第356話 MOON

 新規に作り上げられた、ボーカロイドMOON。

 現役でトップレベルのボーカルが、その元となっている。

 半分引退しているような、白雪のSNOWならまだ分かる。

 しかしMOONが本当に発売されるとなって、それがノイズのルナと言われても、ちょっと信じられないようなものであった。


 完全な生歌には、もちろん及ばない。

 だが白雪の方は、たまに配信で新曲を披露するのみなので、どうしても彼女のSNOWはそれなりに使われる。

 比べて月子のMOONは、どれだけ本物に近づけるか、ということになる。

 弦楽器を弾けば、音と音の間の音、というものがあるのが分かる。

 対してピアノなどの鍵盤楽器は、少しは曇らせることがあるものの、基本的に音と音の間が分かれている。

 メロディー通りに歌わせるだけでは、上手く聞こえないのだ。

 それでもDAWは進化しているし、それなりに生歌っぽく聞かせる調声の技術は発達している。


 俊はこっそりサリエリではなく、サーフェスという底辺から少し上という程度のボカロPで、MOONを使ってみた。

 やはり思うのは人間が歌う方が、不正確であるということ。

 そして人間は不正確である方が、むしろ心に響くのだ。

 俊は基本的には、ピアノで楽器を習い始めた。

 その後がヴァイオリンで、そしてギターという順番である。

 ギターは故意に歪ませてこそ、というのは俊でも分かる。

 それにピアノにしても、くっきりと音が分かれているからこそ、強さや弱さのタッチがあるのだ。

 この点では安物の電子ピアノは、どうしても生ピアノには及ばない。


 ボカロ曲を作り、月子ではなくMOONに歌わせてみる。

 あとはSNOWと一緒にコーラスをさせたりした。

 千歳はどうなのか、という話も少しだけあるにはあった。

 だが俊はすぐに、それは無理であるか意味がない、と分かったのだ。

 千歳こそまさに、ライブ感覚で歌っている人間。

 もちろん本人には、そういった意識があるとは限らない。

 ただ月子の声はともかく歌い方は、民謡の素地があるのだ。

 

 日本のソウルは、演歌ではなく民謡である。

 そもそもどうして演歌というものが勃興したのか、俊には興味がないので調べていないが、演歌と昭和歌謡こそが、戦後の日本の音楽の始まりであるのだ。

 民謡を取り入れたPOPSは、別にノイズが初めてではない。

 しかしメインボーカルが三味線まで弾いて、ボーカルをやるというのは初めてではないか。

 しかもかなり上手い。


 こんな月子を、単純にボカロとして歌わせるのは難しい。

 性能自体は昔よりも、色々と追加されているのだが。

 純粋にもっと高度なAIで、最限度を高めることは出来るだろう。

 しかしそれはボーカロイドとは全く違うもので、しかもそこまでやっても生歌には届かない。

 AIで絵を作っても、個性を出すのが難しいのと一緒だ。

 特に表情は、日本のマンガには絶対に敵わない。


 俊はこれを、コーラスやラップに使っている。

 メインのボーカルで、使うということはない。

 ボーカルが変わったバンドというのは、もう致命的に違うと言ってもいいだろう。

 QUEENはいまだに活動しているが、オリジナルメンバーは二人だけだ。

 ノイズにしても月子が抜ければ、それはもうノイズではないだろう。 

 もっとも一人だけ、月子の代わりが出来そうなボーカルはいる。

 花音のことであるが、もちろん彼女がフラワーフェスタを抜けるはずもない。




 月子が音楽以外でやっているのは、ボランティアへの参加や、あちこちへの講演だ。

 自分と同じハンデを背負っても、やれることはあるはずだろう。

 今は確かに成功している。

 周囲の理解もあって、本当に友人と言える人間も増えた。

 昔は考えられなかったが、男性からのお誘いまである。

 さすがにそちらは、アイドル時代の経験もあって、芸能界内部では慎重になっている。


 しかしどれだけ成功しても、苦しかった子供の時代が、消えてしまうことはない。

 だから他人を助けることによって、自分の体験を上書きして行く。

 ボランティア活動とは言いながら、自分のための行動でもあるのだ。

 ただ自分も、助けられる相手も、そしてノイズのイメージも、全て良くなっていく。

 なお未だに顔出ししない月子は、サングラスをかけて普段から活動している。


 月子の場合は文字をあまり読まないためもあって、視力が低下することがなかった。

 そのためサングラスは、普通にデザイン性だけで選ぶことが出来る。

 地味に趣味になっていてしまっているのが、このサングラス収集である。

 一応は顔出しNGではあるが、業界内では素顔を知られている。

 その素顔さえ流出しなければ、特に問題はないと考えている。

 芸能人のプライバシーが、今ほど簡単に拡散する時代もない。

 

 ノイズは基本的に、音楽性だけで売ってきた。

 ただ月子のキャラクターは、タレントとしても売り出せるものであった。

 意外とメンタルの強いのが、月子の特徴である。

 そうでもなければ生きていけなかった、という過去の悲しみがあるものだが。

 信吾は下手に語りだすと、過去の女性関係が怖い。

 俊や暁にしても、親の代から音楽業界でどっぷりと浸かっている。

 さすがにリーダーである俊は、ある程度前に出て行くこともある。


 その中で未だに、普通の一般人っぽさを持っているのが千歳だ。

 千歳にしても両親を亡くして叔母は小説家でと、ここまでは月子と同じである。

 しかし生来のハンデキャップは持っていない。

 友達は多いし、変に芸能界ずれもしていないし、フロントマンなのにステージ以外でのカリスマ性が感じられない。

 もっとも栄二なども、ステージを降りればその辺のおっさんに変化するのだが。


 月子が本当に上書きしなければいけないのは、山形時代の記憶である。

 もっとも俊はそれを、月子を構成する重要な要素と判断しているが。

 今の自分が成功しているのは、強烈なコンプレックスがあるからだ。

 しかし人間としての幸福を願うなら、そういったものも克服する必要があるだろう。

 今度は強烈な自信をもって、ステージに立ってほしい。

 俊はそうも思っている。


 ミュージシャンが人並の幸福など求めてはいけない、などというのは前世紀までの古い考え。

 同じ人間であるのだから、普通に幸福になってもいいのだ。

 ミュージシャンのみならずアーティストは、不幸な人生を送ってこそ評価される、などという風潮はある。

 また同時にエキセントリックなところが、その人格にも求められたりする。

 ただこれは俊は反対の立場で、今では情報の拡散と発信で、いくらでも炎上すると思っている。

 出来るだけ音楽性だけで売っていくなら、その可能性を少しでも小さくすることが出来る。

 または月子のように、積極的にボランティア活動を行うか。




 有名税という言葉がある。

 それは社会的に人気を得て、裕福な生活を送れるようになれば、それだけ注目されてしまうというものだ。

 パパラッチなどの存在により、アーティストの中でも特に、芸能人はメンタルをやられやすい。

 月子の場合はここのところ、そういうカウンセラーにかかったりしている。

 今のところは問題はないが、この業界では何がどうなるか分からないのだ。

 そういう点で心配なはずの信吾は、普通に生活をしている。

 同じ業界人とこっそり付き合っているらしいが、俊としてはそれに口を出すつもりはない。

 未成年であったり、不倫でさえなければ、それで問題はないのだ。


 その中で栄二は、一番一般人の要素が強いだろうか。

 また奥さんが一応はメディア側の人間だけに、対応も心得ている。

 そういう意味では月子や千歳の叔母は、文筆による発信力を持っている。

 もちろん一介の自営業者だが、メディア側に存在するというのは、抑止力にはなっている。

 ノイズはそういった部分でも、弱点が少ないグループでもあるだろうか。


 問題はこれが、変に利用されないか、ということだ。

 月子の活動は今、社会的弱者のために行われている。

 ただこういった運動の背景には、色々と利権が存在したりするのだ。

 タレント売りではなく、音楽性で売るのがミュージシャン。

 しかしイメージが悪くなれば、それだけ叩かれやすい問題でもある。

 月子の性質が根本的に、善良であることはノイズの誰もが知っている。

 ちょっと抜けているところはあるが、厳しく育てられた結果、しっかりとした作法を持っているのは、パーティーなどでも目にされているのだ。

 そういう場所では意外なほど、着物を着ていったりするのだが。


 だが本人の善性と、それを利用しようとする人間の間には、そもそも根本的な違いがある。

 俊などは性悪説の持ち主であるが、月子は性善説の持ち主だ。

 あれだけの人生お送っていながらも、基本的に人間の善性を信じている。

 さすがに無闇に信じるなとは、俊にもはっきり言われてはいる。

 保護者ではないが俊は、グループを守る立場にいるからだ。


 悪名も美名も名声は名声。

 知名度こそが重要だ、という時代はかつて長かった。

 しかし今ではすぐに、その知名度の内容が検索されるようになっている。

 検証した情報は、ある程度の取捨選択がなされる。

 それによって人々は、評価をより自己判断で行うようになった。


 60年代から70年代のロックスターは、本当に無茶苦茶なことをやっていた。

 80年代から90年代も、それはある程度の個性と受け止められていた。

 だが00年代になると、少しずつ落ち着いていく。

 そしてスマートフォンによる当たり前に個人が現場を撮影する時代が来ると、下手なことは出来ないようになってきている。

 そんな時代によくも信吾は、三股などをやっていたものだが。


 月子の生活は今、ようやく安定してきたと言ってもいいだろう。

 ノイズとその事務所だけではなく、彼女自身を支える人々が、世の中に増えている。

 下手にSNSをしないことが、出来ないことが、彼女にとっては有利に働く。

 失言がなければ、それを叩かれることもないのだ。

 この場合は失言ではなく、不用意な書き込みになるのだろうが。




 秋も深まっていく間に、ノイズは都内でライブを行っている。

 在京圏での活動が多く、ツアーはそれほど大規模なものにはならない。

 1000人規模のライブハウスは、大都市圏でないとなかなかないものだ。

 そして相変わらず俊は、下手に大規模なツアーを行わない。

 これは下手に多くのスタッフを自前で抱えてしまうと、それを食わせるのが大変になるからだ。

 この点においては阿部も、俊の言っていることが分からなくはない。


 欧米のレジェンドスターたちが、未だにツアーをする理由。

 それにはスタッフを食わせなければいけないから、というものが存在する。

 昔と今とでは稼ぎ方が、もう全然違うのだ。

 そして欧米のミュージシャンにとって、日本は不思議な市場になってきている。


 CDの売れ行きなどが、人気の目安となる時代は終わった。

 ダウンロード配信や、サブスクでのリクエストなど、総合的な評価を出している。

 それによると日本では、もう洋楽はほとんど聴かれない。

 特に洋楽の主流であるヒップホップが、日本ではそこまでの割合になっていないこともあるだろう。

 しかし大きなフェスでは、昔のレジェンドクラスのアーティストを招待する。

 そしてヘッドライナーをやってもらったりしているのだ。


 基本的に日本で聴かれる欧米のポップスやロックは、2000年前後までのものが多いのだ。

 その後も全く聴かれないわけではないが、特に俊が音楽を本格的に始めた頃からは、インディースでの活動も特殊なものになっていった。

 ノイズがそもそも、インディースで売れたバンドなのだ。

 そして今も契約内容などは、インディースに近いものである。

 プロモーションをするのに、あまり金がかけられない。

 それを計算した上で、支出も抑えていくというわけだ。


 ライブバンドとしての価値を、決して忘れたというわけではない。

 やはりライブでしか味わえないというものは、音楽には存在するからだ。

 格式ばったクラシックであっても、その演奏にはコンマスの特徴が出てくる。

 それほど多い数ではないが、俊もそういった場所に連れて行ってもらったことはある。

 昨今では月子が、三味線を店で弾くのに、民謡居酒屋を訪れたりもした。


 その月子が、自分のルーツを辿ろうとしている。

 淡路島出身の月子であるが、その記憶は小学生に入る前までのものだ。

 実際に淡路島を訪れた時も、地理的に憶えていることはあまりなかった。

 それでも関西を中心に、少し観光したものである。


 やはり音楽のルーツは、山形にあるのだろう。

 東北地方は三味線、それも太棹と呼ばれるものが普及している。

 別に関西でも九州でもやっている人間はいるのだが、多くの大会は東北地方で行われる。

 意外なもののルーツが、地方に残っているという国は多い。

 日本の場合は江戸時代、封建体制であったことが、いまだに影響しているのだろう。

 国の中にそれぞれ、また小さな国がある。

 そこでは特産物が作られたり、学問が発達したりと、色々なことが起こった。

 いまだに山口県出身や、山口県に選挙基盤を持つ政治家が、総理大臣になりやすいのは、幕末からの歴史が関係している。


 東北地方にあるのは、どういったものであるのか。

 同じ東北であっても、仙台はちょっと特別である。

 仙台は100万都市であり、東北地方では唯一の甲子園優勝チームを出したりしている。

 それに比べると山形は、どういう土地であるのか。

 10年間暮らしていた月子は、田舎だったなとも思わなかった。

 基準となる都会が、彼女の中にはなかったからだ。

 初めて都会を感じたのは、修学旅行などで日本のあちこちを訪れた時。

 もちろん山形にも、人口が10万を超える街はある。

 しかしそこも駅からすぐに、田畑のある場所になっていくのだ。




 月子の住んでいたのは、内陸の方であった。

 テレビで見るような本物の田舎ではなかったが、車で30分ほども走ると、本物の田舎になるという土地柄であった。

 住んでいるところから見えたのは、鳥海山という山である。

 標高は2200mを超えるぐらいで、学校の授業の一環で登ったことがある。

 夏でも雪というか、氷が残っている場所のある山であった。

 普通に山頂まで登れば、運がよければ雲海が見えたものだ。


 東京に比べれば当たり前だが、相当の雪は降る。

 それでも昔に比べれば、もうそんなたいしたものではない、と言われていたが。

 10年間を過ごした中で、多くの人と関わることになった。

 三味線の演奏などに関しては、多くの老人と関わることがあったのだ。

 ツアーで二度ほど訪れたが、本格的に戻ったというわけではない。

 あれから10年以上も、もう戻ってはいないのだ。


 祖母と住んでいた家も、もう売却されたという。

 ほとんど金にもならないような、そんな値段であったそうだが。

 ただ親戚はまだそこそこ残っており、祖母は向こうの墓に入った。

 両親は母方の墓に入ったのだが。


 京都を観光した時に、改めて叔母に色々と聞いてきた。

 月子の人生においては、やはりあの10年間を、昇華させる必要があるのだ。

 成功した今だからこそ、ああいった体験の全ても、今の自分を作り出していると言える。

 だがそれは成功したからであって、本当に奇跡的なことなのだ。

 陰湿なイジメというほどのことはなかったが、とにかく月子は周囲についていくことが出来なかった。

 平仮名しかほとんど読めないというのは、頭が悪いと勘違いさせることに充分。

 そして人の顔も憶えられなかったからだ。


 叔母はそれを、単純に月子の頭が悪いとは思わなかった。

 京都では大学病院にまでかかって、どういうことなのか調べてくれたのだ。

 知能指数自体は、むしろ高い傾向にある。

 だからこそ読解障害があっても、なんとかなったと言っていい。

 それに相貌失認も、自覚さえしていればどうにか生活出来る。

 むしろその点は、田舎で周囲に人数が少なかった場合、ある程度は記憶出来たものなのだ。


 もしも山形を訪れるなら、実家の近くにあった寺に泊めてもらえばいい、と叔母は言った。

 ただ今さらあちらを訪れたところで、何があるというのだろうか。

 そもそも月子はほとんどの知り合いの、顔すら憶えていないのだ。

 自分の中に何か、決着をつけるというのなら分かる。

 だがそれが必要なものなのか。


 月子にも一応、中学校の同窓会のお知らせ、などは来るのだ。

 今では葉書ではなく、メールなどでの誘いになっているが。

 むしろ葉書ではなくなったため、わずかな金額もかからないので、こうやって出欠の連絡確認が来る。

 今まではずっと、それに不参加していたのだ。

「冬場は交通が止まったりするから、今の季節に行うらしいけど」

 秋口に行うというのは、どうにも中途半端なものだ。


 地元を出ている人間も、かなりの数になるだろう。

 ただそれなりの数がいれば、同窓会も開けるのか。

 あるいは近くであれば、里帰りをする人間もいるのかもしれない。

「一人でも大丈夫か?」

「う~ん……でも叔母さんも、今は忙しいらしいし」

 月子を一人にするというのは、それなりに不安な俊である。

 実際のところ月子としては、あの故郷にはそんな、危険なことはほとんどないと思っていた。

 東京に比べれば、人の動きはゆったりとしている。

「これはわたしの問題だから」

 月子はそう言うが、俊としては心配を隠せないのであった。

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