第340話 シオン
MNRのギタリストである紫苑の日常は、ノイズの臨時メンバーとなった今も変わらない。
一日に一度、病院の白雪の元を訪れる。
そして事務的に作業をこなし、報告と指示を受けてそのまま帰る。
マンションの最上階の白雪の部屋は、基本的にハウスキーパーが入っている。
だが鍵のかかった部屋もあって、そこを開けるのは紫苑だけである。
元は孤児であったとか、元ヒートのベーシストが世話をしたとか、そういうことは知っている。
「ベーシストに習ったのに、ギタリストなんだ?」
「私がギターを弾くと、ベースと合わせることが出来たので」
少し馴れ馴れしいぐらいの千歳であるが、紫苑はあまり気にした素振りを見せない。
ただドーム公演の折、他のバンドには全く噛み付かなかったが、白雪と紅旗に対しては、無表情のままに怒っていたのは確かだ。
あとゴートにもかなり、辛辣なことを言っていたか。
相手がどういうものでも、あまり関係ないというタイプなのだろう。
そんな彼女は午前中に見舞いを終わると、夕方からは俊の家のスタジオにやってくる。
とりあえず年末のフェスの前に、何回かは実際のライブで合わせる必要があるだろう。
今のノイズにとっては、ちょっと小さいとも言えるハコ。
だが試しにやってみるには、充分だとも言えた。
紫苑のギターは確かに、正確で速い。
パンチを利かせてほしいところなども、的確に感じ取る。
相手に合わせるのが上手い、ということは言えた。
そして練習に限って言えば、全く汗もかいていない。
空調が利いているので、ここでは当たり前のことだが。
ライブハウスのライブとなると、照明の熱で大汗をかくこともある。
しかし紫苑の衣装はいつも、ロングスカートで固定されている。
熱くなると脱ぎだす、暁のようなパッションは感じられない。
もっとも暁としても、練習で脱ぎだすようなことはないのだ。
「短時間のフェスとかなら、演奏出来ると思うんだけどなあ」
「いや、本当にもう、自分一人の体じゃないんだからな」
無茶なことを言い出す暁に、必死で諭す俊である。
練習にはまだ、暁も混じってプレイする。
悪阻らしい悪阻がないというのは、やはり遺伝的にも俊と相性が良かったということだろうか。
あまり興奮しすぎると、当然ながら悪い影響が出るだろう。
もっとも暁の場合、全くギターに触れないのも、ストレスがたまってしまうだろうが。
発表してから翌日には、あちこちから取材の申し込みが入ったりした。
ノイズのリードギターが妊娠休業で、その間を埋めるのがMNRの紫苑。
しかしMNRの方も、夏前から活動を休止している。
そのあたりも含めて、記者会見でも開くべきなのだろう。
わざわざそんな、というにはもうノイズは、大きな存在になっている。
加えてMNRにしても大きな存在だが、元のレコード会社が違ったりするではないか。
そこは俊も不思議に思っていることではあるのだ。
いくら白雪が影響力を持っていても、紅旗を違うレコード会社のバンドに出してしまう。
確かに永劫回帰であるなら、実力的には充分に釣り合うのだろうが。
SNSを中心として、ネットでは色々な憶測が飛んでいる。
暁の場合は妊娠出産と、おめでたい話題ではある。
それに比べると白雪の方は、入院からの経過観察が長い。
ヒートで一気に売れっ子になった彼女は、それからコンポーザーとして活動することが長かった。
そしてMNRを作って、一気にトップクラスの人気を獲得したのだ。
賞レースでもノイズより、ずっと目立つ扱いを受けてきた。
ただ海外進出は、ノイズの方が早かったが。
戦略的には俊も白雪も、能力はさほど変わらないだろう。
だが慎重すぎるのと、そして人脈や資金の問題で、後発のMNRの方がノイズを追い抜いた。
しかし俊のやり方は、間違いなく土台を固めたものではあったのだ。
「結婚披露宴はした方がいいよ。身内以外も含めて」
暁がそう言ったのは、少し意外と思う俊である。
「それはまたどうして?」
白雪もそのあたり、ドライな人間だと思っていたのだが。
「人脈を増やす絶好のチャンスだから」
「……なるほど」
金持ちがやたらとパーティーをするのは、そういう理由もあるのである。
それはともかく俊は、白雪のことが少し心配であった。
最初はさほどの問題とも思えなかったが、もう結構入院期間が長くなっている。
「そうだね。すぐではないけど多分私はそう長くは生きないかもしれないから、その時のためのことを頼もうかな」
「そんなに、どこか悪いんですか?」
「今は大丈夫だけど、これから悪くなることが確定している」
もっともそれも手術でどうにかなるものなのだが。
遺伝的に癌になりやすい人間はいるし、またその癌の発生部位も、遺伝的にある程度決まっていたりする。
白雪の場合は、今は良性のポリープが出来やすくなっていて、しかしそれを放置しておけば確実に癌化する、という病気である。
治療方法としては手術で、その部位を完全に取ってしまうというものだ。
ただそうすると、行動の制限がかなりかかることになる。
日常の生活についても、かなりの面倒がかかるようになるわけだ。
今はとりあえず経過観察を、三ヶ月に一度しよう、ということで退院できそうになっているらしい。
ただ症状が悪化したらすぐに、手術を行わなければいけない。
なんとかそれまでに、MNRとしても最後のライブをしておきたい。
今後の白雪はコンポーザーからプロデューサーなど、管理の仕事をメインにする。
「紫苑を今はうちに貸してくれてますけど、暁が復帰したらどうするんです?」
「紅旗と同じレコード会社に、あの子を必要としているバンドがある」
「……フラワーフェスタ!」
確かにあそこは、ギターのポジションが弱いのだ。
紫苑と一緒にやっていて、俊も分かったことがある。
彼女はかなり高いポテンシャルを持っていて、合わせるのがものすごく上手い。
フラワーフェスタのメンバーの中では、少し年上にはなる。
だがそれだけに、今のフラワーフェスタに必要な、安定感を与えることが出来ると思うのだ。
「なるほど、そういうことか……」
「紫苑が入ったら、もうノイズも永劫回帰も、フラワーフェスタに勝つことは出来ない……かもしれない」
そこで言い切らないところが、なんとも白雪らしい。
「音楽の世界は天地がひっくり返って、一気に爆発することがよくある」
なんとなく言いたいことは分かる。
結婚披露宴をするということで、また新しい仕事が入ったのと同じことになった。
これまでに参加したフェスなどの、トップ層までも呼ぶことになる。
ホテルを用意しなければいけないので、そのあたりも難しい。
「……ウエディングドレス着るの?」
「俺も白いタキシードだ」
勘弁してと言いたいような暁だが、俊としてもそれは同じことである。
ただ政略結婚をしていたなら、どの道やらなければいけないことであった。
とりあえず俊と暁の実の親には来てもらう必要がある。
どちらも外国にいたり仕事があったりと、なかなかタイミングが難しいものであるが。
結婚式自体はしないと言うが、それはそれでいいことなのだ。
重要なのは新たなコネクションの形成や、薄くなってきていたコネクションの再構築。
場所を確保するだけでも、相当に難しいことになる。
間違いなく年内には不可能なことだ。
そもそもお偉いさんというのは、それだけ忙しいものであるので、かなり以前からお願いしていないと日程が空いていない。
そう、お偉いさんは暇つぶしにパーティーに出ているように見えるが、実はそれが仕事なのである。
「マスコミはどうするんだ?」
「どうしよう」
信吾に問われても、さすがにこういう場合は分からない俊である。
いっそのこと子供が生まれてからでもいいのでは、という意見を出したのは紫苑である。
だがそうすると今度は、暁が復帰してかなり、時間が取られることになる。
むしろ出産後の方が、大変であったりするのだ。
安定期に入り、そしてアメリカツアーの前となる、一月あたり。
そこを逃すと今度は、三月になるであろうか。
こういう場合は派手な結婚式をする、業界人の先輩たちが、色々とアドバイスをしてくれた。
それでもやはり、スケジュール的にはけっこうな無茶ではあったが。
一月の結婚披露宴を前に、先に婚姻届は提出済みである。
普通に名前の方は阿部であったり信吾であったりと、誰でもいいので書いてもらった。
ただ名字が変わるというのは、案外面倒な手続きも多かったりする。
ここで春菜が駆り出されたのであるが、まあマネージャーの仕事の範囲であるだろう。
「安藤・アシュリー・暁で3Aってけっこう気に入ってたんだけどな」
「まあ俺がそちらの籍に入っても良かったんだけどな」
もっとも今後も仕事の上では、アッシュであるので問題はない。
そして記者会見に関しては、俊と紫苑が二人で会見した。
暁はまだ一応妊娠初期であるし、白雪は入院中。
だが退院しようと思えば、普通に退院も出来るのだ。
面倒を回避したのは間違いない。
記者会見は無事に終わった。
いつの間に結婚していたんだとかいう話はともかく、そもそも結婚していたのかという、答えづらい質問はあったが。
ただ今の感覚からすると、悪くないな、とは思えるものだ。
ミュージシャンとなると、つまりは芸能人である。
人気商売であるのだから、どれだけ注目されているのか、それが財産となる。
今回の件に関しては、ノイズはとりあえずおめでたい出来事であったのだ。
対してMNRの方は、まだ発表はされていないが、解散を考えての移籍である。
実際のところは活動休止ということになるのだろう。
しかし白雪の健康状態などを考えると、ちょっと再び活動をするのは難しい。
そういえば、と俊は思い出す。
紫苑と紅旗はやっと付き合いだした、と前に聞いていた。
しかし今は、違うバンドにいることになる。
近い距離感が二人をくっつけたなら、離れてしまっている今はどうなのか。
考えてはみるが、口に出して確認するのは、お節介であろう。
ただ恋バナ好きの千歳は、そのあたりを普通に聞いてみたりする。
「そうですね、近いうちに結婚はすると思いますけど」
ミュージシャンであっても、女性のキャリアというのは大変だ。
特に妊娠と出産、その後の育児まで考えると、キャリアの中断は人気が離れることになりかねない。
もっとも二人はまだ23歳なので、焦る必要はないのか。
焦る必要がない時期にこそ、そういったことは済ませておいた方がいいだろうに。
しかしこれで千歳は、念願の恋バナが出来るようになった。
「あたしも彼氏ほしいなあ」
「まだ20歳なら、特に急ぐ必要もないのでは?」
「でも周りを見てたら、普通に付き合って脱処女している人間多いし」
「他人は他人、自分は自分です」
紫苑は年下の千歳に対しても、丁寧な言葉で話す。
まったくロックバンドのギタリストとしては、別方向に変わった存在だ。
千歳はさすがに、俊と暁がどうしてそうなったのかは、聞きづらいところがある。
酒の勢いっぽいところから、まず肉体関係があって、そしてお付き合いという順番であったのだ。
もちろん二人は仲が良かったし、相性はいいだろうなと今でも思えているが。
「紫苑さんはどうだったの?」
「そうですね……普通に私は、雪さんと一緒に、ひたすらギターの練習をしていたんですけど」
最初はMNRではなく、白雪がプロデュースするバンドメンバーとして、デビューする予定だったのだ。
しかしそこに、こいつの面倒も見てくれと、紅旗がやってきたわけである。
自然と距離感が縮まって、そのままくっつく。
「ふつー!」
千歳はそう言うが、普通でいいではないか。
そもそも距離感が近いところにいれば、人間は嫌っていない限り自然と好意を持つものなのだ。
つまり千歳の身近には、あまり恋愛対象になりそうな男性がいない。
一応大学に行けば、普通に男友達はいるのだが。
バンドの活動が忙しくて、大学生活は勉強することが多く、遊びにエンジョイというわけにはいかない。
バイトをしなくても既に、社会人よりもずっと稼いでいるという、そういう状態ではあるのだが。
ノイズはプライベートを切り売りしていないことが、この場合は助かった。
10月と11月に、一度ずつのツーマンライブをすることにする。
ハコは200人と、ノイズとしては小さなものだ。
しかしこれを小さいと思えてしまうほど、よくもここまで大きくなった。
実際にライブをしてみれば、むしろ暁が弾いていた時よりも、安定感がある。
逆に疾走感とかライブ感とか、そういったものは少ない。
フィーリングを重視するのと、テクニックを見せるもの。
もちろん両者はそれぞれ、どちらの要素も持っている。
だがどちらがより、偏っているかという問題なのだ。
暁は躍動している。
それだけにやはり、妊娠した状態でステージに上がるなど、許されるはずもなかった。
練習自体はそれなりに、まだまだやっているのだ。
ギターに三日触れていないと、禁断症状が出る特異体質。
「え、怖い」
紫苑はそう言っているが、彼女の場合は基本的に、誰かと合わせるタイプの音楽なのだ。
父親と合わせることもあったが、過去のレジェンドのコピーから始まった、暁のギター。
それに対して紫苑は、最初から誰かと演奏をすることを原点としている。
一人だけでも練習はするが、誰かと合わせることが基礎となっている。
リードギターとしては、演奏を引っ張っていくという要素は強くない。
もちろん技術的には、素晴らしいものがあるのだが。
暁のように演奏の途中で、そのまま寝てしまうということはない。
だが毎日必ず、一定の時間の練習はする。
早く弾く難しい曲もあれば、ゆっくりとした柔らかな曲も弾く。
しかしどちらを弾いていても、本人の体があまり動かない。
体の中心に一本、棒が入っているような。
そんな弾き方であるのに、激しいパートはしっかりと激しい。
練習をしていれば、普通に汗もかく。
ちゃんと水分を補給して、また練習に戻っていく。
淡々とやっているようで、本当に楽しんでいるのか不安になるレベル。
だが全体で合わせている時は、上手く弾ければわずかに微笑んでいる。
(安定してるな)
俊としてはまさに彼女のような存在こそ、スタジオミュージシャンとしては安定していると思うのだ。
またコーラスをさせてみれば、暁よりも歌は上手い。
これを白雪は育てたのだ。
感情をあまり表に出さないようにしている。
しかし音に出てくるものは、やはり感情が乗っている。
重たくもあり、しかし激しくもある。
苦しみなどに耐えた人間が、こういった音を鳴らすのではないか。
そう思っている間に、ライブは近づいてくる。
ようやく夏の空気もなくなって、一気に冬が近づいてくる。
俊は義理を通すためにも、時々白雪の見舞いには来ていた。
彼女は体調も悪くなく、いつでも退院は出来るのだという。
ただ下手に退院すると、仕事の量が一気に増えてくる。
ならば自分のやりたいことを、病院の中でやっていた方がいい。
「今回の病気では死なないけど、多分私はあまり長生き出来ないよ」
白雪はそんなことも言っていた。
体質的に、癌になりやすい遺伝子というのがある。
実際に遺伝子の中に、癌になる部分というのは、間違いなく存在しているのだ。
今回の場合は問題なく、予防的な検査をやっている。
しかしここをどうにかしても、他の部分が癌になりやすい。
「そういうわけで私が死んだら、この借りはあの子に返すように」
なんとも俊が答えにくい発言である。
白雪は死を意識している。
俊としても父親を、早くに亡くしてはいた。
だがその前からかなり、別居している時間は長かった。
なのでまだどこか、会えない遠くにいるような、そんな感覚を持っている。
「私は、全然そういうタイプではなかったと思うんだけど、今から思えば子供を作っておけば良かったなかなと思う」
「あの、ヒートの亡くなったリーダーと?」
白雪は頷く。
二人の間にあったのは、信頼関係や友情であったという。
恋愛関係ではなかった、と白雪は言うのだ。
「それでもまあ、子供がほしいと思うのは、女の本能なのかな」
もちろんそう思わない人間もいるであろうが。
「だから彼と、子供を作っておいた方がよかったかなと思う。俊君はそこを、上手くやったね」
「出来ちゃったんですけどね」
俊が苦笑すると、珍しくも白雪は笑みを返した。
子供というのはどういうものなのか。
兄弟と一緒には育たず、また親戚の子供も少ない俊には、あまり分からない感覚だ。
来年の今頃にはもう、父親になっているはずなのに。
「あと君には紫苑と紅旗が喧嘩したら、仲裁することも頼みたい」
「ええ~……」
恋愛関係の仲裁など、俊の一番苦手な部分ではないか。
「ゴートにも頼もうかと思ったんだけど、彼はむしろそれを楽しんでしまうからね」
それはまさにその通りだ。
白雪のまとう雰囲気に、死の匂いがする。
あるいは彼女は、大切な戦友を失った時に、その雰囲気に魅かれるようになったのかもしれない。
今は教え子たちといることで、その気分が紛れているのかもしれないが。
(この人も、どこか寂しい人なのかもな)
うんと年上の白雪に対して、俊はそう感じる。
「努力はしますよ」
だからこうやって、彼女が心配とすることを、少しでも減らしたいと思ってしまったのだった。
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