第318話 アジャスト
シカゴまでは成田から直行便が存在する。
それを考えるとブラジルやスペインに比べ、むしろ条件はよくなっている気もする。
およそ半日のフライトと考えると、コンディションを整えるのも重要だろう。
そのあたり二度の海外遠征が、いい経験になっていると思う。
「ホライゾンでワンマンやって、それから出発だ」
最終日がステージであるが、その前の三日間も堪能できるようにホテルが取ってある。
待遇が明らかに良くなっている。
レッスンスタジオも用意されているし、セッティングの時間もそれなりにある。
写真で確認できる、去年のセカンドステージは、日本のフェスと比べても派手で立派なものだ。
アメリカの場合こういうフェスには、巨大なスポンサーが付いている。
そしてだいたい、頭の緩いお題目が用意もされているのだ。
デスメタルのような音楽もあるはずなのに、今は平和になってきたものだ。
ただ昔と同じで、自然環境をどうだとか、LGBT差別がどうだとか、本当にアメリカは頭がおかしい。
そういった頭のおかしさがあってこそ、馬鹿らしいパワーも生まれてくるのかもしれないが。
アメリカが肥満に寛容であるのは、おそらく保険の問題があるのでは、と俊は穿ったものの見方をしている。
日本は国民皆保険であるため、肥満からなる病気に対しても適切な治療を受けられる。
アメリカではそもそも肥満体は自己節制出来ていない人間、という見方があったし今でもある。
実際のところは病気でそういう体質だったりもするのだが。
医者にかかるには、金がかかりすぎる国のアメリカ。
働けなくなった人間を、さっさと殺すために、太れと言っているのではなかろうか。
それは冗談としても、肥満は健康な状態でないのがほとんどだ。
病気ならばともかく、太っていることをそのまま認めるなど、不健康この上ない。
あるがままを認めろというのは、とんでもない傲慢であろう。
日本人は自然美にこだわる民族であるが、そもそも勤勉に働いていれば、太ることもないと考える。
バンドマンにはガリガリに痩せた人間が少なくない。
単純にバンドマンは、食費に金をかけられない貧乏が多いからだ。
太ったギタリストが格好悪いということもあるだろう。
ドラムは太っていても許されるようなところがあるが。
ただボーカルなどは、太っていた方がいい声が出たりする。
オペラ歌手などは確かに、そういう傾向があるし科学的に理由も判明している。
肥満は贅沢であり、また自己節制に欠ける。
何より格好悪いというのが、正常な判断であるのが日本人だ。
もっとも世界には、肥満が裕福の証であるので、モテたりするお国柄もある。
時代によっても違って、日本などは男女共に、恰幅のいい人間が美しいという時代もあった。
太れるほどの経済環境であるがゆえに、それが一つの基準であったのだろう。
矛盾を抱える国、アメリカ。
だがそれは外から見た話、日本から見た話であって、他国から見ればおかしなところは、日本にも色々とある。
そもそも日本人、アメリカ人という括りなども、乱暴なものであろう。
世界中の国々に、善人もいれば悪人もいる。
音楽の流行だって、世界によって違うではないか。
「ヴィーガンってすごく頭悪いと思うんだけど、どう思う?」
「昔はベジタリアンって言われてたけどな」
千歳のどうでもいい話に、俊はどうでも良さそうに返す。
実際にどうでもいいのは本当だし、別にあんなものは理解しなくてもいいのだ。
ただ目覚めた人、などと言われて揶揄される段階に入っているのは知っている。
そこで暁が手を上げる。
「あのさ、チケット四枚、送りたいんだけど」
「ん? まあ手に入れることは出来るだろうけど」
四枚も誰に送るのか、という話になってくる。
「お母さんと、今の旦那さんと、弟二人に」
現在の暁の母が住んでいるのは、カナダのトロントであるという。
地図で見れば近く見えるし、実際にブラジルやスペインに行くよりは近いだろう。
実際には東京から大阪へ行くよりも距離があるし、時間もかなりかかるだろうが。
暁の母はもうずっと会っていない。
ただクリスマスには今でも、カードが送られてくるのだ。
父の保も再婚したし、姉のような義母も出来た。
だからといってつながりが、絶えてしまうわけではないのだ。
「ホテルの予約もこちらで取ったらどうだ? バカ高いところは無理だろうけど」
俊は気配りをする男である。
新たに母になった女性とは、元から仲が良かった暁である。
ただ一緒に暮らすというのには、少し遠慮をしてしまった。
もちろん時期的に、暁が親元を離れてもいいタイミングではあったろう。
なので今は一人暮らしなのだが、おおよそバイト先か俊の家にいることが多い。
マンションにも防音室はあるが、ここだと他のメンバーもいる。
自然とここが、ホームのような感じになっているのだ。
まさにここはホームである。
俊の家であり、ノイズの拠点。今ではレコーディングまで出来るよう、設備を整えた。
そしてここならいくらでも、練習をすることが出来るのだ。
俊もかなり家で作業をすることが多いので、何かがあればすぐに相談も可能。
月子と信吾も同居しているので、色々と話すこともあるのだ。
まだ叔母と住んでいる千歳と、家庭のある栄二を除いて、暁が一番ここに来ることは多いか。
元々友達が少なかったし、今でも多いわけではない。
ただ音楽の話が出来れば、それだけで充分。
もうちょっと世界を広げた方がいいとも思うが、この小さな世界の中でも生きていく力は付いている。
シカゴのフェスでやる曲も、しっかりと完了した。
現地の話なども、色々と聞いている。
向こうでのノイズの認知度は、あまり高いとは言えない。
日本の音楽が人気といっても、一般的に主流なムーブメントにまでは達していない。
そんな中でどう、聴かせることが出来るのか。
とりあえずは二時間の、ワンマンライブが渡航前の最後のライブとなる。
ホライズンはもう、やり慣れたハコと言っていいだろう。
充分に大きなハコで、今までにも何度も演奏をしてきた。
あえてホールなどではなく、ライブハウスにこだわってきた理由。
それは設備の問題や、距離感の問題もあったが、それ以上に予算を使わないため。
しかしさすがに、違うステージに来たといってもいい。
原点を確認するために、今後もここでライブをすることはあるだろう。
300人のキャパならば、充分に最大規模のライブハウスだ。
東京の1000人や3000人というのは、ちょっと規模が大きい。
それに急に予定が空く、最大限レベルのハコでもあるだろう。
今後はプロモーションをして、もっと大々的に売っていく。
ただしそれはシカゴのフェスの出来と、その影響が日本での二つのフェスにどう影響を与えるかだ。
タイムテーブルはヘッドライナーの一つ前を予定している。
外国のレジェンドをヘッドライナーに持ってくる方は、事実上のトリと同じである。
サブスクなどで流している曲が少ないため、DL販売とフィジカル音源がかなり売れている。
アイドルなどのグッズ目当てを除けば、ポップスの中でも五指に入るぐらいには売れているのではないか。
もっともPVの回転は、総回転数はそれほど多くない。
そもそもMVなどを作っていない楽曲も多いからだ。
それをやっていると金がかかる。
ハイリスクハイリターンは、ハイコストハイリターンと似たようなものだ。
ローコストミドルリターンに、これまでは成功してきた。
しかしツアーをするにあたっては、どうしても自分たちで全てをするのは労力がかかりすぎる。
長期的に考えれば、維持費を高くした方が、元は取れるものだ。
ただしそれは、このままの売上が維持できたことを想定としている。
国民的人気バンド、として定着するかどうか。
それは難しいものだろう。
ただ俊はこれまでの楽曲に、あまり奇を衒ったようなものは作っていない。
少なくとも10年は、違和感のない曲になっていると思うのだ。
それこそヒップホップが流行の中心にでもならない限り。
アメリカの現在のメインストリームは、ヒップホップとR&Bだが、60年代から70年代の曲は、ずっと利益を生み出し続けている。
マイケル・ジャクソンの楽曲なども、100億単位の利益を出しているのだ。
そこまではいかなくても、著作権がどれだけ稼いでくれるか。
プロデューサーになったとしても、コンポーザーの利益だけで食っていける。
そういった状況にすれば、余裕をもって音楽をすることが出来る。
そもそもそこまで余裕を持ってしまえば、それは余裕を持ちすぎるということになるかもしれない。
音楽は苦しみの中から生まれていることが多い。
日々の生活の苦しみの中から、あるいは新たな作曲の苦しみのため。
ただそこまで満足する曲を作れたならば、自分はもう解放されるのではないか、とも思うのだ。
なんのために音楽の世界で生きるのか。
最初は父の背中を追いかけて、ただ楽しいと思っていたからだ。
難しいパズルを解くように、音楽を組み立てていく。
そういった楽しみもあったはずだ。
しかし今ではもう、執着と呪縛によるものになっているのではないか。
音楽で成功する以外では、この苦しみから解放されることはない。
いや、苦しみではなくなったか。
ノイズとして成功して、苦しみや悩みは昇華されるようになった。
ただ使命感と、重石はまだ感じている。
最高の曲が作れたら、あるいは最高の演奏が出来たら、それも消えるのだろうか。
消えたとしてもそこから、まだ音楽をやっていくのだろうか。
ミュージシャンには、若くして燃え尽きるものが少なくない。
それを才能の限界と思うが、むしろモチベーションの限界であるのか。
何かを表現しようという欲望が、消えてしまったらどうなるのか。
その空虚を埋めるために、人は愚かなことをしてきたのかもしれない。
ステージが終わった。
内容に問題がないのは、メンバーの顔を見れば明らかだ。
アンコールを二曲やって、ほぼ全体力を消耗。
そのつもりでやっているのだから、正しいことである。
2ステージ続けて、しかも今回は長めにやって、問題がなかった。
あとは向こうの空気でどう演奏するか、というぐらいか。
シカゴのフェスについては、去年のオファーがあった時から、目標とはしていた。
アメリカのフェスの中でも、かなり巨大なフェスなのである。
シカゴ自体が、アメリカでは第三位の都市ということもある。
もっともアメリカは、都市圏の考え方がかなり、日本とは違うところがある。
目の前のライブに集中して、問題なく終わらせることが出来た。
客のノリが普段よりもよく感じたのは、ノイズがアメリカに行くことが公開されているからでもあろう。
経験するステージの格が、ミュージシャンの格を作る。
ノイズにしても武道館前と武道館後では、演奏が変わっていなくても客の反応は変わった。
それは武道館に限らず、知名度が高くなればそうなるものなのだ。
スタートから勢いがつくまでが、一番難しい。
人気商売というのは、どれもそうであるのかもしれないが。
俊のやってきた、地味で長いネットでの活動。
どうしても一線級には、及ばないところがあったのだ。
しかし月子と会って、その巡りは変化した。
人間の運命の流れは分からないものである。
月子と暁、この二人が特に大きかった。
信吾と栄二に関しては、技術だけなら他にもいる。
もっとも人間性の相性は、この二人でとてもバランスは良かったが。
そして千歳が、最後のピースとしてはまった。
バンドが完成してから、阿部とインディーズでやり始めるまで。
おおよそ大きなハコでやるようになって、そこからはミュージシャンとして食えるようになってきた。
大規模フェスに出場できた時点で、成功者とはなったのかもしれない。
ただ何をもって成功とするか、それは人の欲と目標次第である。
今を見ながら生きるのは、人間としては当然だろう。
しかし今やっていることが、果たして未来にどう残るのか、それも考えている。
俊は強欲の人間であるので、今だけでは満足出来ない。
未来に自分の音楽を残していきたい。
昔に比べれば今は、楽譜だけではなく音も残せるので、演奏者にとっては幸運な時代であろうか。
ただ俊の曲は、ノイズ以外がやったらどうなるのか。
フォロワーのバンドが、カバーでやっていたりするのは知っている。
他のバンドにカバーされてこそ、ライブバンドとしては一流であろう。
実際にそれで印税の収入は入ってくるのだから。
昔に比べるとずっと少なくなったとも言うが、カラオケでも歌われることはある。
しかしノイズの歌は、難しいのはとても難しいし、簡単なものも上手く歌いにくい。
少なくとも個性的であるのは確かだ。
オリジナリティ。
全ての創作者が、目標とするものであろう。
俊は自分の作っている曲が、極端にオリジナリティに溢れているとは思わない。
ただ他のバンドが演奏しても、なかなか真似が出来ないというのは、バンド編成以外にも理由はあるのだろう。
実際に月子のように歌えるボーカル、千歳のような感じのボーカルは、なかなか探してもいない。
暁にしても弾き方に、かなりの個性があるのだ。
曲によってはそれを、静かに鎮めることも出来る。
そういう暁だからこそ、スランプで苦しんだとも言える。
音が残る現代は幸福だ。
録音が出来なかった時代は、どれほどの名手であっても、それを残すことが出来なかったのだから。
特別に難しく、変な境地を開拓しようとしているわけではない。
それでも他のバンドが真似出来ないというのは、やはり立派なオリジナリティだ。
アレンジをして弾くとしても、今度は三味線がいないだろう。
打ち込みでやるのならば、月子の声に合わせてトーンを調整する必要がある。
ノイズの中には、ボーカルが二人いないと歌えない歌も多い。
そして月子なら歌えても、千歳では歌えない歌がある。
どちらもが歌えても、千歳がメインとなって歌う歌もある。
この幅の広さこそが、まさにオリジナリティであるのだろうか。
色々な方向に手を出すというのは、ビートルズが進化の過程でやったのと、同じことではある。
あの時代のバンドは、多くが開拓者であった。
ともあれ最後のライブも終了した。
あとはアメリカへ行くだけである。
諸手続きの多くは、さすがに阿部に任せている。
もっともアメリカはアメリカだけに、プロモーターがしっかりとしているのだが。
世界で最大の国家とも言えるアメリカ。
多様性に富んでいて、多様性を逆に否定しそうな、皮肉な懐の深さも持つアメリカ。
一応俊はアメリカに行ったことはある。
もっともそれは、うんと子供の頃であるが。
「お、珍しい」
俊がそう言ったのは、母親からの連絡があったからだ。
暇があったら見に行く、というものである。
ヨーロッパを主な舞台に活動している母が、アメリカに行くことはそこそこ。
しかしスペインでも、顔を出すことはなかったのに。
巨大な舞台が、ノイズのメンバーを待っている。
そこで何が起こるのかは、まだ誰も知りえることではない。
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