第350話 ようこそ世界へ
新年度が始まる。
そこからゴールデンウィークのフェスにかけて、新曲の発表なども考えながら練習をする。
とにかく演奏の技術というのは、練習すればするほど上手くなるものだ。
出来れば事前に一回、またライブはしておきたい。
そこそこ大きめのハコを準備するが、紫苑の予定にも合わせていかなければいけない。
向こうはフラワーフェスタとこちら、両方をやらなくてはいけないのだ。
「下手なメンバーにヘルプに入ってもらうぐらいなら、打ち込みにした方がいいしな」
俊はそう言っているが、暁としてはもう背に腹は変えられない、という気持ちが強い。
「うちのお父さん、頼んでみようか」
それは確かに、腕の方の問題はないだろう。
マジックアワーのギタリストであり、解散後もミュージシャンとして活動している。
レコーディングに参加したり、バックで弾いたりと、その活動は暁を育てるぐらいには、しっかりと稼いだのだ。
もっともマジックアワー時代に、かなり巨額の金を稼いだとは言われている。
俊の父と違い、あまり派手に金を使っている様子はない。
それでもヴィンテージのギターを買ったり、マンションに防音室を作ったりと、それなりの金の使い方はしている。
アメリカツアーはさすがに無理であったが、ヘルプに日本で入ってもらうぐらいなら、なんとかなるのではないか。
暁の考えに、俊は悩むのである。
一応はフリーのミュージシャンであるが、基本的にはALEXレコードで仕事をもらっていることが多い。
だから派閥が違うと言えば、確かに違うのである。
それでも頼む分には、問題はないであろう。
問題になるとしたら、フェスのその時間に、しっかりと予定を合わせることが出来るのか。
アメリカツアーのように、長期の拘束ではないとしても、ある程度は合わせる練習はしないといけない。
バックミュージシャンなども長くやっているのだから、合わせること事態は出来るだろう。
しかしフィーリングが果たして合うのだろうか。
どうしても年齢差があると、フィーリングが合わないというところはあるだろう。
むしろ暁などは、あの年齢なのにかなり年上に、合わせていけるところがある。
新しい世代は、古い世代に合わせることが出来る。
しかしその逆は難しい。
経験を考えれば、むしろ逆に思えるかもしれない。
だが実際に若い世代は、昔の世代のノウハウを、効率のいい形で吸収してしまえる。
暁などは単純に、昔のハードロックなどが好きだったというのもあるが。
世代が一つ変われば、普通はもう合わない。
ただ中には例外もある。
「また私かい」
白雪は頭を下げられているが、確かにその例外ではあるのだ。
感性がずっと若いままであると言えるか。
あるいは時代にずっと合わせているとも言える。
ドームで共演したし、ヘルプに入ってもらったこともある。
病気の件は二時間のワンマンライブならともかく、フェスの一時間なら問題はないだろう。
紫苑に手伝ってもらうのが、一番いいのは間違いない。
だが次の選択肢も、しっかりと残しておくべきなのだ。
色々と考えている間に、また一つの企画を思いつく。
以前にも少し、検討してはいたのだ。
月子の声のボーカロイド化である。
ミクさんもGUMIさんも、中の人がいる。
それと同じで月子の声もボーカロイド化して、コーラスなどに重ねやすいようにしたいのだ。
千歳の場合は歌っている時に、声に感情の揺れがある。
なのでボーカロイド化しても、あまり意味がないタイプなのだ。
俊としてはこのことを、白雪にも提案してみた。
彼女の声もまた、かなり特徴的な声だ。
ボーカロイドとしては、充分に需要はあると思う。
そもそも現在のトップシンガーが、ボーカロイドになるというのが、新しい時代とも言える。
「面白い」
頭の柔軟な白雪は、そのように考えていくのだ。
ボーカロイドになれば、ソフトが売れるごとにマージンが入る。
もっともボカロPの数を考えれば、そこまで大量に売れることはないだろうが。
しかし重要なのはそこではない。
月子や白雪の声が、ボカロPによって使われるということ。
それだけより、世界に広まっていくのだ。
もちろんいくら調声が上手くても、生歌には敵わないのが、現在のボーカロイド技術である。
だが数年後には、どうなっているか分からない。
デジタルである以上、完全な再現は難しい。
しかしどんどんと、完全なものには近づいていくだろう。
もっともライブでの演奏は、やはり限界があると思う。
暁のギターというのは、本人が弾かなければ成り立たない。
ボーカロイドとなるということは、永遠になるということだ。
今でも既に、AIによって死者の新曲というのは出たりしている。
しかし一般に、広がっていくというものなのだ。
世界中の人間が、死者の新曲を作る。
もちろんAIとボーカロイドでは、まだ精度に差があるのだが。
ゴールデンウィークのフェスは、白雪の力を借りて、無事に終了した。
彼女はこれから、手術を控えている。
体力は落ちるし、生活の自由度も減る。
それでもサポートがあれば、好きなことはある程度出来る。
人間は不自由になった方が、想像力は高まることがある。
白雪は諦観しながらも、それを理解している。
そうやって人は、必ず死に向かっていく。
成長はしていくといっても、残りの寿命はどんどんと減っていく。
生命は死ぬためのものである。
それなのにどうして生きようとするのか。
遺伝子の運び手、というように言われたりする。
そもそもの話、生きようとしない生物というのは、その進化の過程で絶滅していく、という当たり前の理屈もある。
生命は子孫を残すように、その存在が作られているのだ。
そしてまた、新しい命が生まれる。
パンパンに大きくなったお腹を抱えて、出産予定日の前日に、暁は病院に入院することとなった。
既に破水はしているのだが、これから時間がかかって、ようやく生まれてくれるわけだ。
昼前に病院に、普通に車で運ばれた。
まあいくら短く見ても、六時間ほどはかかるだろうとも言われた。
「うおおおお、これが陣痛……」
定期的に襲ってくる、弱い痛みと強い痛み。
やばくなったらすぐ帝王切開、とは言われている。
なお父の保は、こちらの病院に来れていない。
なぜなら継母の方も、明日か明後日かが出産予定日、というぐらいになっているからだ。
年齢的なことを考えると、暁の方が出産には適した年齢。
だが体格的には子供を産むのは、大変であるとも言われる。
「腰、腰揉んで」
「おう」
「もっと強く。あ~痛い」
定期的な痛みが、ずっと続いてはいるらしい。
出産立会いは拒否されている俊である。
だが病室においては、普通に一緒にいたりしている。
「あ~、なんか話とかしてみて。雑学系の痛みが紛れるような」
「そうだな。人間の出産が大変なのは、二足歩行を開始したからと言われている」
野生の獣は妊娠していても、その運動能力がさほど落ちないものが多い。
馬などは代表的なものだが、そもそも足が圧倒的に速いし、なんなら蹄の蹴りで捕食者と戦うことも出来るのだ。
「お~す。とりあえずシュークリーム買ってきたよ」
「ありがとう」
千歳の差し入れに、ばくばくと食べる暁である。
なにしろここから、体力勝負となるわけなのだから。
見舞いと称して色々な人間がやってくる。
陣痛がずっと続くので、さっと来てさっと去って行くが。
事前にしっかりと準備はしていたので、問題はないはずだ。
俊にしてもしっかりと、スケジュールは立てておいた。
何か必要があれば、春菜に頼んだりするわけである。
そして夕方頃になって、分娩室に入っていく。
俊はその前で待機ということになる。
こんなこともあろうかと、仕事を入れてきたノートPCが存在する。
だがさすがの俊も、ここではいらついて手が動かなかった。
しかし入室後、わずかに30分ほどで、看護士が出てくる。
「生まれましたよ」
なんともあっさりとしたものであった。
しっかりと手洗いや消毒のために、少し手間がかけられる。
そしてしっかりと防疫のための服まで着せられて、俊は赤ん坊と対面した。
「お疲れ」
「うん」
さすがに暁もぐったりとしていて、本当に体力を使ったのだなと思う。
生まれた赤ん坊は、もう最初の泣き声は終わって、今は並べられて眠っている。
男の子であることは、既に分かっていた。
そして当然ながら、名前をどう付けるかも、色々と話あっていた。
妊娠中の暁が少し錯乱していて、欧米のギタリストから名付けようかと考えて、俊が必死でそれを止めていた。
音楽や音に関係のある名前にしよう、となんとかまとまったものである。
そして幾つか案が出た中で、決まったのが「響」である。
男の子にも女の子にも使える名前、ということで決められた。
また両親が共に一文字の名前だから、ということも関連している。
本格的に暑くなっていく夏の前、二人は親になった。
しかし実際に赤ん坊の顔を見ても、未だに実感の湧かないのが俊である。
男親というのは、そういうところがあるものだとは聞くが。
「う~ん、本当にこの子があたしの中に入ってたって、不思議な気がするなあ」
「まだ痛いのか?」
「痛いよ。当たり前だよ。変に裂けないように、先に切れ目を入れておくんだよ」
そうは言う暁であるが、最後にすぽんと抜けた時には、なんだか悲しみを感じたりもしたものだ。
生命が自分の中に宿っているということ。
それは間違いなく、不思議なものだと言える。
神秘的な体験だったな、と今さらながら思う。
しかし昨日までは自分の中にあったのに、今では普通に別の個体となっている。
盛大にわめきながら誕生した、自分の息子。
とりあえず五体満足であり、それだけでも充分と思うべきであろう。
翌日からは、赤ん坊を見に来る人々が多かった。
そして口にするのは、だいたい共通している。
「なんかハンサムじゃない?」
赤ん坊の段階で、およそそれが分かっている。
確かに可愛らしい目鼻立ちだな、とは両親である俊と暁も思った。
考えてみれば暁がハーフなのだから、子供はクォーターである。
ならば少し顔立ちが、白人のものであってもおかしくはない。
暁は髪質や髪の色、それに肌の具合は白人の特徴を持っていたが、顔立ち自体はかなり日本人寄りであった。
しかし隔世遺伝なのか、やや目鼻立ちが白人と言えるであろうか。
暁の母親はブロンドであり、暁の髪も黄味がかった茶色である。
赤ん坊の髪の色は、まだはっきりとはしない。
ただ目鼻立ちは確かに、祖母に似ていると保も感じたらしい。
なお同じ病院に、継母も入院している。
暁の出産から二日、あちらも無事に出産を済ませたのだ。
ただ陣痛が来てから出産までの時間は、あちらの方が長かったらしい。
また暁の方はあれでも、完全に安産だったのだという。
それに比べれば時間もかかり、あるいは帝王切開か、ということも検討されたのだという。
最終的には無事に生まれたが。
あちらも同じ男の子である。
まるで従兄弟のような感じだが、実際には叔父と甥だ。
将来は混乱するのではないかな、と思ったりもする。
これで保は長男を得たと同時に、お祖父ちゃんになってしまった。
まだ40代であるのだが、昔は別に珍しくなかった。
病院というのはおおよそ、あまりイメージがいい場所ではない。
その中でも産婦人科というのは、例外的に幸福の色が濃い場所ではある。
そんなところであるので、見舞いに来る人間も、おおよそは顔が明るい。
「これでようやくギターが弾ける」
そういう暁であるが、出産当日まで普通に、ギターは弾いていたのである。
そして病室にも、アコギは持ち込んでいたりする。
音楽の英才教育を受けさせるつもりはない。
だが自分のギターを聞かせて育てるのだ。
自分もまた、父やその友人たちの音楽を聞いて育った。
それは俊も同じことである。
「復帰はどれぐらいになりそうなの?」
阿部はプロデューサーとして、しっかりそこは確認するところである。
「本人は一日でも早く、とは考えてるみたいですけど」
さすがに数日は、歩けなくて車椅子を使うぐらい、ダメージが残っていた。
処女喪失の時の、20倍ぐらいの痛さといったところか。
純粋に体力は奪われているし、ダメージも大きい。
それでも暁としては、夏までにはステージに戻るつもりである。
「シッターさんもちゃんと頼んであるので」
退院したらすぐに、任せ切りにするつもり万端である。
それにしても、本当に両者共に安産で良かった。
そう考えている俊としては、下手なロック系のストーリーにならなくて良かったとは思う。
もっともそれ以前に、色々と周囲の人は死んでいるのだが、
それこそ俊の父も、ミュージシャンっぽく亡くなっている。
関係者は色々とやってくるのだが、さすがに暁の母親は、簡単にはやって来れない。
また俊の母も、相変わらず世界を飛び回っている。
それでも入院している間には、顔を見せるつもりはあるらしい。
暁の母の方はなんなら、今度のアメリカに行く時にでも、連れて行って顔を見せてもいいが。
今ではネットによって、中継される世の中である。
お互いに動画で、挨拶をし合うことぐらいは出来る。
赤ん坊は体重およそ3kgと、一般的なものであった。
しかしながら体重は、一気に10kgも減っている。
羊水以外にも胎盤など、本当に色々なものが入っていたのだ。
「うわ、本当に吸ってる」
ある程度は母乳で育てた方がいいだろう、ということでチャレンジしている。
結論として大きな暁のおっぱいからは、それなりに母乳が出ているそうである。
なお異母弟君の方は、母親の母乳の出が悪かったらしい。
じゃあやってみるか、と弟におっぱいをやってみる暁である。
「なんか片方からしか飲まないんだよね、この子」
なのでもう片方からは、搾り出す必要があったのだ。
それを飲んでくれるなら、むしろありがたいところまである。
弟に母乳を飲ませる。
それなんてプレイ、という気がしないでもない。
ただ俊としては合理的に、廃棄されるぐらいなら飲まれたほうがいいだろう、と考える。
実際に昔は、乳母という習慣もあったのであるし。
母乳を飲んでもらった方が、なんだかよく分からないが、子宮の回復が早いとも聞く。
何より飲んでもらわないと、突っ張ってしまって困る。
出産後病院にいる間は、特に問題もない。
だが俊は暁が、実家に戻った方がいいのでは、と考えたりもした。
暁は回復が早いが、向こうはやや遅い。
これが年齢の違いか、といったところであろう。
30代前半での出産など、今では普通にあることだ。
しかし20歳での出産の方が、回復力に優れていることは言うまでもない。
生まれた子供を連れて里帰りし、シッターには給料を増額した上で、二人を見てもらう。
もちろん一人で二人を見るのは大変だが、それはちゃんと二人の母親も面倒は見ていく。
あちらはあちらで、しばらくしたら保育園に入園させ、仕事に復帰する予定だ。
そして暁は俊の家に戻ってきて、シッターと共に育児をしながら、ステージへの復帰を目指していく。
「まだ水着になるのか?」
「だって暑いし」
果たして生まれた息子は、母のこのロックな調子で、どうやって育てられることになるのか。
(一般常識とかは、俺の方が教えた方がいいのかな?)
育児に関して役割分担を、まだ決めていない二人であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます