第349話 春よ来い
白雪の病気というのは、ちゃんと名前がついている。
家族性大腸腺腫症。
遺伝する病気であり、発症するとおおよそ50代までに、癌になる病気である。
他の臓器の癌リスクも高く、病院では経過観察をじっくりしたが、結論は同じであった。
手術による大腸全摘出である。
現在の状態であると、直腸を残すことが出来る。
ただおそらくは、そこもまたポリープが出来てくるという病気だ。
今は良性のポリープであるが、いずれは必ず癌になる。
こうなると生活そのものが、根本的に変わってくる。
抗がん剤でどうにかなるというものではない。
通常の癌とは違うものであるからだ。
一般的な仕事であると、かなり難しくなってくる。
またステージに立つような、そういうことも難しくなる。
もっともレコーディングなど、そういったことは今まで通り可能だ。
コンポーザーとして作曲をしながら、作詞もして行くという人生。
上手くいけば長く生きられる。
それでも60歳まで生きられれば、かなり御の字といったところだ。
別に死ぬのは怖くないのだ。
あの人と同じ状態になる、と考えるだけであるのだから。
天国だの死後の世界だの、そういったことは考えない白雪である。
そんな面倒なことを考えているならば、この世に少しでも足跡を残せばいい。
ただ周りがひどく騒ぎになるだろうな、とは思う。
(あの時も大変だったからな)
何人かを見送ってきたのだから、今度は自分が見送られる側でもおかしくはない。
とりあえずジョンよりは長く生きるのを目標にしてみよう。
ジミヘンやボンゾよりは、もう長く生きられたのだから。
人間の価値というのは、生きた長さにあるものではない。
社会というものを、つまり歴史というものを築き上げたこの生物は、遺伝子の運び手であることを止めた、唯一の生物だ。
だがそれによって、より遠い先に、その存在を残す可能性が出てきている。
星の終焉も、宇宙の終焉も、既に知っている生物。
これこそまさに、知的生命体と言えるのだろう。
宇宙怪獣のようなものは、ひょっとしたらいるかもしれない。
だが惑星からせいぜい、衛星まで移動するのがやっとなのに、これだけの未来を見通している。
そんな文明に、歌は流れている。
それはもう、愛、おぼえてますかなどと言われるものであろう。
月子の障害については、解消される可能性が見えてきた。
だが脳を圧迫しているものは、果たしてそれが消えたとしても、今の状態から戻るのであろうか。
俊としては月子の持つ凄みは、そのハンデから感じさせるものだと思う。
なので人間としては生きにくくても、今のままのほうがシンガーとしてはおそらく優れている。
人は欠落しているがゆえに、違うものでそれを埋めようとするのだから。
千歳もまた、結婚をして子供でも生まれたら、今の声にあるざらりとした感触は、失われてしまうかもしれない。
不幸である方が、幸いであるというアーティストの性。
俊は自分など、音楽での成功以外、何も求めてはいなかったのに。
(世の中は不公平と言うか、それともなんと言うべきか)
少なくとも自分は今、音楽的には幸福である。
しかし人間的にまで幸福になることによって、楽曲や歌詞における痛みを、忘れてしまうかもしれない。
そうなったらノイズは、かなり舵取りが難しくなるだろう。
子供が生まれる前に、出来るだけ曲を作っておきたい。
幸せが自分から創造性を奪う前に、可能な限り搾り出しておきたいのだ。
ショービジネスの世界の闇は暗い。
俊自身は身につけた技術やコネクションで、仕事をすることは出来るだろう。
だが他のメンバーはどうなるのか。
好きで解散したいと思うわけではない。
だがおおよそのバンドというのは、そう長くも続かないものだ。
特に女性陣が多い場合、今回の暁のように、妊娠や出産も考えていかないといけないだろう。
月子の件については、とりあえず相当の運動に近いものをしてきても、これまでは問題はなかった。
そしてアメリカでは代理母が立派なビジネスになっている。
もっとも州によるというところが、本当にアメリカは合衆国なのだな、と思わせるところだ。
ただ金を稼げる女性は、これをガンガン利用していけばいいだろう。
もっとも自分の胎内で育てるわけではないのだ、分かりやすい愛情が湧くかは疑問だが。
月子の場合は帝王切開も示された。
さすがに自分とは関係ないと思っていたので、俊はこれに対する知識がない。
今でも適当に調べたこと以外、自分には関係がないことと思える。
だがそれこそ二人目が欲しくなれば、アメリカ以外でも代理母を認めている国で、他の人間に産んでもらえばいい。
違和感はあるがそれも、ビジネスの形の一つ。
ただ普通にヨーロッパの国では、禁止されている場合も多い。
どちらにしろまだ、ずっと先の話になるだろう。
そもそも俊と暁は、別に子供が欲しかったわけではない。
しかし出来た子供を、産むことに決心したのが暁であり、全力でそれをフォローすると決めたのが俊であった。
幸福であることはロックではない。
そんな考えは前世紀のものである。
幸福であろうとなんであろうと、パワーを発散して行く。
暁が母親になった時、変わらずにいられるのだろうか。
案外というか、普通にいい母親になりそうな気もする。
個人としてはそれでいい。
しかしノイズとしては、そんなギタリストはいらない。
ふだんは静かにしていながら、内面に距離感を感じる。
それが暁の世間に対するスタンスだ。
音楽がなければ、コミュニケーションを取るのも難しい。
逆にこの業界では、普通に生きていけている。
アメリカでのツアーは成功であった。
特に最後のニューヨークでは、しっかりと動員することが出来た。
もっともかつてのような、五万だの10万だの、そういう動員数ではない。
ライブのチケットを買うというのが、かなり贅沢な行為になっている。
純粋な価格だけではなく、そこに行くまでの手間や時間。
ネットであれば一瞬である。
この価値観の変遷を、どう受け止めることが出来るか。
音楽自体の需要は、おそらくなくならないだろう。
人類史上のありとあらゆる文化において、ほとんどのものが音楽を含んでいた。
ただこの音楽の価値を、どうやって金に変えていくか。
それがなかなか難しい。
バンドブーム、グループサウンドブームというのは、何度も波はあるが訪れている。
それがどの程度の流行かはともかく、バンドをやる人間はとても多い。
ただDAWとボーカロイドで、これまでにはなかった才能が世に出ることになった。
今はその才能が、商業に乗ってきている時代である。
これをさらにバンドにしたのが俊であり、ノイズである。
他のボカロPは楽曲提供か、ユニットという形で世に出て行った。
これだけバンドという形で成功したのは、本当に俊が初めてだ。
もっとも自分の才能よりも、メンバーの才能を認めるあたり、変に調子に乗ったりはしない。
(メジャーシーンに乗ったなあ)
今の瞬間的な人気なら、おそらく永劫回帰を上回る。
どうして人気のあるバンドでも、それほど長くもなく解散するのか、というのが分かってきた気がする。
変化に対応しようとする力と、変化を受け入れようとする力。
これを上手くバランスを取って、力を保ち続けるのが難しいのだ。
俊のコンポーザーとしての能力。
自分でも思っていた以上に、受ける曲がいくつも作れた。
ただお蔵入りになっている曲も、大量にあるのだ。
ニューヨークを発って、日本に戻る。
全力で観光もした結果、ぐっすりと眠ることが出来た。
とりあえずあちこちを遊んだが、アメリカは広いと感じるのが、まずは第一であった。
今度はしっかり、観光をメインで日程を組みたい。
そうは思うがしばらくは、ノイズは動けない。
紫苑は一応、この三月まではノイズの一員である。
暁の出産予定日までは、まだ少し時間がある。
十月十日などというが、実際の出産日は、計算の仕方がまた違う。
予定日は今のところ、五月の末を予定しているのだ。
そこそこお腹が目立ってきた。
そしておそらく、男の子であろうことも分かっている。
生まれるまで知りたくない、という人間もいる。
しかし事前に知っておけば、色々と準備も出来るだろう。
ユニセックスな衣装というのもあるが、それはある程度年齢を重ねてから、自分で選ぶものだ。
あまり自信はないが、男の子にとって男親は、大事な存在である。
自分自身の経験から、俊はそれが分かっていた。
帰国すると芸能記者や、テレビまでもが入っていた。
時間的に生放送ではないのだろうが。
下手に目立つのが嫌いな白雪は、こっそりと別行動をしている。
そもそも今回は、それほど目立つことをやったわけではないのだ。
永劫回帰がどうして、ノイズほどにはアメリカに進出していないのか。
白雪にはなんとなく、分かった気がする。
ゴートの持っている権力や伝手などは、基本的に国内を戦場としている。
もちろんアメリカでも、それなりに聴かれてはいる。
だがゴートのスタイルというものが、ある程度の美学に貫かれているからだろう。
俊はとにかく、売れることを第一に考えた。
もちろんそれも、悪いことであるはずがない。
特に考えたのは、タイアップ路線である。
自分だけの力で勝とう、などとは考えないのだ。
重要なのは成功すること。
そして強く響き、残り続けること。
あるいはゴートなどよりも、ずっと貪欲で執着心の強いのが、俊なのであろう。
またもう一つ気になったのは、ゴートは自分でバンド内を、完全にコントロールしようとしていたことだ。
俊もそれを考えてはいたが、その通りになるとは思っていなかった。
月子と暁と組んだことが、最大の成功要因だ。
そして最後に千歳が加わって、完全な形になった。
最初からこの最終形が見えていたというわけもない。
だが流れのままに、逆らわずに作り上げたのだ。
世の中のバンドには、本当に運命に導かれたのでは、という形で成立するものがある。
永劫回帰などはゴートが、自分のイメージを形にするため、厳選して選んだメンバーだ。
そこには確かな技術の集結はあったろうが、本当の意味での化学反応はなかったのかもしれない。
だからこそ自分はプロデュースに専念して、新しくドラムを入れることを考えた。
本来はゴートは、なんでも出来るマルチプレイヤーなのだ。
アメリカでの診断でも、結局分かったのは自分が、人よりも早死にしやすいということだけだ。
ただほんのわずかな希望、というものが見えてはいる。
遺伝子治療により、そもそもの根底を作り変えることだ。
この可能性があるからこそ、手術という選択を取っていない。
だが状態が悪化したら、もうすぐに手術という手はずになっている。
この時点で手術を選択できるのは、かなり運がいい方なのだという。
マスコミなどを振り切って、自宅へと帰還する。
栄二に千歳、紫苑とは既に別行動になっていた。
「お帰り~」
実家からこちらに戻ってきていた暁が、三人を迎える。
その姿が少し驚かさせる。
「少し、お腹が膨らんできてないか?」
「あと二ヶ月ぐらいだしね」
明らかに渡米する前より、目立つようになってきていた。
確かに一月の時点でも、少し目立つようにはなってきたのだ。
しかし今では、確実に妊婦と分かるようになってきている。
暁は小柄で、また体格もやせっぽっちなところがあったのだが、少しはふっくらとしてきている気もする。
あまり運動が出来ないし、激しくギターを演奏していないのも、その理由ではあるのだろう。
「うわ~、もう動いたりしてる?」
「うん。聞いてみる?」
心臓の拍動などが、明らかに分かるようになっているらしい。
俊はショックを受けていた。
そのショックの内容が、自分でもよく分からなかったが。
自分が父親になることは、もうずっと前から分かっていたはずだ。
それにしても胎内の赤ん坊は、こんなにも早く大きくなるものなのか。
「ほら俊さんも」
そう言われて、目立ってきたお腹に触れる俊である。
頭では分かっていたはずだ。
しかし自分の遺伝子を宿した女が、こういう姿になっている。
これは感覚的な衝撃で、どう説明していいのかも分からない。
「ほら~、お父さんだよ~」
そうか、俺はお父さんになるのか。
暁のお腹に耳を当てていると、ポコポコという音が聞こえてきたりする。
赤ん坊が動いたりするのとは、また違う音である。
このままの予定であると、ひょっとしたら出産は、帝王切開になるかもしれない、と言われた。
暁は小柄であるので、そういうこともあるかな、とは覚悟していたのだが。
しかし実は、暁の骨盤はしっかりと広い。
単純に赤ん坊が、普通よりも大きいのである。
「基本的には無痛分娩でいきたいなあ」
帝王切開であると、母体へのダメージが激しい。
それは他の出産方法でも、程度の問題で変わらないのだが。
実家の方も実家の方で、ほとんど出産日は同じである。
そもそも両方とも初産であるし、片方は20歳でもう片方は30歳過ぎと、年齢の違いもある。
「まあ妊娠してからこっち、本当に順調だからなあ」
悪阻も軽かったし、足がむくんだりといった症状も、ほとんど出ていない。
胎内の赤ん坊と、母体の相性がいいのであろうか。
とりあえず帰国してから三月の末までに、もう一度のライブをやった。
3000人のハコという、常設のライブハウスとしては、最大規模のものである。
紫苑が正メンバーでいるのは、これが最後となる。
ただ月に何度かは、ライブをしていきたいというのがある。
暁が果たして、どれぐらいの期間で復帰できるのか。
出産予定日までに、ゴールデンウィークがある。
そこでは基本的に、またライブをする予定なのだ。
年度がまた変わる。
フラワーフェスタも、本格的に新体制で始動することとなる。
永劫回帰も新体制となって、こっちはちょっと複雑になっている。
ゴートが完全にプロデュースに専念しているのではなく、キーボードを弾いていたりするからだ。
ドラムをやっていたが、その前にはギターとベースもやっていた。
とりあえずどのポジションも、平均以上に出来るゴート。
演奏面で言うならば、俊の上位互換である。
ゴールデンウィークのライブでは、また紫苑にヘルプを頼むことになっている。
もしもそれが不可能なら、いっそ白雪が入ってくれてもいい。
ステージの時間は一時間なので、それぐらいならまだ立っていられる白雪である。
もちろん紫苑の方が、こちらに来てくれることは簡単だ。
白雪の病気は、何かをやれば悪化する、というものではない。
ただ基本的なことを言うなら、暴飲暴食と運動不足、また睡眠不足などで、体の免疫力が落ちるのがまずいらしい。
コンポーザーに専念すれば、また不規則な生活に戻ってしまう。
普段から紫苑が、お付きの人のように、白雪の面倒は見ている。
アメリカツアー中も、とにかく寝坊するのは白雪であった。
俊などは夜更かしをしても、早朝から目覚めたりもするのだ。
そんな俊は自分が、父親になることを理解はしている。
しかし準備は出来ていない。
父親として何をするべきかというのもあるが、夫として何をするべきなのか。
少なくとも家事自体は、昔からお手伝いさんに任せきりにしている。
そこに期待されることはない。
出産時に関しても、立会いなどは暁の方が断ってきた。
そんな姿を見られるのは恥ずかしい、ということである。
確かにいわれて見れば、数えるほどしかしていないし、マジマジとあそこを見たことなどもない。
それは別として、下手に立会いなどしてから、インポになった男もいたりはする。
そして俊は少し考える。
果たしてこの子供の出産後、しばらくして暁が回復してからの話である。
またセックスをすることになるのだろうか。
あの一晩の過ちの後、暁はちょっと経験を積んでおきたいと、避妊をしながら何度かやってみた。
しかしそれが終わってからは、ずっと避けていたのである。
妊娠が発覚してからも、それは同じことである。
激しい運動はまずいだろう、と普通にセックスは避けていた。
だが二人目を作るとか、それ以前の夫婦の営みとして、また二人はすることがあるのか。
一応妊娠中は、何かの急激な悪化のために、同じ部屋で眠ることもあった二人である。
しかしそこでも色っぽいことはなかった。
単純に性欲ということなら、暁のあのほっそりとした、それでいて豊かな胸の体を、また抱きたいとは思う。
だが拒否されたら、それはもういいかなと思うぐらいに、俊は夫婦関係を淡白なものと考えている。
(子供が生まれたら、俺もある程度はやることがあるんだしなあ)
とりあえずは一度、産婦人科についていって、色々な説明を受けた俊であった。
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