第299話 フライト

 ノイズのメンバーの中には、ポルトガル語やスペイン語を喋れる人間はいない。

 洋楽を聴いて英語を習得した俊や暁も、暁がわずかにフランス語を知っている以外は、日常的な会話も充分ではない。

 ただ幸いと言うべきか、日系移民の子孫には、まだ日本語を喋れる人間がそれなりにいる。

 なので向こうに行ったとしても、通訳の心配はそれほどない。

 そのあたりの手配をするのは、阿部の役割である。


 パスポートは早めに準備していて、荷物のチェックなどもした。

 飛行機のチケットとホテルの代金、そして交通費などは開催者持ち。

 また参加者の特典として、どのエリアにも移動できるパスも持っている。

 チケットがビジネスクラスというのもありがたい。

 ただ乗換えがあるのが面倒ではある。


 マネージャーの春菜に加えて、阿部までもが一緒に行動する海外遠征。

 海外への移動を考えた場合、チケットやホテル代を考えれば、ギャラがあまり高くならないのは仕方がないな、と思えた。

 交通費などもちゃんと向こうで車を手配している。

 ただ野外フェスの定めと言うべきか、セッティングなどの微調整が難しい。

 演奏しながら微調整をする。

 他のバンドなら無理だろうが、ノイズは俊がなんとかしてくれる。


 ノイズには当たり前だが、経験値が足りない。

 フェスへの参加は、もう何度かしているが、それはあくまでも国内。

 ある程度は国外にも応用できるだろうが、どうしても違うところはある。

「ブラジルは基本的に、治安は悪い国だからだな」

 俊はそう注意するが、体感したものでもない。

 実際のところはこんなフェスに参加するミュージシャンのホテルなどは、鉄壁のセキュリティを持っている。

 中南米でも、治安が終わっている国よりはまだマシだ。


 フェスは三日あるが、ノイズの出番は二日目。

 本当なら他の日は、色々なステージを見て回りたいところだ。

 しかしノイズは女性メンバーが多い。

 その点でも二人一組以上では、組んで動かなければいけない。

 ステージの出番が終われば、さっさと帰るに限る。

 さすがに警戒しすぎのような気がするが、何かが起こってからでは遅いのだ。


 日本では比較的ガールズバンドが多いというのは、そのあたりにも理由があるのではないか。

 基本的に日本で、夜中に女性の一人歩きが危険だ、と明確に言える場所は少ない。

 外国人が大量に居住すると、やがて治安が悪化していくのだが。

 この治安の悪さというのは、文化や経済において、成長するための最大のコストとなる。




 俊と月子は、別に特別な準備などもなく、飛行場へ向かう。

 暁や信吾に栄二、そして千歳は家族に別れを告げる。

 なんといっても移動だけで、四日ほどは往復でかかるのだ。

 前後の時間も考えれば、一週間は日本からいなくなることになる。


 このノイズの海外フェスへの出演は、世間的にはそれほど大きな注目はされていない。

 そもそも伝統のある、有名なロックフェスなどではないからだ。

 ただ業界人は知っている。

 こちらから営業をかけたのではなく、向こうから来たオファーである。

 それだけ注目されているというわけだ。


 ノイズが世界に知られたのは、霹靂の刻が最初。

 そこからアニメのタイアップを三度行っている。

 宣伝を猛烈にしているわけではなく、営業を普通にかけてその仕事を取っていった。

 一応は阿部の背後には、大きなレコード会社はついているのだが。


 ネットとライブハウスとインディーズ。

 完全に一昔前の売り上げ方に、ネットを組み入れたものである。

 俊の持っていた、そこそこのボカロPとしてのフォロワーに、一気に拡散してもらったもの。

 ユニットを組むことは珍しくないが、バンドにまで至るのは珍しい。

 それにボーカルを二枚も使っている。

 これでどうにかやっていけたのだから、序盤のノイズの戦略は、完全に俊の読み通りとは言える。


 ただ月子はともかく、他の才能の集まりはどう考えるのか。

 ちょっと俊はチートなほど、運の良さというものがあった。

 もし俊が途中で、音楽を諦めていれば、この巡り合わせもなかったのだ。

 つまり最後まで諦めなかった人間こそが、最終的には成功する。

 そこだけを言ってしまえば、当たり前のことではある。

 途中で諦めなかった人間が、成功するのは本当のこと。

 しかし最後まで諦めなくても、もう終わっている人間というのもいるものなのだ。


 俊は諦めなくてもいいという、家の太さがあった。

 音楽をやっている人間や、役者の中に金持ちの子弟が多いのは、そういった余裕があるからだ。

 必死でアルバイトをして、チケットノルマも消化して、どうにかスタジオ代も準備して、わずかな練習をする。

 そういった出発点からして、俊は恵まれていたのは間違いない。

 今の音楽の潮流が、バンドよりもボカロPから出ているのは、一人で出来る音楽だからだ、ということはある。

 本業を持った上で、趣味としてボカロ曲をやっていく。

 それは偶然にも、ネット小説の成功と、ほぼ同じことが言えるだろう。


 音楽だろうと小説だろうとイラストだろうとマンガだろうと。

 全てはもう今は、副業でやり始めるような時代だ。

 しかし俊の場合は、在学中に充分な実績が出来てしまった。

 一番昔のような路線を辿ったのは、信吾であろうか。

 また月子にしても、本当に俊と出会わなければ、どうなっていたことだろう。


 俊は根本的に、創作能力と言うよりは、想像力が豊かだ。

 その前提として、教養となる知識がある。

 だからこそ月子の才能と、その歪さにも気がついた。

 幼少期から磨かれた素質が、天才とはいえない方向に、花開いたのだ。

 もっとも月子にしても、確かに才能はあったのかもしれないが、10年間の蓄積があったのだ。




 ロサンゼルスで乗り換えて、そしてリオデジャネイロへ。

 成田や羽田とは違い、完全に外国の雰囲気が漂っている。

「いつかはファーストクラスの飛行機で、海外遠征してやる……」

 千歳はそんなことを言っているが、それは本当にアリーナを完全に埋め尽くすぐらいのランクだ。

 もっともこのフェスなどにしても、世界のトップレベルは、それぐらいの待遇は受けているのだろうが。

 さらに上となると、もう自家用ジェットなどを持っている。

 あれぐらいになるともう、維持費が馬鹿にならないそうであるが。


 かつてのロックスターには本当に、プライベートジェットなどを持っているバンドもいたらしいが、今はどうであるのか。

 せいぜいがレコード会社が持っているとか、そういうレベルではないのか。

 ちなみにアメリカのスポーツであると、移動距離が大変に長いため、チームが専用ジェットを持っているのが普通である。

 ただしメジャーに対するマイナーであったりすると、バスで長距離を移動する。


 ファーストクラスではないにしろ、エコノミークラスでないだけで、充分なものである。

 そもそもノイズは名前と曲の知名度はかなりあるが、容姿があまり知れ渡っていない。

 月子がマスクをしているのもあるが、他のメンバーもステージ以外の衣装が大きく違う。

 千歳ですらステージはカジュアル、普段着はモードとかなり変えているのだ。

 普通はカジュアルが普段着じゃね、というのは一般的な話だけである。

 そしてフツーである必要など、ミュージシャンには必要ない。


 ノイズはステージ用に特別な衣装は作らない。

 月子のドレスだけは特別に見えるが、あれを普段使いにはしない。

 そもそもレンタルがほとんどであるのは、一応の秘密である。

 メンバーの私生活が謎なのは、単純に派手に遊んでいないだけ。

 暁はバイト、千歳は学業、栄二はヘルプ、信吾はヘルプと女を半分ずつ。

 俊が一人で色々とやってはいるが。


 なんとなく周囲と見比べて、改めてはっきりした。

 暁は日本にいる間は日本人に見えるが、日本を離れると分かりにくい顔立ちになる。

 フランス系カナダ人の母親が、やはり関係しているのだろう。

 やや色白で、髪の色素も薄く、目鼻立ちも少し違う。

 今さらそれがどうなのか、などは関係ないが。


 カナダもそれなりに音楽のフェスはある。

 もう10年以上も暁は、母親とは会っていない。

 毎年バースデーカードなどはやり取りしているが、遠い場所の人、というイメージなのだろう。

 それよりも父親の再婚の気配の方が、暁にとっては重要なのである。


 カナダで演奏するようなことになれば、久しぶりに会うことも出来るであろうか。

 情がないわけではないが、暁にとっては祖母に育てられた期間が長く、また父親の恋人は年の離れた姉のような存在。

 父親の違う弟も二人いるし、今さらといったところではある。

 ただ機会があれば、会ってみたいなとはなんとなく思う。




 海外と日本のつながりは、この数年で一気に大きくなってきた。

 ネットによる草の根の動きがあったからこそとも言えるが、他にも色々と理由はある。

 ネットから発信して、そこに金の動きが見えれば、動いていくのがアメリカのプロモーターだ。

 日本も音楽の消費という点では、大きな経済圏ではある。

 だが将来性をあまり、楽観視していないのが俊だ。


 国内だけに絞っていくと、どうしても少子化の問題が出てくる。

 また貧困というのも、実際に見えてくる問題なのだ。

 外国人の移民や、文化的な変遷は無視できない。 

 そもそも音楽というのは、ネットさえあれば無料で聞くことも出来る。

 ライブで利益をしっかりと出せているが、果たして日本の経済自体が、このままでいられるのかどうか。


 中国は大きな人口を抱えているが、海賊版の問題があるため、あまり期待出来ない。

 そもそも国外からの文化を、簡単にシャットダウンするのがあの国のお国柄だ。

 そのせいで国内からの、コンテンツが伸びないというのが分かっているのか。

 もっとも中国の人口問題は、日本よりもよほどまずいのでは、という話もある。

 国内に抱えた問題は、本来なら日本よりもよほど大きいのだ。


 クールジャパンなどという、よく分からない動きもかつてはあった。

 しかし文化の飛躍などというのは、無理に進めても意味がないのは、韓国の例でもよく分かっている。

 どういった形で利益を出せばいいのか、さすがによく分からない。

 一応アメリカで成功している例としては、サブスクを一つに絞って、その代わりに契約金を多くもらうというパターンだ。

 だが俊はサブスク自体に、あまり価値を感じていない。


 実際に日本のミュージシャンは、サブスクに一度は進出しながら、撤退したというものもいる。

 そのためCDを処分してしまって、今では大後悔、という事態もあるそうだ。

 ノイズは自分のサイトから、普通にDL販売をしている。

 これもまた海賊版が出る可能性はあるが、意外なほどにCDが売れている。


 日本の音楽業界は、確かにCDの売れ行きが、いまだに大きいのだ。

 ただそれはアイドルなどの、CDに付属したグッズなどの販売によるところが大きい。

 その中でノイズは、凝ったアルバムにはしていないが、ジャケットやライナーツノートには力を入れている。

 ファンがミュージシャンの、音楽以外までも知りたいと、思うことを理解している。

 もっとも今の時代は、そこまで一つのコンテンツに、執着するのが珍しいのだろうが。


 単純に音楽だけでは稼いでいけないのか。

 確かにMVなどは、映像があってこそ映えるものではある。

 アニメタイアップは今も期待しているが、そこだけが有名になっても良くない。

 多作であるノイズだが、本当に売れる曲はそう作れるものではない。

 やはりブラジルのフェスでも、音源を売りたい。 

 しかしCDの再生機器自体が、もうあまりなかったりするのだ。




 時差の関係もあるが、俊は色々と考えている。

 ブラジルに到着して、すぐにホテルへ。

 荷物を置いたら、またすぐに会場へ向かう。

 ほぼ設営は終わっているステージを、その目で確認する。


 日本の郊外型野外フェスと比べても、敷地がとてつもなく広い。

 これはステージ間の移動が、かなり大変になるだろう。

 それでも全体的に、働いている人間の顔が明るい。

 国民性というものであろうか。

 別に日本も、業界の人間が暗い顔をしているというわけではないのだが。


 通訳などもいてくれているが、とにかく注意されたのは、会場に入る前のことである。

 買い物などはせずに、ホテルに引きこもっておいてくれ、という感じなのである。

 確かに今のブラジルは、治安がいいとはお世辞にも言えない。

 ただカーニバルが終わって、色々と発散した直後だけに、普段よりは落ち着いているのか。

 日本は外国人が多くなっても、そこさえ避ければ安心ではある。

 ブラジルもまた、地域によって大きく治安は変わるらしい。


 昼間の都市部であれば、路地裏にでも行かない限り、それなりには安心だ。

 もっともいまだに日本人というだけで、ある程度金持ちと思われてしまうそうな。

 また実は、中国人に対する感情が、あまり良くなかったりもする。

 日本人と中国人を区別するのは、かなり難しいことだろう。

 もっとも日系ブラジル人もいるので、歴史的に日本には、そこそこ慣れているといったところか。


 過去には日本のコンテンツが、それなりにヒットもしている。

 国としてはまだ若いが、スペイン・ポルトガル圏の文化と、中南米の文化が混じった国。

 それがブラジルであるのだ。

 もちろんそれ以前の文化も、わずかには残っている。

 植民地化されて、文明自体が破壊されたとも言えるが。

 あとは気候なども、文化の発生には関係してくる。

 ブラジルの場合、アマゾンの大森林など、そういった自然環境も国として持っている財産だ。


 サッカーの試合では、度々乱闘になり、普通に死者も出る。

 しかしそのサッカーによって、貧困から脱出した人間もいるのだ。

 過去に多くのレジェンドが存在し、いまだにサッカー強国ではある。

 ただその選手がかなり、ヨーロッパの金満クラブに引き抜かれてはいるのだが。


 事前には色々と調べたが、それは実感出来るものではない。

 今までもツアーなどは行ってきたが、それはあくまでも日本国内。

 ノイズのファンなどというのが、本当にいるのだろうか。

 一万人が集まるステージではあるが、それが埋まるかはかなり微妙なところだ。


 ここで失敗したならば、次の海外フェスへの参加は、少し厳しいものになるかもしれない。

 実際の演奏の出来よりも、集客力というものが、イベントにおいては大切だからだ。

 アメリカならば既に、アニメの配信である程度の数が見込める。

 ブラジルにも当然、配信は存在するが、その視聴者というのはどれぐらいのものか。

 英語圏でないというだけで、不利なのは間違いない。

 それを覆すほどの力が、果たしてどれだけあるのか。

 やってみないと分からない勝負は、俊が嫌いなものであるのだ。




 設営から簡単なリハに入っていく。

 日本のフェスと同じく、一時間ほどのステージがあって、そこから次に準備される、という流れだ。

 さすがにこの時点では、治安の悪さなど関係もない。

 なのであちこちを歩き回って、リハの音楽を聞いていく。


 ブラジル国内のバンドだけではなく、国外からも色々と来ている。

 多いのはアメリカや、ヨーロッパであろうか。

 そのあたりは一般的に、日本人も馴染み深い、大御所が来ていたりする。

 しかしこれはブラジルだな、と感じる音楽も確かにあるのだ。


 日本でロックをやっても、欧米のものとは変わってしまう。

 それが当たり前のように、ブラジルの音楽も違う。

 そのあたりは分かった上で、セットリストも決めてきた。

 出演するにあたって、これだけは演奏してくれという要望もあったりしたのだ。


 演奏や楽曲そのものは、負けているとは思わない。

 だが知名度という点では、やはりブラジルはアメリカより、日本からは遠い関係であるのか。

 日本から留学などをするのは、だいたいが欧米である。

 中南米というのは、なんとなく危険というイメージが強いだろう。


 実際にメキシコなど、相当の危険がある。

 またブラジル以外に、アルゼンチンも治安が悪いと言われる。

 ただそんな中にも、治安のいい国はあるのだ。

 中南米の場合、アメリカに渡っていく移民や薬物のルートがある。

 その関係で、国家自体が危険なわけだ。


 短期間の滞在なので、そこはあまり気にする必要はない。

 一番重要なのは、やはり演奏がどうなるかなのだ。

 ちなみに南米の場合、女性シンガーがかなり強かったりする。

 ラテンのノリが、女性にも受け継がれているからだろうか。

 なお一定以上の年齢の日系ブラジル人女性は、今の日本では稀少となった~子という名前を持っている人間が多い。

 若者になるともう、ブラジルの名前だけを持っているが。

 これまでのフェスと比べると、どうにも空気さえ違う。

 それを敏感に感じている、ノイズのメンバーであった。

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