第338話 混沌の未来図

 音楽を生み出す機械でいたかった。

 それで充分と思っていたのに、世の中には不確定要素が多すぎる。

 だが優先順位というのは、必ず存在するものだ。

 まずは暁と、その子供の保護を最優先。

 しかしここで問題となるのは、ノイズというバンドからリードギターが抜けてしまうことだ。


 音楽を生み出す自分と、暁を守る自分。

 とりあえず今は、暁と子供は一体のもの、と考えておいていいだろう。

 金で代替できるところは、そうしてしまえばいい。

 代替出来ないところは、まず第一に暁が、ここから出産するまでのコストなどである。

(ノイズ自体を休止させることは出来ないからな)

 動き出していることが大きすぎる。

 そしてチャンスは、どうしても逃したくない。


 この段階でまず報告し相談すべきは、阿部である。

 いくら俊にプロデュース能力があると言っても、さらに大きくノイズを見ているのは、阿部なのであるから。

「妊娠……」

 呆れたような困ったような、複雑な顔をする阿部であった。

「あの子はギターと結婚するような子だと思ってたのに……」

 俊も似たようなことを思っていた。

「堕胎は考えてないのね?」

「暁が望んでないし、それにあまりにも偶然が重なりすぎているから」

「どういうこと?」

「酔った勢いの一度だけで、それもちゃんと避妊は考えていたのに、それでも出来ちゃったのって、運が良すぎる子供だと思わないかな」

「まあ今生きている人間は全員、一億分の一の競争を争ってきた存在のはずだけど……」

 阿部としては生涯をこの業界に捧げた女だ。

 まさかこういうアクシデントが起こるとは、起こるとしてもちゃんと兆候があると思っていた。


 ただ本当に、色々な偶然やタイミングが重なっていたのだ。

 月子が先に帰っていなければ、一緒に暁を運んだかもしれない。

 阿部がべろべろになっていなければ、春菜が暁を送っていったかもしれない。

 俊か暁のどちらかが、もう少しだけ酔っていなければ、行為にはいたらなかったかもしれない。

 あとからやった12回は、全て避妊していた。

 つまり最初の一回だけで、妊娠したことになる。

 そしてそれも、暁が正しい知識を持っていれば、この問題になってはいなかった。

 あるいはもう少し俊が、しっかりと確認していれば。


 ともあれこれから、考えなければいけないことは二つ。

 個人の問題と、バンドの問題だ。

「結婚しようとかは考えてないの?」

「暁がそれを望んでいるなら、俺は保さんに殴られに行くんですけど」

 呆れたものだ、と阿部は思う。

 そういうことは男の方から言うべきではないのか。

 いや、二人の距離感や、一度限りの過ちを思えば、むしろ結婚までは考えていないのか。


 個人の問題は後回しにして、バンドの問題である。

 まず暁がいつまで活動できるかだが、そもそもライブでの演奏というのは、激しすぎる運動ではないのか。

 実際に汗だくになって、足腰が立たなくなるまで、ギターを弾くのが暁である。

 予定日から考えても、安定期に入ってからの活動も、しない方がいいであろう。

 するとバンドとしては休止するか、ヘルプを頼むことになる。

 だが暁のようなギタリストを、そう簡単に用意できるものか。

「あの子は? ほら、高校の後輩の、かなり上手い子がいたでしょ」

「高校生ですよ?」

「……あ~、そうか」

 長期でスタジオミュージシャンの誰かを拘束するか、その都度誰かに頼むか。

 さすがにある程度合わせられる人間でないと、ツアーに帯同するのは難しい。

 しかもただツアーをするだけではなく、ちゃんと暁の代理が務まらないといけないのだ。


 延期にすべきか。今ならまだ、最終的な契約を行っていない。

 中止にするという手段もあるが、このタイミングでそれは、あまりにももったいないではないか。

 それこそ暁の父である保などなら、技術的には問題がないだろう。

 しかし実際に合わせられるか、それもやってみないといけない。

 代理のギタリストが見つかるかどうか。

 期限を区切っておかなければ、それも決められないだろう。




 あとはこの件について、仲間内でどう話すか。

 あるいはもう、一気に解散ということすらありうる。

「私は……くっつくとしたら、月子ちゃんの方かと思ってたのだけど」

「いや、それはありえないですよ」

 俊はあっさりと断言する。

「俺は月子を絶対に大切にするから、男女関係にはならないに決まってたし」

「え、そうなの? 私から見るとむしろ、暁ちゃんとは兄と妹みたいな感じだったんだけど」

「俺は月子を女と……いや、女としては見ても、性欲の対象になんかはならないです」

 意外なことである。

 セックスアピールという面では、月子の方が分かりやすい。

 確かに暁も胸部装甲が、童顔に比較して凶暴ではある。

 しかし素顔を知っていれば、月子の方が魅力的だ、と思う人間の方が多いのではないか。


 もっとも嗜好は色々である。

 ロリ顔、小柄、白い肌、欧米の血筋に豊かな胸。

 こういった要素の組み合わせが好きな人間が、芸能界にはそれなりにいる。

 真性のロリコンというのも、本当にいる業界であるのだ。

 ただ阿部は知らされていないが、俊は背の高い女性に対するトラウマがある。

 彩のせいですらりとしたスタイルのいい女性には、萎縮してしまう傾向にあるのだ。


 まずは俊にやってもらうのは、暁と改めて話し合って、ノイズの皆に情報を共有すること。

 アメリカツアーを延期するか中止するかは、まだ少しだけ時間がある。

 優先順位と、順番とを考えていかなければいけない。

 まずはアメリカツアーを、諦めるか諦めないか。

 また年内の活動についても、基本的には休止する必要があるだろう。


 国内の活動に限れば、ヘルプは探せるだろう。

 あるいはアメリカに行けば、向こうで探すことも出来るかもしれない。

 だがオリジナルメンバーでないことを、どう説明するのか。

 そのあたりの交渉は、阿部がすることになるであろうが。

「あと、安藤さんに殴られるのは覚悟していきなさい」

「保さんだけで済むかな……」

 岡町あたりも殴ってきそうだし、それぐらいは覚悟している俊である。




 ベースではなく、外で待ち合わせた俊と暁。

 カラオケボックスで、秘密の話である。

「とりあえず、アメリカツアーは無理だな」

「お腹が大きくなっても、ギターって弾けるんじゃないかな?」

「いや、無茶言うな」

 本気で言ってそうで怖い。いや、間違いなく本気で言っている。


 タイミングの悪い妊娠だな、と俊は口に出来ない。

 だが間違いなくそうなのは、確かなのであった。

 アメリカのプロモーターも、色々と計算はしているだろう。

 もしも上手いギタリストがいれば、代理ででも入ってもらった方がいい。

 もっともいくら上手くても、合わせるのに時間はかかるだろうが。


 まずは二人だけの問題を決める。

「認知だけでいいのか?」

「だけって、他に何かある?」

「結婚っていう選択があるだろ」

「俊さんって結婚したくない人でしょ?」

「いや、それは相手によるだろ」

 音楽的には理解していても、人間性を理解はしていない。

 ただ暁には、俊が結婚に向いている人間とは、あまり思えないのであった。


 しかし何が向いていないのか、とも思わないでもない。

 そもそも人間として、人生の時間を音楽に使いすぎている。

 それだけのことをやって、こういう結果になっているのだ。

 成功者ではあるし、天才という人間もいる。

 だが俊ほどの純粋に、インプットとアウトプットをしている人間が、他にどれぐらいいるのか。

「結婚したいって言ったらしてくれるの?」

「暁の選択に、俺は全力で応えるよ」

 男なら結婚しよう、と自分から言うべきであるのか。

 男らしさとはそういうものなのかもしれないが、俊は俊らしい言葉を使う。


 暁は考える。

 そしてかなり感覚的に判断した。

「よし、じゃあ結婚しよう」

 やはりロックな女である。

 俊は頷いたが、それ自体は別に何もプレッシャーではない。

 問題はどのように周囲に説明していくか。

 そもそもバンド内恋愛禁止としたのは、リーダーである俊なのだ。

 バンドの中の信頼関係などが、どういうように変化してしまうのか。

 俊はそれを考えている。

「まずは、保さんに報告か」

「あ~、お嬢さんを僕にくださいっていうやつ?」

 自分で言っておきながら、暁は頬を赤らめた。




 今度はちゃんと先に連絡してから、実家を訪れる暁である。

 それに同行する俊は、普段からカジュアルな服装ではあるが、今日はネクタイを装備していた。

「なんというか、丁度いいタイミングで来てくれたかな」

 用件については先に話していない。

 だが保は少しばつが悪そうにしていた。

 そして継母と並んで座れば、随分と顔色が悪いことに気付いた。


 こちらから話に来たのだが、先に保の方が口にする。

「暁、お前今度、お姉ちゃんになるから」

 暁はあんぐりと口を広げたが、それはやっていることをやっていれば、そういうことにもなるだろう。

 保の笑みは照れ隠しをしているようにも見えるが、確かにこれは面と向かってでなければ、なかなか言いにくいことであったろう。

「お姉ちゃんに……」

 暁は呆然としたが、まあめでたいことではある。


 思考を切り替えて、保に向き合う。

「あの、今度お父さん、お爺ちゃんになるから」

 この言葉は保にしっかりと意味が伝わらなかったようだった。

「ええと、あたしも妊娠したの。それで結婚するから、その報告」

「つまり、俊と一緒に来たということは、そういうことなのか?」

 暁が頷き、保は天を仰ぐ。

「え、私この年でお婆ちゃんになっちゃうの?」

 継母の方がショックを受けているようで、それは面白かった。


 結婚式などはしない予定であるが、まだ分からない。

「まあ俺も最初は出来ちゃった結婚だったしなあ……」

 今明かされる、暁誕生の真実である。

 少し魂が抜けかけている保であるが、おかげで俊は殴られずに済んだ。

 暁にとりあえず弟か妹が出来るらしいが、ほぼ出産予定日も同じであるという。

「私は悪阻がきつくて」

「あたしは今思えばそうかな、っていう程度だった」

 暁は九月、食欲があまりなくて、アイスばかりを食べていた。

 夏場でフェスの続いて後遺症ぐらいにしか思っていなかったのだ。

 フルーツジュースなどを飲んでいたので、あれが悪阻であったのだろう。

 今もまだ、少し食欲は乏しいが。


 母親になる準備を、体が開始している。

 むしろ今後の話は、女二人で話すこととなった。

 男二人は、バンドの話となる。

 保は出来るだけスタジオの仕事を入れて、もしも出張する時などは、その間実家に帰ってもらうという。

 暁はどうするか、という話になってくる。


 ここでもやはり、音楽の話にはなる。

 アメリカツアーはさすがに、暁には不可能だろう。

 スタジオ練習とレコーディングはともかく、ライブでの演奏もやめておいた方がいい。

 暁はステージの上では、ものすごいパッションをほとばせるからだ。

 国内ならともかく、アメリカのツアー。

 日程的に余裕を持たせていたため、むしろ長期になってしまう。

 これに付き合ってくれるヘルプのギタリストは、探すのが難しいだろう。




 そして身内とも言える、バンドメンバーに対する報告である。

 むしろこちらの方が、俊としては緊張していた。

 ノイズというバンドが、今後も存続していけるのか。

「意外だけど、おめでとう」

 呆然とはしながらも、月子がそう言う。

「え、でも二人とも、そんな感じじゃなかったじゃん」

 千歳はいきなりの情報に、完全にうろたえていたが。


 自分も出来ちゃった結婚である栄二は、この事態について少し顔をしかめていた。

 そして一番反応が顕著だったのが、意外にも信吾だった。

「バンド内恋愛禁止とかいって、それをリーダーが破るのは別にいい」

 俊に詰め寄って見下ろす。

「セックスしようが結婚しようが、今ならもう経済的な余裕も出来たし出て行ってもいい」

 そして胸倉を掴む。

「だけど、どうして今なんだ! どうしてこのタイミングなんだ!?」

 結婚も妊娠も、それ自体はむしろ幸福なことであろう。

 ただバンドとしては、飛躍のタイミングでどうして、動けないようにしてしまうのか。


 信吾の怒りは正当なものである。

「ちょ、信吾君、あたしの方が迂闊だったんだから」

「女がいくら股を開いて誘っても、男が拒めばセックスは成立しないんだよ!」

 逆に男がそのつもりならば、無理やりにでも犯してしまうことは出来る。

 信吾はそんなことをしたことはないが、そういったクズとの付き合いもあったものだ。


 緊迫した空気。

「だって二人とも酔ってたし……」

「酔って……すると、あの打ち上げか?」

 タイミング的に、それ以降に二人が酔っ払うことなど、なかったはずである。

 頬を赤らめて暁は頷き、大きく息を吐いた信吾は俊を解放する。


 酔ってやってしまったことなど、信吾にだってある。

 その時はしっかりと、後からアフターピルで避妊もしたものだ。

 またいくら酔っていても、基本は避妊を出来るぐらい、信吾はセックスに慣れている。

「酔っていたら仕方がないか……」

 栄二も自分がそうだっただけに、そこは責めることはない。

 タイミングが悪かったことは確かだが、若いうちは責めるのも酷だろう。


 ただ、ここからどう立て直すのか。

 代理のメンバーを見つけるのか、それとも中止になるのか。

 しかし代理のメンバーなどといっても、暁の代役などまず見つからないだろう。

「なんとか代理を見つけるしかないかな」

 栄二はそう言って、スタジオミュージシャンの顔を何人か思い浮かべる。

 ただ技術的にはともかく、日程的に可能かどうかと、あとはノイズに合わせられるかどうか、それが問題だ。


 もしもノイズに合わせらるギタリストがいたとする。

 俊も何人か思い浮かべるが、そこで気づいた。

「……MNRが最近、全然ライブしてないな」

 以前に会った時は、白雪が病気であった。

 しかしそれほどの重病ではないと、本人も気楽そうに言っていたものだ。

「紫苑なら合わせられる」

 暁は彼女ならば、と断言できる。

 他には永劫回帰のキイなども、合わせられるだろう。

 ドームの時に実際に合わせて、それは確信している。

 もっとも永劫回帰の方は、普通に今も活動しているが。


 以前には千歳が怪我をした時、白雪にギターに入ってもらった。

 そのあたり白雪は、柔軟な人間ではある。

 この数ヶ月、なぜMNRは大きな活動をしていないのか。

 確かに俊と同じく、タイアップのために作曲に専念しているのかもしれない。

 だがここまで活動を止めて、本当にいいのか。


 なんだか少し、嫌な予感がする。

「もし紫苑がヘルプに入ってくれるなら、大丈夫だよな?」

 俊の言葉に、ノイズメンバーはおおよそ頷く。

 紫苑は基礎の徹底的な追及、といったタイプのギタリストだ。

 技術もあるし、合わせるのもかなり得意なタイプである。

 もちろんノイズのカラーと、完全に同じなわけではないが。




 連絡を取った俊は、病院の豪勢な個室を訪れていた。

 大きなベッドに白雪は座って、普通にPCなどで作業をしている。

 そして紫苑も一緒にいた。

「やあ。お見舞いに来てくれるなんて、暇なの?」

「いや、前の時とは随分と違うみたいだし……」

 白雪は少し痩せているが、それほど不健康そうにも見えない。

「う~ん、命に関わることだけど、治療法は分かってるんだ。……少し外してくれるかな?」

 白雪の言葉に、紫苑は頷いて部屋を出る。


 長期の活動休止ではあるが、仕事自体はしている。

 つまりライブなどをするのが厳しい病状ということか。

「診断は確定していてね。手術をすれば命に別状はないと言われてる。ただ以前とは違う生活を送ることにはなる」

「ライブとかが、出来ないということですか?」

「そうだね。完全に無理じゃないけど、やらない方がいい」

 するとこれからMNRは、レコーディングバンドになるということなのか。

 白雪の音楽が失われることがないなら、それはせめてもの幸いであろう。


 病状についてどこまで聞いていいものか、俊にも迷いがある。

「MNRは解散だね。年末になんとかフェスに出て、解散ライブにしたいとは思ってるけど」

「解散……二人はじゃあ、どうするんです?」

「紅旗の方は、ゴートが欲しがってる。あの子も自分はプロデュースに専念して、永劫回帰を売ることに専念したいらしい」

 なるほど、確かに以前からゴートは、プロデュースやイベントに意欲を持っていた。

 紅旗のパワーのあるドラムは、永劫回帰にも合うと思われる。


 ただノイズにとって、そちらはいいのだ。

「紫苑は?」

「まあアテはあるんだけど、今は私につきっきりだね」

 さすがに白雪は、業界での顔が広い。

 しかしまだ確定していないのか。

「お願いがあるんですが」

「言ってごらん」

「紫苑さんを一年、貸してもらえませんか?」

 白雪はそこから、無言で説明を促した。


 白雪はノイズの現状を、暁の妊娠以外はおおよそ把握していた。

「ちゃんと避妊しないと」

「それは、そうなんですけど」

「まあグラミー賞のノミネートとか、それに加えて国内の賞レースとか、確かにタイミングは悪いね」

 白雪は女性のミュージシャンが、妊娠から出産によって、キャリアを中断させるのを見てきた。

 一般企業ほどではないだろうが、ミュージシャンでもキャリアの中断は苦しいところだ。

 ただボーカルには必ず固定需要がある。

 また暁もギタリストとしては、かなり他にはない演奏をする。


 レコード会社も違うし、もちろん事務所も違う。

 普通なら難しいことなのだが、白雪なら可能であろう。

「話は分かった。海外を経験するのも、あの子にはいいことだと思う。紅旗は少し寂しがるかもしれないけど」

 そういえば付き合うようになったのだったか。

「私も口ぞえはするけど、交渉は自分自身でやってくれるかな?」

 白雪はどうも俊に甘いところがある。

 それは俊の父親の頃からの、関係性があるからでもあるが。


 紫苑ならば、ノイズにはまると思う。

 というかスケジュール的にも、彼女ほどの適役はいない。

「けれどあの子も、最近は言うことを聞いてくれないからなあ」

 不安になることを付け足す白雪であった。

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