第359話 伝説になる
暁はこの数日、共に過ごした時間が長かったため、その違和感に気付いていた。
「ツキちゃん、あの日?」
「う~ん、予定じゃなかったんだけど」
トイレでそう言った月子は、お腹を押さえている。
「最近ちょっとおかしいから、念のため準備はしてたんだけどね」
以前に一緒に暮らしていた頃は、普通にお互いの生理周期を把握していたものだ。
男も女も、シモの話が出来るようになったら友人。
もちろんどうしようもなく、こういった話に嫌悪感を覚える人間もいる。
だが生きていく以上、普通にこれらは存在するものだ。
それをあえて嫌悪するというのも、潔癖症に過ぎるというか、生きにくいものではあるだろう。
「最近、生活荒れてない?」
「別に仕事を入れすぎたりはしてないけど」
「ちょっと時間あるし、婦人科行ってきたら?」
このあたり妊娠から出産への経験がある暁は、普通に病院に行くことを勧める。
当たり前の判断であるだろう。
月子も病院嫌いの人間ではない。
むしろ京都の病院で、正確に診断してもらったため、自分が今後生きていくうえで、何を考えるべきかの指針を示してくれた。
夏場に疲れが出たため、少し仕事の量は減らしている。
もっともこちらは仕事ではなく、正確にはボランティアなどを行っているのだ。
世間には生きていくのに、難しい人間がたくさんいる。
ただ月子の場合など、大昔の農村であれば、特に問題も起こらなかったものであろう。
身近な人間だけは、どうにか記憶することが出来る。
そして字は他人に読んでもらえばいい。
色々と勉強と言うか、調べたのが月子である。
かつては知能に障害を持っている、というのが単純に区別されていた。
だが今ではその方向性も様々なものがあり、月子に関してはむしろ知能は、高めであるという判定までされた。
学習障害というのもあるし、ADHDなども名前は知られている。
俊などはそんなことを聞いても、無理矢理椅子に縛り付けて、授業を受けさせればいいだろうと考える人間だ。
月子のことは理解したが、基本的に常人がハンデ持ちを理解するのは難しいし、そもそも理解しようとさえ思わない。
歴史的にみればアーティストというのは、こういうものにむしろ理解を示すものなのだが。
そのあたりも俊が、商業主義なところである。
売れることが全てではない、とまことしやかに囁かれる。
しかし売れなければ、続けていくことは難しくなる。
家が太いから成功する、という人間は多いのだ。
そもそも音楽やスポーツなど、道楽でやらせるには金がかかるものだ。
音大や芸大などは、医大の次に学費がかかるのであるから。
夢を追いかける、という言い方は俊は好きではない。
夢ではなく目標と考えるから、ちゃんと計画を立てられることが出来る。
当たり前のように失敗もしてきた。
ただ失敗から何も学ばないことを、本当の失敗と呼ぶのだ。
過ちて改めざる、というものである。
ロックスターなど無頼派を気取っていても、しょせんはそれは商業的なアピールだ。
俊はそんな虚仮脅しではなく、本物になろうとしていた。
だが過去に組んだバンドでは、環境が変わっても失敗している。
そこからボカロPという、それまでにしていなかった選択を行った。
成功者の真似をするのは難しい。
そこで逆に、成功していない人間がやっていることと、比較して考えてみるのだ。
世の中の九割以上は、人生に妥協して生きている。
あるいはもっと多く、99%と言えるかもしれない。
ただ妥協と幸福は両立しうる。
また成功者が幸福であるとも限らないのだ。
早世したロックスターは伝説になった。
だが果たしてそれで幸福になっただろうか。
ジャニスはルックスや声などを散々にからかわれ、カートは自殺にまで追い込まれた。
シドは完全なヤク中で、ステージでまともに演奏も出来なかった。
それがスタイルになっていた、というのは確かにある。
しかし結婚し子供に恵まれ、時々旅行をしたりする、そういった生活。
そういった普通の生活は社会的な成功ではないが、分かりやすい幸福ではあるだろう。
俊はあまり意識しないが、少し年上の栄二でさえも、今は幸福の基準値が上がりすぎているという。
ネット社会の弊害で、隣の芝生がより見えてしまう。
もっともそういう栄二は、一度は幸福を成功よりも上に置いた。
今でもしっかりと、保険をかけて生活をしている。
俊は成功よりも、さらにその上を目指してしまった。
その苦難の道を進むが故に、未だに満たされることがない。
月子は自分の過去を、上書きすることにかなり成功した。
かつて一緒に地下アイドルをした仲間が、メッセージを送ってきたりする。
頑張っているね、という簡単なメッセージが明日への原動力となる。
ただそのためにも、体調管理は重要な仕事であろう。
東京に戻った月子は、素直に婦人科を受信した。
そして淡々と言われたのである。
「子宮筋腫だね。これは取った方がいい」
晴天の霹靂のような宣告に、さすがに硬直した月子であった。
女性には男性にない器官がある。
言うまでもなく子宮は、その中で最大のものである。
最近の生理不順や、はたまた便秘の原因。
それは子宮に出来た腫瘍が、原因であるのは明白であった。
かなり大きめの腫瘍が、大腸なども圧迫していたのだ。
医師の判断としては、子宮全摘。
筋腫の部分だけを取っても、子宮の機能を維持するのが難しい、というものであった。
もちろん子宮を失うということは、もう子供が望めなくなるということ。
「もちろん一度腫瘍部分を摘出して、経過を観察するということも出来ますが」
こちらは子宮が回復すれば、数年後には子供が産めるようになるかもしれない。
「……少し、考えさせてください」
さすがに即断は出来ない月子であった。
月子は男性と付き合ったことがない。
そもそも他人の顔が記憶出来ないので、深い人間関係の構築には、かなり向こうの忍耐がいるのだ。
月子にとって一番好きな男性は俊である。
そして次が信吾や英二。
純粋に好きという話であって、それが恋愛につながるというわけではない。
男性に対する幻想を、月子は持っていない。
自分を安心させてくれるというのが、まず好意を抱く大前提となるのだ。
月子がこの場合、相談出来るような人間。
昔に比べると随分、増えてきたものだ。
かつては叔母に頼っていたが、今では阿部や白雪、また年下だが暁や千歳もそういった人間である。
心を許せる人間は増えた。
他人に頼れることになったのが、月子にとっては強くなった、と言えるのかもしれない。
その月子に相談された阿部は、ため息をついた。
「私も、子宮取ってるのよ。結婚しない理由もそれ」
仕事に生きる人間と思っていた阿部だが、そういった理由もあったのだ。
「子供はほしいのよね?」
どうだろうかと考えたら、自然とほしいな、という感情が生まれてきた。
頷いた月子に対して、阿部は提案をする。
「日本以外なら、代理母出産が使えるわ」
名前ぐらいは聞いたことのある月子である。
現在の日本の法律では、母体がそのまま母親となる。
それだけが理由ではないが、代理母出産は認められていない。
もっとも不可能なわけではなく、他人に産んでもらってから、それを養子にするという手段はある。
実子としてする手段はあったのだろうか。
不妊治療では基本的に、自分の卵子とパートナーの精子で受精卵を作るのだ。
それを子宮に戻して定着したら妊娠、というのが不妊治療のよくあるパターンである。
ただこれは日本であると、もし出産した母親が自分の子供と言い出した場合、向こうに親権が渡ってしまう場合がほとんどだ。
なので金銭的な問題や、時間的な制約を別とするなら、外国での代理母出産を考えたらいい。
「とりあえず卵子を保存する必要があるんだけど、これ自体は日本の不妊治療でも出来るんだったかな……」
阿部としても現在の法律などがどうなっているのか、詳しいことは知らない。
マネージャーの春菜と一緒に行って、そういった設備もある病院にまた、かかった方がいいのであろう。
月子の仕事量は、音楽関連意外は、少し減らしていくことになった。
最近は体調が悪かったため、メンバーも納得である。
俊はリーダーとして詳細を把握しておくべきか迷ったが、女性には男性に言いにくいことがあるだろう。
そのため体調管理は、春菜と阿部に任せておくことにした。
また暁や千歳とも、相談して決めてくれればいい。
ノイズの活動は現在、全てが上手くいっている。
ここであえて露出を減らすか、逆にどんどんと仕事を入れていくか、選択は二つだ。
だが音楽の仕事をどんどんと入れていけば、それは量だけの仕事になるかもしれない。
ライブは定期的に、行った方がいいだろうが。
ライブをしないバンドは、どうしても遠い存在になってしまう。
今の時代、ほとんどはネットで手に入る。
そして見ることも、ネットを通して出来るのだ。
ネット配信限定のライブ、というのをやってみてはどうだろうか。
かつての感染症の時期に、それをやっていたミュージシャンはいる。
またVの世界であると、普通にそれは行われているのだ。
こちらから提供して初めて、求めてもらうようになる。
人間はひねくれた生き物であるため、周囲がいいと言っていればそのままいいのだと思う人間と、むしろ反発する人間がいる。
しかしそういった反発する人間にも、こちらから飛び込んでいく。
すると逆に熱心なファンになる、ということが確かにあるのだ。
新曲の発表と、東京でのライブ、フェスへの参加、ツアー。
このあたりのことは、絶対に行っていかなければいけない。
俊としても音楽的な成功を、やはり第一に考えていく。
大きなライブも年に一度は行うが、また海外でのツアーもしたいな、と思った。
アメリカを通したことで、ノイズの音楽は世界に拡散した。
グラミー賞も取れはしなかったが、ノミネートはされた。
商業的な成功は大きく、あとはどれだけこれが続いていくのか。
ただ同じようなことばかりをしていては、アーティストとしては死んだも同然。
次の目標が見えにくくなっている。
そんな時点で俊は、月子からの相談を受けたのだ。
「アメリカに?」
「うん、わたしの病気、どうも赤ちゃんを産めなくなるみたいだから」
日本の法律では現在、代理母を認めていない。
正確には産んだ女性が、母親になるのだ。
しかしアメリカでは州によるし、他にも認めている国はある。
実際のところ、現在のハリウッドセレブの間では、代理母出産が普通に行われている。
確かに妊娠期間という、キャリアを空けることを考えれば、自分は仕事をしてガッツリ稼ぎ、誰かに産むことを任せたほうが、効率的ではあるだろう。
ただその効率性は、おぞましさを感じさせるところがある。
もちろん月子の場合は、自分で出産が出来ないから、という理由が存在するが。
なお代理母出産は保険の適応外であるが、それぐらいの金はなんとでもなる。
聞かされた俊はさすがに戸惑ったものだ。
全く意図せずに親になってしまった自分と、基本的には子供を持ちたいと思っていた月子。
ただ月子はそれ以前に、自然分娩は難しいと言われていた。
アメリカで卵子を採取し、それを保管しておく。
あとはパートナーが出来たら、それと掛け合わせて代理母に産んでもらう。
もっともあちらでは精子提供ビジネスというものもある。
条件を限定した精子を使って、自分だけの子供を産むというものだ。
ほとんど子作りと言うよりは、子供の作成のようにも思える。
ただ状況が状況なので、月子の場合は仕方がないか。
また卵子にしても、若いうちに採取した方が、元気な卵子であるものだ。
30歳を超える前から、出産におけるリスクは高まっていく。
これは精子にも、年齢である程度の劣化が存在する。
阿部と春菜が同席し、俊には説明がなされた。
なるほどこれは、確かに仕方がないのだろう。
月子は普通に、子供の頃の幸福だった家族を憶えている。
自分もまたそういう家庭を、築きたかったと考えてもおかしくない。
比較すると今の自分は、なんと恵まれているのだろうか、と俊は考えたりもする。
変に罪悪感をを覚えてしまったが、そんなものはありえないのだ。
アメリカに行って、まずは卵子を保存する。
それから日本に戻ってきて、手術を行うという順番になる。
採取して保存した卵子を、いつ使うことになるのか。
代理母を使うのであれば、あまりノイズの予定を圧迫することもない。
まずは年内にアメリカに行ってしまって、卵子の採取を完了させてしまうのだ。
それから年末のフェスへの準備を、さっさと始めてしまえばいいだろう。
年末のフェスに関しては、またいつもの年越しフェスになる。
「このことについて、他のメンバーにはどの程度話す?」
俊の質問は、あくまでも月子を尊重するためのものだ。
「アキちゃんとちーちゃんにはわたしから話す。男の人には、病気でアメリカでの治療を受けるって言ってくれれば」
「分かった」
俊としては、もう飲み込むしかない出来事なのだ。
俊は男なので、子供が産めないということがどういうことなのか、ちょっと想像しにくい。
今では子供を産まずに、バリバリと働く女性もいる。
阿部なども結婚などより、仕事を愛している女のように、俊には思えた。
だが古くからの価値観と言うか、人間が生物として本能的に持っているのは、種の保存欲求である。
自分の遺伝子を残したいという気持ち。
俊はあまり感じなかったというか、それよりも音楽で影響を与えたかったが、ひょんなことで出来てしまった息子のことは、それなりに可愛いと思っている。
月子の収入を考えれば、育児のほとんどを外注することも、無理ではないであろう。
せめて両親がいたならば、そのあたりのことも頼りになったのだろうが。
叔母はいるが、他の親戚とはほぼ没交渉。
今の月子にとっては、ノイズこそが自分の居場所と思えている。
月子の渡米については、俊としてはデリケートな感じで説明することになった。
アメリカでないとしていない治療を受けるために、一時的にあちらに行った、という話になっている。
検査なども含めて一週間から一ヶ月、あちらで生活をする。
その間は春菜も、ずっと月子に付きっ切りだ。
病気の内容については、話したくないと月子が言えば、それを尊重するのがノイズのメンバーである。
男性の俊に話したことは、月子にとっては誠意なのであろう。
こういったことを話さなければいけないというのは、一種のハラスメントになるかもしれない。
だが月子は、ここまで一緒に戦ってきた、俊を信じたというわけだ。
「それは仕方ないが、年末のフェスには間に合うのか?」
「間に合わないとしても、月子の健康を優先だ」
信吾はそう返されて、特に反論することもなく頷く。
誰だってなりたくて、病気になる人間などいない。
そもそも月子はそれ以外にも、本当に生来のハンデが多すぎる。
彼女はそれでも、戦ってきたのだ。
生きることは戦いであるという。
確かに苦しい人間にとっては、生きるだけでも戦うという感覚になるだろう。
年末のイベントを乗り越えれば、今度は手術である。
これは日本でも行えることであるが、そこから復帰までにはそれなりにかかるだろう。
春はともかく、またゴールデンウィークのフェスにでも出られたらいいだろう。
ただその前の時期に、海外のフェスからの招待はあるだろうが。
今は無理をするべきではない。
卵子保存まではスムーズに進むだろうが、問題はどの段階で代理母出産をするかということだ。
そもそもパートナーがいないなら、そのまま卵子を保管し続けることになる。
なお卵子の保管と言うが、一つや二つの卵子を保管しておくわけではない。
人工授精から受胎、そして出産までを考えると、かなりの保険をかけておくべきである。
またパートナーを考えず、病気の少ない遺伝子を選んで、自分一人の子供として育ててしまってもいいだろう。
俊にはどうも、共感しがたいことである。
男だから仕方がないのか、と思うこともある。
響にしても、子供がほしくて作ったわけではない。
もちろん自分なりに、愛情を込めて育てているつもりではあるが。
まずはさっさと済ませようと、月子は春菜と共に渡米した。
そしてその間も、俊は新曲などを考えていく。
年末のフェスまでには、なんとか完成させたい。
そのためにも俊は月子の帰国を待つことなく、MOONを使って新曲を試したりする。
以前のものと比べると、ボーカロイドも進歩している。
しかしどうしても人間が自然と歌うような、あっさりと歌った感じにはならない。
感情の込め方というのが、上手く表現できない。
AIを使ったなら、もう少し人間の歌い方には近づくのだが。
これも調声といって、人間の歌い方に近いようにする技術がある。
ボカロPの中でも、特にこの技術に優れたPがいたりする。
俊は月子や千歳に慣れてしまっているため、今さら調声にそこまで手をかけようとはしない。
月子が戻ってくれば、そのまま一気にフェスへの準備だ。
来年は手術をして、そこからまた体力回復までに時間がかかるだろう。
本当に月子は、運命が障害をたくさん用意していると言えようか。
だからこそ歌い方には、力を感じるのかもしれない。
月子は今の自分のことを、不幸だとは思っていないという。
だが過去の自分に関しては、いくらでも不満があるのだ。
しかし未来を見つめられれば、過去に囚われる必要はない。
そんなことを考えていたのに、今回のこんなことが起こってくる。
病気や事故など、どうしようもないことはある。
月子の両親にしてからが、今の月子とそう変わらない年齢で亡くなっている。
俊の父はもう少し長く生きたが、その晩年はあまり恵まれたものではなかった。
月子はようやく幸福になったかと思うと、また不幸に襲われる。
これが成功の代償としたら、俊はもっと何かを悪魔に支払うべきであろう。
成功と不幸は、全く別のものである。
過去の呪われた不遇は、月子の歌に力を与えた。
売れなかった地下アイドル時代のことも、ステージでの演出を考えれば、それなりに意味はあったのだ。
そういったマイナスを全て、プラスの力に代えてしまう。
それでも今回の月子の条件は、彼女にとって厳しいものであろうが。
月子の検査と採取には、それなりの時間がかかった。
そしてようやく帰ってくると、年末のフェスの準備に取り掛かる。
だがそれ以前に、また月子は考えないといけないことが出てくる。
彼女の人生は本当に、波乱万丈であると言っていい。
それと戦い続けることが、月子の人生であったのだろうか。
今年最後のフェスに向けて、ノイズは準備を始める。
帰国した月子は、とりあえずは来年にも早々に、手術の必要があるとは言われてしまった。
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