第316話 始まりの場所へ
八月は三つのフェスに出演する。
シカゴ、フォレスト・ロック・フェスタ、ROCK THE JAPAN FESTIVALの三つである。
当初はフォレスト・ロック・フェスタは出演予定ではなかったが、シカゴのフェスに出演が決まり、他の海外フェスの予定を外したところ、フォレスト・ロック・フェスタにも出演できるスケジュールになった。
七月は丸々休みか、渡航直前に一つライブをするかという予定だったが、それは暁の復調のために変えている。
とにかくツーマンでもスリーマンでもいいし、小さなハコでもいいから、暁の復調を試すステージがほしい。
練習においては相変わらず、問題のない演奏を続けている。
阿部から聞いた話にしても、理解しようとしたのは俊と栄二ぐらいだ。
他の四人は、二人が判断したのなら、それでいいだろうと考えている。
経験の豊富な栄二と、知識の豊富な俊とで、判断をすればいいのだ。
「まあこれはこれでいいと思う。やることは今と変わらないし」
「俺も大丈夫だと思う」
「お給料が変わらないならわたしも大丈夫」
「いや、俺たちのは給料じゃないだろ」
「あたしも大丈夫だけど、アキは?」
「あたしの場合はそれより、自分のギターの方がね」
暁はそう言うが、千歳はわずかな音の変化に気付いている。
柔らかくなったのでは、と感じるのだ。
暁はこれまでずっと、一人で苦心していたようにも見える。
だが打ち上げからこちら、つまり楽屋での乱闘以降、千歳のリズムに合わせたり、俊のメロディと合わせたりする。
「俊さんメロディセンスない~」
「知ってるわ」
暴力沙汰から解散するバンドというのは、あまり知らない。
別に殴り合い程度なら、出来るだけまだマシなのだ。
ただ必死すぎた暁が、どこか俊に甘えているようには見える。
それが悪い方向には進んでいないと思える。
暁のスランプが技術的なものでないのは、練習では全くおかしなことなく弾けるからだ。
ソロのパートを弾いてもらっても、技術的には問題ないし、普通に盛り上げる程度は出来る。
ステージ上でだけフィーリングが合わないのだから、これはメンタルのものと考えるのが自然だ。
ただツアーも終わり、楽屋でのいざこざもどうにか収拾されると、とりあえず気が抜ける。
「なんだか色々あったみたいだけど、大丈夫なの?」
「う~ん、あの二人は元から、親戚のお兄ちゃんと妹的な関係もあったし、そこは大丈夫なんじゃないかなあ」
千歳としても確実なことなど言えないのだ。
空気が弛んだな、というのは俊も感じている。
調整代わりにというのも失礼かもしれないが、ライブをする必要がある。
必要なのは練習ではなく、本番の空気である。
ギャラもキャパも関係なく、ただ直感的にやってきたハコを選んでいく。
そしてブッキング出来ないか確認していくのだが、それで一日は終わってしまった。
出来るだけすぐがいいと、その条件だけで選んだ。
ただとりあえず週末に、すぐ空いているようなハコはなかった。
小さなハコは小さいなりに、逆の需要と供給があるものだ。
とりあえず今週が無理としたら来週か、と判断をする。
こんなことは春菜に任せるべきなのだが、それを任せられないところが俊の貧乏性なのだ。
いずれ過労死するだろう。
だが、俊が直接連絡を取った、ということの意味はあった。
バンドの都合によって、急遽キャンセルが入る。
その場合はバンドとしては、チケットを自分たちで買い取るので、痛いことになる。
ライブハウスとしてもチケット代だけではなく、それによって集まってくる客へのドリンク代などで儲けを出すのだ。
それが一つのバンドの時間をそれぞれ長くしても、集まってくる客の数は増えない。
『というわけでこちらで告知してもいいなら、トリに入ってもらいたいんだが』
「トリでいいんですか?」
『お前らの後にやるバンドが気の毒だろうが』
かくして急遽ライブが入った。
場所はノイズの始まりの地でもあるCLIP。
ノイズが今の編成になった、最初のライブハウスでもある。
ジャンル不問のなんでもありのハコであった。
「今さらCLIPでやって、むしろ他のバンドの迷惑になるんじゃないのか?」
信吾は俊の選択が、珍しくも暴走ではないかと思っている。
ただ俊は、普段は理性的であろうと考えるが、最終的には感覚で決めることもある。
「最初は三人だったよね」
月子としては懐かしい感じがするのであろう。
俊の勝手な決定には、春菜は呆れる程度であったが、阿部は普通に怒っている。
「キャパや知名度に相応しいハコの規模はあるでしょうに」
俊は急ぎすぎている、と阿部は感じたのだ。
ただ他のメンバーからは、全く反対意見が出ない。
信吾にしてもライブハウス側の不利益を考えただけだ。
暁の感触が少し変わったと、ステージを共にするメンバーには分かっているのだ。
翌日にはセットリストが出来ていた。
おそらく今後もう二度と、こんな小さなハコでやることはないだろう。
しかも同日には、他に四つのバンドが演奏を行う。
そこまで意図していたわけではなかったが、初めてのライブとまさに同じだ。
もっともあの時は、トリではなかったが。
「懐かしいなあ」
そう暁は言うが、その記憶は俊と月子とのみが共有しているものだ。
今はもう、あの頃の1000倍の人数の前で演奏することがある。
地方のツアーであっても、あれほど小さなハコではもう行わない。
はっきり言ってしまえば採算が取れないのである。
都内であるため、移動にコストがかからない。
さらに機材なども備え付けであるため、ローディーもいらない。
チケットノルマも必要ないのは、その知名度ゆえである。
告知さえすれば確認されて、一瞬で売り切れる。
キャパ以上のチケットを、少し追加で販売したりもするものだ。
あまり詰め込みすぎても、怪我人でも出たら問題になるが。
CLIPでやる意味などないだろう、とほとんどの人間は考える。
完全に内部的な問題なので、それは仕方のないことだ。
だが俊は優先順位をはっきりとしている。
まずは暁の復調を確かめなければいけない。
スランプというのは時間をかけて治すこともあれば、一瞬で治ってしまうこともある。
基礎に戻ってやり直すこともあれば、しばらく音楽から遠ざかった方がよかったりもする。
確実に脱却する方法はないが、俊は少しでも兆候を見かければ、すぐに試そうとするタイプだ。
急ぎすぎるところは間違いない。
あっという間に週末である。
「いきなり入ってきてトリとか、馬鹿にしてるよね」
「メジャーシーンの人間が、どうして今さらこんなとこに戻ってくるんだか」
「つってもノイズがトリ前にやったら、お客さん一気に帰っちゃうでしょ」
「そりゃそうなんだけどさあ」
当初の予定ではトリであったバンドとしては、こんな感想になっても当たり前である。
小さなハコでライブをすることを、毎回楽しみに練習をする。
いつかメジャーデビューできたらいいな、と心の隅には置きながら。
メジャーシーンで活躍することはともかく、ノイズはインディーズである。
メジャーデビューなどを目的としているのではなく、音楽で一生食っていくことを考えていた、俊とは覚悟が違う。
もっとも音楽に専念出来る、家の太さも段違いであったろうが。
ライブ前の昼からセッティングを行う。
小さな楽屋には、五組も入ればキツキツなので、順番に出て近くで待っていたりもする。
そんなところに、ノイズの六人がやってきたのだ。
見るからに風格が違う。
武道館やアリーナを満員にして、海外フェスからもオファーがかかる存在。
その演奏をライブで聴いたことが、ないわけではない。
ノイズはライブバンドで、都内のそれなりの大きさのハコで、何度となくライブをしているからだ。
しかし同じ楽屋に入ると、まずはリーダーのサリエリがこちらにやってきた。
「ノイズのサリエリです。今日は急なブッキング変更で順番まで変えてもらってしまって、本当にすみません」
そして深々と頭を下げるのであった。
日本のバンドのトップレベルで、テレビ画面の向こうの世界の人間。
それが次々と頭を下げていって、その光景に唖然とする。
「他のバンドの方は」
「ああ、先にセッティング終わったから、外に出てますよ」
「それじゃあ挨拶は後になるか」
そこから自分たちのセッティングの時間となる。
「なんだかノイズの人ってめちゃくちゃ腰低かったな」
「頭下げてても威圧感があるっていうか」
「自信があるからこそ、逆にいくらでも頭を下げられるっていうか」
「うあ~、俺たちもがんばろ」
俊としては敵を作らない人生を送っているに過ぎない。
それでも人間、身勝手に他人を恨む者がいるのは避けられないが。
人は嫉妬する生き物なのである。
ステージに立ってセッティングを行う。
懐かしいと感じるが、あれからおおよそ四年が経過している。
CLIPでノイズが演奏したのは、まだ三人しか揃っていなかった頃とそして千歳が正式加入した一度目まで。
その後はハコを変えている。
CLIPは元々、アイドルからフォークから、なんでもありのハコであったのだ。
しかしそこから羽ばたいていったミュージシャンはいる。
ノイズも一応、その一つであるのだろう。
小さなハコだ。
(だからかな。落ち着く)
暁はセッティングを慎重に進めていた。
だが神経質になることはない。
短いライブではあるが、ギターの音はわずかにずれていくものだ。
それさえも計算に入れて、いや、ずれてしまった音で、あえて遊んでいく。
正確な演奏は必要だ。
しかし正確なだけの音はつまらない。
ならば全て打ち込みだけで、対応すればいいのだから。
暁の演奏は、そこに色がある。
同じ楽器を違う人間が弾いても、同じ音が出るわけではない。
技術を鍛えていったその先に、技術だけでは届かないところがある。
ただそれをフィーリングだのソウルだの、イメージだけで語るのもよくない。
初心に戻ればいい。
上手くいっている時ほど、人間は初心を忘れてしまうものだ。
そして上手くいかなかったときも、初心に戻ることが出来なかったりする。
そこまでの成功体験が、むしろ重りになっているのだ。
暁としてはそこまで深く考えたわけではない。
ただこの数日は、基本的なところから、優しく弾いていったのみである
耳が良くなければ、ミュージシャンは務まらない。
耳が聞こえなくなってから、曲を作ったベートーベンは偉大だが、おそらく今のミュージシャンには不可能なことではないか。
ノイズのメンバーは、いずれも一定以上の耳を持っている。
暁の音が、少し変わった気がする。
それでも明確な違いとは思えなかったが。
初心に戻るわけではない。
初心を思い出すだけだ。
蓄積されてきたものは、肉体に染み付いた技術となって、消えてしまうものではない。
暁は初心に戻ったつもりでいるが、それは単純にこれまでの成功体験に胡坐をかくのをやめたということだ。
パワーもテクニックも、心が昔を思い出しても、音は後退するわけではない。
入念で充分なセッティングであった。
一緒にブッキングしているバンドなどのメンバーも、その様子を見に来ていた。
日本のトップレベルから、世界へと踏み出したミュージシャン。
その姿を見るだけでも、何かが盗めないかと思って。
あるいは単純に、もう憧れだけを抱いて。
50人が限度のはずのハコが、60人ほどは入っている。
ノイズが急遽ここでやることを決めたのは、他の出演者にとってはやりにくくなったものだ。
どうしても比べられてしまう。
だからトリにしたのは、どうしようもないものであろう。
これぐらいのオーディエンスの前で、やった経験ぐらいはあるだろう。
しかし求められている期待値が、明らかにこれまでとは違う。
残酷な話である。
俊は間違いなく、他の出演者に気を遣って挨拶をしていった。
だが一刻も早く、暁の復活を最優先にしていた。
つまり他人の迷惑を考えない、考えたとしても自分たちを優先する、傲慢な人間ということである。
それはあながち間違いでもないが、完全な正解でもない。
これだけの熱量が爆発するのを待っているのだから、そんな客を食ってしまえばいい。
そんなメンタルで向かえる人間ならば、今後も必ず成長していけるだろう。
ライジング・ホープ・フェスでのノイズは、それほど期待されている存在ではなかった。
結成してから二ヶ月未満で、宣伝も認知も充分ではなかった。
それなのに出演し、しっかりと爪痕を残した。
そういったわずかずつの歩みが、確実に前に進ませたのだ。
演奏がつまらないと、ドリンクがよく売れる。
別につまらないというほど悪くもないのだが、期待されているものが違うのだ。
ブッキングされたライブで、急遽出演が決まったもの。
前で聞きたいと思うなら、早めに来たほうがいい。
もちろん前のミュージシャンのファンが、優先して前列にはいる。
しかしノイズが出演すると聞いてから、持っていたチケットを転売するような人間もいたのだ。
空気が重くなる。
期待によって重くなった空気の中で、それを弾けさせるほどの演奏が出来ない。
よほどの武器を持ってでもいない限りは、この空気に立ち向かうことは出来ない。
とりあえず演奏が、多くの人に聞いてもらうことは出来た。
それだけを成果として、前のバンドなどが終わっていく。
なんでもありのハコだけに、アイドルなどもいたりした。
普段のわずかなファンがいて、他は無関心というステージ。
だがかえって完全にジャンル違いだけに、気楽に歌って踊れたかもしれない。
他の四組は全て前座。
しかしその実態は、前座の能力さえもない。
これを恨むとしたら、自分の力のなさを恨むべきであろう。
楽屋のノイズのメンバーは落ち着いていた。
だが小さなハコであっても、普段程度の緊張感はある。
下手に外に出ると騒動になるだけに、楽屋にこもっていないといけない。
この待機中の緊張感は、それなりに体力を奪っていく。
演奏するのは五曲だが、アンコールがかかればもう一曲をやる。
ほぼかかるのは分かっているし、なんならさらにもう一曲やってもいい。
出来る曲は増えた。
昔は練習して、完全になったものだけをやっていたものだ。
しかし今は臨機応変に動くことが出来る。
自由度が増しているのだ。
セットリストは難しく考えてはいない。
ただカバー曲を二曲も入れている。
今のノイズであるならば、自分たちのオリジナルだけでライブは成立する。
しかもワンマンでもない、たった五曲のライブであるのだ。
それでもカバーを入れてきたのは、まさに初心に戻るという思考。
これは俊が話して、メンバーも了解したものだ。
むしろ今のノイズは、オリジナルでステージが成立するだけに、稀少なものであるだろう。
俊はそう考えて、月子と暁を眺めていた。
(三人で始めたんだよな)
あの頃の月子は、まだ地下アイドルが本業であった。
今は間違いのないミュージシャンとして、世間に認められている。
世界に広がったのは、俊ではなく月子の作った霹靂の刻が最初だ。
もちろんアレも、俊が充分にアレンジをしたものではあったのだが。
前のバンドが終わりにかかる。
「ノイズさん、準備してください」
「よし」
立ち上がったメンバーは、楽器を持つ者はそれぞれの楽器を持つ。
備え付けの楽器やアンプがあるので、むしろ栄二などは大変であった。
立ち上がった暁は、いつも通りのバンドTシャツ。
落ち着いたその表情のまま、髪ゴムを取った。
いつもなら演奏の途中に、外すはずのもの。
それをもう、この楽屋の段階で外していく。
既にテンションが上がっている。
それがいい方に転がるのか、悪い方に転がるのか。
(今日もオーディエンスがホーム状態だから、大失敗はしないと思うけど)
俊は心配ではないが、色々と考えることはある。
ただギターを持つ暁の目は、静かな色をしていた。
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