第358話 日本という国

 音楽というのは文化である。

 だが深く探っていくと、文化と言うよりはほとんど、文明に近いところまで密接に関係しているらしい。

 世界各国の文明には、古来は必ず音楽と舞踊が存在した。

 古来と言うのは宗教的に、禁じられてしまった時代もあるからだ。

 ヨーロッパはもちろん中華の文化圏、そして黒人音楽と、ほとんどの民族が文化を持っているという。

 こういった楽しみを禁止してしまったり、はたまたかつてはキリスト教も、音楽以外の絵画などでさえ、ほとんど宗教的なものになってしまったりした。


 日本もある意味、逆弾圧とでも言うべきものがあった。

 キリスト教の排斥運動である。

 ただしこれは当時の社会を見てみれば、正解であったと言ってもいいだろう。

 もっとも今のキリスト教のように、日本では魔改造されて、膾炙されていったかもしれないが。

 現代の日本人には理解されないだろうが、かつての日本では寺社がとんでもない権力を持っていた。

 戦国時代から、それを利用したり逆に抑圧しようとしたり、色々なことが行われたが。

 江戸時代は事実上の、戸籍の管理までやっていたようなものだ。


 その日本の音楽は、どの時点から数えればいいのだろう。

 明確な影響は、やはり中華文明から受けている。

 正倉院の中には、今では本国の中国にさえないような、宝物が眠っていたりするのだ。

 本国で失われたものが、遠方では残っているということ。

 これはそれほど不思議な現象ではない。


 日本の音楽が脱却するのには、何が必要であったのか。

 上流階級の音楽と一般階級の音楽は、違うものであったりする。

 日本は平安時代ともなれば、中国の影響からかなり脱したものとなる。

 それは音楽のみならず、文明全体がそうなっていく。

 しかし決定的に違うのは、武士の世の中になったことか。

 中華圏では基本的に、肉体労働を卑しいとする思想があった。

 ブルーカラーを下に見るのは、ずっと昔からあったということだ。

 もっとも日本の場合、武士が発生して次第に、公家の血筋から離脱していく。

 決定的に変わったのは、江戸時代に米を基準に経済力としたあたりか。


 ともかく琵琶法師が、平家物語を日本中に広めた。

 こういったことが日本の各地を、徐々に統一していく文化になった。

 それでも室町時代まで、日本は東と西に分かれていたし、さらに東北も分かれていた。

 北海道を除けば東北地方までが、完全に日本となるのは江戸時代まで待たないといけない。




 三味線は別に、東北地方だけのものではない。

 だが特に津軽三味線だの、東北地方のものが有名なのはなぜか。

 一つには東北地方が、貧しい歴史が長かったということがあるだろう。

 経済的にどうこうという話ではなく、普通に昭和の頃でも、冬場は農作業が出来なかった。

 また飢饉の発生などで、身売りの話は多くあったのだ。


 出稼ぎに近いことを、盲人などがやっていた。

 ひどい言い方をすれば、社会の底辺に近いことが、代々と受け継がれていったのだ。

 これは農村では珍しいことではなく、農業で働けない体力がない人間は、町に出て行くかあるいは巡業のような集団に入るか、選択肢が限られていた。

 そういった日本の貧しさを、今の人間はほとんど知らない。

 だが東北地方では、そういった話が受け継がれていたりするし、北海道も開拓の記録が残っている。

 北海道の場合は炭鉱など、そういった出稼ぎが他にあったりもしたが。


 民族の持っている音楽には、ソウルが含まれている。

 音楽のジャンルではなく、魂的な意味でのそれだ。

 芸能というのはまさに、芸を売って生きてきたというもの。

 現代でも普通に、歌手などが地方巡業をするのは、そういう歴史の延長にある。

 もっともかつては地元の顔役との関係が深かった。

 戦後は任侠ではなく、まさに暴力団との関係が長く続いた。


 芸能界が裏の権力とズブズブ、というのはよく聞いた話である。

 それも法律の改正によって、かなり見通しはよくなったものだが。

 日本の伝統音楽の場合は、国からの保護のための金が出ていたりする。

 しかし同時にタニマチになる人間がいて、個人的に保護している酔狂な人間も多いのだ。

 お稽古ごととして、普通に続いていたりもする。

 月子の場合も普通に、月謝を払って習ってはいた。

 だがそれとは別に、特別に稽古をつけていてもらっていたように思う。


 祖母なりのやり方だったのか。

 それを10年以上も経過して、ようやく確かめることが出来る。

 もちろん捉え方は、様々にあるだろう。

 成功した今だからこそ、自分の糧になっているとも言える。

「そうは言っても音楽業界の成功なんて、どの時点を基準で見たらいいのか分からんからな」

 俊は現実的な人間である。


 今のノイズは確かに、トップの座にいると言ってもいい。

 だが10年後はおろか、三年ごであってもノイズが、トップの座にいられるかどうか。

 むしろどんどんと、新しい才能は出てきている。

 それでもノイズのようなパターンが出てこないのは、ライブを重視しているからであろうか。

 ボカロPのコンポーザーというのも、どれぐらいその時勢に合わせていけるのか、色々と疑問が残る。

 まだ新しい文化であるし、ボーカロイドと人間は違うのだから。




 月子と共に訪れたのは、立派な屋敷であった。

 ただこのあたりは田舎ということもあってか、大きな家が多い。

 新しい家もそこそこあるが、この家はしっかりと庭があって、まさに広大な田舎の屋敷、というイメージそのままだ。

「あれ、何の木だ?」

「柿の木だよ」

 俊が知らないことを、月子は普通に知っている。

 たとえば花の名前や、草木の名前についても、自然と知るようになったのだ。


 俊の家も大きいが、ここまで庭の余裕などはない。

 東京区内とは明らかに違う。

 だが俊にしても、こういうものが日本の原風景か、という意識がどこかにある。

 かつては99%が農民、などと言われていた国家。

 田んぼが延々と広がっている光景は、さすがに実物を見れば壮観である。

「なんだか昔とは違うかな」

 しかし月子からすると、そういう感じであるらしい。

「何が?」

「もう稲刈りは終わってるけど、多分休耕田になってるんじゃないかな」

「農家の跡取り問題とかか?」

「やっぱり都会に出て行く人も多いし、地元に残っても工場とかで働くようになってるしね」

「へ~」

 暁もこういった光景を、じっくり見たことなどはない。

 都会の子でも、都内に普通に畑を見ることはある。

 だがその規模が完全に、このあたりでは違うのだ。


 アメリカツアーを行った時など、観光をその日程に入れたりした。

 他の国でフェスがあった時なども、観光地を訪れたりした。

 しかし地元である日本に、ここまで知らない風景がある。

 遠くの世界と手元の世界を見てきて、足元が見えていなかった。

「北海道とか沖縄も、今度行ってみたいな」

「それはいいかも」

 俊と暁はそう話し合うが、学生の長期休暇の期間などは、むしろフェスなどで稼ぎ時なのだ。


 まだ子供が小さいうちに、あちこちに行っておくべきではないか。

 義務教育を休ませてまで、旅行をするという選択肢は二人にはない。

 出来ればノイズのメンバーと一緒に、こういうところを見てみたい。

 そうは思っている俊だが、実際のところ信吾などは、普通に田舎も経験している。

 栄二の方は実家も、そこそこ町の地域であるのだが。


 車がなければ死活問題。

 大げさなように思えていたが、バスの時刻表を見ればその通りだと分かった。

 通学のためにバスの運行があっても、朝と夕方それぞれ二本程度。

 自転車で平気で片道10kmほどは走って、通学する人間もいたのだという。

 高校ではなく、地元の公立中学の話だ。




 俊はカルチャーショックを受けていた。

 むしろ外国に行った時よりも、よりその衝撃は強かった。

 国内であるからこそ、逆に調べてもみなかったこと。

 そういうことが自分の中には、まだまだ蓄積している。

 そもそも東京の都心育ちであると、自転車に乗れない人間もいたりする。

 嘘のような本当の話で、電車が便利すぎるのだ。


 こういう田舎ならば、あとはタクシーを使うのだろうか、と俊は思った。

 だが月子も確認したが、昔と違ってタクシー会社もあまり機能していないらしい。

 つい10年前と比べても、深夜のタクシーなどがいないそうだ。

 確かにこういう土地であれば、タクシーもいないのかなと、俊は考える。

 自前の足である車がなければ、移動には不便すぎる。

 そして使われなければ、タクシー会社も撤退するのだろう。


 それでもまだ駅前ぐらいは、タクシーが少し待機してる駅がある。

 ローカル線の駅であると、それもないらしいが。

 同じ国内であるだけに、カルチャーショックを感じる俊だ。

「これ、通販が大変なんじゃないか?」

 そんなことも考えるのは、物流の問題であるからだ。


 なるほど店も少なければ、通販以外ならネットが発達もするだろう。

 その通販にしても、ネットから注文するのだ。

 現在の日本において、人間が居住している場所においては、ネットの普及率は99.9%ほど。

 それはもうネットを支配すれば、世界を支配できるというのも、冗談でもなんでもない話だ。

 海外に行っても市街地などはおおよそ、ネットがカバーできている。

 ただ山岳地帯になると、一気にその話も変わってくるのだが。


 山間部にはいまだに、有線でしかネットがつながらないところがある。

 冗談のような本当の話である。

 もちろん衛星通信を使えば、それすらもフォロー出来る。

 まったくネットは、世界を狭くしてしまったものである。

「井戸とかが現役で残ってたりするんだな」

「けどそれも少しずつ、使われないようになってるけどね」

 月子の親の子供時代であれば、川の上流の水は普通に飲んでいたらしい。

 しかし今は湧き水の源泉以外は、わずかな危険があるのだとか。

 寄生虫の問題である。




 このあたりでもソーラー発電の話が来ていると、同窓会の話のネタにあったそうな。

 冬場は雪が降り、日光もあまり射さない東北地方。

 そんなところにソーラー発電をして、一体全体どうペイするつもりなのか。

 シンセサイザーを使っていた音楽家が、電気なんか要らない、というふざけたことを生前言っていた。

 俊は成功すればするほど、どこか不安になってくる。

 

 成功者が意外なほど宗教にはまったりするのは、こういう不安があるからだろうか、とも思った。

 だが俊はもう少し、自分を俯瞰して見る人間であった。

 今のノイズが、これからどうなっていくのか。

 これからもずっと、音楽を続けていく手段。

 そもそも社会的に、それが可能であるのかという、漠然とした不安がある。


 アメリカで売れてくれてよかった、とは思っている。

 あの市場を通したことで、サブスクなどの売上は拡大した。

 だがそれとは別のことも、俊は考えている。

 音楽的な成功と、商業的な成功は違う。

 出来るだけカラーを変えるようには努力しているが、縮小再生産や、判子型の曲も少しある。

 商業的に考えるならば、それでもいいと言えるのだが。


 ビートルズは八年で解散した。

 ノイズもおおよそ八年である。

 幸いなことに俊の創作意欲自体は、まだまだ衰えるところがない。

 ただ昔に比べると、作曲のペースは落ちたと言えるであろう。

 定期的に作っていくこと。

 それは商業主義的なことかもしれないが、多くの人に聴かれるには重要なことなのだ。

 そもそも聴かれなくなってしまえば、新曲の発表自体がなくなってしまうのだから。


 この旅行において、俊は主にハンドルを握ったが、暁も少し運転はした。

 ペーパードライバーにならないために、普段から少しは運転をしている。

 機材を運ぶ時などは、自分でやってしまうのが早い。

 それぐらいはもう任せても、と周囲は思っているらしい。

 だがノイズの人間は、誰もが比較的庶民派である。

 俊などは生まれも育ちも、ものすごい太い実家を持っているではないか、と言われそうではあるが。




 月子のつながりから、俊は東北の民謡などとのつながりを得る。

 珍しくも月子が記憶していた人物は、顔がとても怖かった。

 ただ月子としては、目立つ顔立ちと思ったぐらいであるという。

 そういったところがむしろ、教える側としては新鮮に映ったのかもしれない。


 月子は中学校を卒業してから、すぐに京都に引っ越している。

 また字が読めないということは、同じく字も書くのは難しいということだ。

 このあたり今の、PCやスマートフォンの、自動変換機能は便利であろう。

 だが月子は基本的に、そのあたりの機能もあまり使いこなしていない。

 説明は主に、漢字をそれなりに使った日本語でなされているからだ。


 久しぶりの帰郷で、本当に久しぶりの対面となった。

 そして俊は確信できたのだが、月子はそれなりに愛されてきた、ということだ。

 甘やかされた、というのは確かにないだろう。

 しかし当時の、知能指数が低いか学習障害か、と思われていた月子のことを考えれば、生きる術を教えるのは優しさであったろう。

 もちろん厳しさも伴っていたのだが。


 そもそも人格的に、月子には多少のクセはあっても、変に歪んだところはなかった。

 地下アイドルなどをしていた割には、人間関係を歪んで捉えていなかったと言おうか。

 また和室などに入って座敷に通されたりすると、その所作がしっかりとしていることが分かる。

 一応俊もそういったことは、少し学んだことがある。

 だが基本的に東京でもどこでも、古来のマナーの必要な場面には出て行っていない。


 月子は着物の着付けも一人で出来るし、お婆ちゃんの知恵袋的なことはよく知っている。

 東京ではあまり必要もなかったか、あるいは金銭で代替出来た。

 だがそういった知識は、教養の一部となっているのだ。

「青森まで行くのは、さすがに厳しいなあ」

「でも三味線の全国大会って、東京以外はほとんど東北だし」

 まあ津軽三味線などは確かに、津軽と付くぐらいなのだから当然だろう。


 江戸時代だったり、その直後の維新の時代だったり、三味線は教養の一部となっていった歴史がある。

 基本的には盲人や、あるいは力仕事の厳しい女性の、門付けと呼ばれる仕組みであったらしい。

 仏門でいうところの喜捨に近い感覚だった。

 芸を見せることによって、その日の糧を得る。

 まさにこれこそが、芸事と言うのであろう。




 俊はここで、月子以外の本格的な三味線を、初めて生で聴いたと言っていい。

 もちろん東京にも民謡酒場など、三味線を聞ける場所は色々とある。

 とにかく世界中から、色々なものが集まっているのが東京なのだ。

 その東京にしても、さすがに最近は色々と、排斥の運動が出ていたりする。


 そんな中で三味線は、やはりギターとは違う。

 暁は確かにギターの名手だが、それでもギターソロのパートはともかく、インスト曲はあまりしない。

 弦が三本しかなく、音の調整も自分でやる三味線。

 一応は三味線にも、調律する機械はあるらしいが、名手と呼ばれるような人たちは、それは使わない。

 月子も使ったところはほぼ見ない。


 わずか三本の弦である。

 ただこの三本の弦であるからこそ、逆に音が一体化して、唸るように聞こえるということはあるだろう。

 同じ弦楽器であっても、それぞれ全くものが違う。

 それこそギターとベースでも、音は違うものだ。


 ノイズは信吾がギター歴もそれなりにあるため、ベースソロの曲なども作ったりしている。

 目先を変えていこう、というのは俊の基本方針だ。

 誰もが求めるいつものアレ、というのはただの類似品。

 もちろんクオリティを格段に上げられるのなら、それはそれで通用するのだろうが。

 たとえばノイジーガールを、何度もリマスターしているように。


 月子の三味線を、もっと前面に出す曲を作るべきであろうか。

 正直なところ俊は、三味線よりはヴァイオリンの方が、まだしも曲に組み込みやすい。

 ピアノと同じで小さい頃から、そこそこ習っていたからである。

 ギターとベースに関しては、それよりも経験は短い。

 もっともヴァイオリンは、かなり離れていた期間も長かったが。


 今回は山形内部を回ることに終始した。

 しかし本気で東北の民謡を理解するなら、やはり青森などに行くべきだ、とも言われた。

 別に今は、津軽にだけ名手がいるという時代でもない。

 だが地方であるからこそ、残っているというものはある。

 ただ同時に、不安になることも言われた。

 こういう部分に関しても、いずれは消えていってしまうのかもしれないと。


 三味線の名曲は、長く耳から耳に伝えられていった。

 その中で普通に、消えていってしまったものもある。

 そもそも誰の作曲か、分からないというものまである。

 これは確かに保全しなければ、と俊も感じた。

「春になったらまた、皆で回ってもいいよね」

 月子はそう言ったのだが、なかなかそんな予定が上手く、はまることはなかったのである。

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