第310話 バルセロナ
移動にほぼ丸一日かけて、やってきたのがバルセロナ。
ほんの少しブラジルにも、雰囲気が似ているかもしれない。
ただそれはラテンのイメージを、既に持っているからではないか。
建築物はさすがに、ブラジルなどよりも古い。
一時期は世界の覇権を握っていた国である。
気温は既に暑いが、暑すぎるというわけでもない。
空港からホテルに移動すると、既にお祭りムードが漂っている。
もっともスペインの普段の様子など、ノイズのメンバーは知らない。
当然のようについてきた阿部も、スペインに来たのはこれが初めてだ。
現地のプロモーターからは、通訳が付けられている。
ただバルセロナの市街地、観光客を相手にするようなところなら、やはり英語が通じると言われた。
実際にホテルでは英語で通用している。
メインステージとなるアリーナは、常設のものである。
だがノイズの演奏するのは、海岸沿いの特設ステージ。
砂浜に座って聞くのもいい。
音楽に合わせ泳ぐのもいい。もっともまだ真夏という気温ではないが。
他にも小さなステージが、いくつも作られている。
音楽だけではなく、アートやパフォーマンス、色々な催しがされている。
そんな中で一万人も集まることが出来るステージは、かなり特殊なものである。
「これ、チケットとかはどうなってるんですかね」
「チケットにレベルがあって、一番いいのだとどこにでも入れるみたいだけど」
「それじゃあ一万のキャパをオーバーしませんか?」
「う~ん……日本でもフォレストに、小さなステージの入場制限がかかったことはあるけど」
だがそういったことは、全て主催者側が考えることである。
考えてみればもっと単純なことなのだ。
この時期は観光客が多くなり、現地の売上全てが上昇する。
バルセロナの街の主要な道路が、活発に歩く人だかりとなる。
メンバーはホテルに荷物を置くと、手元の楽器だけは自分で持って、ステージへと向かった。
一週間のカーニバル期間であるが、ノイズの演奏は二日目。
そして実際のステージは、もう既に演奏が開始されている。
どういうことだと思ったものの、セッティングもリハも実際のステージの直前に行うらしい。
そんな無茶なと思っていても、考えてみればメイン以外のステージは、そんな感じであるのか。
繊細な演奏などは求められていない。
もっと単純なところに戻って、いきなりの本番というわけである。
「ひどいな」
「スタジオは空いているらしいわよ」
「エフェクターの調整とかどうしたらいいんだか……」
暁もぶつぶつと呟くが、これはお祭りであって公演ではないのか。
悔しかったらメインステージに呼ばれて、一週間以上も高級ホテルのスイートルームに泊めてもらうのだ。
とりあえずノイズに用意されたホテルも、日本の一般的なビジネスホテルよりは広い。
また装飾などにも遊び心があり、随所に歴史を感じさせるものがある。
日本の旅館などもそういったものだが、ツアーでそういったところに泊まったことはなかった。
実のところ俊は、そういう宿泊に憧れていたりするのだが。
セッティングもリハも出来ないが、ステージの感覚は掴むことが出来る。
ロックの演奏もあるが、踊れる感じの曲が多い。
オーディエンスを煽ってくるところが、本当に楽しそうに演奏をしている。
メインステージのビッグネームも、かなりジャンルはばらけていた。
「少しは観光みたいなのもしたいな」
「帰り際に少しだけ時間あるよね」
千歳と暁が、珍しくもそんな話をしていた。
ライブの前であるのに、セッティングもリハも出来ていないことが、これまでとは違う感覚を生み出している。
演奏の前のルーティンが、普段通りに出来ない。
それは間違いなく危険なことである。
しかしそれを指摘して、不安感を煽ってもいいものだろうか。
俊は自分の出来ることしかしない。
だが暁や千歳はステージの上だと、自分の力にオーディエンスの力を乗せてくる。
ノイズはこれまで、致命的な失敗をしてこなかった。
それがいいことなのか悪いことなのか。
人は成功から自信を得て、実力を伸ばしていける。
だが失敗することで、より強く立ち向かうことも覚えるのだ。
メンバーそれぞれには、それなりの失敗体験が多い。
俊も月子も信吾も栄二も、客が一桁しか入っていないハコで演奏したことがある。
俊はノイズとしての活動の最初から、しっかりとブッキングしてもらうようにしてきた。
50人のハコを基準に、そこからどんどんと上げていった。
最初のツアーの時は、しっかりと地元のバンドとツーマンでライブをしている。
ワンマンでやり始めた時も、ちゃんと最低限の客が入ることは計算していたのだ。
失敗していないことが、弱点になることもある。
失敗に対しての姿勢というのは、二つである。
一つは挑戦し、失敗してもそこから学ぶこと。
もう一つは挑戦自体をせずに、失敗しないことを重視する。
結果的にではあるが、ノイズはここまで俊の目論見どおりの結果を得てきた。
もちろん成功と言えるのか微妙なものもあったが、基本的にライブなどというのは、大失敗しなければ成功なのだ。
ただ様々な条件が違うというのに、こんな大きなステージに立たなければいけない。
暁は恐れ知らずであるし、千歳は危機感が足りない。
「とりあえずスタジオに入ろう。長時間の移動で感覚が鈍っているかもしれない」
俊の言葉に、メンバーは素早く動いていく。
千歳はそれとなく、栄二に話したりした。
「俊さんと暁ってさ、ちょっと音楽に没頭しすぎじゃない? よくも悪くも」
「ああ……なんとなく言いたいことは分かるが、大事なものが増えれば、見方も変わるもんだけどな」
唯一の妻子もちで、娘のために一度はメジャーシーンの道を捨てた栄二は、その不安定さが分かる。
俊と暁には、音楽しかない。
俊は特になんでもかんでも、音楽のためにインプットする。
比べれば暁は、ギター一本なのでさらに不安定な気もする。
とんでもなく太い足でも、一本だけでは安定しにくい。
人間の人生は、それが望めるならば何本か、支えになるものを用意しておいた方がいい。
ミュージシャンなどというのは、本当に不安定なものなのである。
だが俊はコンポーザーとしてもアレンジとしても、またプロデューサーとしての能力もある。
これに比べれば暁は、本当にギターを弾いているだけだ。
もっとも彼女も彼女で、ギター職人の腕を磨いている。
使うだけではなく、作る側だ。
修理だけではなく、人に合わせた調整もしている。
それもギターに関したものではあるのだが、職人として磨いた技術は、才能の輝きが消えた後にもなくならないものだ。
スタジオで練習している間に、主催者側の人間もやってきた。
通訳を通しての話であるが、ノイズに期待していることは分かっている。
今回用意されているステージは、これから人気を得ていくであろう、若いミュージシャンの枠となっている。
確かにノイズは、栄二以外は20代なので、まだ若いことは若い。
ヨーロッパやアメリカにおいても、メジャーなグループではない。
ただこのスペインのカーニバルを元に、ヨーロッパやアメリカに羽ばたいていくミュージシャンは多い。
音楽以外のイベントも多いが、テクノロジーやアートに、映画やアニメのイベントまでやっている。
当初は音楽フェスから始まったものだが、今ではテクノロジーの見本市にまでなっている。
同じようなフェスを、世界中の多くの都市でも開催している。
日本ではあまり有名ではないが、イベントをしている人間なら誰でも知っている、というものだ。
オーディエンスも多いが、それ以上に他の興行のプロモーターなど、業界人も見に来ている。
つまりここで結果を出せば、他のヨーロッパのフェスなどにも、さらに呼ばれていくかもしれない。
あるいはビッグネームのツアーに帯同したりなど。
そうなると千歳の大学は困るし、急に言われても他のメンバーは予定を調整出来ない。
そもそも今年いっぱいは、ほぼ予定が決まっているのだ。
本当のビッグネームになれば、予定は三年先まで決まっているものだ。
ちゃんとそこには休養も入れなければいけない。
大きなツアーを行ったミュージシャンは、しばらく休養を入れるというのは、当たり前のことだ。
下手をすれば燃え尽きてしまうことがある。
阿部がノイズに、九月は大きな予定を入れなかったのは、そのためでもある。
「あの人たちはなんて言ってたんだ?」
「ああ、このステージは若手のために作られたもので、このステージを経験した多くのミュージシャンは後に成功してるから期待している、って感じだな」
通訳を通せば話せたろうが、俊はそのまま英語で会話した。
ヨーロッパ各地と連絡するためには、英語は基本的に必要である。
またスペイン語は当然ながら使えるので、それだけでかなりのエリアをカバー出来るというわけだ。
アフリカやアジアの国では、かつて植民地であった時代の、宗主国の言語が通用することが多い。
そのため英語はあちこちで使われる。
他にフランス語を習得していれば、おおよその場所で通用するだろうか。
実は母語という割合で数えるなら、日本語もかなりの上位に入る。
ただ日本以外の地域では、ほぼ通用しないのが難点だ。
かつては韓国や台湾で、ある程度は通用したのだが、それは第二次大戦前の人間が多かった時代。
他にはアメリカやブラジルでも、日本移民の二世ぐらいまでは、それなりに通用した。
日本人は英語が喋れないという。
だが実際のところは、片言の英語が通用したりもするのだ。
また現在では、翻訳アプリという便利なものもある。
それでも英語で意思疎通できるぐらいになっていれば、世界を飛び回る時には便利なのだが。
下手に話せると、意味の違うことを言ってしまったりする。
基本的には通訳に任せるのが、お偉いさん相手では無難だ。
言語の壁というのは、やはりあるのだろう。
演奏においてのみではなく、それ以前の交渉などにおいても。
また文化の違いというのもある。
ただこのスペインの空気は、ブラジルよりもさらに明るいものだ。
地中海に面しているというのは、こういうものである。
ただ日本でも、瀬戸内海はある程度似たところがある。
もっとも瀬戸内海は地中海に比べても、小島の多い場所である。
ヨーロッパの歴史は長く、この地中海と共に発展してきた。
ギリシャ・ローマ文明というのは、この地中海の周辺を巡って発展してきたのだ。
スペインはその中では、イスラムの色が入ったこともある土地だ。
もっともバルセロナあたりは、あくまでもキリスト教圏であったが。
ヨーロッパ圏だけではなく北アフリカの多くも、一度はローマの文化圏に入っている。
このあたりの歴史は複雑で、文明の根底がある程度違う。
ドイツはローマの影響を受けているが、本質的なローマとなったことはない。
フランスはガリアと呼ばれ、全土がカエサルの手によってローマ化したとも言われるが、後には独立している。
イギリスもまた、ローマの影響はある程度強かった。
イングランド、スコットランド、ウェールズとブリテン島が分かれているのも、そのあたりが影響しているのだ。
俊は子供の頃に、ヨーロッパに来たことがある。
だが場所はイギリスであり、スペインとはイメージが違う。
本当に子供の頃であったため、確実な記憶などはないが。
ヨーロッパはキリスト教文化で、かなり似通っている。
それでもカトリックとプロテスタントで、大きな争いがずっと続いたものだ。
北アイルランドの独立運動は、20世紀の後半でもまだ盛んであった。
今のヨーロッパの問題の多くは、EUを作ってしまったことにより、移民が移動しやすくなったことだろうか。
巨大な経済圏が、ヨーロッパには必要であったのだ。
アメリカのような合衆国を見て、それぞれの特徴がある連合を目指したのだろうか。
国によってはその恩恵が大きいが、逆に庶民の生活は苦しくなったりもする。
国家が国家同士で対抗しようとする時、多くは庶民にその負担がかかる。
それはどの時代も同じではある。
スペインは明るい、いい国だ。
まだ短時間いるだけだが、そんな印象がある。
アメリカの場合は州によって、大きな違いがある。
またニューヨークにしても、場所によって違いがあるのだ。
マンハッタンと近いニュージャージーでも、住民の性質が全く違うという。
八月にはアメリカの、シカゴのフェスに参加する。
七月は比較的予定が空いているが、ライブの予定自体は入っている。
またこの時期、千歳は大学の課題を提出しなくてはいけない。
六月中にはツアーの第四段階を行って、最後には東京でライブなのだ。
一流に相応しい忙しさと言っていいだろう。
これが超一流になると、自分のペースで仕事を行っていかなければいけない。
行っていけるのではなく、行っていかなくてはいけないのだ。
最大限のパフォーマンスを発揮するため、自分のスケジュールも管理する。
だからといって相応しいステージを、確実に抑えるのも難しいが。
ノイズは武道館に横浜アリーナと、二年連続で一万規模のステージでライブをした。
しかし今年はワンマンの大規模なライブは、予定が立てられなかった。
海外からのオファーを考えると、空きを抑えることが出来なかったのだ。
超一流のミュージシャンは、三年前から予定を立てるようになるという。
ただおかげで、海外のフェスを二回に、日本の夏の大きなフェスを二回。
さらに18ヶ所の全国ツアーまでも巡ることとなった。
一番頭を使う仕事をしているのは俊である。
もちろん阿部が、半分は受け持っているが。
売り出していくプロデュース能力は、事務所によるところが大きい。
ただノイズの場合は、あちこちの伝手から上手く引き上げてもらったところがある。
それでもトップに立てないのは、営業力の差と言うよりは、資本力の差と言うべきか。
しかしそれも、そろそろ変わる。
阿部は夏までのノイズの実績で、新しい専門レーベルを立ち上げる予定をしている。
もちろん俊や、他のメンバーの同意も必要だが。
スタジオでの練習自体は、しっかりと行えた。
長いフライトを終えて、やっとこれで体が起きて来たという感じである。
ホテルに移動する途中の道でも、街が全体的に賑やかだ。
ちょっと日本にはない雰囲気だな、とノイズのメンバーは感じている。
本番に備えて、今日は観光などもしない。
明日の夜に演奏を行って、そして翌日には帰国の飛行機。
昼間にはちょっと動けそうな気もするが、ライブの前に無責任なことは出来ない。
いくら英語がある程度は通じ、治安もそこそこいいとは言っても、日本とは文化的な背景が違うのだ。
出来ればメインステージぐらいは見たかったが、スタジアムのようなコンサート会場であって、音が洩れてくるというものでもない。
それに音楽の本番は、夜に行われるのだ。
やることがないと、不安にもなってくる。
夕方から夜にステージの番が回ってくるのだから、それまでにも何か出来ることがあるのではないか。
そうは思っても通訳などを大量に雇ってくれているわけでもない。
ホテルの中で出来るのは、せいぜいが帰国後の予定の確認ぐらいだ。
ちなみに阿部は、メインステージとなる会場の、ビッグネームの待遇なども調べてきた。
三ツ星レストランのデラックススイートに、ボディガードや通訳。
完全にノイズとは扱いが違う。
ノイズの音楽はスペインでは、アニメと共に知られているものが多い。
ただミュージシャン自身には、さほどの興味もないといったところか。
ブラジルでも実は、このフェスは行われている。
発端がここであり、発祥地ではあるが、同じシステムでブラジルでも開催されているのだ。
そちらは毎年のものではないので、知らなくても無理はない。
ただこのバルセロナの、完全に恒例となったフェスの知名度は、相当に高い。
ここで上手く演奏が出来れば、次はまた違う道が開けてくる。
それにいくら待遇が悪くても、やることは同じである。
客がいるならそこに届ける。
ノイズとしてはその姿勢に変わりはない。
スタジオリハでは、一応の確認はしてある。
だがあとは本番で、どうやって調整するかだ。
時間は一時間あるが、搬入などを考えたらもう少し短くなるだろう。
また一応はアンコールがあったりもするので、そこがどうなるか。
時間が押してくれば、演奏の時間を削らない以上、準備を短くするしかない。
このあたり音作りに時間をかけたい、暁などは怒りをためているところである。
俊としても微調整をしなければ、上手く打ち込みなども合わせられないと思うのだ。
せめて機材の調整だけでも、しっかりとしなければいけないところだが。
「俊さん、やっぱり明日も、スタジオの予約取ってもらおうよ」
「そうだな。どうせやることもないし」
ノートPCさえあれば、いくらでもやることを作れる俊。
だが暁の意見には、ノイズの他のメンバーも、全員が同意したのであった。
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