第339話 MNRの分裂
「え、嫌です」
「なるほど、じゃあそういうことで」
「ちょちょちょちょ」
にべもない紫苑の拒否に、白雪は全く俊の味方をしてくれない。
「冗談だよ」
本当にこの女、いい性格をしている。
白雪としては真面目に、紫苑を説得にかかった。
「MNRはこの先、長期のツアーや長時間のライブをすることが難しくなる。紅旗は永劫回帰に誘われているし、紫苑も暁ちゃんが復帰すれば他のところに入ってもらいたいんだよ」
「私は三人以外のバンドをするつもりはありません」
「けれど今は、ライブをしないと稼げない。私だけなら作曲と作詞もやるけれど」
「私がいなくなって、雪さんはちゃんと身の回りのこと出来るんですか?」
「……昔は一人でやってたし」
「あの腐海を、ちゃんとやっていたと?」
どうやら白雪は、片付けられない人であるらしい。
白雪はそっと、紫苑の頭に手をやる。
「これからの日本の音楽は、一つのバンドだけが成功するという動きじゃないと思うね」
子供の頭を撫でるように、かすかに動かす。
「ノイズが大きくなることは、引いては日本のミュージシャン全体が恩恵を得ることになる」
そう言われても紫苑は、なかなか頷こうとしなかったが。
「単純に私が教えられることは、もう教えてきたからね」
これからは経験値が必要になると、白雪は考えているのだ。
広い視野で見れば、その言い分は分かるだろう。
だが微妙に紫苑は、白雪に甘えているところがある。
「それじゃあやってみますけど、合わなければ諦めてくださいね」
そうは言うがあのドームイベントの折、しっかりと合わせているのが紫苑である。
暁に比べれば自己主張は弱いが、技巧で言えば互角かあるいは上回るか、というぐらいなのだ。
それにしても穴の空いたポジションに、丁度紫苑が入ってくれる。
これはやはり、ノイズには追い風が吹いている、と言っていいのではないか。
あるいは運命のようなものなのだろうか。
実力的には互角であるはずの、永劫回帰は伸びていない。
また追い上げてくるフラワーフェスタも、予想よりはずっと足踏みをしている。
そんな中でグラミー賞ノミネート。
古くからのファンがいるバンドやミュージシャンを除いては、今一番力がある日本のバンドと言っていいのではなかろうか。
「そういうことでよろしくお願いします」
「人材としては申し分ないところを取ってきたけど、事務所とかは大丈夫なのか?」
栄二の心配に、俊は応じる。
「全て阿部さんが一晩でしてくれました」
ちょっとこのネタは通じなかったりもした。
それにしてもMNRは、紅旗までもが永劫回帰と合流しているのか。
確かにゴートがプロデュースに専念するなら、面白い組み合わせになるのかもしれない。
しかしあの二人を、それぞれ別にしてしまうのか。
確かに同じバンドに恋人同士がいると、空気が弛んでしまうことはある。
白雪はそこを心配して、今回のような要求を飲んだのではないか。
もっともノイズが必要としているのは、とりあえず暁が復帰するまでの話なのだが。
紫苑はノイズとも合わせたことがある。
ゴートが主導して行った、東京ドームイベントの折の話だ。
走っていく暁の音に、簡単に合わせていた。
永劫回帰のキイも、同じぐらいのレベルであったろう。
ただあれから時間も経過している。
一番若かった暁が、一番成長していてもおかしくない。
なにしろ一番多くの経験をしたのであるから。
スタジオ練習が始まる。
とりあえずこれで合いそうになければ、どうしようもない。
しかし紫苑のギターは、むしろ安定度なら暁以上であろうか。
暁は曲の終りなどに、下手にクセをつけて弾いてしまうことがある。
それがマニアには、むしろ人気であるのだが。
「ともあれ、これでいけそうね」
げっそりとした顔で、阿部はそう言った。
関係者との調整で、随分と動き回る必要があったらしい。
確かにノイズがやるとしても、オリジナルメンバーではないのだ。
そのあたりどういう評価になるか、判断は難しいものになるだろう。
暁と紫苑ではカラーが違う。
ファッション一つにとっても、暁はステージ上では、あえてロックを意識している。
熱くなってきたら脱ぎだすというのは、パフォーマンスの一つだ。
しかし紫苑などは、俊や信吾に近い。
足首まであるようなロングスカートは、完全に露出を抑えている。
夏場になればさすがに、上着は薄いブラウスになる。
だが髪型も含めて、どこかのお嬢さんのような雰囲気になっているのだ。
これで速く激しくギターを鳴らすのである。
テクニックというか、とにかく速くて正確なのだ。
暁などは音が外れるぎりぎりを、わざと狙ってやったりもする。
紫苑は芯を弾いたような音で、指先がすべるように動く。
タイプとしては信吾が、ギターを弾いている時に似ているだろう。
もっとも指の動きの流麗さと、そこから生まれる余裕の音は、やはり違うものであるが。
ちなみに珍しくないことだが、紫苑は他にベースも弾ける。
またピアノも弾けたりするのだ。
これは昔、小学校の教師を目指していた頃の名残である。
だが専門のパート以外の楽器は、俊がシンセサイザーと打ち込みでフォローする。
MNRもその形式は同じで、白雪がやっていた。
一日をかけて合わせてみて、それなりの演奏にはなった。
「よし、あとは決めなければいけないことは一つだな」
俊の言葉には、ぴんとこないメンバーが多かったようだ。
「名前を変えた方がいいんじゃないか」
「いや、どうでもいいだろ」
ちょっと俊に当たりの強い、最近の信吾であった。
名前の問題というのは、一応は考えておいた方がいい。
もっとも欧米も日本も、メンバーが少し代わったところで、バンドの名前まで変えることは少ない。
洋楽のレジェンドバンドなどは、けっこうメンバーが変わっている。
まあ中心となったメンバーが脱退した場合、違うグループを作るというのは、当たり前にあることだが。
むしろメンバーの変更された時期によって、音楽性が変わるのを楽しむのが音楽か。
内部での話は、これでいいであろう。
あとは外部向けに、どういう発表をするかである。
地味にこれは反応を予想するのが難しい。
ノイズの中で人気があるのは、やはりボーカルである。
イケメン好きの女性ファンの中には、信吾あたりが受けているが。
俊にしても普通にファンはいるのだ。
そして暁に関しては、あんなに小さくて可愛いのに、ギタープレイが過激ということで、意外と女性ファンもいたりする。
可愛い猛獣、人食いコアラといったところか。
別にステージ上でギターを振り回したり、ジャンプしたりウインドミルをしたりと、そういう派手なことはしないのだが。
なんで休むの、という話がどうせ噂になるだろう。
ノイズは比較的、プライベートを公開していないバンドである。
プライベートを切り売りしないことで、むしろ価値を高めている。
ただ全く何もかもを隠すということはなく、むしろ月子の障害などは、表に出すようにしてみた。
俊が東条高志の息子だとか、暁が安藤保の娘だとか、そういうことは自然と流れていった。
また信吾や栄二が過去に在籍していたバンドなども、強いて隠そうとしているわけではない。
千歳などは普通に、高校から本格的に音楽を始めたとか、高校入学直前に両親を事故で失ったとか、ゴシップめいたものまで知られている。
俊にしろ、過去にはバンドを組んでいたし、ボカロPとしての過去はそのまま残っている。
ここでいきなり、暁の活動休止と紫苑の臨時加入を、どのように説明するべきか。
「病気とかと間違われるのもなんだし、妊娠に関しては公開した方がいいんじゃない?」
「そうですね……」
俊と暁は、普通に仲は良かった。むしろノイズのメンバーは、全員が仲が良いのだ。
「とりあえず結婚届はもう出したの?」
「いえ。……というか、母さんに報告をしていない……」
いくら没交渉とはいえ、年に一度か二度ぐらいは会う。
ここで話さないわけにはいかないだろう。
そちらをまず終わらせて、あとは周知である。
「SNSとかじゃなくて、バンドの公式サイトで発表した方がいいでしょうね」
阿部がそう提案するのは、下手にSNSなどを使うと、どういう広がり方になるのかが分からないことだ。
二人の結婚については、わざわざ広げなくてもいいか。
前から結婚していて普通に子供が出来ました、という予想させる方がいいかもしれない。
最古参メンバーの二人でもあるので、そういう関係でも不思議はない、と思われるだろう。
色々と話はしたものの、まず俊は母への報告を済ませた。
向こうからはしばしの無言が帰ってきたが、40代でお婆ちゃんになるのか、という言葉がため息と共に聞こえた。
出産予定日から逆算すると、暁は20歳で母親になることになる。
今の日本の平均からすると、かなり早いであろう。
俊は26歳になるが、それも平均よりは早い。
日本の晩婚化と出産の高齢化は、出産リスクを高めている。
これはもうとにかく女性が、自分の若さというのが不可逆の価値だと理解して、さっさと結婚と出産をすべきなのだ。
フェミニストや女性の人生スタイルを、偉そうな人間がどうこう言おうが、早めの結婚と出産は確実に有利になる。
そもそも結婚というシステムが、出産のためには夫婦を有利にするシステムであるのだ。
ちなみに結婚式はしない。
ただ知り合いを招いて、披露宴に近いようなパーティーはしよう、という話になった。
あとはGDレコードの専務に話を通したりするのは、阿部が請け負ってくれる。
そもそも数度面会しただけで、婚約したわけでもなんでもないので、関係が悪化することはないだろう。
関係を深めすぎることを、むしろ俊は警戒していたのだ。
それでもあちらから強くアプローチされれば、政略結婚として受けるしかなかったろうが。
政略結婚を防ぐための最強のカード。
「あ、俺もう結婚してるんで」
この最強のカードを、俊は得たわけである。
もっとも結婚というのは昔から、家同士の結びつきや権力者との結びつきを強めるためにも利用された。
それを考えるなら完全に打算で、権力者との結びつきのためにカードを取っておいた方が良かったとも言える。
ただ俊はこの結婚は、悪くないだろうな、と思っている。
もし俊が他の誰かと結婚しても、夫としての義務は果たしただろうし、ある程度は大切にしただろうが、愛することは出来なかったと思うからだ。
俊が暁との情交の中で感じた、あの感情の揺れ。
おそらくこれが、愛と呼べるものである。
過去には彩に対して、似たようなものを感じていた。
それを粉々に砕いたのが、彩の所業であるのだが。
『それで、そこで二人で住むつもり?』
母の問いに、俊はそんな基本的なことさえ、考えてなかったことに気付いた。
今の俊の家は、ノイズのベースにもなっている。
ただその場所で、新婚生活を行うというのか。
もっともこれまでも、暁が泊まっていくことは多かった。
それに部屋も余っているので、そこを使ってもらってもいい。
また俊のベッドは比較的大きいので、自室を夫婦の部屋としてもいい。
ただ、他のメンバーはどうだろうか。
今までは俊の家に、居候していたということになる。
しかし今度からは、夫婦の家に居候することとなるのだ。
夫婦の営みが、これからもなされるとすれば、ちょっと居候は配慮が必要になるだろう。
地味に頭の痛い問題に、俊は考えるべきことを考えてないのに気がついた。
とりあえず暁の部屋を作る、ということでいいだろう。
元々夫婦の営みなどは、安定期に入るまでにはしてはいけない。
そもそも子供を産んだ後に、またそういった行為を行うことがあるだろうか。
確かにあれは、俊にとっても味わったことのない快感であった。
おそらく暁の方も、それは同じだと思いたい。
母への報告が終り、今後のことを考える。
「出て行った方がいいか?」
普通にそう尋ねるのは信吾で、これは当たり前の配慮であった。
しかし俊としては、考え込むことであるのだ。
今までは月子と信吾がいたため、アイデアをすぐに試すことが出来た。
その環境を変えることは、正直なところ面倒である。
目の前でいちゃいちゃするつもりなどはないが、そういった空気を少しでも出してしまうだろうか。
少なくとも関係していたあのしばらくの間、他のメンバーにはバレていなかったようだが。
月子としては困るのだ。
彼女は日常を過ごす上においても、一般人よりは難しいハンデがある。
出来れば誰かと同居していると、不便さがなくなる。
ノイズというバンドの中にいることは、まず集団として守られていた。
またマネージャーなどが付くことによって、雑務を任せることが出来ていたのだ。
余裕が出来てからは月子は、図書館や映画館などに行くことが多くなった。
図書館では本は読めなくても、朗読のディスクなどが置かれているからだ。
また映画を見ることによって、色々と考えることが出来てくる。
俊と暁がいちゃいちゃするかもしれないというのは、ちょっと複雑なところはある。
俊はこれまで、月子と暁を比べるなら、間違いなく月子のことをフォローしてくれていたからだ。
早くに失った両親代わり、というのとはさすがに年齢が違いすぎる。
ただ世話焼きの兄のような、それでいてしっかりとプライバシーも守ってくれるような、そういう存在であったのだ。
ある意味では叔母よりもずっと、保護者らしい人間であったろう。
もっとも自分の将来に、俊の人生が重なるというのは、ちょっと考えづらかった。
いくらなんでも俊に頼りすぎる、ということが分かっていたからだ。
月子はこれでも、まだ遠慮しすぎている。
「色々とすっ飛ばしてしまったから、段階的に考えていこうと思う」
俊はまず、この家に暁の部屋を作る。
そして基本的には一緒の部屋では眠らない方がいいかな、とも思っている。
妊娠初期の今、激しい運動をしようとは思っていない。
同じ屋根の下でそんなことをされたら、他の同居人も気まずいであろう。
ただ、本来は両親の部屋であったものが、今は母の部屋として残っている。
将来的にはそこを、夫婦の部屋とすべきであろうか。
また生まれるにしても、子供の世話をどうするのか。
俊は全く、赤ん坊の世話などはしたことがない。
暁はほんのわずかだが、親戚の赤ん坊の面倒を見たことはある。
こういう時に頼れる、お互いの母親というのは、どちらも外国にいていたりする。
また暁の継母にしても、自分自身が妊娠中だ。
生活感が、生活の中に出て来た。
俊はこれまで多くの家事を、ほとんど外注してきたのである。
もちろんベビーシッターというのも、金銭的に頼ることは考えている。
記憶はないが俊自身も、そうやって育てられてたと聞いているからだ。
金銭的な余裕はあるのだ。
だからいっそのこと、住み込みのベビーシッターでも雇ってしまった方がいいだろう。
「ある程度は自分でもやりたいんだけどなあ」
「ワンオペになることがかなりあるだろうから、そこは割り切ろう」
おそらく子供が生まれても、俊の忙しさは変わらない。
だから誰かを頼るのだ。
昔の日本であれば、子供は社会全体のもの、という意識があった。
田舎でなくとも団地などでも、普通に全体が全体を見ていた。
核家族化などによって、夫婦の中でも特に、母親の負担は上がっている。
今は保育園なども、相当に増えてはいる。
しかし場所によっては、全然足りなかったりもするのだ。
また全く不要である地域もあったりする。
月子も信吾も佳代も、出て行く必要などはない。
これはもう本当に、大きな家を残してくれた親に感謝である。
ただ佳代はこれをきっかけに、出て行こうかと考えている。
そもそも最初は、月子一人を女として、ここに置くのが不安であったから、もう一人同居人を探したのだ。
それが暁が入ってくるなら、その心配はなくなると言っていい。
また佳代は部屋で仕事をしている。
今後生まれてくる赤ん坊が、大泣きでもした場合、仕事に支障をきたすことは考えられる。
ノイズの仕事のおかげで、ある程度は経済的な余裕も出来た。
独り立ちすることを考えるのに、丁度いいタイミングではあるのだ。
「家で仕事をするために静かな環境がほしいなら、それこそ暁が今借りている物件とかはどうなんだ?」
「あそこお友達価格だけど、けっこう高いよ」
オーナーが白雪なわけであるが、確かに高いのは高いのである。
しかしすぐに出る必要もない。
半年ばかりを目途に、ゆっくりと探していけばいいだろう。
物件が空くのは、おおよそ二月から三月が多いはずだ。
出産予定日はさらにその後なのである。
「自分で自分好みの部屋を探すのも、それはそれで楽しそうだし」
佳代はそう言うが、信吾などはどうなのであろうか。
今は信吾が居候しているため、女を連れ込むことが出来ない。
「むしろそれがありがたいんだ」
信吾がそう言うのは、仕事で忙しいから来るな、というような理由付けが必要ないことだ。
こちらの時間が空いた時に、向こうの予定を確認して訪れる。
そういう現状が、信吾としてはありがたいので、強いて出て行きたいとは思わないらしい。
「ただ、寝室以外では盛るなよ」
「盛らないよ!」
顔を真っ赤にして言う暁であるが、暁のマンションでは一緒にお風呂程度のことは、既にしているのであった。
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