第341話 +1
10月、ノイズのライブが行われる。
最近人気の出て来たバンドとの対バンであるが、完全に格が違う。
年齢的には千歳と同じ年のメンバーもいたりする。
考えてみれば高校一年生からやっている千歳は、キャリアとしてはかなり長くなっているのだ。
それも初めてのライブハウスデビューから、無茶振りをされたものだ。
思えば遠くにきたものだ。
そう思っても、すぐにまた渋谷や下北のライブハウスに戻ることが出来る。
世界が変わったな、と思うこともある。
しかし昔からの友人は、すぐ近くにいるのだ。
千歳の人生が大きく変わったのは、両親を失った事故によるものだ。
紫苑も幼い頃に、両親を亡くしている。
それから孤児として育っていったわけであるが、ボランティアで慰問していた元ヒートのベーシストが才能を見出した。
もっとも白雪に言わせれば、それは才能というものとは少し違う。
没頭する集中力だ。
今でも言葉遣いがバカ丁寧なのは、その頃の名残であるらしい。
ただ白雪曰く、お母さんのようなことをやってくる、などとも言っているが。
「二人が結婚でもしたら、私の養子にしようかと思っているんだけどね」
白雪はそんなことも言っている。
遺言書で他人に遺産を送るといっても、親が生きていると遺留分が発生する。
白雪は別に、まだ生きている父親と仲が悪いわけでもないが、出来るだけ多くを紫苑に残してやりたいと思っている。
親よりも自分が長生きすれば、何も問題はない。
しかしそれが無理そうであれば、紫苑を養子にしてしまうのが手っ取り早いのだ。
遺産相続や財産の分与といったあたりは、俊もかなり調べている。
もしも普通に父が死んでいた場合は、あの家は税金が払えず、手放すことになっていたはずだ。
しかし実際には、離婚による慰謝料も含んだ財産分与のため、俊の母はそれを問題なく受け取っている。
あの頃の父の生み出した財産は、確かに母のボーカルの力もあったため、適切なものであったと言えるだろう。
「本当に、すぐ死んだりしないんですよね」
あまりに白雪が自分の死後のことを考えているため、俊は心配になる。
「まあ念のために、遺言書自体は既に作成してあるけどね」
人間はいつ死ぬのか、それは本当に分からないことなのだ。
白雪にとって紫苑は娘のようなもので、紅旗は甥っ子のようなもの。
ややその愛情には、濃淡が存在する。
まあ紅旗は男の子なので、放っておいてもなんとかなるか、という感覚もあるのであろう。
ヒート時代は紅一点であったため、男共の強さというのは知っているのだ。
「ライブは見に来ますか?」
「そうだね。そろそろ退院しても問題ないだろうし」
ライブハウスの熱狂に付き合う程度には、極端に具合が悪いこともないらしい。
ノイズはかなり売れっ子になってからも、小さなハコで演奏することがそれなりにあった。
そういうチケットを取れた人間は、かなりの幸運であったと言えよう。
もっとも転売の対象ともなったため、そこは困ったものであったが。
これが大規模な会場で、チケットも本人確認が出来れば、問題はなかったのであろうが。
その点ではMNRは、あまり小さなハコでやるということがない。
初期は小さなライブハウスで演奏していたが、すぐに名前が拡散していくと、コンサートホールのようなところでやりだした。
あるいは1000人規模のライブハウスなどか。
最初から成功していた、という点ではノイズ以上。
コンポーザーとしての白雪は、ヒートの白雪でもあった。
なので当然ながら、オーディエンスとの距離が近いことに、紫苑は慣れていない。
そのあたりだけが、少し心配な俊であった。
しかし紫苑はお上品な顔をしながらも、しっかり修羅場を与えられている。
路上で一人で弾いて歌って来い、と白雪から追い出されているのだ。
ちなみに紅旗の場合、ステージの前にはいつも緊張で震えている。
むしろ始まってしまえば、開き直って演奏が出来るというタイプだ。
ステージの前の緊張というのは、大なり小なりあるものだ。
意外とそのあたり、肝の太いのが月子であったりする。
アイドルとして歌って踊るよりも、顔を隠して歌う方が楽。
本人としてはそんなことを言っているが、果たして本当なのかどうか。
対バンという名の前座が終わった。
確かに距離感が違う、と紫苑は感じる。
だがあの路上で歌っていたことを思えば、まだ届かない位置にいる。
最初に歌って演奏した時は、ひどいものであった。
練習ではしっかりと合っていても、実際のステージと同じとは限らない。
その危険性はどうしてもあるため、他のポジションでフォローが利くセットリストで、今日は演奏をする。
ただアメリカツアーが無事に始まったとしたら、ギターの目立つ曲も絶対に必要になる。
年内に国内では、しっかりとその確認を行っておきたい。
年の瀬にはフェスもあるのだから。
そんなことを考えていたが、おおよそは杞憂であった。
無表情なのでいまいち分からないが、紫苑の音に変な揺らぎはない。
正確に弾くということは、歪ませることも計算の範囲内ということ。
暁であるとその限界に挑戦するように、歪ませることがある。
だが紫苑は的確に、必要なだけを歪ませてくるのだ。
爆発的なパワーというものはない。
だが全く隙がないプレイと言うべきであるか。
プロとして充分に、想像を超えるプレイ。
ここまで合わせられるのか、というぐらいに合わせてきたのであった。
ドームでの演奏を思い出す。
三つのバンドと花音が出てくる、かなり変則的なステージであった。
ギターを何本も揃えたりしていたが、そういえば一番あっさりと揃えていたのが、紫苑であったか。
なお「お前はもうボーカルだけでいい」と言われてキレてたのが千歳である。
確かにあの時点では、まだまだ技術が全く追いついていなかった。
軽音部の決まりで、ボーカルでも楽器の一つはやるとなっていなかったら、本当にボーカルだけをやっていたかもしれないのだ。
ただ今となっては、ようやくしっかりとしたギターにはなってきた。
ギターを始めて四年以上。
ボーカルのトレーニングも未だにやっているが、ギターの方は自分一人でも練習する。
もっとも暁がそろそろ、ベースに完全に居を移すが。
いっそのこと全員、一緒に暮らしても面白いのではないか。
とは言っても妻子もちの栄二は、そう簡単にはいかない。
千歳としても確かに、俊や暁からの影響は受ける。
だが自分の中の衝動を、ちゃんと言語化してくれるのが、一緒に住んでいる叔母の文乃なのだ。
ミュージシャンというのは確かに、インストバンドでもないのであれば、歌詞にメッセージ性を乗せていく。
しかし言葉になりきらないものが、メロディーの中にはある。
二つが重ねていくことで、何か他のイメージも浮かんでいく。
歌詞をきちんと追っていくと、ちゃんとテーマがはっきりしていたりするのだ。
俊は小説などを読んでも、何か気になるフレーズがあったら、それをメモすることにしている。
そういった小説の中には、文乃の小説もあったりするのだ。
歌詞については基本的に、俊が書いている。
だがイメージというものは、月子や千歳の意見をかなり入れている。
文乃は千歳にとって、知恵袋のようなものだ。
今の自分より若い頃から、自分の文章だけでもって、既に世に出ようとしていた。
最初は小説ではなく、高校の演劇部で舞台の脚本を書いて、それが注目されたものである。
文章の羅列ではなく、その中に動きの躍動感を感じる。
純文学に近いとも思えるが、内容はあくまで大衆的。
まあ小説に関しては、俊は純文学などは、本当に素材としてしか見ない。
映像のイメージまで分かるという点では、マンガの方がずっと楽に読める。
音楽に上手下手はある。
しかし正解と不正解はないのだろう。
基礎的な部分はあっさりとクリアした上で、そこからいかに自分の音を求めていくか。
当然かもしれないが、紫苑は白雪のギターをベースにしている。
技術と速さというもので、速さだけは上回るようになった。
だがこの先、もっと武器を増やしてやりたい、と白雪は思っている。
基礎を徹底的に教えたが、同時にベースも教えている。
基礎を叩き込むことと、指先が固まることは、危険性が近くにある。
指はより器用に動いた方がいい。
そのために必要なのは、楽しんで色々な弾き方をすること。
無表情で弾くことが多いので、なかなか分かりにくい。
しかし好きでないのなら、延々とギターを引き続けることは出来ないだろう。
「合わせてもらえますか」
こうやって他のパートと合わせたがるのも、紫苑の特徴だろうか。
暁はどちらかというと、一人で自分の世界に入ることが多い。
ライブが終わってから、次のライブの準備に入る。
今度は年末のフェスの前に、300人規模のハコにおける演奏だ。
ツアーになると全て、二時間前後のステージになる。
それまでにこの長さも、しっかりと経験しておかなければいけない。
体力という点においては、紫苑もそれほどのものではないのかもしれない。
ステージにおける派手な動きはなく、演奏こそがパフォーマンスだと割り切ったように思える。
それでも体でリズムを取って、左右にゆらゆらと動くことぐらいはする。
暁ほど露骨ではないが、左右に大きく胸も揺れる。
体のラインが出るような衣装ではないが、少なくとも胸が大きいのは分かる。
この紫苑が入ってきて、うずうずとしていたのは千歳であった。
ノイズメンバーは身内という感覚であるが、紫苑は遠い親戚のようなもの。
しかしながら今後一年近くは、一緒のステージに立つわけである。
ある程度親しくなってくると、千歳としてはどうしても話題にしたいものがる。
そう、恋バナである。
俊と暁の話であると、ちょっと生々しすぎる。
栄二の場合は普通に家庭もちというものだし、信吾は複数を確保という女の敵状態。
もっとも女というのは、彼女持ちの男にこそ、価値を見出したりする。
既に女がいるというのは、それだけ狙われる要素があるからだ。
紫苑は同じMNRの紅旗と、恋人の仲である。
二人が知り合ったのは18歳の時で、バンドを組むかどうかはまだ分かっていない時期であった。
それこそ他のメンバーも入れて、四人ぐらいにしようかとも話していた。
しかし結局は、白雪がベースボーカルで入って、スリーピーズバンドになったわけであるが。
けっこう長い付き合いであるが、恋人関係になったのは割りと最近。
お互いのことをよく知っていて、それでいながらなかなか進展しなかった。
千歳は自分には恋愛の縁がない。
実際は彼女も、モテようとすればモテるのだ。
世の中には社会的に、成功している女を屈服させたがる、そういう性癖の男がいたりする。
ただ多くの男は逆に、女の方が自分より上であると、縮こまってしまうところがある。
収入や社会的地位など、自分よりも上の女は、生物的にも自分より上。
もっとも男の場合は一番は、やはり金である。
紫苑にとって紅旗というのは、そういう点で望ましいパートナーであった。
お互いの呼吸を知っていて、そして美点も欠点も知っている。
今から深い付き合いになっても、失望することはないほどに理解しあっている。
「あたしの周りにはいい男がいない……」
そう千歳は言うが、これは仕方のない部分もあるのだ。
男が女を恋愛対象にする上で、優先するもの。
ぶっちゃけ顔とスタイルが大きなものとなる。
千歳はブスではないものの、化粧をしっかりしたらそれなり、という平凡な顔立ちだ。
紫苑は地味な容姿に見えるが、よく見たら美人というタイプ。
ノイズはルックス売りはしていない。
ただ紫苑はミュージシャンとしては、けっこう保守的な人間であった。
いや、奥手と言うべきであるかもしれない。
白雪が業界の魔の手から、こっそりと紫苑のことを守っていた。
紅旗ならいいか、と思ったためにこのカップルは成立している。
「デートとかどこ行くの?」
「出かける時は車で日帰り出来るところに、雪さんと一緒に行ったりしますね」
「え、保護者同伴?」
同じく参加していた月子が、ちょっと驚いたような声を出す。
「雪さんはあれで、放っておくとすねる人ですから」
入院中のことといい、むしろ紫苑が白雪の面倒を見ているとも言える。
孤児であった紫苑は、身の回りのことはしっかりと出来る人間だ。
千歳は男性陣に聞こえないよう、かなり声を潜める。
「同じマンションに住んでるんだから、やっぱりえっちはお互いの家でするの?」
その質問に対して紫苑は、宇宙猫の表情で反応した。
「結婚するまでそのような行為は避けるべきかと」
「え」
保守的過ぎるところであるが、これは紫苑の育った孤児院が、キリスト教系であったことも関係しているのかもしれない。
23歳処女。
まあ最近は男女共に、初体験年齢は上がってはいるらしい。
月子も同じであるので、少しほっとしたりしている。
「でもさあ、男ってそういうぐらいの年齢だと、もっとがっついたりしない?」
知り合いはそう言ったりするが、千歳の場合は彼女のステータスが高すぎて、なかなか近寄っても来ない。
「嫌なら嫌とはっきり言うのがポイントかと」
強い。
バンドのドラマーというのは、けっこう腕っ節の強い人間が多い。
なんとなくパワーが必要そうなので、分からないでもない。
紅旗なども実際に、格闘技をやったりしているらしい。
ただ基本的に、メンタルはヘタレなのである。
もっとも本当にヘタレであるならば、そもそもドームのステージで演奏は出来ないであろう。
ステージに出るまではともかく、演奏が始まってしまえば震えが止まる。
そういうタイプは確かにいる。
紫苑と紅旗の場合は、白雪を含めて食事などをすることが多いため、一緒に買い物デートなどをするらしい。
女性の買い物は時間がかかるが、ノイズの三人は比較的、ファッションやアクセサリーで悩むことがない。
「そういやアキって指輪はもう買ってもらったの?」
「まだだけど、貰ったとしてもあんまり、付けておくことはないんじゃないかな。
レフティの暁にとっては、それほど邪魔にもならないだろう。
だが少しでも演奏に影響しそうなら、それは外してしまう。
結婚指輪の問題。
俊としては結婚披露宴と同じく、全く頭になかったものである。
もうすぐ暁がこちらに引越してくるので、そのあたりで話題になったかもしれないが。
女性陣からの突っ込みがあって、まあ必要かなと思うのが俊である。
俊は演奏の邪魔であるので、普段は腕時計も外していることが多い。
今の時代に時計が必要なのか、という考えも持っていたりする。
ただ高級時計というのは、一種のステータスではある。
また何かが起こって財布やスマホを落とした場合、換金できるアイテムが腕時計だ。
ブランドで無理やり売っている物だ、という意識がある。
それは結婚指輪も含めた、アクセサリーについても同じこと。
金のアクセサリーはともかく、シルバーアクセサリーは酸化もしやすい。
ダイヤモンドなど今は、普通に合成品となっている。
本当に価値のある宝石などは、その由来が必要になる時代。
ギターのヴィンテージ物が、それほどいい音が鳴るわけではないのと同じだ。
もっとも俊の家には普通に、1000万円を超えるような絵が飾られていたりもする。
同じように飾られている絵が、知り合いが描いただけの普通の絵であったりもする。
かつてはこの家にも、ヴィンテージのギターなどはあったものだ。
そういった中で俊が価値を認めるのは、古いLPなどであろうか。
こんな感じで物品の価値を考えていると、俊は面倒なことに気付いた。
それは暁の父の持つ、ヴィンテージギターについてである。
コレクションとして持っているものもあるが、基本的にはレフティで揃えている。
ずっと先の話になるが、遺産相続ではどう考えればいいのか。
これから弟か妹が生まれるわけだが、そちらが必要とすることはないだろう。
レフティのギターであれば、暁がほしいものである。
もっとも無駄にギターを増やすつもりは、暁には全くないが。
結婚というのは家族の結びつきが増えることでもある。
そういえば母は、離婚した後まだ若かったが、再婚をしようとはしなかったな、と俊は考える。
まだ充分にルックスでも、通用した年頃で離婚した。
もちろん本来の音楽の世界で、キャリアを積むことも優先したのであろうが。
結婚という、自分には無縁であると思っていたもの。
それが一度に子供まで出来て、新しい世界を俊に見せてくれることになるのか。
音楽の世界だけではなく、人間として新たな世界が広がっている。
俊はその世界の広がりを、少しだけだが怖いものと思ってしまった。
その恐怖がいったいなぜなのかは、あまり深く考えなかった。
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