第361話 QOL
人間の幸福とは長く生きたことではなく、どう生きたかで決まる。
それでもあまりに短く、一般でいうところの幸福を経験していなければ、やはり不幸であったと思われるのだろう。
月子は基本的には、前向きの性格をしている。
イジメに遭ったが極端なものではなく、悲観して自殺することもなかった。
叔母という理解者はいたし、東京にも出てこれた。
アイドルとしては成功しなかったが、俊と出会って表舞台に立った。
だからさほど悪い人生ではなかった、と自分に言い聞かせてきたのだ。
それでもこれはひどい。
失敗すればやりなおせばいい。
出来ないことは努力すればいい。
けれども死んでしまえば、もうどうにもならない。
告知を受けてから月子は、何度も悪夢で目を覚ます。
逆に悪夢でなかった時は、目が覚めてから憂鬱になる。
祖母も平均的な寿命からすれば、やや早くに亡くなった。
両親の最後については、もう記憶にほとんどない。
けれども自分に、こうやって命をつないできた。
祖母も比較的早くに夫を亡くし、二人の子供を育てるのには苦労したと聞く。
今よりも昔なのだから、本当に大変だったのだろう。
だからこそ月子を厳しく育てたのだろうと、今ならなんとなく理解出来る。
何者かに、自分はなれた。
実際に10年を経過して会ってみれば、自分をイジメていた人間など、もう顔すらもはっきり分からなかった。
師匠は自分を憶えていてくれたし、色々な人に紹介もしてくれた。
これからまだまだ、やりたいことが残っている。
(病は気から)
自分では難しいので、民間療法についても調べてもらっている。
さすがに医者の言うことを、無視するというようなことはない。
だが大腸癌というのは、比較的癌の中では絶望的なものではない。
便秘になっていたというのは、症状の中の一つである。
もちろん女子は男子よりも、普通に便秘になりやすいのだが。
また大腸癌にしても、その原因と言えるのは、食生活にもあると言われる。
肉食を出来るだけ少なくし、動物性蛋白質は卵や魚。
そしてヨーグルトなどの腸内環境を整える食事もする。
こういったものにどれだけの効果があるかは、はっきり言って眉唾物だ。
ただ食生活の変化により、こういった癌が増えた可能性はある、とは医者も言っている。
可能性があるだけで、関連しているとは言っていない。
だが月子は自分が生きるために、また健康が良くなりそうなことには、貪欲に務めていく。
「さすがにこういう民間療法は、信じられないかな」
琵琶の葉のお茶が効く、といった疑似科学があったりする。
エビデンスとしては存在しない。
あとは味噌を患部に塗ったら治った、などという無茶な話もあったりする。
ただこういったものを否定するのが、簡単なのもネット時代なのである。
月子はベジタリアンではない。
また動物性蛋白質を取らない方が健康に悪い、という説もあることを知っている。
ヴィーガンが自分の子供をヴィーガン食で育てて、栄養失調で殺したという話も知っている。
なので植物性の蛋白質は、むしろ積極的に食べる。
関西人文化が多少は流れている月子だが、納豆をそのまま食べたりもする。
生き残るための努力というのは、人間なら当たり前にするものだ。
手術の日まで、時間が流れるのは早かった。
その直前まで、月子は運動をしたり、レコーディングなどをしたりした。
睡眠時間をしっかりと確保し、なかなか眠れない場合は貰っていた薬を飲んだ。
(ストレスが癌になるとか、そういう話もあるんだもんな)
ストレスが解消されて癌がなくなった、などという話も聞く。
もちろん話半分ではあるが、体を休んでいる状態にする、というのは悪くないだろう。
レコーディングに関しては、俊が充分に余裕をもってスケジュールを組んでいた。
なので手術の前に、全てが終わるということはなかったが。
出術中に急死する、というのもものすごく低い確率だがある。
麻酔による原因不明の死というのは、なくならないものなのだ。
そういった死の恐怖に、月子は立ち向かう。
今までは両親や祖母が死んでいただけだ。
それに自分の順番が回ってきた。
両親も充分に若く、40歳頃には亡くなっていたのだ。
母方の祖母が早くに亡くなっていたというのは、あまり意識していなかった。
あるいは癌になりやすい家系であったのかもしれない。
気まぐれに見舞いにやってきた白雪なども、自分も癌家系なのだと言っていた。
大腸ポリープが、今はただのポリープであっても、癌化する可能性が高かった。
そんな状況で忙しい仕事をするというのは、体への負担が大きい。
だからMNRは活動休止したのだが、皮肉なことに彼女の症状は、むしろ改善している。
それでも定期的な検診では、ポリープが確認されている。
いっそ取ってしまえば、今なら問題はほぼないのだ。
ただ直腸まで切除してしまうと、人工肛門が必要になる。
生きているということと、より楽しく生きているということの間には、大きな差があるのだ。
だから白雪は、美食や飲酒は諦めたが、それ以外はある程度仕事を絞って受けている。
さすがに全体のプロデュースなどは、もう難しくなっているが。
月子の場合も癌の状態によっては、直腸まで取る可能性がある、とは言われていた。
ただ事前の検査で、そこはまず大丈夫だとも言われていたが。
人口肛門になると、生活の仕方がある程度限られてくる。
それでも日本ならば、まだしも治療は進んでいるし、生活もしやすい。
大事なのは命を守ることである。
だからどうしようもなければ、直腸も切除で人工肛門ということも承知している。
手術に合わせて京都からは、叔母が来てくれていた。
身の回りの世話は、春菜などもやってくれているのだが。
手術の前には俊と千歳もやってきて、月子の様子を見守る。
「まな板の上の鯉、って感じかな」
月子のブラックジョークにも、二人は苦笑いするだけである。
手術の時間はそれほどかからない予定だ。
だが術野がどこまで広がるかにより、その時間は長くなるだろう。
つまり長くかかればかかるほど、事態は深刻であるということ。
そう考えると早く終わってくれと、祈る気持ちにもなる。
手術室に入る前の病室では、色々と世間話もした。
今は暁が子供を見ているので、終わった頃には交代して来ているだろうと伝える。
手術をしたとして、大腸や直腸をどこまで残せるか。
それは患者の今後のクオリティーオブライフに、密接に関係することだ。
ただ待っているだけというのも無駄なので、一度は家に帰る俊たち。
叔母の槙子は月子のマンションに泊まっている。
なんならこちらに泊まってくれてもいい、と俊などは言ったのだが、用意するものは向こうにあるのだ。
「手術が終わっても麻酔が解けるまでに時間あるんだよね」
「そうだな。そういや俺は手術とかしたことないな」
「あたしも。世間的にはそういう人の方が多いんだろうけど」
もちろん周囲には普通に、簡単な手術を受けた人間はいる。
親やその上の世代ならば、普通に見かけるであろう。
全力で月子を支えたい、と思うのは二人に共通している。
響の世話については、親としてはひどいかもしれないが、他の誰かに任せることも出来る。
だが月子にとっては、この二人の代わりはいないだろう。
「あとは世間向けに、どうしていくか」
阿部はもちろん知っているし、レコード会社の社長も知っている。
レーベルの人間も幹部は知っているが、他に知っているのは白雪ぐらいか。
同じ音楽業界で、紫苑に一年ほど入ってもらっていたつながりから、彼女を頼りにしているところはある。
彼女もまた月子と症状としては似ているのだ。
「野菜食中心にすると、癌は拡散しにくいっていう話もあるな」
癌の増殖は蛋白質などを使うので、そういったものを食べなければ増殖しにくい、という傾向はあるらしい。
食生活の欧米化が癌になりやすいとも言うが、かつての日本は昭和の中期でもまだ、国民は栄養不足の傾向にあった。
癌になる前に死んでしまうので、癌で死ぬ人間の割合が少なかったに過ぎない。
月子が退院したら、しばらくこちらで一緒に暮らしてもらおうか。
そういう話も出ているが、二人はともかく響と一緒の生活は、彼女にストレスがかかるかもしれない。
どちらにしろ全ては、手術が終わってからのこと。
今度は暁の方が、手術後の月子に付き添う。
息子の面倒を見ようとする俊であったが、この小さな息子はどうやら、母親の方に甘えている。
早くも小さなギターを弾き出すと、暁が嬉しそうな顔をするからであろう。
子供は親の表情をよく見ているのだ。
手術自体はしっかりと成功した。
予定よりもやや長くはなったが、おそらく病巣部は全て取れたはずだ。
組織片を見ても、そこまで大きく拡散はしていない。
ただ思ったよりも、血管などを巻き込んでいたのは確かだ。
これがリンパ節に達していると、完全にステージ4となる。
だが大腸近辺には、問題がないように思えた。
医者の話を聞くのは、月子だけではない。
春菜に加えて阿部も、手術の経過については聞いておく。
俊もまたやってきていたが、その頃には月子も意識を取り戻していた。
交代で暁は、家に戻っている。
「問題は本当に、転移がないかどうかです」
医者は常に、楽観的なことは言わない。
癌にも色々な性質がある。
悪性腫瘍ではありながら、比較的良性の腫瘍の傾向を示すことがある。
どういうことかというと、増殖して大きくなってはいくが、転移はしないというタイプなのである。
良性の腫瘍とさほど変わらないが、これは明らかに増殖具合から悪性ではあった。
転移しやすい拡散型かそうでないか、それが問題になるのである。
先に全身のCTなどを撮影した限りでは、目だった転移は見られなかった。
だがほんのわずかでも癌細胞が転移していれば、それはもう全身への転移と考えられる可能性が高い。
転移場所が限定されていれば、放射線治療と抗がん剤治療が考えられる。
ともかく今は、手術は成功したのだ。
ただし経過観察は頻繁に行って、全身の状態を確認しないといけない。
これまた癌には、遠くには転移しないタイプのものがあったりする。
これは癌の性質と言うよりも、その人の体質にもよるのではないか、と言われている。
癌は発生するし、確かに悪性のはずなのに、転移がしないという人間がいる。
癌は遺伝子によって発生する、というのも知られている。
すると癌になったとしても、それが転移しない体質、というのも確かにあるのかもしれない。
全く別の病気だが、エイズにしても同じことが言える。
今では早期の発見によると、かなりの延命が期待されるエイズだが、実は感染しても症状が出ない、というタイプの人間がいるのだ。
さらに言えば感染症でも、一定の病気に対する耐性を持っている人間はいる。
ただ月子の場合は、そこまで安心できるというものではない。
また今回は一緒にはやらなかったが、子宮筋腫の摘出もするべきである。
体力が回復してから、また手術を行わなくてはいけない。
「そのためにもしっかり稼がないとな」
あえて明るく俊は言ったが、月子は少し暁と話をしていたのだ。
それに関してはまだ、俊が相談されることはなかったが。
定期的な検査は必要となる。
ただ思ったよりもひどい状況ではない、というのが医師の説明であった。
浸潤が見られていたので、分からない程度の転移の可能性はある。
あとはそれをどう見つけるかだ。
もしも見つからずに五年が経過したなら、事実上の完治と言える。
年末のフェスには、さすがに間に合わなかった。
だが退院して体力も回復すれば、またステージには立てるだろう。
出来るだけスケジュールには余裕を持たせて、無理に仕事を詰めない。
ただしそうなるとライブの練習なども、かなり慎重にスケジュールを考えるようになる。
来年は夏場にまた、アリーナでの三日間公演を予定していた。
そんな先のことをと言いたくなるが、予定はそれぐらい前倒して考えなければ、決められないものなのだ。
フェスへの参加に関しては、体力の低下を考えなければいけない。
もっとも摘出した臓器は大腸であり、それも完全に摘出したわけではない。
なので比較的、基礎体力は落ちないであろう、とも言われている。
ひとまずは安心、と言ったらいけないであろう。
癌は手術で取っても、五年は再発の可能性に備えなければいけない。
子宮筋腫の摘出の時には、また全身の検査を行う。
そこで何も見つからなければいいが、まだまだ安心は出来ない。
それに月子は、一つの課題を考えていたのだ。
体力も減ってしまった。
また上手く子宮筋腫が取れて、子宮を温存できたとしても、妊娠するために必要な肉体に回復するには、数年はかかる。
代理母による出産というのは、もう他にない選択肢と言えるであろう。
アメリカでは州にもよるが、それがビジネスになっていたりする。
逆に代理母自体は認めているが、ビジネスにはしてはいけないという国もあったりする。
日本はそもそも代理母が認められていない。
技術的には充分に可能な、代理母出産。
ただ遺伝子の不適合による、危険性があるとも言われている。
そもそも妊娠中毒は、普通の親子の間でも起こること。
タイミング的にこの休養期間の間に、子供を作っておきたい、というのが月子の望みになっていた。
「それは大変だ」
俊としてはやはり、出産に対する女性の感性を理解することは難しい。
だが大変なのだろうな、と理解する姿勢は持っている。
まだ体を起こすのも大変、というのが手術後の月子である。
ただそんな状態でも、彼女はしっかりと考えていたのだ。
「俊さん、精子提供お願い出来ないかなあ」
「……アメリカでは遺伝子をしっかりと検査して、病気になりにくい遺伝子の精子とかも販売されてるらしいぞ」
俊が否定すべきは、その方面からではないであろう。
「全然知らない人の子供って、やっぱりちょっとおかしいでしょ? だからツキちゃんとも話したんだけど」
暁とは既に、しっかりと相談済みらしい。
「それであたしが代理母をやろうかなって」
「ちょっと待て」
さすがに止める俊であった。
むしろ気持ち的には分かるのだ。
俊は自分で言うのもなんだが、学校の勉強はかなり出来るタイプであった。
運動神経は、特別よくもないが、悪くもない。
それにまだ若く、しっかりとした子供を作った実績がある。
何より月子とは近しい存在だ。
ただ月子だけではなく、暁もそれを容認していること。
ここがちょっと俊としては、理解の範疇から外れる。
いくら仲がいいとはいえ、自分の夫の精子提供を認めるのか。
いや、この二人だからこそ、そういう話も出来たのか。
しかしハリウッドセレブと比べてみれば、暁が代理母をするというのは、キャリアにまた穴を空けることになる。
だがこの一年ぐらい、月子の経過を観察するというのなら、それもありなのだろうか。
またライブをしない、ということになる。
正式にフラワーフェスタのメンバーになっている紫苑に、またヘルプを頼むのは難しいだろう。
そして他に上手いギタリストなど、そうそう見つかるものではない。
反対か賛成かというと、この件に関しては反対の俊である。
何よりも普通に、出産は母体にダメージを与える。
日本で産むかアメリカで産むかはともかく、死亡率こそ低くなってはいるが、いろいろと事故は起こるものなのだ。
ただ、話さなかった部分を、俊は推測していた。
もしも月子の寿命が、あまり長くないのであれば、というものだ。
その時は当然、自分の腹を痛めて産んだ子供を、暁は自分の子として育てられるだろう。
俊にしても遺伝子的には、間違いなく自分の子供である。
「少し考えよう」
さすがにすぐには返答も出来ず、頭を抱える俊であった。
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