第313話 スランプ
昨日は一人で走っていた暁が、今日は後ろから支えられている。
目の前の自分の音を探して、無理をしすぎたと言えるだろう。
しかしあのまま忘れてしまうのも、かえって眠れなかったかもしれない。
ならばやるだけやった方がいいのだ。
やらかしてしまった失敗からは、多くの経験が学べるものであるのだから。
苦しんでいるな、というのが千歳には分かる。
一番多く、暁の音とは付き合ってきた。
天才という呼称がよく似合うと思っていたが、それよりも月子は分かりやすく言っていた。
芸の鬼である。
日本における伝統芸能などにおいては、天才などという呼ばれ方はあまりしない。
職人的に技術を磨いていくことが、天才とも思える領域に入るらしい。
月子の言葉を信じるなら、民謡の世界には月子を超える歌い手が、たくさんいるということになる。
それはさすがに月子の勘違いだろうと、千歳としても思ったが。
リズムギターに合わせる、暁のリードギター。
どこか苦しんでいるように思えるが、それが官能的にも感じる。
ギターの音が歪んでいる。
たっぷりとした歪みは、甘い旋律に近くなる。
リズムから外れない、ぎりぎりの歪み。
だが少し甘すぎるだろう、と栄二はドラムのリズムを寄せていった。
リズムを変えていくと、他のパートが狂ってしまう。
だが打ち込みを使っていないこの曲では、他のパートがすぐに意図を察した。
天才が苦しんでいる。
その苦しみの中から、何かが生まれてくるのだろう。
ステージ横からその様子を、阿部は眺めていた。
暁の才能の煌きは、阿部の知る中でも最大級のものだ。
それがこうもフォローを必要とするのだから、ライブの演奏というのは難しい。
練習ではそこまでのものは感じなかった。
ライブの本番で音が変わるのは、プレッシャーに負けているからなのか。
むしろ暁は本番でこそ、テンションが上がっていくタイプのはずだったのだが。
これまでの日本のどんな大きなフェスでも、そしてブラジルのフェスにおいても、暁に変化などはなかった。
それが今回は影響しているというのは、彼女なりの感性によるところなのだろう。
誰か一人が乱れそうでも、他の五人でフォローする。
ノイズはやはり、強固な六角形だ。
(今日はまだ髪も解いてない)
阿部がはっきり分かるのは、暁のそういった普段のルーティンに近い作業がないことだ。
あるいはこれは、スランプなのであろうか。
だがリードギターが重たくなると、千歳がリズムを激しく弾き出す。
二つのギターがあれば、お互いが上手くフォローしあうのだ。
それに俊も、いざとなればシンセサイザーの音を替えるだろう。
俊は暁のことを天才だと思っている。
ずっとそう思っていたし、今でも思っている。
ただ天才が全く間違えないとか、そんなことは考えていない。
(ジミー・ペイジの真似が上手くいってない感じなんだよな)
練習用の演奏であれば、すぐに修正可能であるのだろう。
しかし練習用の演奏が、出来ないのが暁の欠点か。
ロックであるなら練習用の演奏など、ステージの上ではしないのだ。
曲は順調に消化していっている。
そして暁のギターは、変化していっていた。
リードギターであるが、その音は柔らかくなる。
阿吽の呼吸で気付いて、千歳が音を上げていく。
普段の完成形とは違うが、これもまた一つのパターンだ。
上手く調和していることは間違いない。
脇から見ている分には、かなりハラハラする演奏であった。
しかしこのあたりのオーディエンスは、かなり初見の者が混じっている。
海外フェスへの参加や、国内大規模フェスでのメインステージ。
そういった蓄積したものが、貫禄となって音を増していくのだ。
ある意味では今までで一番、練習どおりに出来ていないライブであろう。
メンバーの満足度も、少ないものであるのかもしれない。
ただしっかりと成立しているのは、オーディエンスの歓声などで分かる。
少なくとも失望はさせていないのだ。
無名のバンドが同じことをやっても、ここまでは盛り上がってこないであろう。
オリジナルの曲であっても、既にネットである程度、聴いている人間がやってきている。
初めてのライブ、という人間もいるのかもしれない。
そういった異次元の体験で、どうにか盛り上げていっているのだ。
栄二がリズムをキープしながらも、いつもよりも派手にドラムを叩く。
そしてツインボーカルはしっかりと、安定してフロントマンの働きをする。
常に走るのは、暁のギターであった。
これはスランプなのか、それとも進化の途中であるのか。
どちらにしろ変化には違いなく、先がどうなるのかは分からない。
今日はそれが違うパターンになったのだ。
深夜まで練習をしても、それが上手くはいかなかった。
そういう日もあるのだろう。
ライブ自体は無事に終わった、と言えるだろう。
しかし東京に戻れば、常設のライブハウスとしては最大規模の、3000人のハコでのステージが待っている。
幸いなのは来週の土曜日なので、五日間の時間があるということ。
だが演奏後の楽屋の中では、暁が深く頭を下げていた。
「ごめんなさい」
謝られても困るのである。
暁のギターは確かにおかしかった。
普段の一直線のパワーも、煌くような音の輝きも、くすんだようになっていた。
だが暁が練習をサボっていたわけではないし、集中力を欠いていたわけではない。
ただ純粋に、上手く演奏出来なかった。
いや、単純な演奏をするだけなら、充分であったのだろう。
スペインの風と海と大地が、暁の中に蓄積された。
そして生まれた音が、頭の中にあるのだ。
今はそれを自分の音に、必死でしようとしている段階。
蛹の姿のままでは、羽ばたくことはおろか、這いずることすら出来ないであろう。
次の段に足をかけているため、安定感がなくなっている。
やはりこれは一種のスランプと言っていいのだろう。
ただ練習をして、それで脱却できるというものであるのか。
ノイズのメンバーの中に、こんな深刻なレベルまで、スランプになった者はいない。
いや、スランプではないが巨大な壁に突き当たったという意味なら、俊がまさにそうであろうが。
「今日はとにかく休んで、明日はもう東京だ。幸い時間はあるんだから、その時までにどうにかしよう」
俊はそう言ったが、果たしてこれはどうにかなるものなのだろうか。
しかし東京に戻れば、暁の父もいる。
家を出た娘である暁だが、今はその父親としてよりは、師匠としての力を必要としている。
あるいは他の誰かにでも、聴いてもらえばいいことであろう。
高く跳ぶためには、一度かがまなければいけない。
遠くに跳ぶためにも、助走が必要となってくる。
いずれも今の地点からは、少し後戻りするような感じであろう。
ライブの出来としては、充分に盛り上がったものであった。
しかしそれで満足はしないのが、今のノイズのレベルであるのだろう。
翌日、ノイズは帰京する。
暁はまず、アルバイトに向かう。
夜には父が家に戻るので、そこで指導してもらおうという話にはなっていた。
ギタリストとして、そしてミュージシャンとして、長いキャリアを暁の父は持っている。
それでもスランプの脱しようなど、知っているかどうかは分からなかったが。
千歳は心配をしながらも、しっかりと大学に向かう。
自分は自分でやらなければいけないことが、しっかりと存在するのだ。
他のメンバーも心配はしながらも、甘やかすことなど思いもしない。
暁はそういうタイプの人間ではないと、自然と思い込んでいる。
ただこの件によって、俊は自然と休むことになった。
作曲の方にも身が入らないが、それが自然と休養になったと言えようか。
もちろん本来なら、週末のライブに向けて、練習を行っていかなければいけないタイミング。
しかしここで最悪のことも考えるのが、俊のプロデュース能力と言うべきか。
最悪のことを考えて、打っておく手はまず一つ。
代役を立てるということである。
もちろん下手な代役を立てても、暁の代わりになどはならない。
そもそもここまで合ってしまっているメンバーを、他の誰かにすることは、かなり難しいことであろう。
以前に白雪に、リズムギターに入ってもらったのとは状況が違うのだ。
ただノイズの暁の代わりになりそうな人間は、一応心当たりはある。
もっともその力量的には、暁には遠く及ばない。
技術的なことであれば、それこそ予定が入ってなければ、暁の父に頼んでもいい。
しかしおおよその人間は、週末などには予定が入ってしまっている。
それでも一人だけは、どうにか入れることは入れる。
それでも今度は、技術的に満足であるか、という問題が発生するが。
無難な演奏にするならば、打ち込みでやってしまってもいい。
おそらく今のノイズの流れなら、勝手にオーディエンスがノってくれる。
阿部にはすぐに相談したが、そもそもあれをスランプと呼んでいいのかどうか。
実際のステージを重ねることで、修正して行くものではないのか。
そもそも練習ならば、普段通りに弾けているのだ。
プレッシャーの一種ではあるのだろう。
だが暁は普段はおとなしいが、ギターを持たせると豹変する。
それが攻撃的であったり、あるいは優雅であったりと、様々なプレイヤーの音を真似て自分の音を作ってきた。
今までで一番大きな影響を受けたため、それが上手くいっていないのか。
俊としては悩むところである。
怪我をしたとか、そういう問題ではない。
そもそも弦を押さえる指が切れてしまっても、気付かないぐらいに弾き続けることもあった暁である。
練習でまでおかしくなるか、と不安な気持ちはあった。
しかし実際に弾いてみると、ちゃんと修正できているのだ。
ノイズの他のメンバーも、それでほっとしているのが分かる。
難しい顔をしているのは、俊とそれに栄二であった。
俊の場合は理論的に、今の暁の不調を考えているからだ。
そして栄二の場合は、練習では上手く弾けても、本番では弾けなくなったという、スランプの人間を見てきたことがあるからだ。
その場合のスランプ脱出方法は、人によって色々とある。
だが例外なく言えるのは、時間がかかるというものであった。
「セットリストを変えるぞ」
俊の判断は、当然のものであった。
「え、もう大丈夫」
「いや、練習では判断出来ない」
そう俊に言われてしまえば、他のメンバーも顔を歪ませる。
リハにおいては確かに、おかしなところは感じられなかったのだ。
ライブの本番だけが、極端におかしくなっている。
武道館やアリーナなどのような、極めて巨大なハコというわけではない。
しかし常設で3000人という、東京近郊では最大規模の収容人数なのだ。
海外から戻ってきて、地方ではライブをしている。
だが箔のついたノイズが、ここで失敗するわけにはいかない。
もっともよほどのことがない限り、音の良し悪しなど、ロックのライブでは分からない。
分かるのはパワーがあるかどうかだ。
今の暁の音には、どこか縛られているものがある。
ロックをやっている暁なのに、ロックの本質から外れかけている。
しかし今はおとなしく、正確にやってほしいとも思う。
別にノイズは、暁のギターだけで成立しているバンドではない。
確かに目立つところはあるが、バンドの顔はやはりボーカルなのだ。
一人ぐらい調子が悪くても、どうにかしていける。
ツインボーカルの強みであると言えよう。
ただリードギターは、確かに暁しか弾けない。
別に信吾とポジションを代えてもいいのだが、それだとベースまで弱くなってしまう。
暁が単純に正確に弾くだけなら、信吾が弾いても変わらない。
リードギターが派手に目立つ、そういう曲を少なくしていく。
またソロの部分を、少し変えていくべきであろう。
ギターで普段はやっているところを、シンセサイザーのキーボードでやってみる。
そういった工夫をして、曲自体も変えていくのだ。
俊ははっきり言って、自分のピアノには正確さ以外の自信がない。
ロックスターなどというのは、本番でやってこそのものである。
練習では出来ない演奏が、本番でならば出来る。
しかし今の暁は、練習で出来ることが本番で出来ない。
つまり技術的なことではないので、きっかけが何か必要である。
もちろんこのライブで、全力を出さないということはありえない。
だが同時に客をたくさん入れているのだから、それを満足させないといけない。
それがプロというものなのだ。
俊としても幾つかの案がある。
実際に演奏をしてみたら、案外あっさりとスランプから脱出しているかもしれない。
しかしそれは本番でないと、分からないことであるのだ。
やってみて大丈夫ならば、内容を変えればいい。
だが駄目ならば、準備されているように、ソロの部分を変更する。
ステージの上での暁と違い、普段の暁は素直である。
また練習では上手く出来たのに、本番のステージで上手くいかなかったという、失敗を経験してしまっている。
こういうところから本格的に、スランプになってしまうことはあるのだ。
よりにもよってどうして暁だけが、とも俊は思う。
おそらくはスペインの風が、暁にだけは強く吹いたのだろう。
感受性の強さが、悪いように働いている。
もっともこのスランプを脱出すれば、またさらに一回り強くなるのかもしれない。
本当にそうなるかどうかは、本人ですら分からないことだろうが。
そもそも俊は作曲のスランプは感じても、演奏のスランプなどは感じたことがない。
単純に上手くなっていって、それでも追いつけないほどずっと、遠くに上手い人間がいるというのが、俊の演奏のイメージだ。
天才ではないため、それが分からないのだ。
技術的なことだけを言えば、暁は手の大きさなどの物理的な限界を除けば、弾けないものはほとんどない。
早弾きなどのテクニックは、ある程度の限界もあるだろうが。
ここから先はテクニックではなく、フィーリングの領域だ。
まさに天才の世界であるため、俊がアドバイス出来るようなことはない。
なのでバンドのリーダーとしては、ライブが失敗しないように、最悪を避ける選択をしなければいけないのだ。
ここからの練習は、かなり単調なものになった。
暁のやっている、ギターソロの場面を減らし、他の楽器や打ち込みでフォローする。
信吾のベースや栄二のドラムなど、これまでは黒子に徹していたテクニックが、こういったところでは上手く使える。
あるいはEDMを使って、イメージを完全に変えてしまってもいいのだ。
そういったアレンジで、東京でのライブまでの日々は、すぐに過ぎていった。
俊としては作曲には触れず、アレンジばかりを考える日々である。
これは珍しくも、俊を休ませることになったかもしれない。
変化させることは、0から1を生み出すよりも、はるかに簡単なことであるのだから。
ロックの本質は魂である。
そしてそれを表現してきたのが、今までの暁であった。
しかし今はその響きに、何か違うものが混じっている。
感情は確かに乗っているのだろう。
だがその響きがオーディエンスに、上手く伝わるものになっていない。
俊はここで、ボーカル二人の力を上手く使うことを考えている。
だいたいバンドなどというのは、多くの人間はボーカルとその伴奏と考えているものだ。
俊はそんな失礼なことは考えれないが、一般的な意識を無視するわけではない。
そしてソロの部分で、上手くボーカルを使うこと。
楽器のソロに被せて、ラップで歌ってもらうことを考えた。
俊の嫌いなラップである。
いや、別に嫌いというわけではなく、単に深みを感じないだけだ、と本人は言うだろう。
それを嫌いと言うか、もしくは下に見ていると言っていいのであろう。
だが声のざらつきによって、メッセージ性を伝えること。
月子には無理だが、千歳ならば出来ることだ。
このノイズのメンバー、特に俊と暁の苦しみを、阿部はしっかりと見ていた。
あるいは東京でのライブの前に、しようとしていた話だが、そんな場合でないことは分かった。
とにかく東京でのエンドを飾って、あとは七月もほとんどを休もう。
ブッキングするオファーなどもあるが、そもそもツアーの日程が過酷過ぎた。
当初の予定通りで問題ないはずだ。
また阿部としては、ここでも俊に負担がかかっていると考える。
単純にバンドリーダーとしてだけではなく、メンタルケアまで考えているのか。
暁は天才なのであろうが、つまりそれはフィーリングを重視しているということだ。
もちろんテクニックもあるが、それだけに頼って演奏してしまえば、それはもうロックではなくなるのだろう。
(ひょっとして、初めてのピンチかな)
普通のバンドならば、こんな面倒なことではなく、もっと一般的な問題が起こるものだ。
ノイズはこれまで、順調すぎたと言えるのであろう。
特に暁は、千歳と同じでずっと順調であった。
それだけに不調の時をどう乗り越えるか、それが重要になってくると阿部は考えている。
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