第296話 小休止

 年が明けてしばし、俊も休んだ。

 母が海外から帰ってきたため、わずかな付き合いがあったのだ。

 音楽の奴隷のような生活をしていても、血縁が切れるはずもない。

 海外を飛び回っている母が休んでいるなら、自分も休むべきかな、と思ったのだ。

 それに千歳から借りていた、アニメの消化もあったものであるから。


「あんた外には出ないの?」

 そんなことも言っていた母であったが、正月の変な空気の中に出て行って、何をするというのか。

 母は三日でまた外国へ向かい、月子や信吾も帰ってきた。

 実は正月の間、帰京しなかったのは佳代だけである。

 正月休みの間に、仕事ではない作業をやっていたらしい。


 俊は俊でスタジオに籠もっていたので、お互いの気配さえも感じていなかった。

 ただ佳代は年末に、イベントの方に参加している。

 そしてイラストの仕事に加えて、マンガの作画をしてみないか、という話が来ているらしい。

「へえ、どこの出版社?」

「言っても分からないと思うけど」

 確かに聞いても分からなかった。


 なんでも今、マンガ業界は作画の出来る人間が、ものすごく不足しているらしい。

 随分とたくさんのマンガが出ているのでは、と俊などは思っていたのだが。

 実際にそれは間違いではないのだが、今は中間層が減っていっている。

 そして裾野がものすごく広がっている。

 なんのこっちゃ、と俊には分からなかったものである。


 今の世の中は、イラストだけを描ける人間は、必要度が下がっているらしい。

 対してマンガが描ける人間は、必要とされているのだとか。

 イラストとマンガの違いなど、あまり気にしていない俊である。

 ただボカロ曲のMVに、一枚絵をつけるのか、それとも動画を流すかの違いだ、と言われると分からないでもない。

 そもそもイラストを描くのとマンガを描くのは、全く違う技能ではないか、とも思ったりした。


 マンガ雑誌の発行部数は、年々下降していっている。

 電子書籍が増加しているのか、というと単純にそういう話でもない。

 確かに電子の割合は、どんどんと増えていっている。

 しかしそもそもの話、電子でしか発表していない雑誌が多くなってきている。


 流通や小売は、その量に限界がある。

 だが電子であれば、それはほぼ無制限。

 データ化すれば100冊1000冊10000冊のマンガであろうが、USBメモリ一本に入ってしまう。

 またサブスクとはちょっと違うが、一週間遅れなどで、無料で公開しているものもある。

 さらにネット専門のものであれば、まとめて一つのアプリで読めるようになっていたりもする。


 同人誌のネット販売も増えた。

 そこからどんどんと1000冊も2000冊も売れていく。

 在庫を抱える心配もないまま、販売することが出来るのだ。

 ならば面白い作品であり、それがちゃんと紹介されるならば、他にリスクはなく販売することが出来る。

 そのための宣伝の費用だけが、リスクと言うかコストなのだが。




 作画と言われたからには、原作があるものだ。

 今はネット小説も、とんでもない量が存在する。

 むしろそこから、原作を探してくるのだそうな。

 俊としてはそういった作品は、ほとんど読まないものであるが。

 

 そもそもファンタジー小説などは、古い作品を読めばおおよそ事足りる。

 転生だのステータスだの、ゲーム要素が増えすぎている。

 最初の一作はそれで良かったのだろうが、同じ系統の作品が増えすぎた。

 また文章のレベル自体が、商業と比較して劣悪である。

 なので俊がそういったものを読むことはない。

 ゴミをインプットする時間があれば、もっと読むべきものは色々とあるのだ。


 ただジャンルとしては、把握していないわけではない。

 既にそういったジャンルに対して、カウンターになった作品もあるそうだ。

 そしてそういった作品は、しっかりと面白いのだ。

 凡百の作品の共通項を、ある程度知っていれば、より楽しめるらしいが。


 佳代としては、マンガに関しては、ちょっと敷居が高い。

 ただ千歳はそれを聞いて、良さそうだと素直に言っていた。

 イラストの仕事、デザインの仕事を軽視するわけではないが、マンガの方が世間には出回りやすい。

 千歳はそんなことを言っているのだが、佳代もそこは厳しい現実を知っている。

 週刊誌や月刊誌に掲載される作品というのは、しっかりと編集の目を通して作られているものだ。

 それはただの作品ではなく、芸術品であるのだと。


 今のマンガ界の流れは、主に二つに分かれている。

 しっかりと作りこむ余裕のある、昔ながらの流通。

 そしてもう一つは数打てば当たるというもので、これはどんどんと作っていって、当たったものを宣伝するというものだ。

 Amazonで見てみれば、低評価の作品が多くて、実際に読んでみたらひどい作品が多い。

 まだ下がある、という気分にならないために、俊はそういう作品は読まない。

 千歳だけではなく、自分が信頼している誰かが、評価する作品しか読まないのである。


 俊からしてみると、音楽に活かすという意味では、マンガよりも小説の方が、タイパがいい。

 小説一冊分の話で、マンガは随分と多くなるのだ。

 もっともマンガは絵があるので、そこでイメージを補完することがあるが。

 アニメや映画というものは、時間が縛られているものだ。

 倍速視聴などをしては、製作者の意図が掴めない。

 ちなみに徳島などは、映画がものすごく好きで、同じものを何度も見たりするらしい。




 佳代は絵は描けるが、ネームを作ることが出来ない。

 コンテのようなものであるが、マンガの場合はさらにコマ割りというものがある。

「これがネームなわけ」

「それで、原作はどんな?」

 本来は機密であるわけだが、佳代は俊のことを信用して信頼している。

 作るのも得意ではあるが、おそらくは批評する方がもっと上手いのだ。

「このサイトのこれ」

「……なあ、こういうタイトルの作品って、普通に埋もれるんじゃない?」

 婚約破棄された悪役令嬢、領地で畑を耕していたら公爵様に溺愛されました。

 なるほど、女性向けという点では、非常に分かりやすいものだ。


 俊はものすごい勢いで、一区切りするところまで作品を流し読みした。

 テンプレに見事に乗った作品であり、何がどう面白いのか分からない。

 ちなみに千歳は序盤で脱落していた。

「編集の手が入った小説はどんなものなんだ?」

「ないよ。そのままコミカライズ」

「こんなゴミ……クソ……テンプレをマンガにするのか?」

 二度も言い直したが、ほとんど意味は変わっていない。


 ネット小説を商業化し、それをコミカライズするというのが、一般的なものであると俊は思っていた。

 だが商業化小説を通り越して、一気にコミカライズしてしまう、という流れもあるらしい。

 敵役になるキャラクターが、あまりにも馬鹿すぎる。

 最初にいきなりどん底から始まって、状況が一気に変わるというのは分かりやすいが。

 正直者が不遇に追い込まれ、そこから成り上がるというのは一つのパターンではある。

 しかしこれは何をどう楽しめばいいというのだろう。


 売れているというのならいい。

 ただこれは、量産されているだけではないのか。

「千歳はこれ、面白いと思うか?」

「読まれてはいるけど、何が面白いのかは分からない」

 小説投稿サイトは、どの小説が読まれているかというのは、登録者数やポイント評価で分かるようになっている。

 だから人気があるかどうか、というのは確かに分かるものなのだ。


 しかし俊も千歳も、基本的にこういった作品は読まない。

 ここから発生して、商業化した作品になって、ようやく読むようになってくるが。

 文章力が低いし、物語性に面白いものもない。

 深いテーマを扱っているわけでもないし、キャラクターの魅力もない。

 なんでこんなのが人気があるのか、と少し分析されたものは読んだことがある。

 そして俊のような、現実にやることがたくさんある人間には、全く意味のないものなのだと分かった。




 コスパとタイパという言葉がある。

 タイパの方は比較的、最近に出てきたものである。

 コスパは単純に、費やしたコストに対して、どれだけの見返りがあるかというもの。

 つまりどれだけのパフォーマンスを発揮出来るかだ。

 一応タイパというのはコスパの一種であるが、明確に区別出来るようになっている。

 かけたタイムに対して、どれだけの満足度を得られるかというものだ。


 現在はコンテンツが増えすぎている。

 その限られた時間の中で、何を選択するのか。

 能動的な選択と、受動的な選択がある。

 音楽で言えば受動的な選択は、サブスクで自分に合ったとされる音楽を聞いていくのみ。

 能動的なものであれば、ライブにまで参加していくということだ。


 移動時間や待ち合わせの待機時間。

 現代の人間は、スマートフォンを使うことによって、その時間を有効に使うことが出来る。

 これはもう俊たちにとっては、当たり前のことである。

 暇な時間というのは、ほとんど存在しないのだ。

 そしてくだらないテンプレ作品は、脳にストレスをかけない作品としては、とても優れている。


 BGMとして音楽を消費するのと、同じようなものである。

 もっとも俊の場合は、好みの音楽を聞いていれば、それだけ精神へのストレスが減っていく。

 ただのBGMではなく、音楽を鑑賞する。

 俊としても電車の中で、青空文庫などを読むことはあるのだ。

(かけるべきリソースを間違っているんじゃないか?)

 ネットサイトの小説というのは、暇つぶしにはなる。

 だがわざわざ金をかけてまで、読むほどのものではない。

 ただしコミカライズしてしまえば、案外化けたりもする、と考えられているのか。


 俊もある程度は、調べたりはしたのが。

 そして分かったことは、雑誌の発行部数はどんどんと落ちていても、刊行数自体は上がっている。

 パイを大きくすることはなく、それを細かく千切っていっている。

 しかし年に一度ぐらいは、巨大な作品が出てくる。

 主にアニメ化された作品が、一気にその販売数を伸ばすのだ。


 数で勝負、ということを考えているのか。

 そのため作画の出来る人間が必要なのだろう。

 ただ根本となるキャラとストーリーがつまらなければ、それは無駄な労力となる。

 このあたり俊は、専門外の存在である。

 ただ佳代はまだしも、分かっていることがある。


 80年代から90年代などは、雑誌の売り上げというものが、かなり一部に集中していた。

 人気作品などは、そこから生まれていったのだ。

 特に週刊誌の作品が、アニメ化されていった。

 今とは全く事情が違うのだ。

 マイナーな雑誌から、あるいは電子のみでの連載でありながら、単行本は売れる。

 そういった作品が、アニメになっているのだ。




 俊としては何がどう面白いのか、さっぱり分からない作品も多い。

 そんなものを無理にアニメ化するなど、無駄の極致であろう。

 だが世の中、どういったものが売れるのか、分からない人間が権限を握っていたりする。

 それは実のところ、音楽業界でも変わらない。


 確かに大きく宣伝し、プロモーションに金をかければ、スタートダッシュには成功する。

 しかしそれがいつまでも続くとは、誰も思っていないだろう。

 むしろプロデューサーなどは、本来のバンドやミュージシャンの長所を、殺してしまう傾向さえある。

 有能な者もいれば、無能な者もいる。

 だが無能であっても数をこなせれば、それなりに必要とされてしまう世の中だ。


 パイが少しでも大きくなるために、必要なものなのだ。

 金を出すほどではなくても、時間を潰す程度であるなら。

 ただそんなもののために、佳代の時間と労力を使おうというのか。

 それはあまりに無駄なものである。


 結局何が売れるのか、分かっていないのが問題なのだ。

 分かっている人間に、その権限がないのが問題なのだ。

 俊としては少なくともマンガなら、何が売れるかはおおよそ分かる。

 アニメにしても優れたものと、ただ金がかかっただけのものの違いが分かる。

 星姫様はひどい出来であった。

 しかし原作は、確かに面白いものであったのだ。


 アニメ化するコンテンツが枯渇して、もう一度アニメ化ということも行われている。

 滑稽なことに大成功と、大失敗が存在する。

 アニメも大量に作りすぎて、一つの作品に金や人をかけることが出来ない。

 いや、金自体はそれなりにある。

 だが人間だけは、時間をかけて育てていくしかないのだ。


 どれだけの力がある兵器であっても、重要なのはそれを運用するシステムと人間の方だ。

 シンセサイザーが高額であっても、それだけでは優れた音楽は生まれない。

 それは他の楽器にも言えることで、人間こそが一番重要な財産ということである。

 ただ同時に、代えの利かない人間などは、いてはいけないのが組織である。

 もっともそれは組織的なものであり、アーティストはまさに唯一無二のものであろう。


 マンガというのは芸術作品だと俊が思っている。

 アニメに関しても同じことだ。

 それは他の作品では、感動が味わえないことを意味している。

 しかし現在の作品群は、二番煎じが大変に多い。

 ビジネスの世界であるならば、二番煎じでも勝利することが出来る。

 しかし創作の世界においては、ただ少し色を変えただけのものなど、全く意味がないのである。




 俊としても色々と、調べていることはあるのだ。

 ボカロ曲から誕生した、小説やコミックというのは存在する。

 もっとも俊としては自分の作る曲が、そういうものになるとは思っていない。

 むしろ作品を彩るものとして、しっかりと作ろうとしているのだ。


 金を稼ぐ必要がある。

 ただそれは自分が満足するためではない。

 いや、大きく言えば、自分が満足するためなのだが。

 単純に今のままでは、自分が満足することが出来ない。

 そのためにもっと大量に、金を稼ぐ必要がある。


 音楽だけをやっていても、それを上手く活用出来る者がいれば、そちらに任せてしまってもいいだろう。

 しかし俊はそれを、無闇に信用したりはしない。

 阿部は確かに味方であり、伝手もかなりの部分に及ぶ。

 だが権力という点では、それほど巨大なものは持っていない。

 その父親であれば、まだ芸能界で力を持っているが。


 ノイズの潜在能力に賭けて、今のところ阿部は勝利している。

 そしてそこで稼いだ金で、他のミュージシャンも成功させようとしている。

 もっともノイズと同じようなルートで、成功するのは難しい。

 俊が地道に築いていた、ボカロPとしての知名度。

 そして月子の声があったからこそ、どうにかなったと言える。


 実力は確かに必要だ。

 しかしその実力を、披露するための機会は必要になる。

 俊の築いていた、自分なりのコネクション。

 それに父親が持っていた、一段階昔ののコネクション。

 父の場合はかなり、恨まれていることもある。

 だから確実に味方をしてくれる、数人を頼るしかなかった。


 この先の海外展開についても、俊はまだ阿部に言っていない、一つのコネクションというか計画を持っている。

 ただそれは確実に、つながっていくというものではない。

 巡り合わせというか、時代性と言うのだろうか。

 少なくともノイズはここまで、上手くやってきたことは確かだ。


 上にいたミュージシャンたちとは、特に敵対しなくて済んだ。

 そして後ろから追ってくる天才は、いまだに足踏みしている。

 日本の音楽自体を、海外でも一般的なものとしたい。

 そういう考えを持っているゴートは、自分に協力してくれる姿勢を見せている。

「とりあえずその仕事、条件次第だけど拒否した方がいいだろうな」

「でもこれで上手く当たれば、自分一人で食べていけるようになる……」

 佳代の言っていることは、確かに切実なことであろう。


 俊はハングリー精神は持っているが、本当の意味で飢えたことはない。

 承認欲求は強烈であるが、生命の危機に陥ったことはないのだ。

 だが60年代からの音楽を作り上げた人間たちも、別に貧困の中から発生したわけではない。

 むしろ余裕があるからこそ、音楽などはやっていられるのだ。

(ボカロPの存在は、確かに日本の音楽シーンを変えているんだよな)

 そう考える俊自身は、一般的なボカロPとは違う。

 ただ違うというものは、悪いことばかりではないのである。

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