第二部 第四章 USA
第319話 ステイツ
おおよそ一週間、日本を離れることになる。
ブラジルやスペインはとんぼ返りだったのに、随分と待遇もよくなったものだ。
「それじゃ行ってくるね」
そう言ってマンションを出る千歳を、叔母の文乃は玄関まで見送りに来た。
思えばツアーやフェスの前には、わざわざ見送りに来ていた気がする。
普通のライブの時にはそうではないので、文乃にも何かの基準があるのだろうか。
「行ってらっしゃい」
特に笑顔になるでもなく、どこか難しそうな顔で見送る。
それが文乃の見送り方だった。
「お土産を買ってくるから、いい子にしてるんだぞ」
「言われなくても大丈夫だよ」
栄二は陽鞠の頭を撫でようとしたが、もうそろそろ難しくなってくる年頃の女の子である。
少し寂しい思いはするが、変にひねくれ過ぎていたりもしない。
同じ年頃の子供を持つ父親は、おおよそ栄二よりも年上だ。
もっとも栄二は年齢に比較して、腹が出てきた感じもする。
ロックバンドでデブで許されるのは、ドラマーだけである。
暁の場合は自分のマンションから、両親に空港まで送ってもらうことにした。
荷物は二つに分けて、手荷物の方の一つがギターケース。
どうしても手放せない、という気持ちが溢れている。
「時代が変わったな……」
車の中で父の保は、そんな呟きを洩らしたりもした。
暁から見て日本のロック・ポップというのは、過去が今よりも劣るとは感じない。
単純にCD販売の市場などは、かつての方がはるかに大きかった。
技術革新がその理由であるが、今の時代に持ってきても、普通に喜ばれる。
だからこそ80年代のアニソンなども、カバーしたりしたわけである。
それでも大きく変化したのは、DAWとボカロの発生と発達によるものだろうか。
サンプリングも出来れば、より自由な発想で楽曲を作るようになった。
俊にしてもその源泉は洋楽と90年代にあるが、間違いなくボカロの時代の影響を受けている。
ネットによって世界中に発信出来るようになった。
そしてその食い合いで、日本の音楽は欧米の音楽に負けてはいない。
いずれアメリカのレコード会社が、日本のアニメのスポンサーになって、タイアップをしてくるようになったら、また違う動きになるかもしれない。
暁が生まれるずっと昔に、欧米の名曲を使ったアニメは存在している。
新世紀エヴァンゲリオンのED曲は、Fly Me to the Moonである。
もっともジャズのスタンダードナンバーのこれは、何度もアレンジが加えられている。
それこそノイズが、ノイジーガールを何度もアレンジしなおしたように。
私を月まで連れてって。
日本語訳されたタイトルの、日本のマンガは1980年代に存在する。
CMにも何度も使われたものであり、ノイズはカバーしたことはないが、おそらく月子が歌えば美しく耳に届くだろう。
ルナが、月まで連れて行ってと歌うのは、不思議な感じもする。
坂本九の時代には、ほとんど日本は受け取る側であった。
しかし多くの欧米のフェスのメインステージで、日本発のミュージシャンが立つようにはなったのだ。
ノイズの一歩も、またその中の一歩である。
バンドにとっては一つの区切りだが、既に誰かが歩いた道でもある。
むしろブラジルやスペインのオファーを受けた方が、俊の選択としては異例であったと言えよう。
信吾は出立の前日こそ俊の家に戻ってきていたが、それまでの三日は外泊していた。
何をやっていたのかは、言わずと知れたことであろう。
ブラジルもスペインも、初めての海外フェスに、初めてのヨーロッパフェスと、大きな転機ではあったはずだ。
しかしながらアメリカというのは、やはり特別に思える。
いくらイギリス音楽に晒されても、それを受け止めて世界中に広げたアメリカ。
ここで評価されることが、一番影響力の大きい評価だと言えよう。
空港では問題なく、全員が揃った。
ノイズのメンバー六人に、阿部に春菜、そしてスタッフとして四人。
普段はローディーをしていてくれることが多いが、今回は荷物もちに現地でのスタッフとの会話が出来るメンバーを選んでいる。
プラジルもスペインも、そこまでの手配はしていなかった。
もちろん負けるつもりはなかったが、空気を経験することも重要と思っていたからだ。
今回は完全に違う。勝ちに行くのだ。
タイムテーブルが決まってからは、SNSなどでも英語でしっかりと宣伝をした。
全米でも屈指の巨大フェスであり、それなりの歴史もある。
一度は断絶したが、始まったのは20世紀からであるのだ。
ブラジルもスペインも、実際はものすごいものなのだが、日本にとっては分かりやすいのはアメリカで、あとはせいぜいイギリスだろう。
ここで成功すると、格が上がる。
もちろん何かを得ることもあるだろうが、それよりも周囲が変わっていく。
武道館や夏のフェス、紅白に東京ドームと、何度も体験してきたことではないか。
それでも俊は、さほど緊張していない。
このあたりの客観的思考が、今まではプラスに働いていた。
ステージで自分がすることは、基本的に他のアシストをすること。
パフォーマンスをするのは、他のメンバーに任せている。
打ち込みと、あとはシンセサイザーの操作。
どちらも俊としては、機械的な操作である。
ギターを歌うように弾くことは出来ない。
ヴァイオリンなどでそれなりの旋律を奏でることは出来る。
ただどちらもそれぞれ、シンセサイザーを使うか、最初から打ち込みにしておけばいい。
あとはPCを使って微調整をする。
そのあたりは俊にとって、職人的な技術であるのだ。
感性は制御が難しいが、技術はそうそう裏切らない。
官能の演奏の中にいながらも、どこか冷静な思考がある。
酔い切れない自分を、悲しい人間だとは思わないようにしている。
およそ12時間のフライトであるが、もう慣れてきた。
考えてみればブラジルはもっと遠かったし、直行便のないスペインは色々と困った。
それに比べれば英語が使えて、空港の整備されたアメリカというのは、むしろ楽であると言えるかもしれない。
「シカゴも場所によっては危険だし、置き引きや引ったくりは多いから、絶対に気をつけるように」
阿部からそんなことを言われるが、ブラジルのリオよりはある程度安全であるらしい。
もっとも東京にも田舎があるように、シカゴだったら安全、というわけでもない。
それを言うなら日本は相当に安全だ。
頭がお花畑な人間でも、それなりに生きていけるぐらいには。
もっとも社会のありようは、長所と短所が必ずあるものだ。
ただ国家の最大の優先事項が治安の維持であることを考えると、やはり日本は安全な国であると言えよう。
シカゴはアメリカでも第三の都市であり、内陸に位置する。
ただ人間の住むところとしては当たり前だが、近くに巨大な湖が存在する。
五大湖と呼ばれているもので、ここから飛行機以外にも、鉄道でアメリカ各所とつながる。
むしろ鉄道関係で言うならば、ニューヨークやロスよりも重要度は高い。
巨大な湖があることから、水運もそこそこ重要になっている。
そして中心都市部は、摩天楼が存在する。
一時期は世界最高の高さとなるビルディングもあって、300m級のビルがいくつか存在する。
「一応ギャングとかもあるらしいけど、縄張りに近寄らなければOKらしい。ただこういう巨大なフェスとかだと、どうしてもテロの標的にはなりやすいからな」
アメリカはとにかく、敵が多い国であることは間違いない。
まあ日本も首相経験者が暗殺されたり、首相が殺されかけたりと、戦前に近くなっているのかもしれないが。
むしろこのフェスの期間は、警備が厳重になってくる。
なので犯罪は減る傾向にあるが、軽犯罪であれば動いてくれなかったりもする。
アメリカは軽犯罪に寛容な国である。
その一歩が危険だと思うのだが、シカゴからはスーパーなどが撤退する傾向にある。
カリフォルニアの話がよく話題になるが、シカゴもその傾向にあるのだ。
銃規制について日本では、とても想像が出来ないが、アメリカにとっては権利であったりする。
西部開拓時代は特に、自分の身を守れるのは自分のみ、という傾向にあった。
そもそも男と女が素手で戦うのと、男と女が両方拳銃を持つのと、どちらが力の差が少なくなるか。
古く日本の戦国時代などを見ても、銃は力の差を少なくする。
危険な武器であるが、弱者のための武器でもあるのだ。
そんなわけでSPもついてくる。
もちろんずっと守ってくれるほど、ノイズは重視されたバンドではない。
会場内の待機所と、ホテルと会場の行き来は、銃を持ったSPが同行してくれる。
だがそこから外れるなあば、あとは自己責任、という話になっているのだ。
一応シカゴは銃規制が、比較的厳しい州である。
ただギャングがいることなどから、一般人の保持も許可制で可能になっている。
他には精神鑑定の必要もあったりと、相当に厳しく規制されているそうだ。
それでもちゃんと許可を取れば、拳銃が持てるというのが怖い。
「猟銃持ってるだけでヒステリー起こす日本とは違うな」
信吾が呆れたように言ったが、アメリカ人の独立心というのは、こういう自衛権にも現れているのだろう。
空港からはホテルにそのまま案内された。
そして改めて、今回のフェスの契約を、最終的に行う。
事故に巻き込まれてステージに立てない時の補償など、そういったことまで書かれてあったりする。
日本だと普通に判断されることが、いちいちアメリカでは契約の内容に含まれているらしい。
「日本語に翻訳してくれてるのはありがたいけど、本当に色々なパターンを想定してるんだな……」
日本ならこれはこうというところを、どうしてそうなったかというところまで、分けてパターン化している。
契約社会というのは、そういうところであるのだろう。
基本的に性善説の日本とは、話が違ってくるのか。
もっとも日本においても、法律を利用した犯罪は、いくらでも起きているものである。
法律は正義の味方ではなく、知っている者の味方である。
分厚い書類に関しては、俊個人が代表としてサインするものと、各自がサインするものとがあった。
ギター破壊に関する除外事項などもあって、ちょっと笑ってしまったものだ。
ここで暁は家族との接触についてまで、確認を取られてしまう。
IDがないと入れない場所もあるのだ。
出演者側のIDも、しっかりとカードを作成される。
日本のフェスに比べても、明らかに警備が厳しい。
昔のフェスはもっと牧歌的な、そして無茶苦茶なものであったともいう。
それはそれで面白かったのかもしれないが、普通に銃の発砲事件などが続けば、確かに危険ではある。
昔のアメリカでは、ちゃんと空に向けて撃ったから問題なし、となった例もあったのだとか。
今でもライブハウスによっては、発砲事件があったりする。
自由の国アメリカは、自由すぎる国でもあるのか。
日本人なら眉をひそめる行為が多いが、日本では当たり前の行為が欧米にとって、眉をひそめる行為であることもあるのだ。
ホテルの部屋はスイートを二室であるが、これは寝室が三つもあるため、ツインで寝たりする必要がない。
アメリカは違うな、と思ったりもするが別に日本でも、高級ホテルなら珍しくはない。
だが普通にシングルを三室取った方が安い。
随分と高そうな部屋だなと思えたし、実際に高い部屋なのだが、さらにこれより上の部屋がある。
空間に対する意識は、アメリカ人は日本人より、はるかに贅沢である。
ここに荷物は下ろして、とりあえず設営されている会場を見に行くことにした。
車で20分ほどもかかるが、巨大な都市の中に巨大な公園がある。
日本にも新宿御苑などはあるが、広さではこちらの方が圧倒的。
「あっちに海があるんだ」
「いや、あれが湖だって。学校で習わなかったか?」
千歳の微妙なボケに俊が突っ込む。
規模は違うが、千葉の幕張と似たようなものではないか。
現時点で既に、広さ自体には驚いている。
設営で動いている人間は多く、本当に巨大なイベントなのだなとは分かる。
ただ考えてみれば、日本のフェスを前日から見る、ということはなかった。
東京からなら、普通に当日に到着するものであったから。
空気が乾いているかと思ったが、案外そうでもない。
おそらく湖からの水分が、湿度を保っているのだろう。
暑さは相当のもので、水分補給は重要である。
ただ東京の方が暑いとは思う。
夕食前にはしっかりと、練習をすることにした。
スタジオは予約してあって、そこを使うことになる。
昼の食事は、世界中の多くで展開しているハンバーガー。
日本と比べて巨大であるが、価格も全く違っている。
物価の急騰と共に、こういった外食も高くなっている。
だが案外材料費自体は、それほど高くもなっていないらしい。
人件費が何よりも高くなっているのだ。
日本は貧しくなったなどと言われるが、実際はまだまだ過ごしやすい。
そう思えるのは政府が、物価上昇を必死で抑えているから。
それでもあちこちの戦争で、連鎖的に価格の上昇は起こっている。
日本で食糧を作っても、食糧生産に使う肥料や餌などは、外国からの輸入が多いからである。
ハンバーガーは本当に、どこの国でも大きなハズレはない。
短期的には無難な選択であろう。
日本からは比較的近い台湾でさえ、漢方の原料を食材に使っていたりして、食べにくい料理はあったりする。
アメリカの大都市は、金さえあれば美味いものは食える。
しかし美味いものは、それだけに高い。
「ビュッフェで朝は問題ないとして、昼と夜をどうするかだな」
「とりあえず食中毒とか、そういうのだけは防がないと」
ブラジルもスペインも、短期間の滞在であった。
少し長いと逆に、考えないといけないことも多くなる。
ホテルのレストランはクソほど高い。
だが外食全般が、アメリカでは高くなっている。
しかもそれが都市部で集中しているのだ。
日本の場合は普通に、東京でも安い店がたくさんある。
美食に興味のない俊だが、付き合いで連れて行ってもらったことなどはある。
クソほど高いアメリカよりも、東京の方が絶対に美味い。
はっきり言って料理の美味さは、東京以上の街はないと思う。
少なくとも日本人の舌には、日本で作られた料理が合うのは間違いない。
ブラジルはそれなりに、美味くて安い肉を食っていた。
だがあれは日本人の好みの焼き方ではなかったし、肉質でもなかったと思う。
日本人の好む牛は、確かに世界でも通用する。
しかし繊細すぎる味、と思う人間もいるらしい。
ホテルの朝の食事はともかく、あとはファストフードが無難である。
もしくは日本料理の店であろうか。
ただアメリカの日本料理の店は、ほとんど創作料理と言ってもいいものであったりする。
日本だってカレーやラーメンを日本食にしてしまったので、別に文句をつけることではないだろう。
練習を終えて、ホテルに戻る途中で食事は買っておく。
あとはホテルの部屋に集まり、作戦会議である。
とは言っても当初の予定から、それほど変わったものはない。
「一万人ステージとか言ってたけど、普通に五万人ぐらい集めれる規模だったな」
俊としてはそう見ていたし、それぐらいならば日本で経験している。
考えているのは、SNSによる拡散だ。
序盤からとんでもない演奏をしていけば、ステージ中にそれが拡散していくだろう。
果たしてどれだけ、最終的に客を集めることが出来るか。
当然ながら最初から、ある程度の人数がいた方がいいのは確かだ。
セカンドステージのヘッドライナーの一つ前。
おそらく多くの来場者は、メインステージに向かっているだろう。
あちらは八万人が集まるなどと言われている。
最後のケイティの前に、いい場所を取ろうと待機していてもおかしくはない。
それをこちらに持ってくる。
これがケイティの前のメインステージなら、むしろそれがありがたかっただろう。
一日目からの人の動きを見て、最終日も予想しなければいけない。
他のミュージシャンも楽しみたいが、俊は作戦を考えている。
他のメンバーはまた、見たいミュージシャンなどを話している。
しかしR&Bが多いのだな、と思わせるところはある。
いわゆる大御所、レジェンドというのが出演していない。
だいたい年齢の上限は、ケイティぐらいなのである。
「若者向けのフェスなのかなあ」
事前から分かっていたことであるが、会場の空気を感じてみて、やはりそう思った。
目指すのは人数ではない。
日本で見た、あの人の集団が、蠢く地面のようになった光景。
夕暮れの中で果たして、どれぐらいの雰囲気になるのか。
「でもシカゴって、緯度で言えば函館ぐらいなんだよな」
「それを言うならイギリスは北海道だし」
ちょっと話が逸れていくが、到着した日から元気なノイズの一行であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます