第351話 帰ってきた女
帰ってきた。
あの派手な演奏をするギターが、ノイズのメンバーに帰ってきた。
妊娠から出産と、おおよそ一年余りの休止期間があった。
しかしその間も、新曲の発表などに関しては、しっかりと参加していたのだ。
さすがにライブは無理であったが、出産予定日直前まで、普通にギターを弾いていたのが暁である。
そして子守唄代わりに、ギターの弾き語りをするのも暁である。
元々暁はライブの時以外は、おとなしいガーリーファッションであることが多いのだ。
そしてあわあわとしながらも、実家で子供を育てていた。
退院してから夜泣きがなくなるまで、そのあたりが一番大変だったという。
俊はそちらには向かわず、金を稼ぐことに専念していた。
数日置きに見に行くと、確かに暁の母親に、顔立ちが似ている気がする。
色白なところなどは、暁にそのまま似ているだろうか。
夜泣きがなくなった頃には、俊の家にやってきた。
ただ母親になった二人は、協力して育てた方が楽なことに、すぐに気がつく。
よってまたも実家に帰り、しばらくはそこで育てようという話になった。
俊の家にいればそれはそれで、月子や佳代などもいるのだが。
月子は田舎育ちというほどでもないが、山形はちょっと町から離れれば、すぐに田舎になるところに住んでいた。
なので赤ん坊の世話を、祖母がやっていたのも習ったこともある。
現実的な話、子供を育てるのに一番楽なのは、母親の実家に里帰りして、そこで母に手伝ってもらうことだ。
もっともそれは暁の場合、継母であるため育児の経験などない。
むしろまだ保のほうが、その点では経験が豊富である。
ただそういったことも全て、外注してしまうのが俊の割り切り方だ。
あちらは保育園に子供を預けて、会社に復帰する。
しかし暁の場合は会社員ではなく、自営業者なのである。
よって保育園に預かってもらうという順番が、後回しにされるという問題がある。
なのでシッターを雇う、という選択肢が出てくるわけだ。
こちらは向こうの実家にいる時も、しっかりと面倒を見てくれていた。
出産からおよそ二ヵ月後、やっと赤ん坊は本格的に、俊の家で過ごすことになったわけである。
まだ寝返りもうたない赤ん坊。
信吾までもが興味津々と言うか、彼は妹とそれなりに年齢が離れていたため、ある程度は世話が出来る。
もっとも主にやっていたのは兄の方で、信吾は次男の気安さで遊んでいた。
今でも好き勝手やっているが、おそらくはこの人生の代償に、自分は家庭を持つことはないのではと思っている。
だが信吾の愛人たちは、さすがに彼から離れるような雰囲気を、最近は出しているらしい。
なんだかんだ言いながら、結婚していない女というのは、世間の視線が痛いそうだ。
そうなのかな、と月子は思うが、芸能界は一般の世間とは違う。
近くの人間を見てみれば、春菜はまだそう年齢も変わらないが、阿部なども結婚していない。
「まあ芸能人の男は、若い女が好きだからな」
「いや、普通は誰だって若い女の方が好きだろ」
俊の言葉に対して、年上とばかり付き合っている信吾が言った。
身内の栄二は姉さん女房と結婚しているのに。
そもかく暁はブランクを埋めるように、毎日弾いている。
そしてたまにではあるが、本当に子供のことを忘れてしまったりする。
「うあ~、母親失格だ~」
そう言いながらもしっかりと、おっぱいをあげているのだが。
粉ミルクの使用なども選択肢の中に入れていたが、結局はこちらの方が楽だ、というのが暁の感想である。
搾っておいたおっぱいを、しっかりと殺菌し消毒する。
そしてまた人肌に温めて、飲ませるのがシッターの役割である。
芸能人ってこんななのか、と思われたかもしれない。
だが実際のところは、俊と暁に、ノイズのメンバーが集まっているここが、特殊な場所なのだ。
基本的に一番役に立っていないのが俊である。
たまに起きている響を見ていて、音楽などを聞かせたりはしているが。
赤ん坊はまだ、目も耳もしっかりとしていないらしい。
少なくとも首が据わるまでは、絵本を読み聞かせても無駄であろう。
「そういえばあったな」
俊はそう言って、物置になりかけている、書斎から取り出してくる。
子供向けの絵本に加えて、子供向けの図鑑などである。
自分が小学校に入る前後に、これを見ていた記憶がある。
少なくとも小学校に入る前には、完全に平仮名とカタカナ、そして簡単な漢字までは読めていた。
父親があんなことを教えてくれていただろうか。
確か母親が、そういったことに手を加えてくれていた気がする。
同じように赤ん坊の頃は、シッターに育てられていたはずだ。
そして小学校の頃は、ハウスキーパーが育児までもやってくれていた。
彼女と最後に会ったのは、父の葬儀の時であったか。
もっと連絡を取っていてもおかしくはなかったであろうに。
そう思っていたら、帰国した母が教えてくれた。
「普通に年賀状のやり取りはしてるけど?」
子供の知らない親のつながりである。
それはともかく祖母となった母は、それなりに器用に子供を抱いていた。
あまり積極的には子育てをしなかったが、全くしていないというわけでもなかったのだ。
下の世話はほとんど、シッターなどに任せていたらしいが。
自分でやっていて、楽しいところだけは少しやる。
そんな感じであったが、下手に自分で丁寧にやろうとせず、教育知育具などは揃えていた。
部屋にはひらがな50音やカタカナ50音が書かれた一覧が貼ってあった。
また数字の九九を書いたものも貼ってあった。
今では本が売れなくなっているが、こういうものはさすがに売れ続けているらしい。
印刷してしまえばいいとも思えるが、そもそも安いものであるのだ。
「そのうちオモチャとかも買ってやらないといけないのか」
「まだ残ってるわよ」
久しぶりに戻ってきた母は、なんだかんだ言いながら、やっぱり母であったのだ。
なんだかんだ言いながら、比較的早期の復帰である。
夏の終盤のフェスに合わせて、やっとバンドの練習が始まる。
妊娠中もやっていたが、胎教に悪いのでは、とも思った俊だ。
もっとも二人の子供であるのだから、大丈夫だとも思える。
あまり激しい音楽は、むしろ母体に悪かったような気もするが。
小学校に入る前から、リッチーやギルモアをコピーしていたのが暁なのだ。
よく小さな指で、そんなことに挑戦したものだ。
ともあれ夏のフェスの前に、暁はノイズに復帰した。
さて妊娠から出産、そして育児の経験が、彼女をどう変えたものであるのか。
結論としてはほとんど、変わらなかったと言っていい。
母親として丸くなったか、というとほとんどそんなことはない。
いまだに母親の自覚が足りないのだろうか。
しっかりとおっぱいは与えているのだが。
やはり子育てにおいて、しんどい部分をシッターに任せているというのが、変わらない原因であるのだろうか。
子育ては大変であるとは言われるが、その部分を外注してしまう。
そして楽しい部分だけを、しっかりと満喫する。
それでも実際に産んだ暁の方は、何か影響が出ても良さそうなものであるが。
むしろやっと子供が出てきて、存分にギターが弾ける、という状態である。
かといって子供に対して、愛情がないわけではないのだ。
苦しかったり大変だったりする部分を、おおよそやらなくてもいい。
すると普通に、愛情は持てたりする。
ただ子育てというのは、大変だったりする部分も重要なのだ。
夜泣きやおっぱいにぐずったり、あるいはウンチの始末などは、どうしてもシッターに全て任せるわけにはいかない。
俊はさすがに、集中してやらなければいけない時は、防音の地下室に籠もった。
それでも咄嗟に頼られるのは、父親として仕方がないところであるが。
風呂に入れるのは主に、俊の仕事である。
「おちんちんってこんなだったっけ?」
オムツを替える時に暁は、マジマジとそれを見たりするものである。
やめてさしあげろと言いたいが、さすがにそれは母親の役目であるのか。
そういえば俊は、性教育を父親からは受けていないな、と思った。
そもそもあんなものは、男であれば自然と、年齢層の近い年上の男性から教わっていくものだろうが。
「今は便利になったよね」
てきぱきとオムツを替えてくれるのは、ある程度慣れた月子である。
「うちのお婆ちゃんは時々、布のオムツも使ってたから」
昔はずっとそうだったのである。
今はもう、紙オムツしか使われていないのではなかろうか。
もっともそれも日本をはじめ、先進国ばかりの話であろう。
昔は普通に、布を使ってオムツとしていた。
もちろん使い捨てなどではなく、何度も洗って使っていたものだ。
「わたしはともかく、お父さんとかは布オムツだったって、お婆ちゃんは言ってたなあ」
その当時から既に、紙オムツはあったはずなのだが。
子供を産んだことで、それまで蓄積されていたものを、炸裂させる暁である。
フェスの前のライブにおいて、相変わらずの演奏を聴かせてファンを安心させた。
ただ微妙に、柔らかい部分では音が変わったかな、と思わなくもない。
切り裂くような旋律は、相変わらずであるのだが。
しっかりとライブも終わって、久しぶりの打ち上げである。
だが母乳で育てている暁は、アルコールを摂取しない。
考えてみればお酒の間違いで、響は誕生したわけだ。
あれがなければ色々と、今とは変わっていただろう。
いや、あのまま変わらなかったのか。
俊も暁も恋愛などよりは、音楽を優先する人間であった。
俊の場合は都合のために、結婚をすることはあったかもしれない。
そして義務的に、子供も作ったかもしれない。
だが暁は自分に、母親が出来るとは思っていなかった。
それ以前に結婚するというのが、千歳と違って実感がなかったのだが。
そんな千歳はいまだに、処女のままで彼氏がほしいな、と言っている。
ただ漠然と言っているだけで、積極的に活動をしているわけではない。
しかし暁が子供を産んだことで、やはり彼氏がほしいかなとは思っている。
音楽業界は狭いものであるのだから、その気になればいくらでもいるだろう。
もっともちゃんと責任感のあるような、そういう人間は少ないだろうが。
人生設計をしっかりと考えているような人間は、そもそも音楽などはやらない。
「ファンの中で付き合いたいとか、考えてる人いないかなあ」
「アイドルじゃないんだから」
月子は突っ込むが、彼女こそその気になれば、相手には不自由しないだろう。
もっとも彼女のハンデを知っていて、それを支えてくれる人間でなければいけない。
恋愛をすっ飛ばして、妊娠から結婚して出産と、暁の動きはバンド内に衝撃を与えた。
それでもノイズというバンドが、解散するようなことはなかったが。
とりあえずのイベントは、夏のフェスである。
まだ若いからというのもあるが、暁は子育てにリソースを割きながらも、充分に練習に時間をかけていた。
稼げる人間は稼いで、専門家に任せて育ててもらえばいい。
その俊の考えに、ある程度は暁も賛同するのだ。
しかし本当に子供に愛情を与えられるのは、やはり近親であるべきではないかと思う。
俊の家を訪れることが、多くなった岡町である。
かつてのメンバーの子供同士がくっついて、そこから生まれてきた子供。
彼にとっては孫のような感覚なのであろうか。
彼自身は結婚もしていないので、身近な人間の子供を可愛がったりする。
首が据わった響君は、それでもまだ泣き声以外のコミュニケーションを知らない。
さて、確認しておかなければいけないことがある。
暁としてはやぶさかではないのだが、俊はどう考えているのか。
そもそも子供が出来たから、という理由でくっついた夫婦である。
子は鎹とも言うが、それと夫婦関係は別であろう。
良き親であろう、とは考えている。
しかしそれと夫婦生活は、また別のものであると思う。
そういった様子を俊が見せないので、暁の方から確認することとした。
夜泣きはしなくなってきたが、それでも普通にオムツは濡らす息子を別に、夫婦には話し合うことがあったのだ。
「俊さん、あのさあ」
子供を間に置いて、暁は少し頬を赤らめる。
「まだちょっとあれだけど、もう少ししたら完全に回復するし、そうなったらまたする?」
「何が?」
あっさりと返されて、困った顔になる暁である。
「その、夜の営みの方だけど」
赤ちゃんの目の前に、自分の指を持っていって、遊んでいる俊の動きが止まった。
二人の性生活は、とても短いものであった。
あの一度きりで当たったわけだが、その後は暁が経験しておきたいということで、無駄に避妊をしながら12回だけやったのみ。
そして出産後はここまで、キスすらしていない。
確かに子供の世話をするため、そういったものは完全に後回しになっていたのだが。
「営みかあ……」
言われて初めて気付いた、という感じの俊である。
実際に俊は、好奇心ぐらいでしかセックスをしていない。
初体験は間違いなく、歪んではいたが愛情のあったものであった。
その後のものは性欲と、あとは知的好奇心によるものだけだ。
愛情というものを、わざわざ持ってやったものではない。
ひどい男である。
ただ、俊としては暁との間には、確かに一種の愛情があることは間違いないと思う。
男女としての愛情に、かなり近いものである。
もともとちょっと、妹に近い存在ではあったのだが。
そして暁と違って、他者との経験もしている俊は、はっきりと分かっている。
自分と暁の体の相性が、ものすごくいいことを。
高校時代や大学時代、性欲に任せて色々と試してみたものだ。
だが本当の気持ちよさというのは、まず感じることが出来なかった。
むしろ彩に乗られた時の行為の方が、気持ちよかったと言える。
暁との行為は、それを上書きするものであった。
暁に対する、ちょっと妹にも似た愛情。
その背徳感が、快感につながっているのだろうか。
しかし実際のところは、ちゃんと女を感じている。
自分の腕の中で、柔らかに震える肢体。
それを思い出すだけで、かなりの劣情を催すぐらいだ。
俊は手を伸ばして、暁の頬に触れる。
触れられた暁は、その手に自分の頬をこすりつけてきた。
「暁、俺たちの体の相性は、ものすごくいい」
「まあ、なんとなくそんな気はしてた」
耳年増の千歳の知識から教えられたものだが、俊との体験はかなりの快楽を伴ったものであった。
普通なら相当に慣れていないと、そういった感じにはならないとも言われた。
あくまでも聞きかじった知識であるが。
暁としては、もっと感じてみたいな、と思ったのだ。
ギターを鳴らしている時とは違う、自分の中で何かが動いているあの感触。
そして奥深くに触れられた時には、そこから快楽が広がっていく。
「子供も生まれたことだし、俺たちの関係が良好であることは、とても大切なことだと思う」
それは確かにそうであろう。
「そして夫婦間の関係を良好にするには、夜の性生活も重要だと思う」
つまり、またやりたいということだ。
まったくもって、ストレートではない男である。
だが性欲はちゃんとあったのか、と暁は安心した。
あの1ダースを使い切ってからは、そういった感じで触れることはなかったため。
「体の方はもう大丈夫なのか?」
「一応は体も小さいし、一年間ほどは作らない方がいいって言われてるけど」
「もう一人ぐらい作ってもいいのか?」
「あ……どうだろ。陣痛始まった時は、二度とごめんだとか思ってたけど」
そこで暁は、また少し頬を染めたのだ。
「最後にすぽん、って生まれたとき、なんだか気持ちよかった」
「え、そうなのか」
驚きの俊である。
事実がどうであるかは、人それぞれであろう。
ただ明らかなのは、暁は第二子を産むことも、特に忌避していないということだ。
つまりその前提条件となる、夫婦の営みを許可している。
「まあ普段は避妊しておいた方がいいな」
「うん、この子が少しは、手がかからなくなるまでは」
あう~?と両親を見つめてくる響君である。
じゃあ早速やってみるか、という話になってくる。
「いや、もう少し待ってほしいかな」
まだ回復しきっていないと思うし、それに避妊のコンドームさんもない。
俊としてはまた時間をかけて、やっていくことには大賛成である。
暁はまだ20歳であるし、俊も26歳になったところだ。
これからまだまだ、子供は作れるかもしれない。
日本の少子化に対抗するため、ガンガンと産んでいけばいいだろう。
稼ぎのある人間は、それが義務ともなる。
もっとも暁の場合は、彼女自身も働いているので、そうそうポコポコ産んで行くわけにもいかないが。
渡辺家の夫妻における、夜の営みに関する双方の思惑の一致。
暑い夏を終えた頃には、また活発な活動が開始されるのかもしれない。
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