第314話 最低

 いくら練習で出来ても、本番で出来なければ意味がない。

 多くのスポーツや舞台などで言われることである。

 練習でだけならいくらでも出来るのは、技術であるのだろう。

 しかしそれを本番で出来るのが、メンタルなのである。

 俊は練習で出来ることしか、本番ですることはない。

 そして普通に、練習どおりにすることが出来る。

 ライブなどでは月子や暁はもちろん、朝倉などとも組んでいた時も、つられて練習以上の力が出たこともあるが。


 演奏の方にはそれほど興味がないのだ。

 もちろん高難易度の曲をするために、散々にピアノの練習はしたし、キーボードではタッチが違って苦労もした。

 ヴァイオリンもそこまでではないが、ある程度の領域には達している。

 しかしそれは正確さの上に、感情を入れていくためのものではない。

 歌のための伴奏に過ぎないのが、俊の演奏。

 作詞も作曲も、歌ってくれる人間や、メインとなって弾いてくれる人間のためのもの。

 謙虚と言うべきか、それとも逆に傲慢であると言うべきか。


 千歳を除けばノイズのメンバーには、随分と難易度の高いものを要求する。

 一度ボカロPをやってしまうと、そのあたりの限度を忘れるのが、ちょっと悪いところである。

 自分でも演奏出来るからこそ、人間の演奏出来る曲を作る。

 月子の声に求める音階などは、ちょっと人間の限界ぎりぎりを攻めていたりするが。


 暁に望むものは、テクニックではない。

 もちろんテクニックもあるが、普通に暁ならば出来てしまうものである。

 ノイジーガールを演奏して、月子を引っ張っていった暁。

 そんな可能性を見せてしまったからこそ、俊も全力を尽くして作曲をするわけである。 

 千歳もギターを始めてもう、四年ほどは経過している。

 だが暁には全く追いつかないのは、単純に蓄積してきた時間と質の違いである。 

 もっとも質の方は、さほど変わらないのであるかもしれない。


 千歳は高校からギターを始めた。

 もっとも中学校の頃、音楽の授業でギターの弾き方ぐらいは知っていたが。

 軽音部に入ったのは、歌うために入ったのだ。

 しかしボーカルでも一つは楽器をやるということで、当然ながらギターを選んだのだ。

 弦が少ない分、ベースの方が簡単なのかな、などと思ったのは秘密である。


 学校の部活から、ライブハウスでの演奏へ。

 そこでノイズに引きずり込まれて、プロ級の演奏に包まれることになった。

 自分の演奏がどれだけ下手なのかは、はっきりと分かったものである。

 しかしそこを技術的に、順番に教えてくれるメンバーは揃っていた。

 そして今では、テレキャスターを弾いている。

 正確にはテレキャスタータイプであるが。

 ギャリギャリとリズムを刻むのにはいいギターだ。

 暁のレスポールは、そもそもが特殊個体であるが。




 ノイズの中で暁の状態が分かっていないのはまず、経験の浅い千歳である。

 その浅い経験の中で、大規模フェスや武道館などをやっているのだが。

 そしてもう一人、実は月子も微妙にわかっていない。

 三味線を習っていた頃、月子はよく言われたものである。

 三味線は芸事であり、己の中に技術を置くことだと。

 才能などで弾くのではなく、技術で弾くのだと。

 弾けるような才能はなく、積み重ねられた技術が、音になっていくのだ。

 だから才能と違って、枯れることはない。


 久しぶりに弾いた三味線は、確かに腕が鈍っていた。

 だが十年やっていたことは、すぐに肉体に戻ってきたのだ。

 一日磨かなければ一日鈍る技術と、粗く研げばすぐに戻る技術の二つがある。

 月子にとって三味線は、後者のものであったのだ。

 自転車に乗るのと同じ感覚で、月子は三味線を弾いている。

 そのように月子に教えたのは、伝統をつなぐことを、己の使命としたような人間ばかりだ。


 ある意味では月子は、天才の内に入るのだろう。

 一度身につけた技術が、なかなか鈍らないというタイプの天才だ。

 対して暁は毎日ギターに触れている。

 それでも苦しまなければいけないのは、いかにも理不尽なことのように思える。


 練習ではしっかりと弾けていた。

 だが暁は練習では、髪ゴムを取ることも、Tシャツを脱ぐこともないのだ。

 本気で弾くのは、レコーディングでさえもほとんどないことだ。

 ライブ用の演奏とは、完全に質が違うのである。

(調子がおかしいはずはないのに……)

 ともあれこれで、ライブを終わらせないといけない。


 東京の3000人が入る大きなハコである。

 音楽のために作られたハコでは、なまなかなコンサートホールよりも大きなものであったりする。

 それだけに設備もしっかりとしていて、セッティングもしっかりと行える。

 なかなか予約を入れることも出来ないが、どこかでぽっかりとキャンセルが空く。

 ノイズのツアーはここを最後に、他の予定を組んでいたツアーであった。


 当日のセッティング、暁は少し長めに時間をかけている。

 元々暁は、音作りには時間をかけるタイプだ。

 そもそもセッティングに時間をかけない人間は、どれだけキャリアが長くても、本質的には大味なのだろう。

 ただこの時間の長さというのは、慎重や繊細と言うよりは、恐怖や臆病の気配がある。

 どこか少しが悪くなれば、かけた時間が全てマイナスに働いていく。

 普段通りが出来ていないというだけで、充分に危険な兆候があるのだ。


 俊は安全策を用意してある。

 暁の調子が悪ければ、他のポジションでフォローする。

 セットリストに選んだ曲も、それが可能なものばかり。

 改めて新しくアレンジして、それでしっかりと練習はしたのだ。

 もっとも全員が揃って演奏出来たのは、一日あたり五時間ほどであろうか。

 それでも最悪を想定して、どうにかなるように考えてみたのだ。




 スタート前の楽屋の空気が重い。

 もちろん今までも、緊張感がある楽屋ではあった。

 しかしこれは緊張と言うよりは、不安に満ちた空気ではないのか。

 俊は最悪、暁が弾けないことも考えて、この時期に休養をしている白雪やゴートにどちらかのヘルプを頼めないか、などとも相談していた。

 ただ二人は性格は全く違うのに、同じことを言ってきた。

 暁を信じてやれ、ということである。

「失敗しても別に死ぬ訳じゃないんだしさ」

 白雪は対比例が極端すぎた。


 大きなハコでの致命的な失敗。

 よりにもよってそれが、暁に起こる可能性。

 別に失敗すればそれはそれでいいじゃないか、と考えるのが白雪である。

「案外失敗しないもんだよ」

 こちらのゴートはそもそも、致命的な失敗などしないだろう、と思っていた。

 むしろハプニングを楽しむのが、この男のメンタリティなのだ。


 ライブなどというのは、既に人気のあるバンドの場合、そうそう失敗するものではない。

 勝手にオーディエンスも盛り上がってくれるのだ。

 適当なようであるが、それは一つの事実である。

 ただし失敗を判定するのは、この場合は自分自身になってしまうだろう。

 そうなるとちょっと厳しいとは、ゴートも分かっていた。


 ヘルプで誰かを呼ぶというのは、むしろ仲間に対する信頼感を持っていないということ。

 俊は最悪を想定してヘルプなどと考えるが、目の前のライブ一つを失敗しても、仲間を信じた方がいい。

 それで失敗しても、そこから一緒にまた立ち上がるのだ。

 もちろん白雪もゴートも、暁のようなタイプが立ち直るのには、ちょっと時間がかかったり、きっかけが必要であったりはする。

 しかし仲間を信じられなくなったら、それこそ本当に終わりである。

 俊の準備というのは、そういうものであるのだと諭した。


 言われてみればその通りであり、俊はバンド全体を見ているようで、目先のことしか考えていなかった。

 失敗もまた、一つのインプットであるのだ。

 大きな舞台での失敗は、傷も大きくなるのかもしれない。

 しかしそういったところから、立ち上がることが重要なのだ。

 苦難を超えなければ、人は成長しない。

 安全策をかけすぎてきたせいで、俊もまた失敗を恐れている。




 阿部はこのステージが失敗する可能性を感じていた。

 だがどういう失敗を、どの程度するかということは、もちろん分からない。

 暁が失敗するかもしれないし、その失敗が誰に影響するかも分からない。

 ただ月子は誰かが失敗しても、それに負けない強さを持っているとは思う。

 逆境を生きてきた彼女の半生を思えば、意外と俊に悪影響が残るかもしれない。

 他のメンバーのフォローは俊がするだろう。

 俊に悪影響が残れば、その時は自分の出番だと思っている。


 ステージに出てきたノイズのメンバーを、ステージ横から見つめる。

(一応は普段通り……)

 ちゃんとスペアの楽器も用意はしてある。

 あるいは愛用のレスポールを使わない方が、結果は上手く出るかもしれない。

 スランプからの脱出方法は、色々とあるものなのだ。


 そしてライブが始まる。

 暁の音は、やはりくぐもっていた。

 オーディエンスは分からないだろうが、演奏しているメンバーは分かる。

 だが既に確立したブランドが、熱狂を届けてくれる。

 それに最初からボーカルは、全力で歌っているのである。


 暁のギターをただの伴奏にしてしまう。

 それでもギターソロのところは、さすがになくすわけにはいかない。

 ドラムとベースのリズムで、普段通りのところをキープする。

 さらにここに、キーボードの音も入れてくる。

 ソロはギターの華であるが、今日の調子ならそれも無理。

 だがステージにいる他のメンバーには、暁の怒りが分かっている。

 自分自身への不甲斐なさの怒りだ。


 全体的なクオリティは、それほど下がらない。

 武器が減っても他の部分で戦えるのが、ノイズという六人構成なのだ。

 今日は演奏がちょっと違うな、と気付く者もいるだろう。

 だが他のメンバーが、ちゃんとフォローして行くのだ。

 100点の演奏のところで、120点を目指すのがライブバンドだ。

 今日の演奏は、100点を切っているぐらいだろうか。

 しかしオーディエンスを満足させるのには、もうちょっと低くても大丈夫であろう。

 ただ聴く耳を持っていれば、その不調は明らかに分かる。


 スランプと言うのであろうか。

 暁も幼少期、言葉を喋る前から、ギターを鳴らしてきた人間だ。

 自分の感情表現を、ギターで行うことが出来ない。

 それは誰にも、自分の言葉が通じないのと同じだ。


 苦しんでいる。

 だが手を抜くことも、逃げることもしない。出来ない。

 ある意味においては一番、不器用な人間なのだろう。

 だからメンバーは言葉ではなく、演奏で背中を押す。

 それでも出来ない時がある。




 弦が切れた。

 音作りに熱中していて、その前の練習に熱中していて、弦を張り替えるタイミングを忘れていた。

 それに気づいた瞬間、他のことを全て忘れてしまった。

 音楽は続いていく。

 ギターが止まっても、他の楽器は続いていく。

 弦が切れたことは俊の位置からは、すぐに分かっていた。

 キーボードの音によって、とりあえずそのメロディラインは補っていく。

 演奏としては崩壊していない。


 曲の演奏が終わるまで、暁は動けなかった。

『ごめんね~! ギターの弦が切れたから、ちょっと待ってね~!』

 千歳がMCで叫び、静止したままの暁に近寄る。

 完全に静止していて、まるで彫像と化したようにも見える。

「アキ、ギターを」

 ぎこちない動作で、暁は動きだそうとする。

 しかし思い出すのは、サブに用意していたギターでは、音作りで合わせていない。

 もちろん弦を張り替えるような時間もない。


 それでもやるしかない。

 千歳はある意味、音楽のクオリティに関しては、鈍い神経を持っている。

 だからもうこうなったら、開き直って一生懸命演奏するしかないではないか、と分かっている。

 自分のアイデンティティを、そこには求めていない。

 暁とは決定的に違うが、仕方のないことである。


 サブのギターはオーダーメイドしたレスポールタイプだ。

 だが偶然の産物であるギブソンのレスポールほど、暁の期待している音は出ない。

 それでもどうにか近づけはしたが、これまで本番では使ってこなかった。

 足かせが付いたままの上に、今度は重りまで。

 それでもライブが途中で止まるわけにはいかない。


 練習不足なわけではない。

 スランプであるのは、どうしようもないものであった。

 しかしこれは完全に、準備不足ではある。

 暁は次の曲を弾き始めたが、いかにも音がのったりしている。

 そこから抜け出そう、とも出来ていない。

 方向性が全く見えないのだ。


 誰かがどうにかしなければいけない。

 こういう時に俊は、最低限の部分をキープすることしか出来ない。

 ただ暁がギターを交換している間に、月子も三味線を準備することが出来た。

 完全にスタンドプレイと言うか、ここまでの展開は予測していなかったが、自然とやろうとしていたのだ。


 俊の作った楽曲は、月子の可能性を開いてくれた。

 その可能性の先へ、一緒に走り出したのは暁であった。

 今度は自分が、何かをしてやらなくてはいけない。

 即興のアレンジであるが、面白いものではある。

(チェックが足りてなかった)

 暁のフォローをするつもりでいながら、俊はまだ全体が見えていなかった。

(最低だ)

 ノイズ史上もっとも、上手く言っていない演奏。

 それでもそれなりに成立するのは、ボーカルの二人が頑張っているからだろう。

 他にはもう、出来ることはない。

 オーディエンスの盛り上がりとは反対に、俊の心は冷えていった。




 アンコールが期待されていた。

 しかし一度袖に出たメンバーの中から、出てきたのは月子と信吾の二人だけ。

 それも信吾はギターを持ってきたのだ。

 己が昔は使っていた、ストラトタイプのギター。

 そしてギターだけの伴奏で、月子はブルースを歌っていく。


 他のメンバーは楽屋に戻っていた。

 無言のままの暁に対して、千歳が声をかける。

「アキ」

「ああああああああっ!」

 持っていたギターを、そのまま叩きつけようとする暁。

 しかし途中でしっかりと、俊はそれを止めていた。

 怒りと混乱の暁に対して、俊は掌でその頬を叩いた。


 当たり前のことだが、俊がノイズの中において、初めて行った衝動である。

「楽器に当たるな」

 楽器破壊が許されるのは、せいぜい80年代までだ。

 もっとも演出としては、破壊用のギターなども未だにあるのだが。

 そして未だに、客席に向かってギターを投げるミュージシャンもいる。


 だが暁は違う。

 そしてそんなことをしていいわけもない。

 暁はギターから手を離し、俊に向かって拳を振り上げる。

(馬鹿)

 その両方の拳を、俊は掌で受け止めた。

 暁はそこから足を出してきて、俊の足や腹を何度も蹴ってきた。

 栄二や千歳、そして春菜が止めるまでに、何度もキックをしてきた。


 三人にしがみつかれて、ようやく動けなくなる。

 俊は腹部の痛みに耐えながら、暁の拳を包み続ける。

「ギタリストが、人を拳で殴ったらいけない」

 だから蹴りの方は、甘んじて受けたのだ。

 先に頬を張ったのは、俊の方であるのだから。


 俊は暁の楽器を守り、それから両手を守った。

 自分の足や、自分の胴体、そして暁の足は守らなかった。

 その意味がようやく、暁にも分かってくる。

 おそらく拳ではなく、ビンタであったならば、俊は甘んじてそれを受けたのであろう。

 暁の両手は商売道具だ。

「ごめんなさい……」

 先に頬を張ったのは俊である。

 だがどちらが悪いのかは、完全に理解している暁であった。




 俊は暁の手を離す。

 その落ち着いた様子を見て、他の人間もがんじがらめの拘束を解く。

 他の二人はともかく、栄二は暁の爪先を抑えていたので、こちらも少し蹴られている。

 しかし手は守った。

 ミュージシャンの性である。


 暁は椅子に座ると、死んだような顔になっていた。

 俊は足や腹が痛いが、そんな様子を見せようとは思わない。

 ただそっと、自分が張ってしまった暁の頬に手を添える。

「手加減はしたつもりだが、大丈夫だったか?」

「……痛かった」

「すまなかった」

 いくら正気を取り戻させるためとはいえ、俊がそんなことをするのは、他のメンバーとしても意外であった。

 俊はミュージシャンとしては、感性ではなく理性の塊のような人間と思っていたので。


 アンコールが終わって、楽屋に戻ってきた二人と阿部も、この重たい空気を感じ取る。

 そして春菜から報告されて、ため息をつくのであった。

「私らぐらいの年代だと、ステージの上のギター破壊って、けっこうやってたんだけどね」

 分かりやすいパフォーマンスの一つではある。

 現在でもMVの中に、そういったシーンを入れたりすることはある。

 俊は絶対に組み込まない演出であるが。


 最低のライブであった。

 ステージが最低であっただけではなく、準備から楽屋まで、全てが最低だ。

 ただ、さすがにここが底かな、と俊は感じている。

 そしてこのどん底でも、俊は暁に失望はしていない。

「これで少しは休めるから、また元通りに調整していこう」

 だがさすがに、この後すぐに打ち上げ、という雰囲気にはならない。


 暁は海よりも深く沈み反省した。

 自分が馬鹿であることはともかく、ギターを壊そうとしたことと、拳で俊を殴ろうとしたこと。

 どちらも自分を傷つける行為である。

 それに比べれば俊に頬を張られたことなど、どうでもいいことである。

 ビンタした俊の方は、むしろ心が痛かったが。

 暁の体験した、今日のダメージ。

 少しは自分にも返って来ている。


 ノイズは崩壊していない。

 六角形は強固なのだ。

 ただ休みが必要なことは、誰もが理解していた。

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