第315話 失敗と反省

 女の子をビンタしてしまったことに、我ながら傷ついている俊である。

 あの時は正気を取り戻させるためというのもあったが、楽器に当たる人間は最低だとも思っていた。

 暁が普段はしっかりと手入れしているので、そんな人間になってしまうのを止めようと必死だった。

(あそこでもっと上手くやれなかったものだろうか)

 別に俊は非暴力主義者ではないが、普通に暴力はまずいなと思っている。

 だが止めるためには自分の方に、暁の攻撃を向けるのがいい、と一瞬で考えてしまった。


 そして翌日、改めてツアー終了の打ち上げである。

 裏方のローディーなどを集めて、居酒屋の一角で乾杯である。

 千歳はもう二十歳になったので、酒が飲めるようになった。

 暁はもう少しだけ先である。 


 普段はビールなどを注いで回る如才ない俊であるが、今日は一度ずつ挨拶をすると、おとなしく座っていた。

 あまり酒を飲むこともなく、内省している姿を見せる。

 そして暁はようやく、一晩をかけて落ち着きを取り戻した。

 海よりも深く反省し、珍しくも俊のコップにビールを注ぐ。

 俊はあまりビールは飲まない人間なのだが。


 ちょこんと俊の隣りに座ったのは、珍しいことではない。

 だいたい暁は本質的には、人見知りの人間であるのだ。

 だからメンバーの隣りに座ることが多いが、このローディーたちはもう充分に顔見知りと言えよう。

 もっともそこに不自然さを感じるほど、周囲は注意深くもない。


 俊は暁に何度もキックされて、そして膝を腹部にもいれられていたが、なんだかんだと暁は女の子である。

 俊との体格差は身長で20cm以上もあるため、急所だけは守っていれば、それほどのダメージとはならなかった。

 軽く痣などはついているが、別に危険な怪我などではない。

「まあ偶然からとはいえ、セットリストは完遂されたし、聴衆も珍しいものが聴けたしで悪くはなかったんじゃないのかな」

 俊の言葉どおり、ノイズの中の問題を感じ取ったのは、ローディーの中にもいない。

 メンバーの他にはマネージャーの春菜と阿部だけである。


 これで暁の顔が膨れ上がったりなどしていたら、そこから邪推も入っただろう。

 だが喧嘩もしていない俊の、咄嗟に手加減したビンタでは、赤くもならなかった程度。

 結局のところ最後には、理性が働くのが俊である。

 ここではそれが幸いした。


 最後は月子と信吾の二人に任せるという、かなり変則的なアンコールにはなった。

 だが暁と話しやすい千歳がいたことと、恰幅のいい栄二がいたことで、暁を抑えることが可能になった。

 ギターの破損などもなく、むしろそれに八つ当たりしようとした暁が、かなり傷ついている。

「信吾のギター伴奏なんて、これまでなかっただろうしなあ」

 アカペラの伴奏程度というものだが、それが月子のボーカルを目立たせることになった。

 他にもある地味なアンコールとしては、俊がキーボードで月子が歌う、というパターンだったりする。


 暁のギターの弦が切れたのが、アンコールを変えた理由にはなる。

 ただ定番の曲がいくつか演奏出来なかったのは、ちょっと残念であろう。

 レアなものが聴けたのだ、とオーディエンスはおおよそ満足した反応を見せていた。

 そう、芸術的な高みにあるもの以外に、人は稀少なものにも価値を認めるのだ。




 気まずい時間である。

 傍から見ればこれは、弦を切ってミスをした暁に、俊が怒っているという図にも見えるのか。

 だが二人は特に、過剰な感情も見せない。

 そして飲酒可能になった千歳が、久しぶりに酒を口にしていた。

 ちなみにスペインでも、普通に一杯程度は飲んでいたのが暁と千歳だ。

 あそこでは18歳以上なら飲酒は可能であるのだから。


 以前に俊の家の地下で、メンバーだけの打ち上げをしたものだ。

 そういえばあの時は、ちょっとした事故もあったが。

「俺は怒っていない。ただあれは絶対にしてはいけない」

 俊は本当に感情を見せず、そう言ってのけた。

「あたし、お父さんに昔、一回だけぶたれたことあるんだよね」

 唐突に始まった暁の告白である。

「あたしが不注意でヴィンテージのギターを傷つけても、悲しむことはあっても怒ることはなかったんだけどさ。今のレスポールを手に入れて、それまでに使ってた安物をギター破壊の真似事しちゃって」

 それは怒るであろう。


 テニスプレイヤーがラケットを破壊したり、野球のバッターがバットを折ったりと、みっともない光景はアメリカではよく見られる。

 ギターの神様ジミヘンは、ステージでギターを燃やすという暴挙をしたものだ。

 今でもギター破壊のMVなどは、それなりに見ることが出来る。

 壊すところまではいかなくても、振り回すなどといった動画はいくらでもあるのだ。


 このあたり日本人の精神には、どうにも馴染まないところがある。

 自分の商売道具を、そんな粗雑に扱っていては、学校の部活であれば厳重に注意されるだろう。

 ただMLBでは普通に、怒りのままに商売道具を折っている。

 日本でもプロ野球には、折るバッターがいないでもない。

 もっともこれは、自分の怒りの感情を発散させ、次のプレイに影響させないというメンタル面の問題があるらしい。


 今の音楽であっても、デスメタルなどの分野であれば、ギター破壊はパフォーマンスなのだ。

 破壊用ギターというのが、冗談ではなく存在している。

 しかしそれはノイズの音楽性と言うか、スタイルとは違うものである。

 サブのギターとはいえ、暁がそれに八つ当たりするというのは、ノイズの基準では誰も言わないが、暁の方が悪い。


 精神的に未熟なのだ。

 怒りがあるならばそれは自分自身の中にため、音で発散させるべきであったろう。

 しかしそういったことを、今さら言っても仕方がない。

 幸いにギターは破壊されず、暁の両手も無事である。

 俊がちょっと痛い目にあったが、あとは精神的な問題だけだ。

 それが厄介と言えば厄介なのであるが。




 ロックスターは破天荒というのが、かつては許されていたものである。

 そもそも芸能人というものは、芸さえ売っていればそれで良かった。

 本当はおとなしい人間であっても、無頼を気取るということはあったのだ。

 それこそ昔は文壇の世界でも、そういうことはあった。

 ステージ外でさえも、パフォーマンスが求められた時代であろう。


 俊はそういう意味では、保守的ではない。

 保守的でないことが、むしろ保守的である。

 人間関係は親密に保ちたいし、父のように派手に生きようとも思わない。

 自分にコンポーザーとしての才能が消えたら、マネジメントなりプロデュースなり、そういうことをしていってもいい。

 それぐらいには自分の才能に対して謙虚である。

 だがおとなしくなるのは今ではない。


 暁が爆発してしまったのが、いいことなのか悪いことなのか。

 八月のフェスまでの間に、一度はライブで確かめておかないといけないだろう。

 産みの苦しみというのを、暁は体験しているのだろうか。

 それならば俊も、同じく何度となく体験している。


 とりあえず数日間は、暁は休んだ方がいい。

 俊も少しだが、休むつもりでいる。

 もっとも休むよりも、暁のスランプ解決のために、また動くつもりであるのだが。

 ちなみに阿部は話をしようとは言っていたが、内容についてはまだ語っていない。

 暁のスランプ脱出のことだろうか、と考えるとそれも必要なことである。


 八月のシカゴのフェスには、どうしても出演する必要があるはずだ。

 アメリカでは契約関連は、かなり厳密なものになっている。

 そこまでにどこかで、暁の調子をライブで確認したい。

 日本のオーディエンスは、ある意味でノイズをもう知っている。

 だからこそステージで熱狂してくれた。

 しかしアメリカにおいては、無名とまでは言わないまでも、とてもスーパースターとは言えない存在だ。


 どれほどのものか、と探りを入れてくるかもしれない。

 中途半端に期待されているなら、それを上回る演奏が必要になる。

 一応はアメリカにおいても、日本のミュージシャンの中では、知名度がかなり高くなってはいる。

 しかし所詮は日本のロックバンド。

 既にあちらで地に足をつけて活動しているバンドもあるが、ノイズはそういうものでもない。

 ただ今のアメリカで受け入れられている、シティポップ風の楽曲もないわけではない。


 珍しくもメンバーの多くが酔っ払った打ち上げになった。

 まず栄二は姉さん女房が迎えに来て、愚痴を言いながらも心配そうに連れて帰った。

 信吾は今日は、女のところに行くと言って、タクシーで消えていった。

 千歳が酒量を弁えず一番ひどかったので、月子が付いて帰っていった。

 酔ってはいてもまだ明晰なあたり、酒豪の多い山形の血が入っていると思わせる。


 暁は唯一素面である。

 なので潰れかけながらも意識のある俊を、彼の家へと送り届ける。

 ただタクシーの中で眠ってしまったため、ちょっとそれも不可能になってしまった。

 暁一人で俊を、家の中まで運べるはずもない。

 そこで運んでいったのは、実家の方のマンションである。

 さすがに自分のマンションに運んでも、男一人を泊めるのは倫理に反したし、運ぶ人手が足りないのは同じであったからだ。


 翌日俊は、元は暁の部屋であったというベッドで目を覚ました。

 なお暁はリビングのソファで寝た。

 再婚で新婚の暁の父は、かなり難しい顔で朝の挨拶をしたものである。

 酒は飲んでも飲まれるな。




 俊としては気まずいものがある。

 そもそも俊はアーティストと呼ぶには、理性の側に寄った人間である。

 酔って暴れるロックスターなどというのは、旧世紀の存在だ。

 破天荒でもなんでもなく、時代錯誤とすら言える。

 ただそういう人間が嫌われだしたのは、社会がおとなしくなってきたからかな、とも思えるものだが。


 良くも悪くもパワーがなくなってきた。

 しかしあの場面では、俊は暁を止めるしかなかった。

 瞬間的に判断したが、ギターを自分で壊していれば、暁は自分を壊していたかもしれない。

 ギターと共に生きてきた人間は、そういうところがあるだろう。

「話しておかないといけないことが」

「ちょ、ちょっと待った。あの件に関わることは、お父さんには話さないで」

「何があった?」

 直接顔を合わせたからには、話すべきだと考える俊。

 そんなことを話されたら、むしろ自分が困る暁。


 二人の間にあるのは、色っぽいような空気ではない。

 暁の父である保は、俊の繊細そうな顔と、暁のバツの悪そうな顔を眺める。

 バンドメンバーの間には、それこそ色々なことがあるものだ。

 だがノイズというバンドがいいバンドであることは、保にも分かっていた。

 友達のいない暁が、月子や千歳を友達と言った。

 そして信吾や栄二も仲間だと言ったのだ。


 俊にも欠点がないわけではない。

 ただ己自身に対して、ものすごく厳しい人間であることは確かだ。

 メンバーにも求めることは多いが、無駄に感情的になることはない。

 思考を言語化するのに、長けた人間であるのは確かだ。

「バンドの中は色々あるな。俺も高志と何度殴りあいの喧嘩になたことか」

「父が、殴り合いですか?」

 逆に俊が驚かされる事実である。

「売れてからは涼しい顔をしていったが、それまではなかなかな。元からプライドの高い人間ではあったし」

「それでも、一緒にやってたんですか」

「殴り合えるぐらいの仲間だったからな」

 時代も違うだろうが、それだけ遠慮もなかったのだろう。


「暁ももうすぐ20歳だし、責任は自分で取る年齢だ。助言がほしいならいくらでもするが、バンド内の問題はまずマネージャーとかに相談することだな」

「……そうします」

「まあバンド内恋愛でもしない限り、バンドが解散することはないと思うぞ」

「それは大丈夫です」

 元からバンド内恋愛は禁止にしたのが俊であるのだ。


 ノイズの中でも俊と暁は、その父親時代の関係から言っても、兄と妹に近いようなものだろう。

 楽屋で暁を止めたのが、信吾や栄二であったなら、暁が殴りかかったかどうかは分からない。

 ある意味で甘えというものがあるのだろう。

 だがそういう距離感を、ずっと考えていくのが人間というものだ。




 暁は内省している。

 楽器に当たるようなことをしたのは、完全に自分の弱さが原因だ。

 思ったように弾けないというのが、ここまで苦しいものなのか。

 次の大きなフェスは、いよいよ八月のシカゴである。

 ただそれまでには、どうにかギターを弾けるようにならないといけない。


 俊もそれは分かっていて、今回の事務所にメンバーで来たのは、その調整のためでもあった。

 小さなハコでいいし、別にワンマンでなくてもいい。

 ちょっとゲストで、しかし間違いのないオーディエンスのいるステージで、弾くための準備。

 しかし待っていた阿部は、違う話を持っていたのだ。

「ニューレーベルですか」

「売り出していくのに、もっと予算を確保するため、必要な時期になったのよね」

 阿部の言いたいことも、分からないではない俊ではある。


 ノイズはいまだにインディーズだ。

 しかし今はもう、メジャーとインディーズの境界があやふやだし、メジャーのレコード会社が、インディーズレーベルを持っていたりする。

 また世界的に見るならば、日本の多くのメジャーレコード会社は、おおよそインディーズという扱いになっていく。

 事務所やレーベルにレコード会社が、利益の多くを持っていく。

 それは別に銭ゲバというだけではなく、継続してミュージシャンを売り出していくのには必要な収入であったからだ。

 だがそれも時代が変わっている。


 今の音楽業界は、自己プロデュースで売り出しているグループがいる。

 ボカロPや歌い手、そしてそれの組んだユニットなどが、最初から知名度を持ってプロになる。

 ただそのルートも、段々とレッドオーシャンになりつつある。

 ボカロPが増えてくれば、それだけ楽曲も多くなり、すると以前からの人気があるボカロPにパイが集まってしまう。

 それでもそのルートは、自分の力だけで開拓できるルートなのは間違いない。


 ノイズの最初は、俊が一人で開拓した、フォロワーからのものである。

 月子の歌で一気に伸びて、信吾の知名度なども加わったが、俊が自分一人で作り出していたものだ。

 サリエリなどという皮肉な名前も、今はむしろ実態に即したものではないのか、などと言われている。

 実在のサリエリは、再評価が進んでいる。

 皮肉にもモーツァルトのおかげであろうが。


 とにかくノイズに必要なのは、さらに投下する予算である。

 ただそれを理由に、ノイズの収入を減らすことはしない。

 ノイズのためのレーベルを作って、さらにコストをカットして行く。

 そうすればそのカットした分を、宣伝などのための予算にすることが出来る。

 元から自分たちの力で、ずっとやってきたノイズだからこそ通用することだ。

 こういったことをするミュージシャンはいないではないが、普通はもう10年以上もやっているようなベテランである。


 一応はノイズにとっては悪いことではない。

 ただノイズが売れなくなってしまえば、すぐにレーベルもなくなってしまう。

 そのリスクを背負うのは、ノイズではなく阿部たちの方だ。

 そもそもノイズはいまだに、インディーズレーベルから出してはいたのだ。

 ちょっとしたリスクではある。

 このタイミングでというのは、少し間が悪かっただろう。




 世界を相手に戦っていくためには、どうしても大きなプロモーターの力が必要だ。

 そのための事前の準備として、これが必要になってくる。

 また世界で通用すると確信出来たなら、他のメジャーレコード会社と契約することもあるだろう。

 他にもサブスクなどの契約が、巨額なものになっていくかもしれない。

 しかしそれはノイズが、アメリカでまずは成功することが条件だ。


 日本のレコード会社には、アーティストに対するリスペクトが足りない、などと言われることがある。

 ミュージシャンが金にならない、と言うからである。

 実際のところはアメリカは、資本と市場が巨大であるため、トップミュージシャンに利益が集中するだけだ。

 あとはドサ回りで稼ぐのは、日本も似たようなものである。

 世界で稼ぐならアメリカ。

 地道に稼ぐなら日本で充分。


 阿部の話は一応、全員が頭では理解した。

 しかしそれによって今後、どういう変化が生じるかまでは想像できていない。

 俊にしてもそれは同じことだ。

 企業の中の社会人として、プロモーションを行ってきた側を知っているからこそ、阿部だけが分かる。

 ノイズで稼ぐのだ。

 もちろんノイズのメンバー全員が稼いで、自分たちの事務所も稼ぐ。

 そのための提案なのである。


 即答は出来ない。

 練習がてら俊のスタジオに来て、そこで相談である。

 ただ阿部から渡された条件などを見るに、悪い話ではないと思う。

 そもそもこの段階ではなく、世界で戦うために必要な契約だ。

 だから世界で通用しないのなら、レーベルが損をするだけのように思える。


 契約書類というのは面倒なもので、俊は母の遺産を管理している弁護士にも、相談をしてみた。

 ただ弁護士というのは専門があり、他の弁護士を紹介されたが。

 その弁護士が言うには、この契約は海外で戦うためのものだろう、という意見である。

 確かに以前に比べれば、ものすごい分厚さにはなっていたのだ。


 アメリカというのは契約社会である。

 そこでぼられないために、しっかりとした契約を作ったということだろう。

 改めてアメリカで成功したのなら、これと同じような契約を作るわけだ。

「世界か……」

 俊は俗な人間である。

 成功して金持ちになることを、夢見ないわけではない。

 だがそれ以上に、自分の音楽を残し、届けることを考えている。


 今は少し、懸念がある。

 この懸念を払拭し、アメリカに旅立ちたい。

「まずは一度、ライブだな」

 そうは言ったが、阿部の提案自体には、もう乗るつもりはしていたのであった。

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