかな?」
月子は自分の子供を、その手に抱くことも諦めていない。
暁としては望むところである。
一度出産を経験した身からすれば、二度目もどうってことはない。
嘘である。出産は苦しいことだ。
ただ覚悟はもう、ずっと前にしていたのだ。
「長期でアメリカに行くことになる可能性があるから、向こうでもレコーディングを行おうと思う」
俊はノイズメンバー全員で、アメリカに移動することを宣言する。
栄二のところはそろそろ、子供もある程度は手が離れている。
絶賛反抗期中であるらしいが、かえってそれなら距離を取るのもいいだろう。
信吾に関しても、特に問題なく頷いた。
「そこまでして向こうでも、レコーディングしないといけないの?」
千歳は否というわけではなかったが、俊の言葉には焦りを感じている。
俊は芸の鬼である。
月子のことに関しては、絶望しているわけではないが、楽観もしていない。
なので月子のためにも、その歌声を少しでも残しておきたい。
今後の治療のためにも、金はあるだけあった方がいい。
だが本音を言えば、やはり月子が生きている間に、その歌声を残しておきたいのだろう。
人間の生まれてきた価値というのは、誰がどう決めるのか。
それは自分自身が決めるものだが、周囲が決めるものもあるだろう。
そして世界をどれだけ変えたかが、その人間の価値になるのかもしれない。
月子の歌声や、どの半生のドキュメンタリーによって、勇気を与えられた人間は多い。
ならば出来るだけ、生きてきた証を多く残してやりたいのだ。
いくら言葉を飾っても、俊の本音は分かりきっていたが。
俊はこういう人間だ。
金のためならなんでもする、というタイプの人間ではない。
だが自分自身は音楽に捧げて、他者をも捧げるような人間だ。
しかし月子の子供を、暁が産むことには賛成した。
そして万一の時には、自分たちの子として育てることも覚悟している。
そこまでやるのだから、月子も限界までやってくれ。
もちろん一番いいのは、病気が完治して子供は月子の手元で育ち、ノイズはまだまだバンドとして続いていくことだ。
だがノイズの活動する上においても、俊はいつも最悪を考えてきた。
最悪のダメージを少しでも小さくするように、俊は選択してきたのだ。
月子が失われてしまったとする。
だがその時は自分が、彼女が生まれて生きたきた証を、全力で世界に刻み付けるのだ。
MOONを作ったことは、その中でも重要なことの一つになっていた。
当時はもちろん、こんな事態になることは考えていなかったのだが。
俊はかなり、人間の情緒からは外れたところがある。
だがそれも音楽のためという、自分の覚悟があるからだ。
千歳としては日本を離れるのは、しかも長期で離れるというのは、躊躇うところがないわけではない。
しかし彼女もまた、自分を構成する何割かが、ノイズで形成されているのを分かっていた。
「分かったよ。あたしも了解する」
千歳が思い出すのは、一瞬で目の前で失われてしまった、両親の最後。
あの衝撃に近いものが、また自分を襲うかもしれないという恐怖。
ノイズの人間の中には、肉親を失っているメンバーが多い。
暁も離婚という形ではあるが、母とは遠くにあって育った。
特に問題もなく生きているのは、栄二ぐらいであろうか。
その栄二は栄二で、しばらくヘルプなどに入れなくなるのを、周囲に説明する必要があったが。
アメリカに行く。
今度は栄光を掴みにいくのではない。
病と闘って、そして勝つために行くのだ。
今までとは全く違う、苦しい挑戦が待っているのであろう。
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