第342話 新生活

 暁が引っ越してきたが、さほどノイズの環境は変わらない。

 無理をしない程度に、ギターを今でも弾いている。

 もしもギターを弾かないと、むしろその方が体調は悪くなる。 

 そしてハウスキーパーの小母ちゃんからは、若奥さんと呼ばれたりしていた。

「そうか、もう結婚してたんだ……」

 呼ばれ方が変わるだけで、意識してしまう暁である。


 悪阻はやや食欲が落ちた程度で、吐き気などもない。

 体の変化を強く感じないのも、暁が実感出来ない理由であろう。

 来年の今頃には、母親になっている。

 そして同時に、姉にもなるわけだ。

 母方の方は弟が二人いるが、そちらとはほとんど没交渉。

 なので今度こそ、姉になるという意識が強い。


 あるいは子供が生まれたら、向こうと一緒に協力して育てた方がいいのか。

 確かに子育てが大変なのは、子供の頃の自分の経験で分かっている。

 赤ん坊であるなら、さらに大変なものになるだろう。

 上手く協力して子育てが出来たから、昔は子沢山でもどうにかなった。

 しかし今は核家族化で、実家に頼ることもそれなりに難しい。


 母方の実家に戻って、その援助を受ける。

 嫁姑問題を考えれば、これが一番安心である。

 ただ暁の場合は、自分を産んでくれた母は、遠いカナダの空の下。

 連絡をした時は喜んでくれたが、やはり「この年でお婆ちゃん……」という言葉は聞こえた。


 そもそも俊自身が、あまり両親の手によって育てられていない。

 住み込みのシッターを雇って、それに任せていたわけである。

 俊自身が母親に対して、微妙な距離感を持っているのも、そのためであろうか。

 対して暁は、母や父方の祖母に育てられた。

 それもまた嫁姑問題の、一因になったのかもしれない。


 金があるのならば、それを有効に使えばいい。

 無理に自分だけで子供を育てようとするから、虐待などというものが起こるのだ。

 かつては田舎では多くの人間が、一人の子供を世話していた。

 そういった経験が蓄積されるからこそ、産んだ後のこともあまり心配でなかったのだろう。

 だが今は社会全体で子供を育てるというのは難しい。

 また育児に関しても、理想ばかりを押し付けてくるのがメディアである。

「出来るだけ外注して、それが間に合わないように念を入れる」

 俊の意見に対して、暁は頷くだけである。


 俊はここでも合理の人であった。

 無理に自分で育てようとして、DVなどを起こしたら洒落にならない。

 それに俊は防音である、地下で作業をすることが多い。

 この仕事を止めるということは、それだけ稼ぎが減るということである。




 こういう場合身内で頼りになるのは、栄二のところである。

 子供が出来たためバンドを抜けて、スタジオミュージシャンになることに決めた。

 今でこそ子供が大きくなったため、母親も仕事に復帰している。

 だが栄二こそは、まさにいいお父さんの代表であったと言えよう。

 そして結果論であるが、今はかつてのものより、さらに大きな成功を手にしている。


 実は意外と、信吾も子供の世話は慣れている。

 妹がちょっと年が離れていて、母親が早めに亡くなったためだ。

 男親と兄二人という家族構成。

 なかなか育てるのは難しかったと言える。

 だが兄弟が多いということは、それだけ頼れるということでもある。

 最初に学校から戻ってくる信吾は、保育園や幼稚園に、出迎えにいったものだ。


 暁の子供は、ノイズ全体の子供である。

 誰かが言い出したわけではないが、そんな空気が出来ている。

 そういう環境で育った子供は、果たしてどういう子供になるのか。

 音楽の道で生計を立てる、という人間になるのは難しい。

 ただ実家が太いと、そちらに専念することは出来る。

「男の子かな、女の子かな」

 まだ今の段階では、ちょっと分からないのである。


 仕事のことを考えると、やはり俊の育児参加は難しい。

 だが金があるのだから、ここはそれを使えばいいのだ。

 自分自身もそうであったと、俊は聞いている。

 ただそんな昔のことなど、あまり記憶にもないのだ。

 子供の頃から、多くの音楽には接してほしい。

 少なくとも音楽に対して、嫌悪感を抱くような人間には育ってほしくない。


 子供を育てるということは、自分自身を育てるということでもある。

 子供の気持ちが分かるというのは、そういう経験をするからこそ分かるのだ。

 実は関係者の中であると、紫苑も育児の経験はそれなりにある。

 孤児院の中には、乳児の段階で捨てられていた、という人間もいるのだ。

 紫苑はまだしも、両親のことは分かっている。

 もう二度と戻らない、あの幸福な夢に満ちた日々。

 それを再び作り出すには、自分自身が今度は母親になるしかない。


 出産後すぐに、暁が活動を再開出来るわけもない。

 紫苑もまた、結婚と妊娠出産のタイミングとしては、一息ついたあたりがいいのではないか。

 誰か一人が結婚して出産すると、どんどんとその周辺も結婚し出産していく。

 同調圧力の類であるのかもしれないが、そうやって子供を作らなければ、日本の市場はどんどんと小さくなる。

 純粋な人口増加というのは、ちょっともう難しいだろう。

 しかし都心はともかく田舎であると、今でも普通に複数の子供を持っている家が少なくない。




 ノイズとしては11月のライブの準備を始めている。

 俊としてはサリエリの名前で、劇場版音楽の仕事を開始している。

 下手なエレキギターなどであると、世界観が壊れてしまう。

 もっともどういう部分を映画化するのか、それは分かっているのでありがたい。


 白雪も長い入院から、やっと退院してきた。

 ただ家で出来る仕事というのは、入院中と変わらない。

 そして紫苑が来るのと一緒に、俊の家にまでやってきたりする。

 二人は同じ作品の三部作の、前編と中編を受け持っている。

 お互いに影響を与え合い、作品の音楽に一貫性が出てくる。

 しかし三つめの、後編を担当する人間は、そういった形で音楽は作らない。


 徳島にそんなものを頼んだらしいが、本当に大丈夫なのだろうか。

 ただ彼は彼で完全にプロフェッショナルなのでなんとか作ってしまう気もするが。

(しかしあの人は、電子音を使う方が得意だと思ってたけど)

 ミステリアスピンクは、女性ボーカルのデュオである。

 声質はともかく、歌うこと自体はまだまだ、というのがかつてフェスで見た時の感想であった。

 だが今ではちゃんと、ライブが行える程度には、その歌唱力も上がっている。


 本当に歌唱力ではなく、声質で選ばれた二人なのだ。

 ミスティはともかくホリィは、本当にこれから上手くなる、というレベルであった。

 実際にアレから数年、まだまだ二人は上手くなっている。

 ノイズもツインボーカルではあるが、千歳はギターボーカル。

 ミステリアスピンクの完全な女性デュオとは違う。


 主題歌はともかく、サントラはどうするのか。

 俊は色々と、これまでに蓄積した中から、使えなかった曲を色々と工夫している。

 ベースメインの曲であるとか、電子音ばかりの曲であるとか、アコギメインの曲であったりする。

 栄二のドラムの出番は、あまりない。

 そしてこのまだ余裕がある仕事よりも、11月のライブを優先する。

 映画主題歌を作曲するにあたり、俊は多くの曲を同時に作っていた。

 たまに白雪が遊びにきては、合作したりする。


 やはり白雪は天才なんだな、と俊は思わされる。

 もっとも白雪からすると、キャリアが違うので当たり前だ、とも言える。

 そしてとある日など、紅旗を連れて来たりした。 

 ドームイベントでは共演したが、栄二やゴートと比べてさえも、一番の大きな音で叩いていたのが紅旗だ。

 ゴートというカリスマの代わりに、永劫回帰に入った紅旗。

 居心地が悪いのかと思ったが、むしろ逆であるらしい。


「あの子はいつも無茶振りするからね」

 白雪はゴートに対して、バンドメンバーのヘイトが集まっているのを知っている。

 もちろんそれを含んでさえも、永劫回帰はいい演奏をする。

 鬱憤をためることによって、それをライブでは爆発させるのだ。

 ゴートが果たして計算してやっているのか、それとも天然でやっているのか。

 とりあえずこの音楽業界で、全力で遊んでいるのは間違いない。




 徳島は音楽業界の誰もが認める天才コンポーザーである。

 ただ自分の完成を売れ筋よりも、優先してしまう傾向にある。

 それなのに出来上がった作品は、しっかりと売れる。

 自分の作りたいように作って、そして売れる。

 ほとんどの妥協を強いられるアーティストからしたら、羨ましい存在であるのは間違いない。


 ただ、色々と人格は破綻している。

 いや、社会人としても普通の人間としても、才能がなければまともに生きられなかったろう。

「こんにちわー。様子見に来ましたよー」

 ミステリアスピンクの可愛い方ことホリィが、徳島の仕事用の部屋を訪れる。

 そして目にしたのは、腐海の中で作業を続ける徳島である。

「……勝手に掃除はしちゃいますよ~」

 そういいながらてきぱきと片付け始めるのだが、これはもうずっと前から続いていることである。

 これがあったから、二人は結婚したのだから。


 徳島は仕事に煮詰まってくると、人間らしい生活を忘れてしまう。

 これはまだ無名のボカロPであった頃から、変わらない生活である。

 食事に関してはそれでも、ゼリー飲料を食べたり糖分を頭には回す。

 その程度のことはするが、逆に言えばそこまでである。

 たまに一週間ほど、風呂に入るのを忘れたりもする。


 ホリィは全く無視されていながらも、片づけを終わらせた。

 これで気絶するまで仕事をした徳島が、起きれば部屋が綺麗になっているというものだ。

 妖精さんの仕業であるらしい。

 ゴミを分類し、洗い物を終わらせる。

 ため息をつくホリィである。


 音楽の才能がなければ、完全に人間社会で不適合であろう、という徳島。

 いつも死んだような目をしているが、生み出す曲には躍動する輝きがある。

 ある意味では俊よりも、音楽に魂を売った男。

「勝手に料理は作っておきますからね~」

 これは聞こえていないわけではないのだ。

 聞こえたことに対して、反応するというのが、徳島にとっては面倒なのである。


 だいたい煮詰まってくると、生命維持に必要な、最低限のことしかしなくなる。

「あれ? 結婚披露宴の葉書が来てるじゃないですか。まだ出してないんですか」

 俊としては徳島には、一方的に近いがシンパシーを感じている。

 もっとも徳島としては、ああやって上手く売れる音楽に出来るのは、羨ましいとも考えているが。




 ノイズのメンバーの結婚というのは、それなりに業界内で、噂となったものだった。

 俊と暁の年齢は、25歳と20歳で、それほど大きな差もない。

 ただ同じバンドの中で、くっつくというのはだいたい、悪い結果をもたらすものである。

 しかしホリィなどは、素直に羨ましいなと思う。


 ルックス売りもしているミステリアスピンクは、それなりに周囲に男性が集まる。

 ただキレイ担当のミスティの方が、大人の男にはモテる色気がある。

 ホリィは健康美とでも言うべきか、シェリルとランカで言うならランカのタイプだ。

 ただ当然のごとく、かなりのファンはいたのである。

 

 徳島としては、ホリィが今、時々来て片付けてくれる程度が、一番いいのである。

 追い込まれたときにはカレーが三食一週間続いても、文句を言わないのが徳島だ。

 社会不適応者ではあるが、才能だけは確かである。

 それを見ているとやっぱりこの人に関しては、自分が面倒を見るしかないのかな、と思うホリィである。


 なおどうしようもなく破綻した生活を送る徳島を見て、もう自分がやってあげるしかない、とホリィが決断したのだ。

 徳島としてもホリィならば、自分の仕事の邪魔ならない、ぎりぎりの線を分かっていると認識している。

 女の側からガンガン行けば、結局男は太刀打ちできない。

 ここでもまた、男の方が実のところ、尻に敷かれているのであった。

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