第360話 ステージ
年末のフェスに向けて、本格的な準備が始まった。
また同時に月子は、手術の準備も始めていく。
年が明けてすぐに、子宮のかなりの部分を取るという手術。
復帰するまでにはかなりの時間がかかると想像される。
ただ実際に手術をするとなって、もう少し詳しく調べてみよう、と考えた医者がいた。
既に診断が出ているのに、そんなことをする医者は珍しい。
彼は純粋に、筋腫の大きさを確認して、出来るだけ子宮本体を温存できないか、と考えたのだ。
そして各種の検査をした結果、それ以上に重篤な事態が見つかった。
「筋腫は単に分かりやすく出てきた問題に過ぎない……」
便秘になることが多いのは、子宮の筋腫が腸を圧迫するから。
婦人科が最初に診たからそう判断してしまった。
(いや、そんな症状が出た時点で、もう遅かったのか……)
まだ20代後半の若さ。
(若いだけに逆に、進行も早い……)
若年性のものでも、充分にありうるのだ。
そして若ければ若いほど、手遅れになるのも早い。
月子は病院の婦人科から、一度内科に移された。
そして説明を受ける。
「親戚の方に、若くして癌になっている人はいませんでしたか?」
それはあまり分からない。なにしろ母が事故で死んだのは早く、そしてそれ以後母方とは没交渉であったからだ。
ただ母の母は、若くして死んでいたはずだ。
「大腸内面に癌が複数確認されました。近い器官への浸潤も見られまして、これはステージ3という段階です」
子宮の筋腫の方は、大きくはなっていたが組織片を見るに、むしろ良性であった。
実際にそれが圧迫していたのは、間違いのないことだったのだ。
だが便秘の原因は、二つが重なっていた。
一刻も早い手術が必要である。
そして手術をすれば、大腸の半分は摘出することとなる。
また実際に腹を開いてみないと分からないが、状況によっては五年生存率が50%を切る状態かもしれない。
淡々と説明する医師に対して、月子は無表情なままであった。
むしろ春菜の方が、動揺は大きい。
「わたしは死ぬんですか?」
「可能性は低くありません」
月子は息を深く吐いて、考えをまとめた。
昔は癌に関しては、本人に知らせなかったという。
現在は比較的治療手段も発達し、また残された時間を有意義に使うためにも、告知はされる。
月子の場合は大腸の半分はそのまま切り取る必要がある。
ただ手術中に癌細胞がどのあたりまで浸潤しているか、確認して行くのだという。
もしも想像以上に、小さな癌が拡散していたら、間に合わないかもしれない。
手術と共に放射線治療や抗がん剤治療を行い、それで効果があればいい。
だが効かないタイプの癌であれば、あとは余命がどれぐらいかという話になる。
体の中をたっぷりと調べたのだ。
少なくともリンパ節から、肝臓や胃などには転移していないと思われる。
あとは手術をした場合、実際に患部を見てみて、浸潤の範囲が分かることもある。
おそらくはまだ広域には散らばっていないだろう、というのが検査の結果なのだ。
癌治療に関しては、色々なアプローチがある。
ただ若年性の癌というのは、見える範囲以上に広がっている場合が多い。
細胞の代謝が活発であるだけに、癌細胞も増殖しやすいのだ。
もっとも大腸だけで止まっているなら、それなりに五年生存率は高くなる。
この五年生存率というのは、それだけ生きられればおおよそ完治した、と言えるものなのだ。
手術は早い方がいい。
それこそ年内にでも。
「え、でもフェスってそんな簡単にやめられないんじゃ」
「死にたいんですか?」
息を飲む月子に対して、春菜がその手を握り、首を振った。
フェスなどに参加することは、確かに重要であろう。
しかし月子の命以上に大切であるはずがない。
「まずは話し合いましょう」
春菜は月子が動揺していることを理解している。
当たり前だ。想像するのも難しいが、自分が癌であるということ、そしてその生存率は高くはないこと。
そんなことを言われて、動揺しないわけがないし、むしろ月子は落ち着いているとさえ言えるだろう。
医師の詳しい説明を、春菜は全てメモして行く。
ノイズのメンバーだけではなく、阿部などにも相談しなければいけないだろう。
若年性の癌というのは、他の要因ではなく遺伝子的な要因が大きい。
それこそ白雪の場合は、大腸癌になりやすい遺伝子で、子供にもかなりの確率で遺伝するというものであった。
若いうちに癌になりやすい遺伝子もあれば、年を取ったら癌になりやすい遺伝子もある。
ただ若いうちの進行というのは、本当に早いのだ。
報告を受けた阿部やノイズメンバーは、さすがに衝撃を隠せなかった。
運動不足からなるただの便秘。
それが実際のところは、子宮筋腫。
そう思っていたら本命は大腸癌。
ただの仲間のメンバーと言うよりは、もう運命共同体に近い。
「なんでツキちゃんばっかり……」
その暁の声は震えていた。
「本当にもう、なんでなんだろうね」
月子の反応には、諦念の感情が見える。
感情の処理には時間がかかるだろう。
こういう時に俊は、あえて感情を抑える。
事務的にやらなければいけないことだけを考えるのだ。
「まず、手術を行うんだな?」
「うん、年内にねじ込めるんだって」
「フェスは不参加ということで」
「わたし抜きで参加したらいいんじゃない?」
「さすがにメインボーカル抜きでは考えられないな」
「ごめんね」
「病気になったのは絶対に、お前のせいじゃない」
そこは月子に、変に罪悪感を覚えてほしくはないのだ。
手術で癌細胞が、しっかりと見える感じであれば、そこを切除して終わる。
もちろん経過観察は重要であるが。
しかし浸潤が見られれば、取れるところは取るが、さらに抗がん剤治療や放射線治療が必要となる。
そうなると長期間の入院さえ必要になるのだ。
癌になると痩せる、という知識があった。
むしろ太ることになるなど、知識の中にはなかった。
もちろん子宮筋腫の方も、ある程度の重さにはなっていたのだろう。
癌の部分を取っても、場合によっては直腸まで取らないといけなくなる。
すると生活が大きく変わっていく。
大腸の大部分や、直腸までを取るとなると、人工肛門を使う必要が出てくる。
完全にこれまでとは、生活が変わってしまうのだ。
(もしもそんなことになったら、アメリカに行った方がいいか)
日本の癌治療は、かなり優れたものではある。
しかし最先端医療ならアメリカだろう、と俊は印象で考えている。
思い込みだろうが印象だろうが、どうでもいいことだ。
一番重要なことは、月子を治すことなのだから。
人工授精と代理母出産という選択は、今の段階で考えても悪いものではない。
(最悪の場合は……)
それを考えただけでも、俊は背筋が凍るような思いを抱いた。
月子が死ぬ。
この際立った才能のボーカルが失われる。
MOONというソフトは残るが、ライブでの歌唱とは全く違うものだ。
本当に時間がどれぐらい残されているのか。
俊は諸事情を知らされた後、自分でも色々と考える。
とりあえず年末のフェスは不参加である。
それどころかノイズのライブは、もう二度と行われない可能性さえある。
(悪く考えすぎだ!)
慎重に考えてきた俊は、最悪を想定してずっと動いてきた。
だがここは最悪など考えるわけにはいかないだろう。
早く死んだロックスターは伝説になる。
あるいは衝撃的な死に方をしても伝説になる。
だがそんなやり方で伝説にならなくても、充分に今は成功している。
月子は社会的な成功から、今は周囲に幸福を与えている。
それが自分にとっても幸福なのであろう。
しかしまだ、本当に幸福になったわけではない。
バンドのリーダーとして、最善をい尽くす、ということではない。
月子は俊にとってかけがえのない存在であることは確かだ。
彼女を失ってしまえば、ノイズはもう成立しない。
千歳だけでは成立しないのが、ノイズのボーカルパートなのだ。
(今はいいことだけを考えよう)
完全な手遅れということではない。
治療に時間はかかるだろうが、それでもまだ失われると決まったわけではない。
そう思いこもうとしても、俊の心は大きく乱れていた。
もちろんそれは、俊だけではなかったのだ。
どうして月子なのか、とは俊は何度も考える。
よりにもよってどうして、と感じてしまうのだ。
しかし世の中には、若年性の癌によって、死を迎える人間は確かにいる。
癌というのは別に年寄りの病気ではないのだ。
遺伝子や細胞の異常によって、癌というのは発生する。
年寄りの場合は細胞分裂が、異常な細胞を生み出してしまう。
そこから癌になっていくという場合が多い。
「私と同じタイプかもしれないね」
白雪は彼女が使っている、隠し家的な店に、俊と一緒にいた。
ノイズが年末のフェスから外れたことにより、その事情を聞きたがったのだ。
俊としては他人に、いくら仲が良くても同じく他人の、月子の病状を打ち明けるのには迷った。
だが白雪もまた、病気によるリスクを考えて、MNRを解散させたのだ。
正確には今でも、年に数曲は配信のみは行っているが。
白雪はここでも、かなり特殊な料理を注文していた。
とにかく肉類を避けているのだ。
普段の家でも、ほぼ同居状態の紫苑から、生活管理をされている。
特に食生活の管理である。
その結果として、大腸のポリープはむしろ発生が抑えられてきている。
食生活で改善するなどというのは、あまり信じてはいけない民間療法に近い。
だが実際に白雪は、まだ少し長生きできそうであるのだ。
大腸由来の癌であると、ステージ2までならかなりの確率で、五年生存率が保証されている。
だがステージ3となるとかなり難しい。
まだしも大腸の癌は、比較的生存率が高い。
しかし発見が遅かった。
「それで、どうするの?」
「どうすればいいのか……」
俊にしてもどうすればいいのか、分かるはずがないのだ。
月子の問題なのである。
俊はその治療のためには、全力で協力する。
本人には言いづらいこともあるだろうから、頼れる大人には頼ってしまう。
「人によって、求めるものはちがうからね」
白雪は延命ばかりが重要だとは思わない。
かつての戦友は、それよりも自分が、燃え尽きることを優先していた。
ただ月子は本来ならば、もっと一般的な幸福を求める人間だったとも思うのだ。
一般人のままでは、幸福になれなかった。
だから音楽による成功で、幸福を代替している。
それでも今は、その生命が脅かされている。
「もし俺が月子の立場だったら、もう全力で楽曲を残していくだけだけど」
俊はそういう人間である。
音楽に全てを捧げた彼は、死の寸前までも音楽をやめないだろう。
しかし月子は違うだろうな、とも思うのだ。
ノイズのルナの病気療養のために、年末のフェスはキャンセル。
確かに最近は良く働いていたからな、と普通のファンなども理解を示した。
しっかりと病気を治して、また歌ってほしい。
そう思う人間が多い一方で、この隙にとばかりにMOONを使って楽曲を発表するボカロPもいる。
代替物として、ある程度の需要があるのだ。
ネットにおいては劣化した月子の歌が多くなる。
なんとも皮肉な話であろう。
ただ俊は、これが少し運命的なものと感じる。
たとえ月子がいなくなっても、彼女の声はなくならない。
もちろん本当の歌声というのは、機械で再現出来る段階にはまだない。
ノイズは正式に活動休止となる。
それでも人は働かなければいけない。
もっとも俊と暁は、主に月子に付きっ切りになった。
片方が息子を見ている間に、もう一方が月子に付き添う。
京都からは叔母もやってきて、説明を受ける。
「なんであの子ばかり……」
彼女からすれば、そういう感想になるのだろう。
生まれつき、なのかどうかはともかく、幼少期からずっと、周囲の無理解に悩まされてきた。
それ以前に両親を事故で失い、充分な愛情をかけられてこなかった。
祖母の愛情は、厳しくするということ。
月子が一人で生きていくために、その力を与えようとしたのだ。
京都での三年間は、ようやく月子が尊厳を持って、生きられるようになる準備であったと言えるだろう。
そして一人で決心して、東京に出てきた。
地下アイドルなどをしながら、アルバイトも複数行い、俊と出会ってそこからじわじわと成功の道を進み始める。
およそ一年目から成功しつつあったが、武道館を経験してからまだ六年ほど。
確かに成功はした。
そして周囲に理解者も増えた。
もちろん一番の味方は、リーダーの俊と事務所の所長の阿部であった。
だが友人も出来ていったのだ。
ここからは個人としての幸福を求めるような段階であったのだ。
それが病気によって子供が産めないなどという話になり、さらに検査をしていったら癌までが発見される。
ただし不幸中の幸いとも言える。
子宮筋腫だけの割には、赤血球の量などが減っていないか、と判断した医者のファインプレイ。
完全な手遅れではない、というのが今の月子の状態だ。
もっとも調べる限りでは、楽観出来るような状態でもない。
少しでも早くの手術を、というのがその理由でもあったのだ。
手術で患部を完全に切除出来れば、しばらくは経過観察となる。
定期的な検査になり、一度は退院することも可能だろう。
だが既に癌が散ってしまっていれば、科学療法となる。
苦しみがはじまるのだ。
全力の伝手やコネを使うまでもなく、最速の日程で手術が決まった。
アメリカから帰って来て、まだ二ヶ月も経過していなかった。
メンバーの中でも、特に暁と千歳は、毎日のように月子を見舞う。
それに対して月子は、弱いところを見せないのだ。
「月子は……案外強いんだな」
しぶといということも言えるだろう。
これまで事故やイジメ、ハンデなどによって、何度となく不条理に立ち向かってきた。
こんな若さで癌になるというのも、そこそこ珍しいがありえないことではない。
ありえないことではないが、どうして月子なのだ、と暁は思ってしまう。
才能があるのに、などとは思わない。
これまでずっと不幸が多く、そして努力をしてきた月子である。
世界に対して声が届くような人間になった。
なのに今、その存在が失われようとしている。
「信じるしかないよ」
暁はそう言うが、俊はこういう時に、広い範囲に思考が届く。
月子はアメリカで、自分の卵子を採取保存している。
もしも癌が想像よりも悪化していたら、果たしてそれをどうすればいいのか。
手術ではどうにも出来ないところは、科学療法が始まる。
それと並べて、代理母出産を考えるべきではないだろうか。
嫌なことを、俊は想像する。
もしも月子が、もう長く生きられないとしたら、という話だ。
考えたくもないが、想像してしまう。
彼女が自分の子供に会いたいと思うなら、もうすぐにでも代理出産を考えた方がいいのではないか。
若年性の癌の余命は、おそらく短かったはずだ。
俊は月子の内心など、本当に分かるわけではない。
だが本質的には牧歌的な人間なのでは、と育ってきた環境を見て思ったのだ。
そして医者にあたるのだ。
最悪の場合、月子の余命はどれぐらいであるのかと。
もちろん医者としては、そんなことをあくまで他人の、俊に言えるはずもない。
「月子の話じゃなく、一般論として聞きたいだけなんです。もしも他人だから駄目だというなら、一時的に妻と離婚して、月子の夫になって伺うだけです」
この無茶な俊の言葉に、医者はあくまでも一般論として説明する。
手術が成功して、癌が上手く取りきれれば、問題はない。
もちろん経過観察は必要であるが、五年生存してもう体力が回復してから、子宮筋腫の摘出に移るだろう。
問題なのは癌が拡散し、既に取りきれない場合だ。
この場合は科学療法で、辛い放射線や抗がん剤の治療に入る。
これがどの程度効果的かは、やってみないと分からないのだ。
もしも既に癌が拡散していて、そしてこういった治療も効果がなかったとする。
転移先がどこになるかは分からないが、その場合は最短の余命が三ヶ月になる。
普通に転移して、ある程度の治療効果が認められて、それでも癌を根絶できなければ、またいずれ拡散するのみ。
その時の余命はおそらく、一年間以内である。
「先生は最善の治療をしてくれていると思いますが、たとえばまだ日本では使われていない薬などを、アメリカでの治療で使うことは出来ますか?」
出来るが、効果はやはり分からない、というのが返答であった。
あくまで可能性の話をするし、癌にも色々と性質があるので、断言などは出来ないのだ。
それでもアメリカであれば、治験中の薬品などが、色々と既に使われていたりもする。
俊は月子の才能を愛している。
彼女がいたから、自分は今成功している。
そしてこれからのためにも、月子は必要だ。
彼女のためではなく自分のために、月子を救う必要がある。
(あとは子供の問題か)
最短で三ヶ月、薬などの効果が上手く出れば分からない。
ただ代理母となると、その代理母自体はすぐに見つかるが、問題は精子提供であろう。
いくらでも選べる、とアメリカでは話されていた。
しかし月子が、そういうことに意識を向けるだろうか。
自分の寿命が、もう短いと思われること。
それを認めなければ、そんな選択をするのは難しい。
俊は愛情はあまり知らないが、他人の心情が分からないという人間でもない。
(手術が上手くいって、万一の場合も薬が効けば、それが一番なんだ)
悪いことを考えすぎない。
一番辛いのは間違いなく、月子なのであるから。
それでも俊は自分なりに、月子のために全力を尽くす覚悟を決めていた。
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